くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ:寺・神社 (秋田県) > 寺・神社 (秋田市)

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秋田県秋田市大町5丁目。大町は江戸期からの町名で、かつては久保田大町、秋田大町ともいいました。江戸期は出羽国秋田郡のうち。秋田藩領。久保田城下町の1つ。1-3丁目がありました。成立は慶長12年で城下町の外町で最も早くから発展。慶長年中に大町物といわれる絹織物・木綿・古手(古着)・麻糸・小間物・絹糸など繊維製品の家督専業権を得て、この特権の代わりに運上として伝馬・歩夫の提供・取締りを命じられていました。延宝元年には家督運上として両夫役に替えて駄賃銭と賃金をもって上納するよう要求されるようになります。同6年には1丁目だけに蝋燭の脇売り禁止という家督商品の追加が認められます。同7年には所々に脇売りが出て家督権も侵害されたため1-3丁目ともに取締りを願い出ています。藩はその対策として文政11年、嘉永3年の2度にわたり脇売り禁止をふれましたが実効は乏しかったといいます。3丁目では便法として大町以外の本家町人が町内に借家することによって家督商品の販売が認められていたという記録もあります。寛文7年の家督についての定によると質屋の存在がみえますが、質屋が天和4年に家督権侵害を企て反物類を除く古手類の商いを実現し、家督の独占権は次第に低落。1丁目にはたばこ店がありましたが、慶安2年1月22日に本町5丁目に移管。早くから旅人宿が発展し、寛永6年通町3か丁とともに大町各丁は2階建てが命じられました。同8年、堀川普請の人足の割当てで1丁目に32人、2丁目に35.5人が割り当てられました。寛文3年の1丁目の間数41.5・家数30、2丁目の間数40・家数29、3丁目の間数36・家数31。同6年には1丁目川端の水汲場破損の補修費に1・2丁目はそれぞれ銀22匁の最高額を割り当てられています。元禄元年3丁目から出火して920戸を焼失。同4年各丁に1人の庄屋を置くことが義務付けられています。正徳4年の大火で2丁目が焼失。更に享保15年には1丁目2,034軒、2丁目1,110軒が焼失。延宝2年に2丁目と内町を結ぶ二丁目橋が落成。3丁目の家屋敷構成は寛文3年、本家31、享保16年同32、天明3年同34、元治2年同29・借家29・長屋者8と変化し、長屋層の存在は天保3年以前からあり、幕末期には借家層とともにその増加が目立ちます。その多くは職人及び仲買人・日雇いなど生活不安定な階層と推定。3丁目は金銀両替の特権を持っており、元禄9年に秋田銀との引換えを始めていました。3丁目東側にあった金木屋呉服店は津軽の大津屋の出店として店の規模も手代の数ともに久保田町第1でしたが、天明の飢饉前後に店仕舞いをしたといいます。安政2年には山新木綿として地織り木綿の育成に努めた山中新十郎の織座が3丁目で始められました。明治4年から秋田町の町名。同11年南秋田郡に所属。同22年秋田市の町名。同18年市街に区分され1丁目家数59戸、2丁目62戸、3丁目41戸、翌19年の俵屋火事により3か丁は全焼。同年の戸長調べでは大町・川反・上下通町・茶町・上下亀ノ丁・大工町など17町の戸長役場が1丁目にありました。明治9年、3丁目に秋田警察出張所が移転。同26年秋田警察署を開署。同15年「秋田日報」が1丁目で発刊されて同22年「秋田魁新報」となります。同15年「秋田日日新聞」が2丁目で発刊され、同32~42年まで2丁目で「秋田公論」、その後身の日刊紙「秋田時事新報」が大正9年まで刊行され、後者は茶町に発行所が移転。明治29年秋田銀行が3丁目、同31年秋田農工銀行が2丁目に設立。大正14年3丁目の山新跡に山口銀行、同15年同じく3丁目に秋田商工会議所が建てられました。明治41年には辻合資会社が2丁目に創立。同43年には合名会社風間呉服店が1丁目に設立。住居表示実施により、昭和40年川反1-4丁目・川反上5丁目・川反下5丁目・上肴町・下肴町・上亀ノ丁・下亀ノ丁・上米町1-2丁目・下米町1-2丁目・茶町菊ノ丁・茶町扇ノ丁・茶町梅ノ丁・田中町・柳町・豊島町・八日町・本町4-6丁目・横町・船大工町・十人衆町・鉄砲町の全部と新大工町・上通町・中通町・大工町・四十間堀川反町・四十間堀町・上鍛冶町・誓願寺門前町・寺町の各一部を合わせて現在のの大町1-6丁目となっています。
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最初道を間違えてこの路地に入ってしまいました。
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ちょっと神社風に見えたのですが全然違いました。ってことで偶然見つけた気になるお店「穴凹anaboco」。隠れた名店たる雰囲気。
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ちなみに稲荷神社の入口はそのすぐ横のこちらの路地でした。
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社号標。
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裏面…『昭和12年5月寄進者船木末吉』
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参道。
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歓楽街の中心ですが緑に溢れていました。
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鳥居。
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手水石。
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なお、当稲荷神社の由緒等についてですが、旧町の歴史的経緯、稲荷神社であること、また、鎮座地的にもある程度の予測はつきますが、特に調べておりません。
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狐一対(大正4年10月修正)。
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13.5
石灯籠一対(昭和13年5月吉日、日支戰捷記念)。
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14.5
拝殿。
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拝殿向拝神額。
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境内社。
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空です。社名ではなく「誠心」という額が掲げられています。
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奥には「昭和拾三年六月拾九日建立、本町五丁目船木末吉」という棟札が見えました。
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さて、この付近にはたくさんのお店が立ち並び、夜になると雰囲気が一変します。
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上記の「穴凹」も然り、色々なお店に行ってみたい気持ちもあるのですが、以前『川反通り・川反飲食店街』の記事でも紹介しましたМさんがいる「だんまや水産秋田大町店」へ。当記事で紹介している正一位稲荷神社のすぐ近くです。
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21.4
21.8
地元民でもないし、結構前に1度訪れただけなのに、Мさん私のこと覚えていてくれました。さすがです。それだけでも再訪して良かった思いました。
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しかも店内は以前と同様満員で、とても忙しそうなのに指名にも応えてくれました。
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忙しいのに指名するな!って話ですが…そもそも居酒屋で指名って!?笑
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ってことで今回も楽しく美味しい一時を過ごすことができました。ありがとうございました。
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日吉八幡神社(秋田市)』からの続きです。前回の記事で漸く正面参道社殿手前(青銅鳥居手前)及び付近の句碑等まで紹介しましたが…今回は仏式を感じられる北側(旧国道)参道から紹介していきたいと思います。再び一からのスタートですいません。八橋の通り、不動院側の入口になります。
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狛犬一対。
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3.2
3.4
3.8
紀年銘ですが天保14年癸卯春。
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更に台座には「明治14年再建旧参講」と彫られています。
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こちらの参道は鳥居ではなく、移築された寿量院の山門です。
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6.5
寿量院は天和2年に3代藩主佐竹義処公が天徳寺内に徳川将軍家代々の御霊を祀る御霊屋を造営したことにはじまり、元禄年間の八橋帰命寺を経て、延享3年造営の寿量院に御霊屋を移しました。寿量院は秋田の東照宮といわれており、日光東照宮の分社として徳川将軍家代々の御霊を祀ってきました。
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明和7年の久保田明和寅年の大火の際、火災を免れた寿量院の矢大臣門でしたが、明治初年に廃寺となり、明治3年に豪商沼田八右衛門が隋神門として移築寄進。秋田県指定有形文化財です。なお、寿量院跡についてですが、秋田地方気象台の地に碑が残っています。
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随身像。
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9.5
裏側には御神馬。
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10.5
石川翁碑…『元帥海軍大将従二位大勲位一級伯爵東郷平八郎題額 大正四年八月石川理紀之助翁衰村救済歴任中羽後國平鹿郡の救済事務所に於て労働病を発して十四日尚庵に帰臥し九月九日逝去す従七位に特叙せらる病牀に在る事僅に二十六日のみ十日南秋田郡山田村郊外の丘陵に葬る翁は同郡の舊族奈良氏に出て二十一歳石川氏を襲く夙に頴悟祖訓を受け十一年既に和歌を善くす耒耨の旁刻苦力学歌道の正始に溯る又古の田法に精し明治元年王事に軍務に従ひ後専ら勧業に褒順す地價制定に効あり五年縣の勧業部に出仕し腐米改良法の発案実施農事試験場の創設等其功具陳し難し十一年種苗交換会を開く十三年暦観農話連を組織す二十二年其恢復成る更に山居十載経済生活を始む二十五年全県適産調に着手し努力積精調書五千卷に達す二十七年大日本農事大会に出席し総裁宮の令旨を捧して九州を暦説す帰りて農会組織を企て二十八年縣郡町村農会なる三十一年荒民を救済す三十二年農会法施行せらるゝや縣農会長を辞す三十五年正名か一歩園模範疎水事業を援助し薩摩日農村振興の為めに同志数人を率ゐて之に就く四十一年再び縣農政に鞅掌し東北振興の権威たり著述八百七十余冊和歌二十五年餘首男爵高崎正風氏と共に國風に力を注ぐと云う享年七十一歳二子民之助老之助皆先立ちて下世し孫孫太郎嗣ぐ 大正七年九月八日建立 前田正名撰並書 亀朋刻』
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石川理紀之助翁之碑標柱(大正7年)。
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『石川理紀之助翁は秋田県種苗交換会の先覚者三大人の一人であり、秋田の二宮翁と称せられ、その生涯を農村の更生、農家の救済、農業の振興のために捧げ尽くした高名は全国に知られている。西暦1845年(弘化2年)秋田市金足小泉の農家に生まれ、廃藩の後秋田県勧業課の官吏に出任、33歳の時種苗交換会を創設し、今日の全県的一大行事の礎を築いた。西暦1915年(大正4年)71年の生涯を終えた。』
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日吉八幡神社三重塔。
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14.5
宝永4年(1707)に建立された県内唯一の朱塗り木造三重塔。秋田県指定有形文化財。
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豪商青木平兵衛が父の菩提供養のために建立。
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随身門から来ると社殿がこのように見えてきます。
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17.5
さて、前回の記事の位置(青銅鳥居手前)まで戻ってきました。
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正面参道から見た三重塔と随身門。
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青銅鳥居(秋田県指定有形文化財)。那波家の奉納。
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再び石橋(神橋)。
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丸に右三つ巴と猿が見られます。
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22.5
更に各親柱の上に顔のない猿が4匹。本殿懸魚の下にいる猿みたいな顔だったのかな。
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23.5
寛政元年己酉八月寄進。
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社殿と石灯籠一対。
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手水石。
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社伝によりますと、平安時代に日枝山王と石清水八幡宮を勧請し日吉山延命寺と称したとされていますが、鎌倉時代とする説もあり詳細は不明。当初は秋田郡笹岡村(現秋田市外旭川)に鎮座しましたが、鎌倉時代に五十丁村(現秋田市上新城五十丁)へ遷り、天正17年(1589)に安東実季により飯島村へ、元和元年(1615)には佐竹義宣により寺内村字油田へ遷ったと伝えられています。寛文2年(1662年)に現在地へ移りましたが大火によって焼失し、安永7年(1778)に再建。安東氏からは社領200石が寄進されており、佐竹氏の信仰も厚く社領40石を寄進して保護。元和の久保田の町割りに際し外町の鎮守とされたことで、八橋の山王さんとして主に町人たちからの信仰を集めました。明治時代には県社に列せられ、現在も近隣住民に親しまれています。
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パンフレットより…『南北朝時代の創建といわれ、江戸時代初期に現在地へ移りました。久保田城下の商人町である外町の総鎮守で、古くから「八橋(やばせ)の山王さん」と呼ばれて親しまれています。本殿・拝殿のほか、三重塔や随神門など、多くの文化財があります。本殿に奉納されている扁額も見どころです。境内にはかつて外町の商人たちが寄進した建造物があちらこちらに見られます。日吉八幡神社の祭礼は、春と秋の年2回。昔は八橋までの道が今のように整備されておらず、外町の氏子たちは簡単にお参りできませんでした。そこで、秋の祭礼では神輿や練り山などが外町を練り歩き、氏子たちは自宅の前で商売繁盛などを祈願しました。また、昭和初期には、秋祭りの際、通りに建てた櫓で多彩な出し物が行われ、通りは豪華な飾り人形や山車で賑いました。全県から人が集り、臨時列車が出るほどだったそうです。外町の誕生から400年近く経つ今も粋な町人たちが神事や祭典を受け継いでいます。』
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広報あきたより…『外町の守り神として、八橋の山王さんともいわれ、町人たちから親しまれてきた日吉八幡神社。日吉八幡神社は、平安時代に秋田市郊外の笹岡(今の外旭川)にまつられたのが始まりと伝えられ、鎌倉時代には上新城に移されました。さらに天正17年(1589)、檜山の安東実季が土崎の安東道季との湊合戦で勝利をおさめ、日吉八幡神社を守護神として飯島に遷座。その後、初代秋田藩主となった佐竹義宣も日吉八幡神社を敬い、元和元年(1615)、「政治の安定と外町町人の発展」を象徴する神様として、八橋の狐森(今の寺内油田)に移しました。この建物は明和7年(1770)の大火で類焼し、その後、現在地(八橋本町)に再建されました。現在の拝殿は安永7年(1778)、本殿は寛政9年(1797)に建てられたものです。秋田県指定有形文化財(建造物)16件のなかでも日吉八幡神社は、本殿・拝殿・舞殿・随神門の四棟のほか三重塔・青銅鳥居などを有し、「歴史の宝庫」ともいわれています。また、拝殿正面と内陣の彫刻は、精巧を極め、安藤和風が秋田の日光廟と激賞したほど豪華なつくりとなっています。藩政時代は、今の旭川を境に、東側は内町と呼ばれる侍町、西側は外町と呼ばれる町人の町となっていました。日吉八幡神社は、商人や職人の住む外町の守り神となってきた神社でもあります。しかし外町から日吉八幡神社は遠かったため、外町の人たちは、御輿をかついで町を練り歩く御差鉾行列を行い、自宅の前で商売繁盛や家内安全などを祈願してきました。この御差鉾行列と稚児行列は今も毎年行われています。』
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秋田県神社庁より…『古伝承によれば、平安時代後期、源義家に滅ぼされた安倍頼時の子、宗任が比叡山で修験者となり、晩年近江の日吉山と岩清水八幡を勧請して、外旭川の笹岡に修験寺日吉山延命寺無量寺院を建立したのに始まると伝えられ、元享2年新城館主が、同地に日吉山八幡宮を造営、応永2年沙弥安宗が、現上新城中学校の地に同社を移し、天正17年桧山の安東実季が、土崎湊の安東道季を滅ぼしたとき、同社を守護神として飯島に遷座、新たに秋田6郡領主となった佐竹義宣も同社を崇敬し、元和元年八柳狐森に遷宮、寛永2年社殿を造営するも、同19年春、雄物川の氾濫で社殿の大半を流失し、やむなく同年中に現在の地を社地と定め、再建し寛文2年遷座したと伝えられる。現在の社殿は、明和6年、久保田町大火のおり類焼し、その後再興され、拝殿は安永7年に、本殿は寛永9年に建立されたものであり、佐竹氏入国以後、久保田の外町の総鎮守として今日に至る。』
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本殿(寛政9年(1797)建立。正面三間、背面五間、両側面三間、入母屋造り、平入)、拝殿(安永7年(1778)建立)は権現造で秋田県指定有形文化財。本拝殿は権現造で、連結する部分(石の間)は日吉八幡神社では浮橋と呼んでおり、仏教的な彼岸と此岸を連絡する施設であるこの浮橋(平成19年修復)も有形文化財に指定されています。
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拝殿向拝に六歌仙。
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蟇股は裏側まで素晴らしい造りになっています。
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手鋏等も美しいですね。
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34.4
34.8
拝殿内絵馬。源平合戦(牧野永昌筆、天明三実卯歳初冬下旬敬白、遊心斎)。
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那須与一(渡辺洞昌筆寛政四歳八月吉祥日、渡辺■■写62歳)。下に小さな御神輿。
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宮中(葛延元年庚申八月日、文嶺筆)。その他、繋馬(五十嵐嵐児筆寛政四壬子年九月吉日三町小路、嵐周皐)、熊谷と敦盛(津村洞達筆、文化14丁丑4月吉日、卯月斎)、菊(西宮半城筆、明治30年半城画並苔)、桜、白富士(津村洞養筆、明治13年洞養重悦)、天孫降臨(津村洞養筆、明治16年洞養重悦)等の絵馬があります。
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社殿横へ。
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鳥居。
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神輿殿(昭和58年)かも知れません。
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更にその隣に境内神社の大山祇神社。社号標紀年銘は昭和16年5月(創立20周年記念)。ってことは逆算すると大正10年の創立。※平田神社(現彌高神社)が千秋公園内の旧県社八幡神社社殿に奉遷されたのが大正5年です。
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手水石。
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狛犬一対。
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43.5
台座には昭和25年5月12日再建とあります。石工釘屋三右エ門。
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44.4
石灯籠一対(大正6年)。
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45.5
明治14年、秋田出身の国学者・神道家である平田篤胤を顕彰し崇敬するため、平田門人であった小谷部甚左衛門らの有志が、日吉八幡神社境内に平田篤胤を祀る平田神社を創建しています。これが現在、秋田市千秋公園(久保田城跡)に鎮座する彌高神社の前身です。彌高神社史によりますと、平田神社について次のように書かれています。『日吉神社の山門をくぐって三重塔の下に立って、西のほうに目をやると、本殿の北側に小さな祠が二つ並んでいる。その北の隅の祠が大山神社である。これが明治14年建立時のままの社殿だとは、日吉神社祠官大沼氏や小谷部城太郎氏(吉訓の孫)の語るところである。平田神社が彌高神社の発祥のところであることは、彌高神社の由緒に明らかである。』(「秋川における平川神社と小谷部吉訓」渡遜正列)。
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池。戦前の日吉八幡神社の周辺は、八橋公園として親しまれていましたそうです。
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大山祇神社前から見た日吉八幡神社社殿と三重塔。ちなみにその他として、山王(日吉)八幡に三重塔のほか末社の子安社・稲荷社と薬師堂があるとの記録もあります。
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48.5
こちらは日吉八幡神社から程近い場所(秋田市山王1丁目2)でたまたま見つけた荒磯(元祖荒磯ラーメン・秋田市山王)さん。メニューは味噌・塩・醤油・ピリ辛。具だくさんでお腹いっぱい。
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茎わかめ、イカゲソ、ホタテのひもなど色々入っており、今まで食べたことのない味わいでございました。感想を一言で言うと「荒磯!」って感じ。
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秋田県秋田市八橋本町。八橋(やばせ)と読みます。古くは「谷橋」「矢橋」とも表記されていました。古江戸時代には久保田城から土崎港方面へ向かう羽州街道の、久保田を出て最初の集落でした。
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八橋運動公園の北に隣接しており、近くには八橋観音(帰命寺)、玉の井稲荷、不動院、菅原神社などもあります。八橋運動公園に向かう道路には日吉八幡神社、寿量院、神明堂などの神社仏閣が建ち並ぶ様子が街道絵巻に描かれていますが、現在は日吉八幡神社のみが鎮座。ちなみに寿量院の門は日吉八幡神社の随身門、御霊屋は菅原神社に移築されています。
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日吉八幡神社では本殿及び拝殿の他、神橋、鳥居、舞殿、三重塔、隋神門、常夜燈などが県指定有形文化財になっています。本殿には宮殿があり、本居宣長の座像が安置。御祭神は大山咋神、誉田別命。例祭日は旧暦4月中の申・9月15日。特殊神事として御差鉾神事(9月14日)があります。
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北側(旧国道)から見ると仏式(山門と三重塔)、東側から見ると神式(鳥居、参道、手水舎、鳥居、拝殿、本殿)の建物配置となっており、神仏混淆の様式を見せます。ちなみに写真は東側参道大鳥居(昭和13年)。
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雪部隊戦没者慰霊碑(元歩兵第二百二十三聯隊長髙木正実謹書)。
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豊竹代根吉・豊澤可祝記念碑。
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7.5
筆塚。秋田県書道連盟建立。平成13年。
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日吉八幡神社…『秋田市外町(町人町)の鎮守で、八橋の山王さんの名で知られている。起源が古く、近江(滋賀県)の日枝山王と京都の石清水八幡を勧請したものである。はじめ外旭川の笹岡にあったが、上新城の五十丁に移し、その後飯島に移した。初代藩主佐竹義宣は、元和元年(1615)八橋の狐森に移した。寛永19年(1642)雄物川の氾濫で社地が流されたので、現在地に社をたて寛文2年(1662)に遷宮した。明和年間(1764-1771)の大火で類焼し現在の拝殿は安永7年(1778)、本殿は寛政9年(1797)に竣工したものである。三重塔は、宝永4年(1707)の建築で、嘉永7年(1854)に改築した本県唯一の木造重層建築物である。山門は、明治初年に廃寺となった寿量院から移したものである。秋田市制百周年記念・秋田市教育委員会』
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狛犬一対(昭和15年・鳥居寄進者一同)。
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10.5
灯籠一対。
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11.5
「延享五年龍集戊辰二月吉日」。意外に古いものでした。
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参道。
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確かにこちらの参道からだけ見ると神仏混淆を感じない雰囲気です。
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狛犬一対(昭和4年)。
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15.5
石祠二基。
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神橋。
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三猿。
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18.5
そういえばパンフレットにこのような記事がありました。
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是非探してみてください。本殿の外観などもしっかりと見てみてね!
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参道両脇に灯籠三対。
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21.5
奉造營講和記念碑(昭和28年)。
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旭北消防團之碑(昭和28年11月吉辰建立)…『昭和20年8月大東亜建設の夢遂に破れ敗戰の衝激は國民を虚脱状態に墜しめ火災頻發且つ水害又各地を襲うの不幸を見る。我等消防団員は卒先屡々肉弾を以て事に處し市民を災禍より護る事を得たりこれ將にかつての空襲時下進んで身を危機に挺しよく市民を惨禍の巷より救いたる旺盛なる消防精神の發露にして男子の本懐と云うべし我等永く之を記念すると共に消防精神の高揚に資する為名を連ね之を建つる者也』
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青銅製狛犬一対。
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24.5
昭和15年5月(皇紀2600年記念)。大阪市東區南農人町一丁目大久保平助奉納。
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25.5
舞殿(秋田県指定有形文化財)。平成12年に土台部分を修復。
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手水舎。
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「雲らねば待つ気の薄し子規(ほととぎす)」故人雪鮮。
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「たつ煙雲にもならで秋の色」二葉。
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「かかる日を花に保てり夏の草」渭虹。
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「ひとつある物を何處でも月見かな」素山。
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「一日の日は大事なり稲の花」子得。
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「朝露をほめのこしたり杜若」南陽。
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「降れば又雨をけしきや春の山」皆川二山・「見へて来るやふに聞こへぬ秋のかね」八十翁佐藤碧涛(侯爵義生公篆額・明治44年7月7日建立)。
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「正直に物思ふ時の涼しさよ」如牛(句主如牛武藤多吉・筆者安藤和風、大正6年11月8日於参年祭武藤家建立、三浦龜朋刻)。
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「芥子提て心に遠し戻る道」貞梅(安政5年戌午4月・川口屋氏)。
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36.4
36.8
「きりぎりす啼くや葎のつゆあかり」梅児(句主故梅兒武藤亀之助・筆者花の本聽秋、大正6年9月12日於)。
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「湯を汲ば暫く匂ふ桜かな」東皐・「居處を定めて啼くか枝蛙」一喬(嘉永6癸丑年4月)。
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「鯛は焼き瓜を冷して昼寝かな」三橋。千家生花十二世家元三橋翁記念碑(内田三橋翁碑)。
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39.5
このようにたくさんの句碑がありました。それにしても私がなぜ苦手なくずし字をこんなにも読めたのか…
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丁寧な案内板があったからです。
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ただそれだけです。
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ラブラブ御神木。
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スカスカ御神木。
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44.5
寄進参道敷石改修記念碑(昭和12年6月2日、世話人高堂善吉)。
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忠魂碑。
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社務所。
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石灯籠など。
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二十三夜塔(後藤氏)。
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ってことで、まだ社殿手前の青銅鳥居にも至っていませんが、句碑の紹介で長くなりましたので…
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八橋山不動院。秋田西国観音霊場の30番、31番札所。秋田県秋田市八橋本町。日吉八幡神社のすぐ近くです。八橋地区は江戸時代初期に旧羽州街道が整備され、今の日吉八幡神社が遷座した頃から住人が増えました。やがて、街道沿いに茶店が立ち並び、芝居興行が行われるなど、城下の町人が集う行楽地として賑わいました。地名は八つの橋があったとも、坂上田村麻呂の射った矢が走り落ちたために「矢走」と呼ばれたなどの伝説があり、矢橋・谷橋などとも記されていました。
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パンフレットによりますと、真言宗のお寺で、境内には100基ほどの庚申塔や鶏卵塚などが立ち並び、日本三大庚申の一つと称されているとのこと。入口の比較的新しい寺号標にも「日本三庚申霊場真言宗不動院」とありました。寺号標隣の一際大きな庚申塔には「岩之山 太平山 三庚申」とあります。更に反対側には「七庚申」と彫られた明治33年の庚申塔。
3
七庚申(明治)。ってういか111基あるとのことで全部は見ていられませんね。
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狛犬一対(嘉永6歳癸丑4月吉日)。
5
5.5
お墓です。東京力士…若梅与市?いや、与市は間違いないけど、その上は微妙に字体が違う気も…。大正9年8月21日東京力士會建立。
6
6.5
「日本三庚申」を刻む五輪塔です。
7
紀年銘は明治2年己巳9月。仙北郡九升田村森川治左エ門。
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詳細は見ていませんが、ほぼ全部が庚申塔・二十三夜塔及び青面金剛で、一部猿田彦や墓碑。庚申の御祭神で仏教では青面金剛、神道では猿田彦を掲げて供物を供えます。
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9.2
9.4
9.5
9.6
9.7
9.8
時代も結構古く、歴史を感じます。
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10.2
10.4
10.6
10.8
111基以上ありそう。
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11.4
11.6
11.8
太平山・青面金剛。
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12.4
12.8
狛犬三対。
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13.1
13.2
13.4
13.6
13.8
百度石。
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手水石。
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新しそうな五輪塔もありますね。
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歴代不生位とあります。
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この付近は歴代僧侶の墓が多いです。
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こちらは立派な造りですね。石灯籠一対に、石碑は亀趺の上に建てられています。
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四十二世善恵(入定仏)の墓です。中央には「當山中興開四十二世權大僧都法印正法不生位」とありました。羽陰温故誌によりますと、明治初年に発願して生のまま土葬されることを希望し、生きている内に石の唐櫃を作り境内に埋めて入定しようとするも政府から許可されなかったとのことで、21日間の断食の後に唐櫃に入れられ埋葬されたと伝わりますが詳細は不明。
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沼田則長之墓。
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いずれも歴史が古い割には碑文の状態もそこそこ良好なので、きちんと読めば色々と歴史を紐解けそうですね。
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狛犬一対。
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23.5
この狛犬は柵を向いています。
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本堂へ。石碑は古いのですが本堂は近代的ですね。
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寛文5年(1665)二代藩主佐竹義隆が三間四面の堂宇を建立して開基したと云われている古寺で真言宗智山派。寺号は八橋山金剛寺で後に改称。庚申尊を安置したことから庚申堂とも呼ばれており、境内には県内に例をみない庚申塔の林立、鶏卵塔、四十二世善恵(入定仏)の墓などがあります。
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御本尊は青面金剛童子(日本三庚申の一つ)。天平の頃、天竺婆羅門僧正が日本に渡り奈良の大仏開眼法要後、日本国土の開発を祈り三体の庚申尊像を彫刻。大阪の四天王寺と近江国八坂の堂にそれぞれ安置し、残る一体は行基菩薩が羽後国秋田郡舞鶴に安置したものが、八橋の現在地に納まったと伝えるも、明治19年の秋田の俵屋火事によって焼失したといいます。
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戸村竹窓先生之碑(窓じゃないかも)。明治6年7月8日七周忌、門人中建立。
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俳祖芭蕉翁。10月12日は読み取れますが年号は読み取れませんでした。
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鶏卵塚(産土の神・古四王神社(秋田市寺内児桜)周辺の寺内衆は禁断の習慣があり、四足の肉や鶏肉は食べず、卵も牛乳も一切口にしないという奇習がありました。但し、病気等で止むを得ず食べなければならない時は鶏卵塚を建立して供養・感謝をしたそうです。)。
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紀年銘は嘉永6年癸丑7月23日。
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三十三観音の一部。どちらも「三十番」。
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こちらの石碑は…
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私には判断しかねます。紀年銘は明治34年辛丑4月。
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秋田県秋田市大町5丁目。豊島町(旧豊島町)の福栄稲荷神社。
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社号標(昭和5年6月15日、若狭東吉建立)。
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旧豊島町標柱より…『寛永8年(1631)の町割りで、豊島氏の旧臣が居住したことに由来するなどの伝説がある。昭和12年まで旭北小学校があった。』
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豊島町についてです。かつては久保田豊島町・秋田豊島町ともいいました。江戸期は出羽国秋田郡のうち。秋田藩領。久保田城下町の1つ。成立は寛永8年に町割がなされたことが知られています。本町5丁目と八日町に挾まれており、久保田の外町の中心。寛永8年の堀川普請人足の割当で(町中家表四間口に付人足1人ずつの計算)は、戸嶋町(豊島町)肝煎弥三郎扱い分として144人とあります。寛文3年の間数は47.5・家数65(外町屋敷間数絵図)。文政5年に料理屋の家督権を得ました。これは従来から料理屋家業が多かったためで町法等も厳正にやってきましたが、近年になって他の町にも料理屋が増え、更に火事によって類焼したので、このままでは町が衰微するので家督を認めてほしいとの訴えが認められたためです。なお、町内には稲荷神社が見え、それが当福栄稲荷神社。明治4年から秋田町の町名。同11年南秋田郡に所属。同22年秋田市の町名。明治18年の戸数は98。翌年の俵屋火事により全焼。同20年には旭小学校が新築され、前年の大火により全焼した田中町の旭北小学校と上川口の旭南小学校を合併。同34年には秋田市商業補習学校を併設、同42年に再び旭南・旭北に分かれ、旭小学校はそのまま旭北小学校として昭和12年まで残りました。昭和40年住居表示実施により大町5丁目の一部となります。
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狛犬一対。
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6.5
文久2年壬戌6月、池永久太郎奉納。
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7.5
石灯籠一対(安政5年午6月15日)。
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8.5
鳥居。
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狐二対。
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10.5
手水石。
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社殿。
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