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不識の塔の麓にある広泰寺。
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建設当初の写真。
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広泰寺は明治44年に山形県米沢市から移築されたもので、上杉謙信の造営になるという由緒ある寺です。
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前もって連絡すれば中を見ることも可能です。
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斎藤主(1860-1919)は万延元年に弘前市で生まれ、17歳で上京、その後、北海道に渡り、英語、測量学、天文学などを学び、北海道の奥地から千島、国後などの調査・測量に従事。その後も全国各地で土木事業に従事し明治35年に独立、弘前に戻って土木建築請負業を始めます。明治35年当時は冷害による大凶作により特に西目屋村の惨状は酷かったようです。村人の窮状を見かねた斎藤主は凶作救済の為に水路のトンネル工事を起こし、動員された村人に日当を支払いました。更に村の原野の開墾や植林などを手がけ、篤志家として尊敬を集めます。晩年には横浜市鶴見にある總持寺管長西有穆山の下で参禅・修行を行っており、その際に西有管長から山形県米沢市にある広泰寺が住職無住になっており誠に惜しいといった話を聞かされます。広泰寺は元々上杉謙信の開基であり、寺格は非常に高く、上杉家では代々寺領を与えて保護していました。しかし当時52歳であった斎藤主が米沢を訪れた時には既に荒れ果てて修復不能の状態であったといいます。そこでこの廃寺同然の曹洞宗広泰寺の寺格をそのまま譲り受けて移築し、自ら住職の資格を得て西目屋村に再興しました。
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和にも洋にも中にも見える不思議な造り。
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レンガ造りの二階建。1997年に斎藤家より西目屋村に寄贈、全面改修されて、2002年に村指定有形文化財に指定。
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「山の奥に思ひがけなき平地ありて、家一つ、祠一つ、寺一つ、峰上に高さ五丈ばかりの赤煉瓦の塔立てり。斉藤主といふ人、ここを開墾せむとて、田の末だ成らざるに、先づ社寺を置きて塔を建てたるに、開墾成らず、空しく志しを齎(もた)らして逝けり。その屍骸はアルコール漬けにして塔の中にありと聞く。世には奇抜なる墓もあるもの哉。」…大町桂月の紀行文「岩木山より暗門滝へ 四・暗門滝」より抜粋。
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大町桂月の来村及び広泰寺改築記念碑。
目の前にはこんな木が。
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