百沢街道の途中に高照神社の社号標がひっそりとあり、その社号標がある新法師から長い坂道参道を下っていきます。
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菅江真澄が大浦城より、御台(五代)、老母橋(馬子橋)、山崎の諏訪神社、兼平…そして百沢寺を目指す過程に次のような記述があります。
「南に羽黒の神をまつり、山の北に八幡山が眺められ、新法師という村がある。山のふもとにも、もと、しんぼっしという部落があり、また宮地というところがあるのは、遠いむかしに何とかいう宮がそこにさすらい来られて、世をいとい、出家されて、新発智となられたゆかりの地名であるそうだが、いまは文字を書きたがえている。ごだいというところは、その御台があったともいう。百沢寺を造営するというときに、坊をかりにつくり、そののちに、いまの寺のあたりにうつしたとかで、それで新坊地の名がのこったとも伝えている。左に松ばかりがふかく茂っているなかに、高岡の宮があるという。こうして坂をくだってくると百沢の村である。救聞持法を行なう寺があり、虚空蔵菩薩をすえて、救聞寺という。」
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自然の木々に囲まれた気持ちいい坂道。
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1つ目の湾曲
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そして2つ目の湾曲に差し掛かると橋があり…
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正面に岩木山がドンッと現れます。
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さらに橋から真っ直ぐと延びる道…
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歩き続けると…
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その先には…
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弘前市高岡神馬野にあります高照神社。
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菅江真澄は『津軽の奥』にて、「高照霊屋に詣でた。その神殿がたいそう大きく高くつくられているのが、松杉の茂っている間から、まず現われ見えて、祭司、宮守の住家、神馬の馬小屋などが雪のなかにうずもれてるなかに、まだ芽ぐむ気配もない桜の梢がたちならび、雪をふきこぼす柳の糸が煙っていた。こうして神前にぬかすぎ、この君(第四代藩主津軽信政)の功を思った。」と書いています。
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吉川神道を信奉した弘前藩4代藩主の津軽信政は、自らの葬地を高岡と定め、宝永7年(1710)に弘前城で死去しました。5代藩主信寿が遺言に従って神葬。正徳元年(1711)に廟所を、翌年には本殿などを建立したほか、享保6年(1721)には門前に屋敷割りを行い、現在の高岡集落(12家が移住し祭祀を担いました。)の元をつくりました。
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ちなみに吉川神道の創設者である吉川惟足から「高照霊社」の称号が与えられ、高岡高照霊社と称していましたが、明治初年の神仏分離令により「高照神社」に改称したそうです。
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4代藩主信政公(正保3~宝永7年、1646~1710)。
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その後、7代藩主信寧が拝殿を、9代藩主寧親が随神門や廟所門を整備。
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社殿は陸奥会津藩初代藩主保科正之を祀る土津神社(福島県猪苗代町・延宝3年(1675)に造営されるも戊辰戦争にて焼失。現社殿は明治13年再建。)をモデルとした準権現造。社殿配置は東西に一直線で鳥居、随神門、拝殿・幣殿が並び、廊下を挟んで中門から本殿に至り、更に西方200mに廟所と墓所がある独特の構成となっています。墓所は八角柱本墓(「高岡霊社」、「津軽越中守従五位下藤原朝臣信政」、「宝永七庚寅年十月十八日」を刻む)と四角柱拝墓(「弘前藩主越中守藤原信政墓」と刻む)の2基。廟所と墓所は拝殿の右手を迂回して行けます。
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このように吉川神道の教えに基づいた建造物群で現存するのは他に例がなく、更に江戸時代中期の神社建築の特徴をよく現していることから、平成18年(2006)7月、本殿をはじめとする建物8棟と信政公墓2基が重要文化財に指定されました。
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ここだけボロボロ…
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54点にのぼる絵馬と1点の棟札があります。享保13年から慶応4年までのものが52点、明治以降(明治8年・16年)のものがの2点。絵師は新井晴峰らで、図柄は神馬、日本や中国の歴史上の人物、鶴や鷹、旭日に松などの慶事に係るもの。黒塗りの縁がついた杉板に極彩色で描かれており、額の上部が山型のものは弘前藩主やその親族、直線型は藩の重臣が奉納したもの。
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宝物殿に以前訪れた時には古地図や絵図がたくさん展示されてました。今回は主に刀。とにかくお宝の宝庫なので毎回展示物も変わるのでしょうね。個人的には古地図の時面白かったです。
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太刀銘「友成」は「君萬歳友成」と呼ばれ、藩祖為信が豊臣秀吉から拝領したものと伝えられます(下の写真手前)。明治10年に旧藩主津軽承昭が寄進。銘真守(さねもりづくり)は信政の佩刀で、5代藩主信寿が宝永7年(1710)に寄進。いずれも鎌倉期の作とされます(下の写真奥)。
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信政着用「黒小實勝色威甲冑」
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三河国長篠合戦ノ図
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【開館時間】
4月下旬~10月末日
10~16時
火曜日は休館日
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2016年再訪記事:『高照神社 (弘前市)
2019年再訪記事:『高照神社 (弘前藩歴史館)