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「しちょうへい」と言います。
場所は旧清水村。現在の弘前市清水3丁目。
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タムロン弘前工場の敷地とその周辺です。旧弾薬庫が残されています。石碑(昭和52年8月弘輜会建立)はこのタムロンの看板のほぼ真裏(かつての営門付近)にあります。第二次大戦後、一時清水中学校(旧被服倉庫を改造。昭和36年市立第四中学校に統合)、現在大開四丁目にある県立弘前南高校の仮校舎に使用されました(昭和38年開校、39年新校舎へ移転、40年完成)。
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敷地内は関係者以外立入禁止ですが、入口付近のこの石碑をちょっと見るくらいは大丈夫でしょう。
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現存しているものは個人倉庫2棟のみです。清水3丁目一帯が輜重兵第八聯隊だったと考えると結構広いですね。ちなみに輜重兵とは兵站(へいたん:物資の配給や整備、兵員の展開や衛生、施設の構築や維持等)を主に担当する陸軍の後方支援兵科の一種で、大変重要な役割を持っているんですね。
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大正4年、第八師団輜重兵第八聯隊。
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こちらは輜重兵第八聯隊之址から程近い練兵場になります。
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現在はただの空き地なので逆に雰囲気ありますね(笑)
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錬兵場は大開1~3丁目及び鯵ヶ沢町長平町にありました。現在は住宅地やりんご園地などに使用されています。
資料より…『大開一~四丁目・金属町・青樹町一帯は、藩政時代後期の藩士の操練場で宇和野と呼ばれ、雲雀の名所でもあった。また後にこの地は大開野と呼ばれて第八師団の練兵場となった。特に大正四年十月の陸軍特別大演習では、大正天皇を迎えて大観兵式の式場となった。また、演習参加の飛行隊
の飛行場にも利用された。この大演習は、第二(仙台)・第七(旭川)と第八師団の三万人が参加するという大規模なものであった。第八師団は南軍(国防軍)で防禦軍となり(飛行機も配属)、第二・第七師団は北軍(侵入軍)として青森地区から行動を開始し、両軍が弘前の東方地区で遭遇戦を展開するという想定で二十日から二十三日にわたって行われた。天皇はこの大演習を統監のため十九日に弘前に着き、大本営を師団司令部に置いた。大演習が終った翌二十四日に弘前練兵場で大観兵式が行われた。宮内大臣波多野敬道、侍従武官長内山二郎、大山厳元帥、津軽英麿伯爵、一戸兵衛大将などのほかに、ロシア・オランダ・スペイン・アメリカ合衆国などの外国使臣も参加し、参観者は10万人にのぼったという。午後は、公園四の郭で関係者3500名に賜餐の儀があり、天皇は翌二十五日還幸の途につかれた。この特別大演習は"軍都"弘前の空前絶後の盛時であった。なお、久渡寺山の北の立構山(標高365.3m)の北東約300mに、軍用の貯水池であったという「大開堤」が残っている。』
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パーラーアコムでしたっけ?この駐車場跡付近から大開方面に広く錬兵場があったわけです。以下の門が何の痕跡かは不明ですが。元々何かが建っていたんでしょうね。
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ちなみにこの大開から桜ヶ丘を通ると、原ヶ平の陸軍墓地(現りんご園地、弘前大学農場、長勝寺に移葬)、並びに現陸上自衛隊弘前地駐屯地まで意外に近いです。古地図はこちら。
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