くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

東北地方の神社仏閣を中心に、歴史的建造物等々を適当に紹介しております٩(ˊᗜˋ*)و

平川市李平字上安原。貞享4年検地水帳によりますと、村抱えの観音堂地2畝余があります。永正2年(1505)浅石城主7代目千徳左衛門政久の家臣である天内治右衛門が社殿を建立して馬頭観音を勧請(李平神社の南側が馬場。※永正5年とも。これ以前の李平村は浅瀬石城の一部であ ...

岩木川と大秋川の合流点より東に開け、北は百沢村、西は黒土村、東は岩木川を挟んで支村の高野に接し、南は岩木川に面します。 天文年間(1532-1555)の津軽郡中名字に「望石」と見えるのは当村。津軽一統志によりますと、慶長10年代に古城を書上げた中に国吉とみえ、寛永1 ...

青森市羽白付近を散策していたら、踏切に「飛行場道路踏切」とありました。 帰宅して色々調べていましたら、かつてこの一帯が青森飛行場であったことを知り、後日またその痕跡を探すべく訪問・散策しました。結果、土地感もない20代の私にとってその痕跡を見つけ出すこと ...

かつての松枝村(本目鹿沢村)。 加茂神社の御祭神は別雷大神。 貞享4年検地水帳によりますと、雷電社が見えます。 安政2年神社書上帳によりますと、加茂宮が見えます。 創建は不詳ですが、旧村社の加茂神社は慶長年間(1596-1615)の勧請と伝えます。 この地は浪岡城 ...

五本松村はかつて七日町と称して浪岡町の一部を形成しており、中世末期の浪岡城下の一部であった名残りと考えられます。 社号標と庚申塔(文政13庚寅9月5日、願主有馬佐治兵衛、山田甚助一、有馬伝兵衛、有馬勝五郎) 御祭神は別雷命。 手水舎。 大同2年(807)建立の ...

明治16年9月8日、笹森町にて創建。明治22年2月10日夜に火災にて焼失。同年9月8日に元寺町に移り再建。明治30年移転。明治44年に弘前武徳殿が創建されて以降は県の蚕種検査所等としても使用。太平洋戦争後に剣道場として復活。卜伝流剣術、小野派一刀流剣術が伝承されていま ...

かつての小友村で、北は川村、南は鬼沢村、東は桂村、西は貝沢村に接し、弘前城下から鯵ヶ沢を経て大間越へ向かう西浜街道と、弘前城下から野木村を経て十三湊へ向かう十三街道の2つの街道を結ぶ道筋の中間に位置します。 小友坂。 小友坂上。 小友坂上のバス停。 ...

湯段温泉は岩木山の南西麓、標高約400mの地にあり、享保9年(1724)に賀田村の柴田長兵衛により発見され、元文2年(1737)には長兵衛により湯小屋が経営され、以後その子孫が温泉宿の経営を担ってきたそうです。 御祭神は大山祇神。 なぜここにあるのかは不明ですが ...

岩木山の麓、湯段温泉郷から少し山に入った場所にある黒滝渓流。 隠れた景勝地とも言われるとても美しい場所で、散策の穴場コースかも知れません…観光マップにも載ってますけど。 黒瀧大神と彫られた石碑。 黒瀧國龍大神と彫られた石碑。 橋が架かっています。 ...

八丁堀駅(A2出口)すぐ近く、桜川公園の片隅に入一観音菩薩があります。 桜川公園は桜川の埋立地。かつての八丁堀橋と中ノ橋の間に位置します。桜川は長さが八町あったことから八丁堀の地名の由来となっています。 大小3体の地蔵尊がありますが、その内の1体は桜川を埋 ...

あっ!2階のテラスに神社があるっ!都会らしい。そういえば去年だったかな?境内に高層マンションを建てるニュースを見ました。都会は色々と大変なんでしょうけど、ちょっと悲しいニュースでもありました。 さて、幸徳稲荷神社の紹介。 『当稲荷神社は旧幕時代、山 ...

早瀬野村は虹貝川に島田川が合流する地点で、東に島田村、北に虹貝村の支村蛇石新田があります。 『津軽歴代記類』によりますと、重臣高坂蔵人が2代藩主津軽信枚と対立し、慶長17年(1612)6月20日に弘前城中で謀殺され、蔵人の家族及び家来は屋敷に籠って最後まで抵抗 ...

虹貝川沿いを早瀬野ダム方面へ向かいます。途中にたくさんの標識があるので道には迷わないと思います。ダムは左右どちらを迂回しても大丈夫です。 道中にあった碑。栗林豊次郎造林紀念碑。 こちらも道中にあった鳥居と祠。 護摩木に奉修大日尊と書かれていました。 入 ...

西流する島田川中流域に位置し、東に支村の新田、西に早瀬野村があります。 貞享4年検地水帳によりますと嶋田村とあり、藩政後期の虹貝山役人預山絵図(八木橋文庫蔵)には嶋田新田の近くに甚吉峠の脇道番所と思われる建物がみえます。 ゾベコ沢にある旧村社久須志神社の ...

西流する島田川中流域に位置し、東に支村の新田、西に早瀬野村があります。山野神社は阿闍羅山の裾野に鎮座。 一見すると鳥居から先は他人の庭に入って行くような感じで躊躇します。小さな橋を渡ってからは、あまり整備されていない細い山道を登って行きます。 ...

大光寺曽我氏滅亡後、延元3年(1338)に藤崎城城主の安東秀光が拠点としていた十三湊が大津波に襲われたため、安東次郎左衛門秀光は大光寺の五日市館に築城し大光寺氏を名乗ったと伝えます。 大光寺五日市館は大光寺北西の川に囲まれた土地であったといいます。この標柱の ...

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