『新坂 ~ 其之壱』

黒石の新坂です。袋井ー内町と上がって横町へと続く坂道。

坂道って時間を凝縮してくれますよね。新坂の情緒を見ていきましょう。
明治初年の千年橋。
明治初年の千年橋。

千年橋は明治9年に追子野木村民によって架けられました。長さ60間、幅2間で渡橋賃を徴収。
明治28年の千年橋。結構激流ですね。集中豪雨などで決壊したこともあったとか。水害も多かったそうですね。

黒石陣屋の南側には浅瀬石川が流れ、陣屋との間には宇和堰があり、地形的にも自然の要塞を呈していました。
浅瀬石川に臨む段丘は比高13mの高さがあります。この高さこそが黒石の『キワ』にいくつかの名坂を作っています。

大きく右へ湾曲しながら坂を上り終えると由緒ある黒石神社(明治12(1879)建立)が右手に現れます。



1662(寛文2)年に江戸から戻った津軽信英(弘前2代藩主信枚の二男で、為信の孫)は黒石で風邪にかかり、弘前城に移って治療しましたが、弘前城内で43歳の生涯を閉じました。



遺言により葬儀は黒石陣屋で行われ、遺骸は陣屋東南の隅に廟を建立して埋葬されました。


つまり黒石神社は津軽信英の元御廟となっております。津軽信英御廟前に建立された廟門が唯一の遺構として大手門(桝形門)近くにあり、それを黒石神社に移築しています。


また陣屋東側には空堀がありましたが明治の初めに埋め立てられています。

こちらの大きい石燈籠は延宝2年(1674)2代藩主信敏が信英の十三回忌に建立。高さは1m90cm。非常に貴重なものとして市の文化財に選定されています。十三回忌には弘前4代藩主信政とともに参拝したとか。
小さい石燈籠は宝暦11年(1761)5代領主著高(あきたか)が信英百回忌に奉納。高さは1m50cm。

また、黒石藩最後の藩主11代津軽承叙が明治に御神刀と呼ばれし太刀(金梨子地牡丹紋散蒔絵衛府太刀拵)を奉納しています。国宝にも値すべき御神刀は一般公開しておらず、県重宝、市有形文化財に指定され大切に保管されています。

大正4年の黒石神社。

大正末年の例大祭。

昭和初年。

昭和7年。普段は静かな雰囲気の黒石神社ですが、宵宮や大祭では今も昔も賑やかさを見せます。

2回に渡ってお送りしました名坂『下ノ坂』、楽しんで頂けましたか?それではごきげんよう。

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