不識塔(ふしきのとう)。
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主(つかさ)の塔と言った方が馴染み深いですね。大正元年(1912年)、斎藤主(さいとうつかさ)により建設。高さ20.8mです。不識塔の形は、「主」という漢字をかたどっているともいわれています。
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斎藤主は万延元年(1860)弘前市に生まれ、川原平に居住し、測量・土木技師として大成し、国家的事業を次々と成し遂げ1919年に没しました。晩年には凶作であえぐ西目屋村の村民を救うため、明治37年(1904)から川原平地区の開拓に身を投じ、岩木川の本流大川からトンネルにより用水を引き、80ヘクタールもの原野を開拓、水田としました。また、植林事業や暗門の滝までの通路開削など観光事業にも尽力し、焼山平の上に開拓を永年に伝えるための記念として建てたのがこの総レンガ造りの不識塔で、通称「つかさの塔」といわれています。
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不識とは「知らない・不知」という意味で、上杉謙信の庵号が「不識庵」だったことに由来するという説が有力です。長尾景虎(上杉謙信)は7歳の時に林泉寺にて、天室光育(七世)の指導を受け仏道に励みました。更に景虎は長じて八世益翁宗謙の下に参禅し、禅の「達磨不識」の境地を悟り、不識庵謙信を号するようになりました(法号:不識院殿真光謙信)。林泉寺のHPでは、不識とは梁(中国)の武帝と達磨大師の間で取り交わされた問答の中で達磨大師が答えれらた言葉であり、不識は、「しらぬ」ということではなく、「ただ頭の中で考えたり、本で学んだ知識などでおしはかれるものではない。あらゆる偏った見方、考え方を捨てて、仏様に身も心も預けて、仏様とともにその教えに生きるとき、初めて真理と自分とがひとつになり、悟りがひらけて、自分も仏様になれるのだ」とあります。仏道修業に励んでいた謙信公は、苦修練行数ヶ月の末その本旨に達し、不識の中味に合致した生涯を見出して、自ら「不識庵」という号を名乗りました。
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大町桂月の来村及び広泰寺改築記念碑並びに広泰寺前の説明板にも書いてありますが、本人の遺言に沿って、塔の基部に斉藤主の屍骸が永久保存処置(アルコール漬け)で埋葬されていました。昭和55年に遺族によって弘前市内の寺に移されたとか。
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それにしても…これまた結構上ります(笑)
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マタギの地ですし、熊さんに出会ってもおかしくない勢いです。
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西目屋村は斎藤主の功績とともに、この不識塔を村指定文化財として長く保存するため補修工事を平成15年に行いました。
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でかい!!
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しかし…趣ゼロ(笑)
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これまでも何度も解体・復元・改修を行いましたが現在は風化による損壊が激しく、塔全体が鉄骨に覆われている状態で中に入ることも、昔のように全貌を見ることもできないのがとても残念です。
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