くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

黒石の「キワ」にある東公園。 見晴らしもいいし、自然に溢れ、遊歩道はあるし、子供も遊べるし、何より黒石の「キワ」の高低差を感じることができる堰に挟まれし素敵な公園。 桜の季節には花見、宴会、BBQ等の人々で賑わいます。 ところがそれ以外の日はほとんど人いま ...

百沢街道の途中に高照神社の社号標がひっそりとあり、その社号標がある新法師から長い坂道参道を下っていきます。 菅江真澄が大浦城より、御台(五代)、老母橋(馬子橋)、山崎の諏訪神社、兼平…そして百沢寺を目指す過程に次のような記述があります。 「南に羽黒の神をま ...

今回は黒石陣屋の絵図に従い、実際に黒石の町を歩いて回り、門趾に残っている石柱を頼りにしながら陣屋の大きさを体感してみたいと思います。 陣屋内には御殿、台所、御蔵、焔廠蔵が配されていました。まずは大手門。 桝形です。 そして大手門近くには、町令所や太鼓櫓が ...

津軽・弘前藩の支藩に黒石藩があります。 黒石陣屋は明暦2年(1656)に津軽信英(弘前藩三代津軽信義の弟)が、甥の4代弘前藩主津軽信政を補佐したことで弘前藩から5千石が分地され旗本に列し、その信英が明暦3年(1657)頃に造営したのが黒石陣屋です。 ※陣屋とは江戸時代幕 ...

追手門広場の山車展示館。 山車は津軽藩四代藩主信政公の時代に、天和2年(1682年)8月15日の弘前八幡宮祭礼の際に各町内会の若者達によって繰り出されたのが始まりとされています。 弘前市の山車は、京都の祇園祭、大阪の天満宮、江戸の三社祭の影響を受け京都から移 ...

慶長八年(1603)に亀甲町などとともに最初の町並みとして、更に城の南西の要所として町割りされました。町名は、近くにあった重森山にちなんで名付けられたといわれています。 茂森町は新寺町に続く南北に長い町ですが、藩政時代から市が立ち、昭和初期までは小間物屋(小 ...

黒石陣屋の南に独立している蝦夷館(えぞだて)です。 昔は先住アイヌ民族の居砦であったとも伝えられる古蹟。 藩境である宇和堰より南にあった蝦夷館はかつて弘前藩領でした。 蝦夷館の南下の宇和堰(明治30年代と今)。 蝦夷館から宇和堰を見下ろす。 蝦夷館は蝦夷( ...

『上ノ坂 ~ 其之壱』 下ノ坂と共に上ノ坂(かみのさか)もまた黒石を代表する名坂と言えます。 黒石は青森県のほぼ中心。西に岩木山・津軽平野、東に八甲田山、南に浅瀬石川を望み、黒石台地の崖上に発達した町。黒石市の面積の80%が山岳地帯なんですね。上ノ坂中腹より ...

ようこそ「くぐる鳥居は鬼ばかり」へ 美味しいものを求めてお出かけし、坂を見つけては全力で走り、神社を見つけてはその地域の神様に感謝申し上げる・・・そんな日々。記事は北東北が中心です。北東北は寒いけど、とても温かく楽しい方々が多いと感じています。ちなみにタ ...

下ノ坂と共に上ノ坂(かみのさか)もまた黒石を代表する名坂と言えます。 現在の袋井から前町・中町へと上がる坂道…つまりこみせ通りへと繋がる坂です。情緒溢れる非常に素敵な坂です。 緩やかな湾曲。 坂の中腹には宇和堰が流れます。 元禄7(1694)年の御国中道 ...

『下ノ坂 ~ 其之壱』 下ノ坂は津軽の中でも情緒・由緒を色濃く残し趣溢れる名坂と言えます。 ちょっと見難い地図ですが…。 赤い線が下ノ坂。二本の青い線は上が宇和堰、下が小阿弥堰。緑が久須志大神。ピンクが黒石稲荷本殿。水色が西門跡の桝形の名残。黄色が現在も残 ...

黒石は甲大工町にある下ノ坂(しものさか)、津軽の中でも情緒・由緒を色濃く残した趣溢れる名坂と言えます。 坂下が寺社、坂下から見て左手は町屋、右手は侍町となっています。坂上を真っ直ぐ行けば職人町。下ノ坂には幕末から明治にかけて佐藤河内・同麻賀喜・同金吾の寺 ...

浪岡城址の出土物等が展示されている中世の館の隣にあります旧坪田家住宅と旧浪岡小学校。 旧坪田家住宅は平成14年に青森県重宝に指定。 かつて浪岡町王余魚沢に所在した坪田氏の住宅を移築したもの。 坪田家の先祖は戦国時代から江戸時代初期にかけ、近江(滋賀県)から津 ...

ユースホステル(YH)はドイツで生まれた世界的な旅の宿ネットワーク。 廉価で泊まれるのが魅力で、男女別の相部屋で二段ベッドの洋室となっています。 外観は古城であったり帆船であったりと変わった造りのものも多いのが特徴。 かつては多くの若者が使用したのかも ...

瑞楽園から北東約600mの位置、弘前市の中別所にある板碑群です。国指定重要美術品。 当初数基があり聖域視されていたところに、近在の開発で確認された板碑が運び込まれたと伝えられています。 津軽地方の鎌倉文化を表徴する雄健な佛種字が彫られているこの板碑は源光氏 ...

西目屋地区です。 この写真の坂が見返り坂というわけではありません。その昔、この高台の位置に上る緩い坂道があったのでしょう。 現在は道路がかなり整備されており、高台からの景色を見る為にこのような形となっています。江戸にある多くの富士見坂のように、坂道は残っ ...

市道常盤坂樋ノ口線の通称「水道坂」 常盤坂から出雲大社弘前分院前を通り、弘前スタジアムを迂回しながら樋の口町へと下っていきます。 距離と湾曲の分、勾配はさほど感じません。 茜町が近年発展してきているせいか、ここを通る車は意外に多いです。確かに便利な道 ...

現在の新坂です。所謂三代目新坂と言えましょう。 慶長八年(1603)に弘前(当時の高岡)の町づくりが開始され、同十六年(1611)弘前城が完成する津軽藩政時代初頭、上町と下町は、亀甲紺屋町街道と新町坂とで結ばれていました。 また、当時の御馬屋へは城内からの通行 ...

不識の塔の麓にある広泰寺。 建設当初の写真。 広泰寺は明治44年に山形県米沢市から移築されたもので、上杉謙信の造営になるという由緒ある寺です。 前もって連絡すれば中を見ることも可能です。 斎藤主(1860-1919)は万延元年に弘前市で生まれ、17歳で上京、その後、 ...

吉井酒造煉瓦倉庫(一部木造)。 弘前市吉野町にあります吉井酒造煉瓦倉庫(旧福島酒造)。地上2階、建築面積2256.07㎡、延床面積3933.93㎡。A棟(大正12年頃)・B棟(大正12年頃)・C棟(明治40年頃)。 一昔前の写真。変わらないですね。 こちらは建築中の明治後期の ...

不識塔(ふしきのとう)。 主(つかさ)の塔と言った方が馴染み深いですね。大正元年(1912年)、斎藤主(さいとうつかさ)により建設。高さ20.8mです。不識塔の形は、「主」という漢字をかたどっているともいわれています。 斎藤主は万延元年(1860)弘前市に生まれ、川 ...

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