陸羯南(くがかつなん)生誕の地。
イメージ 8
ここは立派な黒松をはじめ、趣のある通りですよね。
イメージ 1
イメージ 2
安政4年(1857)10月4日、弘前、在府町22番地に中田謙齊・なほの長子として生まれました。本名は實(みのる)。号羯南。明治12年、陸(くが)姓を名乗ります。政論家。工藤他山思斉堂塾、東奥義塾、さらに官立宮城師範学校、司法省法学校に学びます。
イメージ 9
青森新聞社に勤めた後、太政官文書局に就職、明治21年内閣官報局編集課長の職で退官しました。同時に新聞『東京電報』を創刊、さらに同新聞を明治22年に新聞『日本』と改題し創刊、主筆兼社主となります。欧化主義、条約改正交渉を強く批判、一貫して国民主義の立場で、政府の専断、軟弱外交と戦い、徳義を強調する姿勢は、操守堅固な思想家として尊敬されました。
郷土の後輩の面倒をよくみ、正岡子規を生涯にわたって庇護しました。明治言論界の巨星と言われています。『近時正論考』(明治24年)などのほか、『陸羯南』全10巻があります。明治40年(1907)9月2日、鎌倉市郊外で亡くなりました。49歳。
イメージ 10
その他、青森県内の陸羯南ゆかりの地としては、盟友であったろう笹森儀助の旧宅跡も同じく在府町。
更に旧弘前偕行社(本籍地跡)。
イメージ 11
東奥義塾跡。津軽藩校稽古館跡地…菅江真澄が採薬係として勤めたところですね。
イメージ 12
東奥義塾出身の直木賞作家今官一の石碑がここにありました。「花まぼろしの世に在らば世も幻の花ならん」今官一
イメージ 15
養生幼稚園内旧伊東広之進(号梅軒)の元屋敷「松陰室」(ここで「名山出名士」が書かれました)。
イメージ 13
吉田松陰来遊の地 附松陰室。
イメージ 14
吉田松陰が宮部鼎蔵(ていぞう)と共に弘前に来たのは嘉永5年(1852年)。
イメージ 7
このとき二人は、藩の儒学者伊東広之進(号梅軒)宅を訪ねて藩の軍事や教育について説明を受け、また国事を談じました。
イメージ 3
明治39年、伊東広之進旧宅を隣家の医師伊東重が購入してここに養生幼稚園を創立するとともに、松陰らが会談した部屋を「松陰室」と命名。
イメージ 4
現在は幼稚園舎から切り離されて、伊東広之進旧宅のうち玄関から座敷(松陰室)にかけての部分が保存され、今日に伝えられています。
イメージ 5
この土地と建物は、明治維新の志士吉田松陰が訪れた記念すべきものであり、部分的ではありますが宝暦6年(1756年)以前に建てられた武家住宅の遺構としても貴重。
イメージ 6