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弘前市は廃藩後、主な産業もなく、県庁が青森に移り武士階級の没落で人口減少が続きました。しかし明治29年(1896年)に仙台の陸軍第二師団に次ぐ第八師団の設置が決定されて息を吹き返したのです。
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明治30年(1897年)には初代師団長立見尚文が来弘。立見は明治14年(1881年)の明治天皇巡幸の際に近衛少佐として来弘したことがあり市民から敬慕されていました。明治37年(1904年)の日露戦争では師団を率いて満州各地で名を輝かせ陸軍大将になります。
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師団は最大1万人規模を誇ることから弘前は北奥における軍事中心都市となり、人口増加、経済活況を呈していきます。
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司令部は現在の弘前大学農学生命科学部に明治31年10月10日に開設。現在は司令部庁舎前ロータリー付近に、大本営跡碑と歴史ある樹木でもって、当時の面影を僅かに残している状態です。大本営跡碑は大正4年、大元帥である大正天皇を迎え弘前練兵場で特別陸軍大演習が行われた際、師団司令部に大本営を置いたことを記念して建立(碑の紀年銘は昭和15年8月1日)。初代弘前師団長伊藤知剛謹書。碑文…『大正四年十月十九日大元帥陛下大演習御統裁ノ為當弘前ニ御着輦仝月二十四日迄當師団司令部ヲ大本營ト定メサセラレ御駐輦遊バサル 紀元二千六百年八月一日弘前師團司令部 』
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大本営の跡がこんな所にあったんですね。建物がまったく保存されていないのは淋しいです。
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ちなみに「弘前憲兵隊本部」、「歩兵第四旅団司令部」、「弘前連隊区司令部」、「第八師官軍法会議」といった施設が国立弘前大学校舎として転用されていったのです。
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通りは「師団通り」と呼ばれ、陸軍病院である弘前衛戍(えいじゅ)病院(現国立病院機構弘前病院)や、将校らの相互扶助・事業を行う弘前偕行社(かいこうしゃ)(現弘前厚生学院記念館)などが新設され、富田一体から軍都としての様相が整っていったのです。
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各隊の基幹となった部隊は第二師団からの移駐であり、同時に仙台商人も進出。施設工事は地元の建築業者が請け負い、消費物資は地元調達されたことで、軍隊に出入りする御用商人らは大いに潤いました。商店も大繁盛して、富田大通りや銀座街には軍人相手のカフェー等が立ち並んだそう。現在も残る中土手町の富田精肉店もその1つです。軍隊の消費経済で潤い、相当数の将校が家族を連れて市民生活にとけこみ、それまでになかった茶を飲む習慣をはじめ、新たな生活様式が広まっていったのですね。
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再訪記事:『大本営跡 (弘前大学)

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