くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

津軽一代様の「卯」です。 弘前の卯年は最勝院と天満宮…2つあるのに人混みを避けられない運命ですね(笑) さて、西茂森町の天満宮は、領内修験(山伏)の蝕頭を勤めてきた大行院のあった場所。大行院は慶長3年(1598)に津軽為信が大行院栄尊を招き南郡大根子村(田舎館村 ...

かつて安渡湊と呼ばれていた大湊は北前船で賑わう商人の街。 砂洲に囲まれた大湊は天然の良港。 今回はそんな大湊より「浜町坂 (はままちざか)」の紹介です。 大湊浜町。 市道連絡1号線。 さほど勾配はありません。天気が良ければ坂下に海が広がって見えるのですが。 ...

黒石の土地から生まれた民謡に「黒石よされ」と「じょんから節」の二つがあります。 石名坂から浅瀬石へ続く道路に架けられた橋が上川原橋で、その付近が「じょんから節発祥の地」として知られていますが、その由来となる逸話をご紹介します。 今から約400年前の慶長2年(15 ...

まずは最勝院護摩堂。 旧大圓寺の本堂になります。 『密厳舎』額。享保年間に書道の大家である長勝寺19世拈笑呂山が書いたもの。密教の大日如来の浄土が密厳浄土ということからきています。太平長者の銘も見えます。 本尊は牛頭天王であり、疫病除けの御利益があると ...

これまでもいくつか紹介しましたが、見応えある最勝院を更に2回に分けて御紹介します。 まずは最勝院本堂。 昭和45年(1970)9月25日、時の真言宗智山派管長那須政隆猊下御親修のもと落慶法会を厳修した最勝院本堂。 中央は金剛界大日如来、右に宗祖弘法大師空海、左に中 ...

二ツ井にある兜神社です。 鎧神社には案内板がありましたがこちらはありませんでした。しかし由来は同じく藤原泰衝です。 勧請年代は不明なるも口承によりますと、奥洲藤原氏の4代目当主泰衡が源頼朝に追われて逃げ延びる途中で疲れ果て、兜を脱ぎ捨てたといわれ、勧請 ...

二ツ井にあります鎧神社。御祭神は泉の冠者泰衡乃霊・豊受姫神。創建不詳。明治43年7月9日字槻ノ木神社を合併。昭和62年氏子崇敬者により新社殿再建。 案内版によりますと『「ある秋の朝、槻ノ木村の1人の百姓が目をさまし、小便に起きた。そして槻ノ木村の方を見ると、まだ ...

春は桜 夏は蓮 そして百日紅へと華で彩られゆく夢物語…革秀寺。 革秀寺は山号を「津軽山」と言い藩祖為信公の菩提寺。為信公の遺言により岩木山の眺望の美しい現在地に二代藩主信枚公が亡父藩祖為信公追善のため、長勝寺八世格翁禅師を開山として慶長年間に建立。 周囲約 ...

秋田県(秋田佐竹領)と青森県(弘前津軽領)の境にある「矢立峠越え」は、江戸期の道(古羽州街道・矢立峠道)と、明治期の道(旧羽州街道・明治新道、明治10年開通)が平行しています。 藩政期の峠下番所跡・一里塚跡付近、見返橋から進みます。 100m程進むと明治新道 ...

浪岡大字北中野字沢田にあります。北畠氏が浪岡城に移るまでの居城であった源常館跡地。 推定樹齢500年以上、高さ20.5m、幹周囲6.47mの源常林の銀杏。 違う季節に行った時の写真。 散っています。ぐわ。  この銀杏の木は「天和の絵図」や、菅江真澄の紀行文「すみかの山 ...

創建は不詳。 もと大円寺別院。旧津軽藩公代々藩主が悪疫封滅の祈願所として尊崇篤かったそう。ちなみに祇園社、天王社の総本社は京都・祇園の八坂神社ですが、この八坂神社は神仏習合に牛頭天王を祀っていたために天王社・祇園宮・広峰社とも呼ばれていました。牛頭天王と ...

旧相馬村です。祭神は少彦名命で旧村社。 創立年月日不詳。 大同2年、 田村麻呂将軍東夷征伐の時、 当地方に戦勝祈願所を建設勧請せりとあります。 明治6年4月、 村社に列格、 昭和22年神社本庁に所属。もと薬師堂と称し、祭神は薬師如来でしたたが、明治初年仏体を取除き所縁の神 ...

「竹田家住宅」 明治中頃建築。 江戸時代に同地にあった武家住宅の形式を受け継いでいるとされる古色を残した建物。 白白銀町… 築城当初は片原町と呼ばれていましたが、慶安三年(1650)の町割張は既に白銀町と改名されています。 著名な鍔(つば)職人である正阿弥家を ...

大館市花岡町を通りかかった時に、何となく良坂の雰囲気が漂う地区に潜入しました。 松峰選鉱所より手前、猫鼻という地区だったと思います。 花岡鉱山跡や大館工業高校がすぐ近くにありました。 左に大きく湾曲しながら上る坂道。 しかし湾曲の内側はただの森です。 坂 ...

中世津軽を支配した安東氏発祥の地、藤崎城。 平川と浅瀬石川との合流点近くの河岸段丘上に在りました。平川は岩木川と合流し、十三湊へと繋がるため、交通の要衝の地として重要視されていたそうです。船場の住所もそのままに残っていますね。 築城年代は不明ですが、康平5 ...

1336年(建武3年)北朝方の曾我太郎貞光により築城(堀越館)。 場所は門外から堀越方面に旧羽州街道を進むとぶつかるあの三叉路正面の熊野宮。 上の写真はちょっぴり昔。 なぜあの交差点があのような不自然な三叉路になっているかわかりますね?土地の記憶です。 車は神 ...

石川城趾(大仏ヶ鼻城跡・大渕ヶ鼻城跡)と呼ばれる大仏公園の丘は城址です。天文年間の津軽郡中名字に「大仏鼻」が見えます。東側を平川が北流していますが、旧河道はもっと西を流れて大きな崖を形成していたと思われ、大仏は「大淵」がその語源であり、大仏ヶ鼻は「大淵ヶ ...

浪岡は北中野にあります。 五輪塔とは言いますが… 正直保存状態はあまり良くありません。この五輪塔跡は、国史跡浪岡城跡の主であった北畠氏累代の墓所と伝えられています。 中央の「北畠累代の墓」銘の碑は、明治15年の天皇巡幸に際し太政大臣三条実美の題 字により建 ...

現在の弘前城の場所にあったと言われる古社で築城にあたり、地主神として鬼門に移されました。古くは奥尾崎(現中泊町、旧小泊村付近)に崇神天皇(西暦紀元前85年)の創建云われ、斉明天皇4年(658)の時阿部比羅天がこの神社を崇敬し熊野三所大権現を奉ります。 概要『 ...

長勝寺の隣にある禅林公園の忠霊塔。 忠霊塔(ちゅうれいとう)とは、近代以降の日本において建造された、国家や君主ために忠義や忠誠をもって戦争に出兵し戦死した者の霊に対して、顕彰または称え続けることを象徴する塔で、西南の役、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵 ...

浅瀬石地区の高賀野町内は市街地から一段小高い山手沿いにあります。 この町内を縦断する生活路線が幹線市道浅瀬石・袋線で、町内の入口から出口までは急勾配の高賀野坂が続きます。 なかなかの勾配でして、かつては冬になるとスリップ事故が多発したそうです。 現在 ...

↑このページのトップヘ