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明治26年青森県尋常中学校の校舎として、川元重次郎によって建てられました。
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木造2階建ての洋館。
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明治27年(1894)1月11日落成した旧青森県尋常中学校本館の中央部です。
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模型。
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明治27年平面図(赤部分が現在の記念館)。
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昭和33年(1958)に新管理棟建築のため現在地に移築し、「鏡ヶ丘記念館」と名付けられました。南溜池はかつて桜や岩木山を綺麗に映し出すほど綺麗な水面で「鏡ヶ池」と呼ばれ、弘前城下の景勝地・憩いの場として親しまれていました。その鏡ヶ池のすぐ横の丘ということで「鏡ヶ丘」と呼ばれたのでしょう。
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平成3年(1991)9月28日、台風19号により大きな被害を受けます。
平成4年5月末(1992)復旧工事完了。
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平成5年(1993)7月19日、県重宝指定。県重宝名称は『旧青森県尋常中学校本館一棟附棟札一枚』
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●知鏡室(資料展示室)は創立110年記念事業の一環として平成5年10月6日に開設。
●旧受付(資料展示室1)は鏡陵概観をテーマとし、歴代校長写真、関係著作物、学校関係行事の録音・録画記録、優勝カップ等。
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●旧事務室(資料展示室2)は鏡ヶ丘の学び舎、教育勅語、戊申詔書をテーマとし、旧青森県尋常中学校本館棟札(県重宝)、青森県尋常中学校校標、皇太子嘉仁親王(大正天皇)の行啓、歩兵第52聯隊寄贈物、生徒心得綱領等。
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皇太子嘉仁親王(大正天皇)の行啓。
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歩兵第52聯隊寄贈物。
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想像以上に見応えのある展示物の数々です。
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弘前高校出身じゃなくても興味さえあれば楽しめると思います。
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●旧図書室(資料展示室3)は大正デモクラシーから太平洋戦争、歩兵第31聯隊軍事訓練具、弘前高校をテーマとし、入学と卒業、机・椅子の変遷、教育機器、生徒自治会、弘高祭、通信教育の歴史等。
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歩兵第31聯隊軍事訓練具。
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歩兵第31聯隊軍事訓練日程表。
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●旧応接所(資料展示室4)は当直室、電話室、鏡ヶ丘の文脈等。
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●廊下には模型や絵画やねぷた写真が展示。
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●2階は同窓生の書画を展示しています。
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慈雲院跡から出土した地蔵様の首。
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現在の弘高の場所は元々慈雲院でした。
現在は廃寺。法雷山と号し黄檗宗。曹洞宗の長勝寺末寺。
享和3年(1803)の寺社領分限帳によりますと、享保10年(1725)5代藩主信寿の時代に城下に黄檗宗の寺院を建立することになり、廃寺となっていた長勝寺末寺の法雷山慈雲院を黄檗宗に改宗して建立。同17年に藩より寺禄50俵を給されています。江戸時代は幕府によって新寺建立が禁止されていたため、再興という形にて建立したと考えられています。
旧慈雲院は開基年代不詳。もと浅瀬石村にあったとあり、開山を長勝寺一二代蛇鷹泉竜としています。寛文9年(1669)に廃寺になったと考えられています。弘前城下へ移ったのは慶長年間(1596―1615)で、移転地は西茂森町の鳳松院と京徳寺の間だったといいます。
当院が未年に発行した富札が現存しています。ちなみに明治初年の新撰陸奥国誌によりますと、開山は秀国、開基は南宗とあり、山城国萬福寺(現京都府宇治市)の末寺。本尊は釈迦如来。本堂の東北に薬師堂、薬師堂の北に千体仏を安置した堂があったといいます。大正4年(1915)県立弘前中学校(現弘前高校)の校地拡張に伴い消滅。
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昭和15~25年頃の弁当と現代の弘高会館食堂。
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旧校長室(白寿の間)は茶道部の活動場所です。
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講堂に昇る階段は磨り減っていて、ギシギシと音を建てます。歴史を物語りますね。
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◎開館時間
平日の9:00~16:30
(別に定める特別公開日)
※予約・事前確認をすすめます。
※受付は弘前高校事務室
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◎休館日
日祝日、弘前高校の休業日
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