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弘前城内で最大の面積を占める三の丸には、かつて弘前藩の家臣たちの屋敷が建ち並んでいました。現存する追手門と東門のほか、かつては岩木川丘陵に面した西門(西坂門)があったと伝えられています。今回はその西門から下町へ繋ぐ西坂です。
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相撲場は今の市民会館。西門を潜り、西坂を下れば馬屋町でした。馬屋町は城の一郭で西外曲輸と呼ばれていました。百石取りの侍屋敷と藩主や家臣の馬を馴らす厩や馬場があったのです。
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馬屋町標柱。
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「築城当初は城の一郭で、「西外曲輪(にしそとのくるわ)」と呼ばれ、百石取りの侍屋敷と藩主や家臣の馬を慣らす馬場や厩がありました。藩政時代中期になると厩は少なくなりますが、これにちなんで呼ばれるようになりました。」
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地図では土手を利用した埋門的に見えますが…実際の土手はさほどの高さがなく掘っているようには見えず…その辺に関しては詳しくわかりませんが、櫓門ではなく搦手門的な感じだったんでしょうね。そして搦手道こそ今は無き西坂だったんでしょう。※埋門、搦手門については文末にて説明。なお文献では西坂は埋門で推測ですが明治31年頃閉鎖。
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とは言っても、私は歴史家でもなければ城マニアでもないので、素人の憶測ということでご了承をw
上の古地図で西坂よりも更に下に見える坂が新坂に相当する坂です。新坂は馬屋町と上白銀町を結ぶ坂で貞享3年につくられ、これを機に西坂は古坂と呼ばれたようです。
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西坂は現在の市民会館裏手から弘前工業方面へと斜めに下る坂道です。どの地図からもわかるように斜めにうねるように下っています。馬場があった上に、新坂や古坂の勾配を短い距離で下るのですから当然と言えましょう。坂の形状としては下記の地図がもっとも近い気がします。
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ちなみに昭和10年地図では陸軍火薬庫裏手はすべて土手となっており、すでに西門も西坂も存在していません。恐らく明治31年に閉鎖されていると思われます。
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それでは実際に見ていきましょう…と言っても現存しない坂道ですからね(笑)
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どことなく不自然な地形が残っています。
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下の写真を見比べてください。一瞬、白い光が西坂の経路を照らし出し、私を江戸へ導いてくれているように感じました。
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わかりますか?
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わかりませんよねw
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でも、土地って記憶しているものですね。
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とは言え、地図によって坂の形が色々違いますし、実際は何の確証もないんですけど(笑)
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ちなみに付近には自然の石から不自然なコンクリまでゴロゴロしていました。埋門の石垣なのか、井戸があったのか…いずれにせよ恐らく配水管路的なものが地中にありますね。
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配水管路的なものに関しましても、西坂に関しましても、下から調べればもう少しわかりそうなんですが、なにぶん、弘前工業高校の土地と私住宅の土地となっているために立ち入ることはできません。
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※埋門(うずみもん)…城の石垣・土塀・築地(ついじ)などの下部をくり抜いたように造った小さな門。勝手口の用などに使われた。穴門。ちなみに弘前城では馬屋町標柱がある工業の裏門付近に埋門跡が残っています。
※搦手門(からめてもん)…城門の一つで大手門に対して開かれる搦手口の門。搦め手道は有事の際に領主ここから城外や外郭へ逃げられるようになっていた。城の裏に当たる方向の出入り口で、城への生活物資などを運び込むなどの用途でも使われた。建物自体は小型で狭く目立たない仕様。