文明7年(1475年)築城。
イメージ 1
本郭、新館など4つの郭で構成された平城。
イメージ 2
戦国時代のはじめ、文安4年(1447年)に千徳彦三郎守氏の次男・大三郎貞武(政実)が初めて田舎館に分封され、25年後の文明3年(1471年)に田舎館城が築かれました。その後、2代武光、3代政伊、4代政朝と続き、5代千徳掃部政武の時代に大浦弥四郎為信(後の津軽為信)との戦いに敗れ、天正13年(1585年)5月20日に政武は城兵330余名と共に討死して、城は落城し廃城となりました。津軽における最後の南部配下の城でした。
イメージ 20
落城に際し、嫡子・武丸と正室の於市の方(小山内讃岐守の娘・俗名:市姫)は落延び、武丸は鬼沢村の棟方左衛門の養子となり、棟方氏を名乗り11代続き、於市の方は慶長6年(1601年)3月10日に清水森にて自刃して果てています。
イメージ 13
イメージ 19
遺構の遺っているヤマコ。本郭の北西の隅に位置します。
本郭跡地には生魂神社が現存します。旧道は恐らく堀跡だったのでしょう。
イメージ 14
御祭神は生魂神。 大同2年 (807) 4月4日坂上田村麻呂将軍建立と伝えられます。貞享4年検地水帳に修験大蔵院抱えの大日堂1反余が見えます。天正13年 (1585) 5月19日兵火により焼失したため、津軽為信公が仮殿を建立。更に元和2年 (1616) 2代信牧公により四間四面に再建、鬼板に津軽藩の紋である卍を付けましたが、 現在に至るまで社紋として用いられています。なお、元和2年は再興の年で、長福山極楽寺大日堂と称しており、明治の神仏分離によって生魂神社となっています。
イメージ 15
元禄元年 (1688) 氏子中にて三間四面に建立し棟札を掲げたと伝えられます。
安永3年 (1774) 氏子中にて二間四面に建立。
明治8年増改築し現在に至ります。
参照:2回目の記事『生魂神社(南津軽郡田舎館村)
イメージ 16
ヤマコに在るこのサイカチの大樹は天正13年5月20日の落城の際、330余名の城兵を埋葬した時の供養樹と伝承されています。
イメージ 17
イメージ 18
津軽二代藩主信枚公の奨励によって植えられたとか。果実は石鹸の役をし、若芽は食用となり、また「再勝つ」に通じるからと地元では敬われています。
イメージ 4
城跡のヤマコから役場と田んぼアートを眺めるの図。
イメージ 3
ちなみにこちらは現田舎館役場。
イメージ 5
イメージ 6
イメージ 7
イメージ 8
イメージ 9
イメージ 10
地元人ならば見慣れているけど、知らない人が見たら役場とは思いませんよね(笑)
大手門です。
イメージ 11
イメージ 12