くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ:坂道 > 坂道 (青森県内)

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4月21日。新町坂上からの岩木山です。
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長くて緩やかな坂道の途中にあります。Googleマップでは野辺地町下坂として表示されますが、野辺地町赤坂の赤坂蒼前堂です。赤坂蒼前堂の記録と下記狛犬の紀年銘及び奉納者が一致しました。
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由緒はわかりません。馬に関するものです…はい。「蒼前」の説明は下の記事を参照してください。
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狛犬一対(昭和19年旧4月19日)。木明徳松奉納。
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建物奥中央に黒い宮形が2つ見えました。
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中には棟札と馬か狐らしきものが見えますがきちんと確認していないのでわかりません。
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っていうか建物自体が崩れそう…。
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出合坂。
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達者村百景「出逢坂」。
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紫陽花が綺麗ですね。
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坂の勾配はさほどありません。
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最明寺入道時頼公と玉峰捐城和尚の出合の地。
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最明寺時頼公(北条時頼)と夢想軒の庵主玉峰捐城和尚の石像が向かい合っているのですが、草木が邪魔で、どの角度で撮ってもどちらか一方が隠れてしまう状態。私の身長とカメラでは二人は出逢えず!
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玉峰指城和尚之像。
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最明寺時頼公之像。
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「出合坂」地名の由来…『今から七百余年前(鎌倉時代)、当時の執権、最明寺入道時頼公(北条時頼)がこの地方を旅した時、美しい名久井岳に魅せられ山奥まで登りました。帰途、中腹のある寺に一夜の宿を頼みましたが断られ、やむなく別の庵寺に宿を求めました。庵寺の玉峰指城和尚は、ありあわせの品で心からもてなしをしたため、時頼公は庵主の人柄に深く感激し、翌朝、自分の持っていた扇子の表に「壱千石名久井通り右永代可令知行也」、裏には「水結ぶ名久井が岳を眺むれば、海より出でて山に入る月。最明寺入道時頼花押」と書き置きし下山しました。途中、この場所で下の方から登って来る庵主に出合いました。庵主は「朝食の御飯がないので托鉢をしての帰りです。どうぞ今一度お寺へお戻りください」とねんごろに帰山をすすめましたが、時頼公は好意を感謝し別れました。翌年、鎌倉から時頼公の使者が参り、世話になった庵寺に七堂伽藍経堂を立派に建て「白華山法光寺」としました。早朝、時頼公と庵主が「出合われた坂」ゆえ、この地を出合坂と呼ぶようになりました。南部町観光協会』
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「出會坂」と書かれた冠木門。
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「出合」「出逢」「出会」「出會」…どれかに統一して欲しい(笑)
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手水石。
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変わった建物です。
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向こう山桜や龍が施されたかっこいい扉。
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建物内。
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北条時頼公地蔵尊と棟札がありました。
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狛犬一対(昭和38年8月14日)。
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石灯籠一対(昭和38年5月)。
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最明寺時頼公地蔵尊顯彰碑(施主米内種之助80才)。
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寄附者名碑。名川町、三戸町、十和田市、南部町の各議員名が彫られています。
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もう1つの建物。下記の石碑によれば最明寺時頼公の霊廟とのこと。
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こちらには丸に桜の家紋。
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しかも木鼻付。頭貫・虹梁に付いているわけではありませんが。
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石碑…『記。今般各位の御協賛御寄附により夛年の念願である最明寺時頼公の霊廟も愈々落慶しましたに付從来御声援御激励を賜わりました各位の御厚志に報ゆる微意より御寄附の有無に不拘御芳名を永代に傳える為め石に彫り付け其の御芳志に報謝する事に致します。米内種之助建立。補記。当石材に金壱千円以上御寄進下された方々はかりて以下御寄附の方は板書して掲げいたしました。』
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狐一対。
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米内種之助之像。
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盛徳紹隆信士・徳相知光信女。墓碑ですね。誰かはわからず。
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米内種之助顕彰碑(八十一才・昭和33年8月吉日・名川町観光協會)。
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台座の碑文には寄附者芳名他、出會坂の説明もありました。『最明寺時頼公諸国行脚の砌り當地へ立寄り、當時法光寺住職玉峰指城和尚と出會し坂なり。』
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出合坂を上って法光寺を目指します。
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途中に御坊塚があります。
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空白さんと鉄爺28号さんも訪れている御坊塚。裏側に土盛りがあります。
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御坊塚由来…『鎌倉時代北條時頼公が民情視察のため東北地方を回られた時、礼を失したるため観音寺住職桂竺法印が逆(さかさ)に生き埋めにされた所。昭和53年4月名川町観光協会』
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県道45号。ちょうど川守田町と六日町の間に「えの坂」の案内板があります。
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えの坂の由来…『昔、この坂の脇に佐藤兵衛の屋敷があったので「さどべえ(佐藤兵衛)坂」と呼ばれていた。それがいつの間にか「え(衛)の坂」と省略して呼ばれるようになった。佐藤氏は代々兵衛丹波守と称し先祖は南部光行公入国の際相内館の一夜堀構築の奉行をつとめたといわれる名家である。佐藤氏はのち田子通り十六箇村の大肝入となり下参郷(しもさごう)氏と称した。六日町に屋敷を賜り更に田子丹波と改め田子氏と称している。昭和63年8月吉日六日町多聞天神社』※十六箇村=夏坂・関・山口・遠瀬・茂市・杉本・石亀・道地・佐羽内・原・飯豊・白坂・相米・種子・田子・日ノ沢。※下参郷氏は世襲とされ、本姓を佐藤兵衛といいましたが、藩命により改称したもので、三戸市中に常住し、年貢収納などの職務を果たすため、田子通に数人の小走を置いていました。
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坂下に大変特徴的な家がありました。
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普通の家なのかな。特に案内板なども無かったので立ち入ることはできず、よくわかりませんでした。
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えの坂は車一台通れるくらいの細い坂道。
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途中でS字型に大きく湾曲しており、勾配はさほど感じません。
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湾曲した所には細い道(石段)があります。
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この石段の方へ行けば毘沙門堂の横に出ます。
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坂上は緩やかに湾曲しており、両側は高いコンクリート塀、そう上には木々が生い茂っているため、やや暗く感じます。
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高いコンクリート塀を抜けた先も勾配が続きますが、両側は普通の住宅地となっており、佐藤兵衛屋敷の遺構はわかりませんでした。
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標柱はありますが坂の説明はありません。但し、坂上に鎮座する八坂神社の境内に設置された案内板を読めば、坂名の由来がわかります。
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五日市城(下名久井城)の由来…『鎌倉幕府御家人の工藤祐経(源頼朝の重臣)の長男でもある犬房丸(工藤祐時)は、訳(曽我物語)があってこの地を賜り五日市に築城した犬房丸伝説がある。犬房坂(いばさか)と言い伝えられる坂があり、由来として語り継がれている。それに工藤祐時の子息も居城と言う伝説もある。あるいは平泉の藤原氏の討伐の功績により源頼朝から糠部地方を拝領し、鎌倉幕府御家人である工藤小次郎行光の弟の祐光(又は資光)が、文治5年(1189年)~建久9年(1198年)頃、五日市村に下向し築城したと言われている。五日市城は7つの館(大舘、外舘、仁良舘、和舘、東舘、絵舘、古舘)を形成し、本城(大舘)には舘神があり、集落内には家来の屋敷(在家、台所屋敷)、施設の跡(鍛冶長根、元町)、後家堀(ごけっぽり)など、城跡に由来する地名が現在もある。北西に馬淵川、南に五日市川(如来堂川)、東には油川が流れ、約250町歩の広さを領有し、唯一の水源がある東舘の遠方の助川方面より用水路の造成を為し、七舘まで水を引き堀を巡らせて本城を防衛した。舘跡の其の遺構からも堀割が重要を為し、さらに五日市川、油川の段丘と湿地をも利用した、大規模で守りのかたい天然の要塞でもあった。尚、里人の言に依れば天文年代(1532~54年)に、三戸南部氏の宗家24代南部晴政の家臣、赤沼備中が五日市城主であると言われ、赤沼という地名も現存している。その後の五日市城は城主不明となり、様々な諸説はあるが慶長3年(1598年)の「三戸舘持支配帳」には載っていない謎に包まれた城跡となった。昭和に入り諸事情で八坂神社周辺の堀跡と池、その他の堀跡、用水路も埋め立てられた箇所もあるが、名久井岳を真向かいに望み、風和む丘の五日市は自然の災害も少なく温暖な気候と豊かなる郷として中世の面影を今に伝えている。平成24年3月吉日』
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坂の場所は五日市舘跡です。下記地図では外舘を挟んで、犬房坂(伝)と犬房坂(現)とありますね。写真は犬房坂(現)の方です。五日市舘跡はこの地図通りにそれぞれ標柱が立っているのでわかりやすいですね。今回は時間が無くてあまり見ませんでしたが、いずれじっくり回りたいです。
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犬房丸は鎌倉幕府御家人の工藤祐経の長男。父が曽我兄弟に討たれたとき、犬房丸は南部地方に逃れ、当地方の工藤氏の祖になったという伝承があります。名川町名久井には犬房丸の長男が上名久井の祖となって東氏を名乗り、下名久井には次男が居住し工藤と称したと伝えます。そのため名久井には「工藤は7百年」といわれるほど工藤の姓が多いといいます。蕪嶋神社には犬房丸が弁財天を祭った由来があり、湊にある大祐神社には犬房丸を祀ります。八戸の根城を領知した南部氏は工藤氏が婿に入って跡を継いだという説もあります。こららの伝説は鎌倉時代中期以降、この地方に、北条得宗領(本家)の御内人(北条家家臣)である工藤氏の所領が多いことから生まれたものであると考えられます。
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犬房坂坂下。
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犬房坂坂上方面。
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おまけ…名川町のマンホール蓋。
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