くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

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茂森町桝形の中心にあります正進会館。
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ちょうど桝形の標柱が建っているところです。
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隣には消防西第一分団屯所。
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明治時代、歩兵第三十一連隊の将校集会所として建築された建物。
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後に茂森町青年会館として当地に移築され、最近までは空手道場として活用されていましたが、道場も移転したようで、現在は使われていません。
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日露戦争中の明治41年に編成された歩兵第五十二聯隊。
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弘前実業高校グラウンドとその付近になります。
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1993年までは、この一体は空き地となっており、レンガ倉庫敷地内は弘大の音楽サークル練習所があったくらいで殺伐とした感じでした。
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現在は個人倉庫として使用されています。
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歩兵第五十二聯隊は明治末から大正にかけて第八師団の管下に置かれ、宇垣軍縮により大正14年に解散。
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状態が結構いいですね。
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明治38年、黒石町に宿泊した日露戦争への出征軍人21名。元町福士永一郎宅にて.。
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弘前市桔梗野にあります不自然な空き地。
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正面こそ柵がありますが、サイドに回れば古木とよろよろの有刺鉄線。
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ここが第八師団歩兵第三一聯隊跡地です。
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門だけは立派に残っております。映画「八甲田山」で高倉健さんが出発した門(笑)
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大正9年。
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明治35年1月に日露戦争を想定した雪中行軍が八甲田山中で行われ、青森市の歩兵第五聯隊第二大隊が199名の犠牲者を出した惨事はとても有名ですね。
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この雪中行軍は弘前の歩兵第三十一聯隊も別ルートで実施していました。
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雪中行軍はロシア海軍の艦隊が津軽海峡に入り、青森の海岸沿いの列車が動かなくなった際、日本海側と太平洋側からそれぞれ移動するための演習。2ルートの内、弘前ルートは歩兵第三一聯隊が行ったのです。
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行軍経路は弘前桔梗野ー小国ー切明ー銀山ー十和田湖畔ー宇樽部ー中里ー三本木ー増沢ー田代ー田茂木野ー青森ー浪岡ー弘前。福島泰蔵大尉率いる少人数精鋭(37名)の弘前歩兵第三十一聯隊雪中行軍隊は1月20日5時30分に盛大な見送りの中、まさにここから出発したわけです。
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後に旧歩兵第三一聯隊の兵舎は引揚者寮として使われていたようです。
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歩兵第三一聯隊本部の屋根瓦。
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11日間の長期計画も全員無事帰還。
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そんな歴史ある地は…現在どうやら彼の私有地となっているようです。
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猫大佐です。敬礼!!
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弘前市は廃藩後、主な産業もなく、県庁が青森に移り武士階級の没落で人口減少が続きました。しかし明治29年(1896年)に仙台の陸軍第二師団に次ぐ第八師団の設置が決定されて息を吹き返したのです。
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明治30年(1897年)には初代師団長立見尚文が来弘。立見は明治14年(1881年)の明治天皇巡幸の際に近衛少佐として来弘したことがあり市民から敬慕されていました。明治37年(1904年)の日露戦争では師団を率いて満州各地で名を輝かせ陸軍大将になります。
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師団は最大1万人規模を誇ることから弘前は北奥における軍事中心都市となり、人口増加、経済活況を呈していきます。
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司令部は現在の弘前大学農学生命科学部に設置されていました。現在は司令部庁舎前ロータリー付近に、大本営跡碑と歴史ある樹木でもって、当時の面影を僅かに残している状態です。
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大本営の跡がこんな所にあったんですね。建物がまったく保存されていないのは淋しいです。
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ちなみに「弘前憲兵隊本部」、「歩兵第四旅団司令部」、「弘前連隊区司令部」、「第八師官軍法会議」といった施設が国立弘前大学校舎として転用されていったのです。
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通りは「師団通り」と呼ばれ、陸軍病院である弘前衛戍(えいじゅ)病院(現国立病院機構弘前病院)や、将校らの相互扶助・事業を行う弘前偕行社(かいこうしゃ)(現弘前厚生学院記念館)などが新設され、富田一体から軍都としての様相が整っていったのです。
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各隊の基幹となった部隊は第二師団からの移駐であり、同時に仙台商人も進出。施設工事は地元の建築業者が請け負い、消費物資は地元調達されたことで、軍隊に出入りする御用商人らは大いに潤いました。商店も大繁盛して、富田大通りや銀座街には軍人相手のカフェー等が立ち並んだそう。現在も残る中土手町の富田精肉店もその1つです。軍隊の消費経済で潤い、相当数の将校が家族を連れて市民生活にとけこみ、それまでになかった茶を飲む習慣をはじめ、新たな生活様式が広まっていったのですね。

各地に数多く点在する「生活共同組合(生協、CO-OP)」。
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しかし弘南生活協同組合コープ松原店ほど歴史深い店舗はないでしょう。
オープンしたのは今から35年程前…そんなに歴史ないって?いや、35年も凄いとは思いますけど…私が言いたいのはそこではありません。
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正面から見れば気付きにくいかも知れませんが、このコープ松原店の建物は、かつて第八師団騎兵第八連隊の旧覆馬場だったのです。
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昭和27年(1952年)に弘南バスが財務局より買収して車庫として利用しますが、昭和51年(1976年)よりコープ松原店が入店しました。
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どこかで旧覆馬場を見たことある方ならば、この典型的な造りを見てすぐに覆馬場と気付くでしょう。
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しかし現在は若者を中心に立派なレンガ造りのコープとしか思われていないようです。
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