くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ:遺構・遺跡・痕跡・城址・廃墟・碑等 > 主として城址・館址

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久保田城御隅櫓は市民が選ぶ都市景観賞受賞(平成2年度)。久保田城内には八つの御隅櫓がありましたが、この御隅櫓は本丸北西隅の高台にあり、見張り場と武器庫の役割を担っていた建物で、市制100周年記念事業として、平成元年に建設したものです。展望台から市街が一望できます。
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久保田城御隅櫓…『この御隅櫓はもと城内に八カ所あった櫓の一つで本丸の北西隅、一番高い台地(標高約45メートル)に位置しており、物見や武器の貯蔵庫などに使われたものです。資料と発掘調査に基づき、当時の二階造りを基本としてその上に市街地が一望できる展望室を加えました。市制施行百周年記念事業として二十一世紀にむけての市政の発展を願い、千秋公園の歴史的シンボルとなるよう復原したものです。構造形式:鉄筋コンクリート造り三層、四階建屋根本瓦葺入母屋造り。間口:19.70メートル。奥行き:7.88メートル。高さ:21.85メートル。総床面積:430.37平方メートル。床面積:1階165.83平方メートル、2階185.28平方メートル、3階59.00平方メートル、4階47.26平方メートル。秋田市制百周年記念日、平成元年(1989)7月12日秋田市』
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御隅櫓内部案内図。当記事では一部しか紹介しません。現地で楽しんでください。
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佐竹義堯公銅像。
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初代藩主佐竹義宣。後ろに豊臣秀吉、上杉景勝、石田三成、徳川家康が描かれています。
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歴代藩主。
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清和源氏の流れをくむ名門…『佐竹氏の家系をさかのぼると、平安時代初期の清和天皇にたどりつきます。応和元年(961)清和天皇の孫・経基は源姓を賜わりました。これが清和源氏の始まりで、佐竹氏もこの流れをくんでいます。武士化して関東各地に住みつくようになった源氏は、やがて東国を支配。義光は、永保3年(1083)現在の横手市金沢を舞台におきた後三年の役に、兄を助けるため参戦。この新羅三郎義光こそ、佐竹家の系図で始祖と位置づけられている人です。この佐竹家の始祖がすでに秋田の地に来ていたことは興味深いものです。この義光の孫・昌義が常陸の国(茨城県)佐竹郷に居住し、佐竹氏を名乗りました。』
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清和源氏略系図。
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常陸の佐竹から秋田の佐竹へ…『転封前の佐竹氏は常陸において54万余石の領土を所有し、全国でも有数な勢力をもっていました。しかし、関ヶ原の戦いにおいて大坂方に参画したことなどにより国替えを命ぜられました。慶長7年(1602)、安東秋田氏の居城であった湊城(土崎)に入り、慶長9年(1604)久保田の地(秋田市)に城を築き以来、この城は佐竹氏代々の居城となりました。』
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佐竹氏略系図。
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藩を支えた体制と経済。
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検地絵巻(秋田県照井静教氏蔵)…『義宣は秋田転封の翌年、藩内の石高を調べて年貢徴収の資料をつくり始めました。土地の広さをはかり、だれが生産しているかを調べ、台帳に記入するこの作業は検地と呼ばれています。2代・義隆の時代まで3回の検地がおこなわれ、これにより藩の税制度が確立しました。』
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秋田街道絵巻(秋田市千秋美術館蔵)…『土崎港は、雄物川の河口に開かれた藩内最大の港でした。米どころ仙北平野の米は雄物川を船で下り一度、港の蔵に納められてから諸国の大商人の手を経て、江戸や大坂方面に船で送られました。御蔵町にはその名の通り、大きな蔵が何十棟も軒を連ね、秋田藩の主要港としての貫禄を示していました。』
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秋田杣子造材之画(井坂記念館蔵)。
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羽陰六郡略図(秋田県立図書館蔵)…『この絵図は「出羽七郡絵図」を原図とし、賀藤景琴が写したもので、景琴が藩内の山林を視察するとき用いたといわれています。景琴の父である賀藤景林(1768-1834)は9代・義和の意を受けて文化・文政(1804-1829)の林政改革で活躍、数々の造林保護政策を実行した人でもありました。』
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美林・秋田杉…『古くは豊臣秀吉の京都伏見城改修用材として使われるなど、材質の良さから全国的にその名も有名な秋田杉。藩では鉱山資源とともにこの秋田杉にも着目し、開発に力を入れました。藩初期の家老・渋江政光は藩内の山林を調査し、保護・管理にあたりましたが次のような指摘をしています。「国の宝は山なり、しかれども、きりつくすときは用に立たず、尽きざる以前に備えを立つべし、山の衰えはすなわち国の衰えなり。」藩では資源を保護するため伐採を制限しながら、正徳・寛政・文化期と3回の林政改革を実施し、秋田杉の美林を守り続けました。』
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新田の開発…『当時から秋田の主な商品作物は米。藩の財政を安定させ、常陸から同行した家臣たちに土地を支給するためにも、新田の開発は藩にとって重要な課題でした。「本田の差し障りにならなければ、鍬先しだいでどこまでも開墾してよい。」これは新田開発の許可状の一例ですが、家臣たちはこの許可状をもらっては積極的に新田の開発に取り組みました。原野を切り開き、水路を通して水田をつくる工事には多くの労働力を必要としました。このようにして藩の新田開発は藩政初期から約100年間の間にほぼ為しとげられ、米の生産量も増大しました。』
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参勤交代・大名行列(大名行列模型)…『当時、行列の所要日数は11日から14日。久保田から羽州街道を通り、福島からは奥州街道へと入って江戸へと向かいました。(義宣の時代は山形から笹谷峠を通り奥州街道へ)一行は食料はもちろん、お膳やお椀、寝具までも持参し、その人数は寛永19年(1642)では1350人にもおよんでいます。宿場に着くと藩主と側近は本陣に宿泊し、その他の随行者は付近の旅籠に泊まりました。この参勤交代の定着にともない各街道では道路や宿場の整備が進み、主要街道筋は大いににぎわうようになりました。』
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19.5
鉱山の開発…『藩内には佐竹氏転封以前からいくつかの鉱山が開かれていましたが、それほど盛んではありませんでした。ところが佐竹氏の転封後、秋田の鉱業がたちまち盛んになったのですから"常陸の金銀鉱は地下を通って、すべて秋田へ行ってしまった…"との話が常陸で流されたほどです。初代・義宣の転封直後の慶長11年(1606)に院内銀山が発見され、二代義隆の時代には金山として開かれた阿仁鉱山が有望な銅山として開発されるなど、二大鉱山は藩の財政を支えました。院内銀山、阿仁銅山は藩政末期にはその産出量も衰えましたが、採掘は続けられ、明治政府へと引きつがれました。』
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阿仁鉱山絵図(秋田大学鉱業博物館蔵)…『藩政以前は金山として知られていた阿仁鉱山ですが、寛文10年(1670)、大坂の吹屋(精錬業)兼銅屋である北国屋吉右衛門が銅山として開発、後に藩が経営することになりました。阿仁銅山は、当時、伊予の別子銅山と並ぶ日本屈指の銅山で、18世紀を通じて幕府の御用銅総額の約38パーセントを産出していたといわれています。』
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院内銀山坑内作業図(秋田大学鉱業博物館蔵)…『院内銀山の最盛期は、天保7年(1836)から約10年間で、1ヵ月の産出量は100貫目(375kg)を越える好景気が続きました。当時は戸数4,000戸,人口は15,000人と、城下町久保田をしのぐほどのにぎわいだったといいます。この図は安政3年(1858)のもので、坑内の作業の様子が詳しく描かれています。』
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久保田城模型。
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久保田城のつくりと規模(御城下絵図)…『慶長8年(1603)5月に着工された久保田城は、同9年8月に完成。城のシンボルともいえる天守閣も石垣もないこの城は、ほとんど板塀と土塁で構成されていました。城の規模は、神明山のもっとも高い所を削り凹地とした本丸、東西117m×南北216mのほぼ長方形を呈し、二の丸は本丸の東側の一段低い所で東西70m×南北432mで細長く、本丸・二の丸のまわりに三の丸・北の丸が配されていました。』
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24.5
4F展望室へ。
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25.5
眺望。
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26.4
26.8
平和公園の平和塔が見えました。
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久保田城跡(千秋公園)其之弐』からの続きです。
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報恩碑(明治21戊子年秋八月建立)。藩政時代から明治初期にかけて藩や県から表彰された人々が「おかみ」に感謝するとともに、若い人たちの奮起を期待して建てたもののようです。
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碑文はちょっと読み取りにくい状態。
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船木靱負紀功之碑(大正11年7月)。靱負は「ゆぎえ」と読みます。船木家は佐竹氏の前に秋田を治めた安東氏に仕え、土崎湊代官を務めた家柄。慶長7年(1602)安東氏が常陸穴戸に移った際、靱負は従いませんでした。代わって入部した佐竹氏は現在の千秋公園に築城するとき、靱負を特に普請方支配を命じ、更に久保田肝煎職としました。これにより、靱負は川尻一帯を開発したほか、八橋-寺内を経て土崎港に至る新道を開きました。その子喜兵衛も寛永8年(1631)通町川下より川口まで旭川の堀り替えを担当した工事支配として知られています。碑文…『舩木靱負紀功碑 世有治亂邦有盛衰通邑大都變為黍離麥秀之地荒原窮野化為棟連屋接之區俾人興桑海之感者古今所毎覩也能保其治盛而防其衰糺者固為政者所當務而使為政者克成其功者亦有從事服勞以致之力者也舩木氏世居于出羽秋田其家襲稱日靫負往時秋田氏在土崎城舩木氏仕之専任海備掌其兵舩慶長壬寅秋田氏遷封于常陸茨城當時舩木氏十一世靫負有故不從其歳佐竹侯來封于秋田翌年相地于神明山築新城以為藩府尋營市街闢道路修川流舩木氏以地之舊族從事服勞開府之業皆與有力焉藩屡加賀賜給廩禄特優遇之又為市正兼監運舩舩木氏辭其廩禄唯職俸以自給爾後國家無事舩木氏世守其職幾三百年可謂善處於治盛之世也既而明治戊辰皇政維新百度更張辛未定廢藩置縣制佐竹侯徙于東京藩城廢為墟縣人因建藩祖祠曰秋田神社歳時祭之又設公園為衆庶遊觀之地縣廳兵營及諸廨舎與市街相聨鐵道亦置停車場於是棟連屋接遂不失治盛之觀者固雖昭代縣治之所普及抑亦非曩時相地開府得其所之故哉舩木氏亦承餘慶以保其家可謂不忝祖先也今茲辛丑適當藩祖來封三百年紀縣人因欲設祭典於神社以頌其徳於是追念舩木氏之勞者胥謀欲建碑於神社域内以紀其事其裔孫四郎治屬余以文余及叙其概略為之銘曰 維昔封建 高城深池 市井區畫 經緯有規 誰服其勞 維舩木氏 奉公累世 祖孫濟美 母謂郡縣 城復于隍 公園鐵路 更觀國光 藩祖之祠 士民來謁 勒石其下 芳名不没 正四位子爵佐竹義理篆額 狩野良知撰 農商務次官從四位勲三等田中隆三書』※自信ありません。
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歩兵十七聯隊之碑(十七比島会長尾張三郎謹書)。
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久保田城表門。※本丸側から向かっています。
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久保田城表門は二の丸売店脇の長坂を上がりきった本丸に位置しており、久保田城本丸の正門で、一ノ門とも呼ばれていました。本丸の玄関口として警備上からも重要な地点とされており、南側には門の警備を担当する「御番頭局」、門の下手には侵入者を警戒する「御物頭御番所」を置いて厳重な守りを固めていました。この門は、絵図などの文献資料や発掘調査の成果をもとに、平成11年から2カ年計画で再建したもので、構造は木造2階建て瓦葺きの櫓門で、20万5千8百石の正門にふさわしい壮大なものとなっています。市民が選ぶ都市景観賞を受賞(平成13年度)。
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2層櫓門(1階:四方吹き降ろし屋根・2階:真壁造り入母屋屋根桟瓦葺き)。材料は1階部分が主にケヤキ材(鑑柱、冠木は材齢約250年)。1階部分外側は主にヒバ材。
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1階は桁行き(横)方向:5間(9.10m)、梁行き(奥行き)方向:2.6間(4.80m)。2階は桁行き(横)方向:6間(10.92m)、梁行き(奥行き)方向:3間(5.46m)。高さ41尺1寸(12.46m)。
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久保田城表門…『表門は久保田城本丸の正門で、一ノ門とも呼ばれていた。本丸の玄関口として警備上からも重要な地点とされており、左手には門の警備と管理をする「御番頭局」、門の下手には侵入者を警戒する「御物頭御番所」を置いて厳重な守りを固めていた。久保田城は慶長8年(1603)に築城して翌年に完成し、表門は元和8年(1622)に最初の建て替えが行われている。その後、寛永10年(1633)、安永7年(1778)など何度か火災に見舞われている。この門は、絵図などの文献資料や発掘調査の成果をもとに再建したもので、構造は木造二階建て瓦葺き櫓門であり、佐竹20万石の正門にふさわしい壮大なものとなっている。平成13年3月秋田市』
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秋田御城内御座敷廻絵図(「秋田沿革史大成」付録)。
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御物頭御番所。久保田城内の二ノ門(長坂門)の開閉の管理と城下の警備、火災の消火等を担当していた物頭(足軽の組頭)の詰所。久保田城内に唯一残っている藩政時代の建物。間口10.499m、奥行9.454m、総床面積125.70㎡、総事業費19,551千円(昭和63年3月保存修理)。秋田市指定文化財。
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御物頭御番所前から見た久保田城表門。
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御物頭御番所内。
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御物頭御番所…『御物頭は秋田藩の行政機構の中では番方に属す役職であり、配下の足軽を指揮して二の門(長坂門)の開閉及び城下一帯の警備を担当した。御番所の南側14畳の部屋に物頭が詰めて登城者を監視した。北側には7畳半の休息所や台所・便所があり、中二階には8畳の部屋が配置されている。「国典類抄」などの史料によれば、御物頭御番所は宝暦8年(1758)に焼失したのち再建され、安永7年(1778)以降の火災では類焼を免れたと考えられることから、建築年代は18世紀後半と推定される。久保田城内で旧位置のまま今日まで残っている唯一の建造物である。昭和63年3月、保存修復工事を行い、平成2年に秋田市文化財に指定された。形式:切妻造南庇付、こけら葺屋根。間口:約10.5m(5.5間)。奥行き:約9.5m(5間)。平面積:約100㎡(30坪)。平成13年11月秋田市』
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久保田城跡…『久保田城は秋田20万石佐竹氏の居城である。秋田初代義宣が慶長7年(1602)入部し、翌8年現在地に築城した。天守閣と石垣のない城として知られている。本丸は明治13年(1880)7月の火災で全焼した。同23年公園として開放されその後千秋公園と称し現在に至っている。公園面積162,900平方メートル。平成10年10月秋田市』
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順路としては逆ですが西方(穴門方面)に向っています。
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あきた文化産業施設松下前。
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巨木。
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あきた文化産業施設松下前の坂道。
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松下門跡。
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松下門跡標柱より…『中土橋方面からの二の丸の入り口に位置する。藩政時代、正式な登城路は黒門側であったが、土崎、城下町中央部に近い松下門側も多いに利用された。門の周囲の縄張りは初代義宣自身が手がけた自慢の設計であったと伝えられる。』
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佐竹小路付近に下りてきました。
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この堀の向こう側を上った所に鐘楼(千秋公園時鐘)並びに茶室宣庵(加藤清正が朝鮮から持ち帰ったと伝える長さ約3mの手水鉢)があるようですがパス(※以下案内図参照)。
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時鐘は寛永16年(1639)、2代藩主佐竹義隆が城内二ノ丸の一角に鐘楼を設置したのが始まりとされ、幾度かの改鋳、移転を経て、明治25年(1892)に現在の位置に建設。昭和18年(1943)に太平洋戦争により供出され、同23年「平和の鐘」として復活。しかし、同43年には鐘楼(当時木造)の老朽化等の理由により廃止。現在の鐘は同48年に三たび復活したもので、公募による愛称「千秋の鐘」として、家臣・吉敷家の末裔が今も1日2回(朝7時・夜9時)時鐘を打ち続けているそうです。
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千秋公園の由来…『この公園は、秋田20万石佐竹氏の居城、久保田城の城跡である。久保田城は、慶長7年(1602)常陸から国替となった初代秋田藩主佐竹義宣が翌8年に築城したもので、天守閣と石垣のない城であった。明治23年(1890)城跡を秋田市が佐竹氏から借り受けて公園としたが、明治29年(1896)秋田県に移管され、造園家・長岡安平の設計により整備された。昭和28年(1953)再び秋田市に移管、継続的に整備、管理されてきたが、昭和59年(1984)に、15代佐竹義榮(よしなが)氏の意志により秋田市に寄贈されて、名実ともに市民の公園となった。千秋公園の命名者は、秋田県出身の漢学者・狩野良知で、「千秋」の由来は、秋田の秋に長久の意の千を冠し、長い繁栄を祈ったものと言われている。公園面積16.29ヘクタール。平成15年11月秋田市』
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案内図。現在地は赤丸。地図によりますと東海林太郎胸像・顕彰碑があるようですが、秋田県民会館解体に伴い一時的に移転していたようです。
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穴門の柳。
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旧下中城町標柱…『城内三の丸にある渋江、梅津両氏を主とした重臣の屋敷町で、城の搦手にあたる地区であった。』
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中土橋へ向かいます。
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久保田城跡石碑。
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中土橋門跡から見た大手門の堀。
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大手門の堀標柱。
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中土橋門跡から見た穴門の堀。
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穴門の堀標柱。
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中土橋。
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反対側(穴門堀展望デッキ)から見た穴門の堀。奥に中土橋通り。この場所は本丸に鎮座する八幡秋田神社の雄柳龍神由来にまつわる蛇柳がかつてあった場所かと思われます。
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久保田城跡(千秋公園)』からの続きです。
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まだこの辺りしか見ておりません。
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胡月池。公園を設計した長岡安平が最初に築造した池。石灯籠や噴水が趣を添えます。
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大賀ハス(Ohga lotus(学名:Nelumbo nucifera))…『1951年(昭和26年)、ハス研究家の大賀一郎博士が地元中学生などの協力を得て、千葉市検見川の泥炭層下の青泥層から、約2千年前のハスの種を発掘、発芽に成功しました。この古代ハスは、博士の名にちなみ「大賀ハス」と名付けられました。大賀ハスの花は、一重咲きの大輪で色は淡紅色、花びらにはっきりした条線はなく先端は内向きにややカールし、葉の表面は滑らかです。花の大きさは25cm前後の大型品種で、花の高さは1.5mほどになります。2002年(平成14年)4月26日、大賀ハスの品種保存に力を入れている蓮文化研究会理事長印南洋造氏のご厚意により、蓮根を6株譲り受け、純粋を保つため鉢植えにし、この胡月池で栽培しています。秋田市公園課』
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裏門坂下付近のつつじ。
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6.4
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狩野旭峰翁頌徳碑。本名徳蔵。有名な狩野良知の弟で、漢学者や新聞記者として名声をはせました。碑はその学徳を慕う人たちが建碑したもので、昭和11年10月1日建立、粘板岩(台座安山岩)、高さ約4m。『狩野旭峯先生碑銘 正三位勲三等侯爵佐竹義春題字 先生姓藤原諱良貴狩野氏通稱徳藏旭峯其號考諱良安妣山田氏天保三年二月朔生於羽後大舘少壮立志遊江都入於古賀謹堂藤森弘庵之門又師事於田口江村及余會祖考宕陰力學八年通經史能詩文擢爲秋田藩日知館教授二十六歳歸郷繼舎兄廣居塾明治初下帷於角間川尋移於秋田門徒大進又創設聚珍社經營印刷業發刊遐邇新聞以振木鐸實爲東北新聞界之先十五年爲山形新聞社所聘二十年筮仕於千葉縣止二年辭歸再入於秋田魁新報社従事於秋田縣史之編纂傍應酔醉経學舎及稷如亭之専講演經史竝詩文等盡力於育英多出俊髦先生天資寡言沈黙持己極厳端坐讀書白髯長垂頗有古夫子風大正十四年二月一日病歿享年九十有四葬於天徳寺先塋配小松氏生四男一女李貞吉嗣家光生夙抱勤王之大志戊辰役秋田藩首應官軍奥羽諸藩兵大擧逼境先生兄弟率一隊轉戰於北羽之野有功役憂勤王史蹟之湮滅歴訪戰場或渉獵群籍有戊辰出羽戰史之著辱賜 明治天皇之叡覧其他所述作頗多旭峯詩抄出羽風土記男鹿名勝誌等五十餘種於郷土史研究可謂著先鞭者矣方今國體明徴論盛起郷人追慕不止門人有志胥謀欲建石以傅遺徳於不朽遙徴余文惟余家與狩野氏有舊診且美郷人之擧乃不辭不文仍而叙其梗曁如此銘曰 峩峩旭峯 洋洋貢水 江山秀靈 産維佳士 著述等身 研經修史 貞珉勒石 流芳千祀 昭和十一年十月一日東京帝國大學教授文學博士鹽谷温撰 姪狩野亨吉書 三浦龜朋刻』※適当です。自信ありません。
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保存樹(馬場のもみ)。
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百日紅(常陸太田市姉妹都市記念)。
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秋田市児童動物園跡。昭和25年開園。動物園は昭和47年に移転し、昭和48年9月に秋田市大森山動物園となります。
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大森山動物園ってここにあったんですね。
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彌高神社については別記事にしております。彌高神社周辺には馬場跡、金蔵跡、不浄門跡、厩跡などがあります。
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フレンチレストラン千秋亭。
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久保田城御隅櫓へ向かいます。久保田城御隅櫓については別記事にしております。
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多門長屋跡。
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17.5
秩父宮殿下御手植之松。
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埋門跡。
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標柱より…『埋門は本丸の背面(西側)に設けられ、土手を切って出入口とし、その上に多門長屋を渡した一種の隠し門である。門は西曲輪の兵具蔵に通じており、攻撃や防御また緊急避難的な役割をはたしていたと考えられる。』
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御本丸跡。佐竹義堯公之像(衣冠束帯立像)があります。第12代秋田藩主佐竹義堯(よしたか)(文政8年(1825)-明治17年(1884))は、近代秋田を築いた最後の藩主であり、戊辰戦争では新政府方に属して戦いました。明治維新の激動期を生きた象徴的な人物です。
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久保田藩主佐竹氏の居城として知られ、矢留城、葛根城とも呼ばれています。雄物川の支流である旭川の左岸、程野村窪田にある神明山(標高40m)に築かれた平山城。石垣は基底部に僅かにあるのみでその上に土塁を盛られており(鉢巻土手)、天守も持たず塁上に「出し御書院」または「御出書院」と呼ばれる櫓座敷を建ててその代わりとし、他に8棟の櫓を建て並べていました。石垣が無いのは幕府に遠慮したためとも言われますが、佐竹氏の旧領常陸国を含む東国では元々石垣を用いない築城法が一般的であり、石垣作りに精通した者が家中にいなかったという説もあります(但し、後に江戸城の修築を命じられた際、佐竹氏は石垣の普請も担当)。山川沼沢を巧みに利用し防御を図っており、水堀や円郭式城郭など西国の様式も採り入れています。なお、天守については、寛永10年(1633)の火災以前には御三階櫓があったという説がありますが、この時期の城内を描いた絵図などは残されていないため確証は得られていません。
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明治13年の大火では城内の建造物を悉く焼失しており、市街再建の過程で堀の多くも埋め立てられ、城下の中通を中心に秋田県初期の官庁街へと変貌しました。現在、久保田城本丸・二の丸一帯は千秋公園となっており、三の丸には秋田県民会館や秋田市立中央図書館明徳館、平野政吉美術館、秋田県立脳血管研究センターなどが整備されています。秋田県知事公舎は三の丸御殿の跡地に建てられています。大火を逃れ、かつ解体も移築もされなかった御物頭御番所は現存しており、本丸新兵具隅櫓(御隅櫓)、本丸表門が再建されています。移築された建造物としては、焼失を免れた裏門が、楼門から平屋へと改修を受けた上で旭北寺町の鱗勝院に現存。
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神明山の最高所を均して本丸とし、ここに藩主の居館である本丸御殿と政務所を置きました。周囲を多聞長屋と板塀で取り囲み、表門・裏門・帯曲輪門・埋門・切戸口という5箇所の出入口を設けました。表門は一ノ門ともいい、そこから二の丸へ通じる手前に長坂門(二ノ門)がありました。南西隅で岬のように突出した最高所の土地を「出し」と呼び、「出し御書院」「御出書院」という櫓座敷を設けました。本丸東側の一段低い土地を二の丸とし、勘定所・境目方役所・祈祷所安楽院・時鐘・金蔵・厩などを置いています。外部からの出入りは全て二の丸に集まるようになっており、松下門・黒門・厩門(不浄門)・土門(北御門)という4箇所の出入口を設けていました。それぞれ下中城、上中城、山ノ手、八幡山に通じます。現在は松下門跡が千秋公園正面入口となっていますが、藩政期の正式な登城の道は黒門を経由するものでした。
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二の丸の北・東・南を取り囲むように三の丸があり重臣屋敷を置きました。東部を上中城、南部を下中城、北東部を山ノ手(手形上町)といいます。山ノ手の西(本丸の北西)にある八幡山も三の丸に含まれますが、ここには重臣屋敷ではなく正八幡社(小八幡社)・稲荷社・別当寺金乗院を置きました。八幡山の更に北側には北の丸があり、大木屋(おごや、木材加工所)と籾蔵を置いています。また、本丸西側で内外堀に挟まれ島状になった西曲輪(捨曲輪)には兵具蔵を置きました。本丸・二の丸を内堀で囲み(西兵具蔵前堀・南堀・東堀・北堀)、三の丸を外堀で囲んでいます(八幡宮後堀・西兵具蔵外堀・東外堀・南外堀)。その他も北の丸の周囲(北の丸下堀・北の丸下北の方堀)、中通廓と亀の町廓・長野下の間(大堀)、亀の町廓と築地の間(上堀)、亀の町廓と楢山の間(下堀)などに堀を設けました。堀の多くは旭川の旧河道であり、現在ではほとんど埋め立てられており、現存するのは南堀の一部、東堀の一部、西兵具蔵外堀の一部(穴門堀)、南外堀の一部(大手門堀)のみです。城の直接的な機能を持つ本丸・二の丸・北の丸・西曲輪を総じて「一の廓」、重臣屋敷が設けられた三の丸を「二の廓」、同じく重臣・高禄の家臣の屋敷町となった中通を「三の廓」、それに続く亀の町を「四の廓」と呼び、土手・堀を持たないその他の侍町を「外廓」と呼んでいました(但し時期によって変遷あり)。一門や重臣の屋敷を丸の内から広小路や長野町・古川堀反町など本丸に近い町に配置し、楢山や保戸野など離れたところには主に小録の家臣を配置(但し門の近くなど重要な場所には重臣を置きました)。侍町を総じて「内町」と称しました。町人町は外町と呼ばれ、城の西側に旭川を挟んで配置。内町は防衛のため屈曲・食い違いの多い道路線形になっていますが、外町は交通の利便のため碁盤の目状に区画されています。外町の更に西側へ寺院を集中的に設置。
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以下、歴史・沿革。
【江戸時代以前】
神明山には安東氏(秋田氏)配下の三浦氏(川尻氏)が所在し、氏神として総社大明神・神明宮・別宮攝末社を奉っていました。三浦氏の城は「鎗留ノ城」「矢留ノ城」と呼ばれ、久保田城の別名の由来となっています。また、神明山の名も神明宮に由来。更に古くは大嶽山・小嶽山・光明山の3つの頂がある様から三森山、又は三嶽山と呼ばれていました。
【江戸時代】
・慶長7年(1602)9月17日、久保田藩初代藩主である佐竹義宣、秋田氏の居城であった湊城に入城。湊城は平城で防衛に向かないうえ、54万石規模の家臣団を抱えていた佐竹氏にとって秋田氏5万石(ほか蔵入地2万5000石)の城は手狭であり、これが久保田城築城の理由となりました。
・慶長8年(1603)5月、梶原政景と渋江政光を普請奉行とし神明山に新城を築城開始。同時に城下町と徳川家康が推進していた主要道を整備。三森山神社は川尻村下浜(現在の楢山川口境)へ遷座しましたが、低湿地のため神地には不向きであり、元禄7年(1694)に川尻村上野岱へ再度遷座し、宝永4年(1707)9月6日に社殿造営し本遷宮。明治45年(1912)に3社を合祀し総社神社となります。
・慶長9年(1604)8月28日、窪田城本丸竣工。湊城を破却し窪田城を本城と定めます。また、年内に他の藩へ通じる主要道が完成。
・慶長12年(1607)内町の町割(第一期)が開始。三の丸と中通廓が新設。外町の町割もこの頃開始されたと見られます。
・元和5年(1619)内町の町割(第二期)が開始。中通廓が割直しされ亀ノ町廓が新設。
・寛永6年(1629)内町の町割(第三期)が開始。楢山・保戸野・手形・川口の侍町が新設。
・寛永8年(1631)鍛冶町と馬口労町を結ぶ道を新設し、大町筋を通町から馬口労町まで貫通。街道(羽州街道)を茶町筋から大町筋へ変更。
・寛永9年(1632)久保田城下大洪水により町内浸水。
・寛永10年(1633)9月21日、本丸全焼。二代藩主義隆(義宣は同年江戸で没)は三ノ丸下中城の渋江内膳邸を仮殿とします。寛永12年12月15日修築。
・寛永16年(1639)久保田城西南曲輪の先に鐘楼を設置し時鐘を鳴らします。
・正保4年(1647)この年に描かれた「出羽一国絵図」に初めて「久保田城」と表記。「窪田城」から「久保田城」への改称時期は寛永10年から正保2年にかけてであると推測。
・慶安3年(1650)久保田大火にて2000軒焼失。
・明暦元年(1655)はじめて土崎湊から東廻り廻船を江戸へ出します。
・寛文4年(1664)はじめて領地判物(20万5800石)を与えられます。
・寛文11年(1671)楢山愛宕下を町割。
・寛文12年(1672)久保田城西穴門脇に寄合評定所新設。三代藩主義処になります。
・延宝元年(1673)築地・長野下を町割。
・延宝2年(1674)久保田大火。焼失町数31町、家数1966軒。
・元禄12年(1699)手形東新町・手形西新町を町割。これ以降幕末まで城下町に大きな変化はなし。
・元禄16年(1703)三代藩主義処が江戸からの帰途、横手城で没。四代藩主義格。
・正徳5年(1715)藩主義格没(22歳)。五代藩主義峯。
・享保15年(1730)久保田大火で1110軒焼失。
・寛延2年(1749)藩主義峯没。六代藩主義真。
・宝暦3年(1753)藩主義真没。七代藩主義明。
・宝暦7年(1757)銀札事件(秋田騒動)。久保田町大火で1288軒焼失。
・宝暦8年(1758)藩主義明没(36歳)。八代藩主義敦。
・安永5年(1776)4月2日、本町六丁目から出火し、穴門・西矢倉門(松下門)・東矢倉門(長坂門)・表門・本丸御殿・出し御書院まで延焼。
・安永7年(1778)閏7月10日、本丸全焼。藩主義敦は三ノ丸下中城の渋江敦光邸を仮殿とします。
・天明元年(1781)5月24日、本丸御殿を修築。
・天明5年(1785)藩主義敦没(38歳)。九代藩主義和。
・天明8年(1788)12月24日、焼失していた御用局(吟味役所)復旧の記録あり。
・天明年間、表門付近で出火。
・寛政9年(1797)5月10日、本丸北方で出火し、北方多門長屋1棟49間、北方櫓1ヶ所(帯曲輪門上御隅櫓)、西方多門長屋1棟12間、西方櫓1ヶ所(新兵具御隅櫓)、北西方塀25間を焼失。
・文化元年(1804)鳥海山地震にて象潟隆起。
・文化12年(1815)藩主義和没(41歳)。十代藩主義厚。
・弘化3年(1846)藩主義厚没(35歳)。十一代藩主義睦。
・嘉永2年(1849)久保田町大火で内町2500軒、外町2000軒焼失。
・安政元年(1854)土崎湊に西洋流砲台を築いて海岸防備強化。
・安政4年(1857)藩主義睦没(19歳)。十二代藩主義堯。
【近代】
・明治元年(1868)戊辰戦争。久保田藩は新政府軍を支持したため庄内藩・盛岡藩から攻撃を受け、領内の大半が戦場となり、特に庄内藩には城下12kmの椿台まで迫られましたが、仙台藩・米沢藩の降伏を受けて庄内藩が撤退したため、久保田城は戦禍を免れます。
・明治2年(1869)7月25日、版籍奉還。佐竹義堯は知藩事任命。城地は兵部省(後に陸軍省)の管轄となります。
・明治3年(1870)2月7日、藩庁を三ノ丸下中城の渋江内膳邸へ移します。同年、三ノ丸上中城に藩知事義尭の官邸を移します。
・明治4年(1871)3月3日、久保田藩を秋田藩、久保田城下町を秋田町と改称。8月29日廃藩置県。
・明治5年(1872)4月20日、本丸に秋田県庁を開庁。11月12日秋田県庁が東根小屋町の旧明徳館へ移転。
・明治6年(1873)1月14日、全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方により存城処分。
・明治13年(1880)7月21日、大火により城内の建物がほぼ全焼。
・明治19年(1886)、4月30日の俵屋火事で焼失した寺町鱗勝院の山門として裏門が払い下げられます。
・明治23年(1890)、陸軍省から佐竹氏に城跡が払い下げられます。
【現代】
・平成元年(1989)、本丸新兵具隅櫓(御隅櫓)を復元。
・平成13年(2001)本丸表門を復元。
・平成16年(2004)秋田市建都四百年記念祭が挙行。
・成18年(2006)4月6日、日本100名城(9番)に選定。
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佐竹義堯銅像台座。
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27.5
久保田城本丸跡…『久保田城が築かれた神明山は、3つの高地からなる標高約40メートル程の起伏のある台地で、別名三森山とも呼ばれていた。築城は慶長8年(1603)5月から着工され、翌9年8月に完成した。本丸は、最も高い所を削平や土盛をし、平らにして造られた。東西65間(約117メートル)、南北120間(約215メートル)のほぼ長方形を呈し、周囲には高さ4-6間半(約7.3メートル-11.8メートル)の土塁を構築している。本丸の建造物には、表門から入った正面に玄関が置かれ、政庁である政務所が設けられており、池を配した中央部には藩主の住居である本丸御殿があった。また、土塁の上を多聞長屋と板塀で囲み、要所には隅櫓を置き、北西隅には兵具庫を兼ねた御隅櫓を設けた。西南隅の土塁上には櫓座敷と呼ばれた書院風二階建ての「御出し書院」が造られた。出入口は周囲に表門(一ノ門)、裏門、埋門、帯曲輪門の四門に、御隅櫓に通じる切戸口があった。』
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殉職消防組員招魂碑(昭和3年7月27日建立)。碑、台石とも白御影石で高さ約5m。
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なお、この付近は御白州跡のようですがその痕跡はありません。お白洲は江戸時代の奉行所など訴訟機関における法廷が置かれた場所で、砂利敷に敷かれた砂利の色に由来します。砂利敷に敷かれた莚に原告・被告らが座りました。大岡越前や遠山の金さんのお白洲を思い浮かべればわかりやすいかと。
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本丸跡には八幡秋田神社と與次郎稲荷神社が鎮座しておりますが、いずれも別記事にしております。
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長くなりましたので『久保田城跡(千秋公園)其之参』へ続く。
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