くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ:寺・神社 (秋田県) > 寺・神社 (鹿角市)

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秋田県鹿角市八幡平上苗代。近くには曹洞宗護法山延命寺や谷内館跡があります。
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鳥居の周囲からは四つ葉の声がたくさん聞こえます。四つ葉・五つ葉・六つ葉コラボ!
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縁結びの神様の前なので縁起がいいですね。皆さまにも幸あれ!
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さて、鹿角八坂神社は、かわいい御朱印を求めて全国から参拝者が訪れている人気の神社です。
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御朱印に限らず、この神社がとても人気なのは参拝すればわかると思います。
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特に猫好き女子には(※犬もいます)。
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7.5
参道石段。
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鹿角八坂神社公式HPより…『八坂神社は、同じく鹿角市八幡平に鎮座する、天照皇御祖神社の飛地境内神社です。境内とお社は小さく、親しみやすい神社です。ユネスコの無形文化遺産であり国重要無形民俗文化財である、五大尊舞を奉納する天照皇御祖神社の例祭、先祓舞(市指定無形民俗文化財)の御旅所で、例祭も同時に行っております。古くから鎮座し、稲荷神社など、様々な神社が合祀されていることが知られております。建速須佐之男命(スサノオノミコト)、櫛名田比売命(クシナダヒメノミコト)を主祭神とし、宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)も祀られております。スサノオノミコトは、ヤマタノオロチ退治により、クシナダヒメノミコトと結婚し、天津神と国津神の縁を結んだことから、この二柱を同時に祀ることにより、縁結びの御利益があるとされております。他にも、厄除け、五穀豊穣、勝負事の神として知られております。クシナダヒメノミコトは大和撫子の語源にもなった美しい神様で、女性の方は是非その御利益にあやかりたいところです。ウカノミタマノカミは商売繁盛の御利益をもつ神様です。』
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社殿前の狛猫。
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「阿吽」ではなく「縁結」です。向かって右(縁)がオス猫、左(結)がメス猫です。
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お参りの際は頭を撫でてあげると喜びます。御祭神の建速須佐之男命と櫛名田比売命は五穀豊穣を司る神様のため、五穀を守り、良縁を招く猫を神使として迎えているそうです。
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手水舎。
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手水石。
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もちろん猫がおります。
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当神社の例祭として先祓舞があります。
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8月15日、16日に天照皇御祖神社と合同で執り行われます。神輿渡御の際に子供たちが舞いながら町内を祓い歩きます。
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御神木(雄イチョウと雌イチョウ)です。雄イチョウには、しめ縄に白い紙垂を、雌イチョウには紅白の紙垂をつけています。
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良縁を得たい男性は雌イチョウに、女性は雄イチョウに二礼二拍手一礼の作法でお参りするといいそうです。
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拝殿。
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このポップな雰囲気がどことなく令和という新しい時代の神社の姿を感じさせます。
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大人も子どもも楽しめるおみくじ。
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拝殿内。
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正面扁額。いい!とてもいい!!
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微笑みかければ幸招く秋田犬。
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化け猫様。「舌を撫でれば厄を喰い開運、ただし悪人は噛みつかれる」
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秋田犬のぷく丸。「あ~万福、満福、腹を撫でれば福招く」
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子産石(安産・子授)。「石をなでてお腹をなでて下さい」
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道祖神(縁結び、恋仲円満、夫婦円満)。
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社務所。
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秋田犬のぷく丸おまじない。「叶えたい願いの書かれたぷく丸を撮影し三日間待ち受けにしましょう」ってことで、全部撮影しておきました。私みたいな強慾な人間は、全部叶った直後に「大逆転」を喰らうんでしょうね。
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化け猫占い。「最初に目についた言葉があなたに現在必要なもの。二番目に目についた言葉があなたの未来に必要なもの」
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ちなみに私は「①破壊②自然」でした…自然破壊…。どうぞ試してみてください。
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秋田県鹿角市八幡平谷内。
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鹿角三十三観音霊場第十五番札所(谷内観音堂)。
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公式HP及びwikipediaより…『古来より谷内観音堂と呼ばれ親しまれていた。二度火事により、正しい記録は燃えてしまって不明だが、境内にある板碑は少なくとも七百年以上前に作られたものであり、谷内観音同創建は、勿論それより古いものと推測される。1564年(永禄7年)秋田近秀に谷内観音堂が戦で焼かれる。1574年(天正2年)天照皇御祖神として再建される。1659年(万治2年)再建される。1785年(天明5年)再建される。1873年(明治6年)村社に指定される。』
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神社庁より…『社記によれば谷内観音堂と呼ばれ明治初年廃仏棄釈の令によって天照皇御祖神社と社名が変更された。以来神明社と尊称されて現在に及んでいる。永禄10年の兵火によって焼失したがこれを機会に天正2年に社地を約150m下方の現在地に移転し、万治2年再建、天明5年再建(現在拝殿、幣殿)し現在の社殿になっている。その間明治43年無格社八幡神社、駒形神社、出羽神社、滝沢神社、八坂神社、明治45年熊野神社を合併し、明治6年村社指定社となった。境内の石造物の磨崖仏、板碑(県無形文化財指定)等あるが、その年号により700年を経ているものと推定される。』
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御祭神は大日霊貴神(天照大御神)、素盞嗚命(須佐之男命)、保食神、大鞆和気命(誉田別命)。例祭日は8月16日。
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社殿前神明鳥居。
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奉納碑など。石段に関するものかと思います。状態が悪かったので詳しく見ていません。
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紀年銘はいずれも明治。
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手水舎。
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手水石は二基並んでおり、低い方へと流れ落ちています。
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石灯籠二対(明治22年7月吉日・明治29年8月8日)。
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板碑。全4基あります。3基に紀年銘があり鎌倉時代末期のもの。種子、銘文あるいは経文の一部が刻まれています。板碑については後記。
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紀念碑(明治40年3月19日建設)。
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裏面に出征軍人名。
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更に社殿前に石灯籠二対。
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紀年銘は手前から明治22年7月吉日、明治42年5月。
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苔生している手水石。
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拝殿。
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境内神社として天神社、五大社(五大尊社)、八坂神社(飛地境内社)があります。
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特殊神事として大日堂舞楽(重要無形民俗文化財)、五大尊舞奉納社、神輿渡御、先祓舞(谷内天照皇御祖神社先祓舞)があります。市指定無形民俗文化財の先祓舞(例祭)は8月15日-16日に行われます。天照皇御祖神社から御神輿に御神体を乗せて八坂神社へ移動し、そこで例祭を執り行うという特殊な形をとっています。江戸時代中期に現在の八幡平市兄川稲荷神社から伝えられたといわれており兄川舞ともいわれています。明治20年頃から中断し、古老たちが酒席で昔を偲ぶ程度でしたが、昭和22年再び兄川から舞人、太鼓、笛の指導者を招いて復活しました。演目は11、このうち「きねとり舞」は若者のみで行われ、その他は小中学生男子によって舞われます。舞い手は女物の肌着、襦袢、襷、腰帯、鉢巻、白足袋に草鞋で華やかに着飾り、襷に日の丸扇をさし、飾り棒を持って舞い踊ります。五大尊舞は12月26日に正式奉納。ユネスコ無形文化遺産、国重要無形民俗文化財。だんぶり長者伝説の主人公であるだんぶり長者の舞。
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拝殿横の窓からは…
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何も見えず。
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幣殿・本殿覆屋。
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拝殿向拝蟇股・木鼻・海老虹梁・手鋏。
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拝殿向拝神額「天照皇大神」(昭和4年春三十三才記念(4名の奉納者名省略))。今写真を見て気付きましたが、天井に「修築建立向拝一宇」の棟札がありますね。紀年銘は皇紀2610年7月24日。
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拝殿内。正面に金剛力士像一対。その他絵馬や金剛力士像の棟札、谷内五大尊舞の幟も見えます。
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正面神額両脇の巨大絵馬。素戔嗚尊八頭蛇を退治し給う図と神武天皇東征図。
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境内神社。
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棟札には「奉齋國常立神神位(明治30年丁酉11月吉日)」と見え、横の木箱には「正一位谷内稲荷大神」とあり、巳神も見えます。
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境内神社。稲荷大神・大山祇神。
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境内神社。水天宮。
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こちらの建物はわからず。
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立派な御神木。大きいですね。
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忠魂碑(37、8年戦役戦死病没者・明治43年8月建立・長谷川小學校同窓會外有志一同)。
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戦死病没者名省略。
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手水石。
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合併記念碑(大正2年)。
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奉献鳥居記念碑(阿部隆之介・阿部由悦、昭和51年10月16日)。
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境内神社。
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棟札はよく見えず。紀年銘は昭和31年旧4月。
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山神宮。紀年銘はたぶん寛政8年7月22日。ってことで神社庁が記している境内神社とは一致しないというか…よくわからず!
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板碑(嘉元3年7月・ボ)。
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板碑(無紀年銘・サク)。
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板碑(正和2年5月30日・キリーク)。石材及び形状が武蔵国のものに似ており、関東御家人である成田・安保・奈良・秋元の四氏が鹿角地方に地頭として入部したことと関連があるものと考えられています。
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板碑(正安2年7月・ア)。
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最も古いものですが読み取るのはかなり厳しい状態。
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案内板「秋田県指定史跡、天照皇御祖神社境内の磨崖仏及び板碑(昭和60年3月15日指定)」より…『山側の岩面に線刻された磨崖仏は、その刻字の力強さから鎌倉期と推定され、境内の板碑はその紀年銘から鎌倉時代末期に造立されたものである。これらの石造物は、いずれも死者の菩提を願って造られたもので、弥陀三尊及び種子や銘文の偈がよく当時の信仰を物語っている。板碑は関東の武蔵武士団に発生したもので、鎌倉時代の鹿角の地頭たちが関東出身の武士であったという史実を具体的に裏付けている。◆弥陀三尊磨崖仏一基…石英安山岩の露頭部分高さ6メートル、幅7メートル。上方右寄りに、弥陀三尊を線刻。中央の月輪は径96.5センチメートル、中に阿弥陀如来坐像が描かれ、像容の高さは63センチメートル。左(向かって右)に「サ」観音菩薩、右に「サク」勢至菩薩を脇侍とし、種子をもって表わし、その月輪の径は44センチメートル。種子の彫りが深く風格があり、年代は鎌倉末期と推定される。◆板碑四基…社殿裏手に造立された正安2年(1300)銘板碑が最も古く、月輪に種子「ア」を置き、大般涅槃経の四句を偈としている。嘉元3年(1305)銘板碑は月輪に種子「ボ」、金剛般若婆羅密多経の四句を掲げる。正和2年(1313)銘板碑はいわゆる関東型の典型を示し、頭部山形の下に二条の線を引き、身部を枠線で囲み、種子「キリーク」と願文等を刻している。無紀年銘板碑は月輪の中に種子「サク」を刻み碑面に銘文はみられない。秋田県教育委員会・鹿角市教育委員会』
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磨崖仏(案内板より)。
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磨崖仏は境内の東側にあります。
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標柱「秋田県指定史跡、天照皇御祖神社境内の磨崖仏及び板碑(昭和60年3月15日指定)」より…『磨崖仏は中央に阿弥陀如来座像が描かれており、左に観音菩薩、右に勢至菩薩が梵字によって表されています。製作年代は鎌倉時代末期と推定されます。板碑は、三基に紀年銘があり鎌倉時代末期のものであることがわかります。』
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中世のものでは北限のものとされる磨崖仏。
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52.5
中央に阿弥陀如来座像…
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左に梵字「サ」(観音菩薩)…
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右に梵字「サク」(勢至菩薩)…
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ってことで…
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一生懸命見たのですが…
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ほぼ見えません。刻字の力強さ…鎌倉期だから仕方ないですね。
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この写真が一番わかりやすいかな…かなり厳しいですけど。
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谷内の磨崖仏・板碑…『現在の天照皇御祖神社は、明治の初めまで、古い由緒をもつ谷内観音堂として、地域の人人の信仰をあつめていた。観音堂創建の年代は明らかでないが、ここには、国の重要無形民俗文化財「大日堂舞楽」のうち、古代菩薩舞のひとつ、五大尊舞がうけ継がれている。近世、谷内の社人大博士はだんぶり長者縁りの者として、盛岡藩より代代祭田を給されてきた。観音堂域内には、鎌倉後期の「弥陀三尊磨崖仏」があり、同じく当時の紀年銘をもつ板碑「正安2年(1300)銘碑」・「嘉元3年(1305)銘碑」・「正和2年(1313)銘碑」等が遺存されている。県内最古に属するこれら石造物は、昭和60年3月、県史跡に指定された。なかでも「正和2年銘碑」は、関東の秩父青石に見まがう緑泥片岩を用い、山形の頭部、横二条線を施した、典型的な関東型板碑で、本県唯一のものといわれている。この谷内に拠った郷地頭は、おそらく最初の鹿角郡地頭職武蔵国成田惣領家から派遣された代官のひとりであった。成田氏は、後年の天文期(1532-54)に、谷内城が南部氏支流一戸弾正左衛門の手に落ちるまで、この熊沢川右岸一帯に、大きな勢力をふるっていたとみられている。平成7年9月撰文安村二郎・八幡平史談会・東京八幡平会』
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秋田県鹿角市十和田大湯腰廻。
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かつての境内は鎮守の森といった感じであったと思われますが、境内に木々は伐採されており、切り株のみが残されていました。
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かつての腰廻村。陸奥国鹿角郡毛馬内通のうち。南部藩領。「邦内郷村志」によりますと、蔵入高27石余、給分采地36石余、馬42、戸数22、稲荷神社を祀るとあります。黒森山(545.9m・山頂に黒森山神社)の南麓に位置し、西流してきた大湯川が南に方向を変える右岸に当たるこの地は、大湯台地の南西端。地租改正を機に明治9年大湯村の一部となります。
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社殿。由緒等は調べておりません。
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拝殿向拝神額「正一位稲荷大明神」。
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社殿内。正面に祀られているのは、神像もしくは仏像っぽく見えましたが、拝殿内にて拝むことは叶わず、何かはわかりません。
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社殿内には大太鼓、絵馬の他、鉄製の剣や草履、更に本殿上部は葦名神社(鹿角市)の千匹馬を彷彿させる無数の白狐の絵馬、更にその上には月山神社本宮(鹿角市)にあるような百人一首献額もしくは三十六歌仙図絵馬のようなものが見え、更に両脇には金剛力士らしき絵も飾られており、非常に興味深いものでした。拝殿内で見ることができないのがとても残念。
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秋田県鹿角市十和田毛馬内高田と毛馬内森崎の境に鎮座。毛馬内稲荷神社ではございません。近くには鹿角市立毛馬内保育園がございます。
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毛馬内村は「南部家系譜」に「毛馬内靫負領知奥州鹿角郡毛馬内郷。天正13丁酉年11月10日卒六十五歳」とあるのが初見史料。「鹿角由来記」によりますと「毛馬内町、毛馬内備中領知、本名成田の惣領也。後に南部靫負信継領知。天文年中三戸より知行遣わさる。高二千石。村数毛馬内・瀬田石・大欠ケ・赤沢・楢板躰・鰐口屋敷・菅生躰。毛馬内に館有り」とあり、「鹿角志」によりますと村名の中に、日暮躰・籠屋ノ沢が加えられ、居館が「古は当麻館、後に柏崎館」であると記されます。当麻館は建武4年北朝方の津軽曽我貞光の攻撃を受けました。柏崎館は慶長の末に藩主南部利直の縄張りにより造営。「奥々風土記」に鹿角三大日堂のうち胎蔵界大日堂が毛馬内にあり、継体朝にだんびる長者の建立した、小豆沢・長牛両村のものと組をなしているとあります。「鹿角郡根元記」によりますと、桓武朝に坂上田村麻呂が陸奥国に建立した月山社七座のうちの1社が毛馬内月山神社であり、また、毛馬内の古館は成田備中が天喜年中から代々居館としました。建久年中南部氏の鹿角領有後、天文年中南部氏一門の武田靫負佐秀範がこの館に居り、毛馬内氏と苗字を改めたとあります。「邦内郷村志」によりますと、蔵入高45石余・給分采地970石余、馬231、戸数314(うち上町31・中町34・下町46・五軒町57・加屋町33・下小路75・川原町38)。領主の居館柏崎館があります。月山権現がまつられ、所領11石余。永福寺門徒別当広増寺があります。承応3年重直、元禄4年重信と南部藩主が社殿を造営し再建。伊勢宮・稲荷社は修験宝珠院が別当、八幡宮・新山社は修験不動院が別当、他に数社があります。曹洞宗凱翁山仁叟寺は明暦3年創建で桜庭氏の菩提寺、閉伊郡善勝寺末寺で盛岡報恩寺支配。浄土宗根福山善徳寺は盛岡大泉寺末寺で寛永5年開山、同宗直至山誓願寺も同本山で享保年間に白根より移転、浄土真宗浄光山常照寺は盛岡本誓寺末寺で和賀郡土沢から移転、日蓮宗本光院は三戸妙光寺末寺で盛岡法花寺支配。「天保郷帳」では1,607石。「奥々風土記」には毛馬内里の正東群山の中に来満山があり、鹿角・三戸両郡の堺で、36里間駅家もなく冬から春には往来絶える険阻の坂道(峠)であると記します。郡区町村制下瀬田石・岡田両村と連合。戸長役場は毛馬内村にあり警察分署もありました。明治22年、鹿角郡毛馬内町の大字となります。
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社殿。当稲荷社の由緒等については調べておりません。
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社殿内。本殿両脇にも小祠。手前に御神馬。天井には神輿や太鼓などが見えます。
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稲荷神社参道脇にあった建物。
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堂宇内。
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観音像といった雰囲気でもありませんが、子安観音的な感じですかね。
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いずれも授乳という共通点があり、4躰の内の2躰はそれぞれ弓を手にしています。一対(2組)なのかも知れませんね。棟札らしきものは像の裏にあったため見えませんでした。
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秋田県鹿角市尾去沢仁兵エ平。別所川を橋で渡ります。
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庚申塔。1枚目の写真の巨木の下にあります。ちゃんと見ていませんが、向かって左はたぶん安政7年、右が大正11年。
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最初に鳥居を見た時、まさか後ろの山の頂上まで行くのでは!?と思いましたが鳥居からすぐでした。鹿角は特に熊が怖いので頂上だったら諦めていたと思います。
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既に社殿が見えております。
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鳥居の額束。屋根付き、しかも「お稲荷神社」です。
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石段。
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社殿。当神社の由緒等については調べておりません。
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拝殿向拝。
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拝殿内を拝もうとしたその瞬間!!
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大量の蚊と虻に襲われたため、きちんと参拝もしないままに逃げて来ました。社殿周囲も一切見ておりません。熊も怖いけど、真夏は蚊と虻の方が嫌ですね。
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