くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ:遺構・遺跡・痕跡・城址・廃墟・碑等 > 主として城址・館址

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宮城県石巻市日和が丘2丁目。市内中心部の旧北上川河口に位置する丘陵地。日和山の頂上部には平安時代に遡る歴史を持つ旧門脇村(現石巻市門脇)鎮守鹿島御児神社が鎮座。鎌倉時代に源頼朝の家人であった葛西清重が奥州合戦の恩賞として牡鹿郡を始めとする近隣の数カ所を受領し、日和山に石巻城を築いたとされます。葛西氏とその所領は天正18年(1590)に羽柴秀吉に滅ぼされるまで維持されました。江戸時代に書かれた地誌によれりますと、山の名は石巻から商船が出航する前に、この山に登って天候を観察したことから名付けられたといいます。元禄2年5月10日には松尾芭蕉が訪れており、同行の弟子河合曾良が眺望を日記に記しました(おくのほそ道)。
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現在は日和山公園として整備されています。日和山から日和大橋越しに見る旧北上川河口と太平洋、また、旧北上川の中洲であり、内海五郎兵衛が私財を投じて内海橋を架けた中瀬の見える風景は、そのまま石巻の成り立ちと市民のアイデンティティを示すものです。桜とツツジの名所ともされ、山上に芭蕉と曽良の像があります。昭和58年に行われた発掘調査により、石巻城の遺構であると思われる大規模な城郭があったことが確認されました。平成23年3月11日の東日本大震災では、多くの市民が山に登って津波から避難しましたが、眼下の石巻漁港や市街地は広範囲に被害を受けました。
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石巻観光協会HPでは日和山公園について次のように紹介しています。『全国には約80カ所の日和山があり、江戸時代千石船の出航の日和を見る場所や航路目標の重要な山だったと考えられています。石巻の日和山東南の中腹に「マネキ」(航路を指示する場所)という通称名があったことからも、江戸時代に栄えた船運と深い関わりがあると推測されます。この日和山は高さ56mの北上川河口に位置する洪積段丘の孤立丘で、武神を祭る牡鹿十座の一つ鹿嶋御児神社(窪木家・旧県社)がその頂上に建立され、元来は5月15日が祭礼の日となっています。社伝によれば、宝亀11年(780)12月陸奥鎮守副将軍・百王俊哲の奏上が鎮座の起源と伝えられ、中世には奥州総奉行葛西氏の城「石巻城」があったと考えられています。文禄2年(1593)政宗朝鮮出兵の際、水軍指揮の功績のあった阿部十郎兵衛土佐の奉納した軍配団扇が現在でも同社に残されています。元禄2年(1689)には松尾芭蕉と曽良が訪れ、石巻の繁栄ぶりに驚かされた様子が「奥の細道」からも読み取ることができます。江戸時代から桜の名所として知られ、小野寺鳳谷(1810-1866)による「仙臺石巻湊眺望之全圖」にも石巻の繁栄ぶりが、パノラマ風に描かれています。大正初期に公園整備され、桜の他つつじで彩られる憩の場として今日に至っています。吉田松陰・志賀直哉、井伏鱒二、廣津和郎、宇野浩二等も眺望を楽しみ、芭蕉、保原花好、石川啄木、宮澤賢治、斎藤茂吉、種田山頭火、釈迢空、新田次郎、山形敞一等、多数の文学碑や、川村孫兵衛、芭蕉曽良像等の像が建てられています。』
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案内図です。見晴らしポイントとして日和大橋方面、旧北上川方面、石ノ森萬画館方面が紹介されています。
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5.4
5.8
斎藤茂吉句碑(昭和63年12月6日)「わたつみに北上川の入るさまのゆたけきを見てわが飽かなくに」茂吉。昭和6年に亡き父の墓石を探すために妻と来石。石巻を題材とした和歌11首を残しています。
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斎藤茂吉…『「わたつみに北上川の入るさまのゆたけきを見てわが飽かなくに」斎藤茂吉、明治15年山形県金瓶村(現上山市)に生まれる。38年斎藤紀一の養子となり、東京帝大医学科を卒業、昭和2年帝国脳病院長となる。歌集、歌論の著書多数、昭和12年帝国芸術院会員となる。「柿本人麿」の研究に対し15年帝国学士院賞、26年文化勲章受賞、石巻には昭和6年11月1度のみの来遊でその折の作品11首中の一首である。』
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芭蕉曽良像。
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台座「おくのほそ道紀行三百年記念」(題字石巻市長平塚真治郎書)…『平和泉と心ざし、(中略)…石の巻といふ湊に出。こがね花咲とよみて奉たる金花山海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて竃の煙立つゞけたり。-おくの細道-』・『元禄二年(1689)6月26日(旧5月10日)芭蕉が曽良を伴って千石町(旧新田町)四兵衛宅(現石巻グランドホテル)に宿して居る。俳聖芭蕉と曽良の師弟愛を顕彰し記念とする。昭和63年6月26日石巻観光協会々長鈴木義三。銅像製作:日展彫塑家田畑功。※他寄附者名等は省略』
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猫。
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くじらがいました。
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なるほど…
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君たちの狙いはこれかっ!
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チリ地震津波碑(1961年5月石巻ロータリークラブ・石巻東ロータリークラブ)…『ほら こんなに まるで慈母のように穏やかな海も ひと度荒れ狂うと 恐ろしい残忍な形相となる 海難・津波・海難とこゝ三陸一帯に 無常な海の惨禍が絶えることかない 1960年5月24日のチリ地震津波 此の日におくられた 東京都内をはじめ はるばる海外からのロータリアンのあたゝかい御芳志と 近海捕鯨の御厚意により こゝに「四つのテスト」の碑を建立し配するに鯨の噴水をもってする 襟をただし はるかなる海底にねむる 万霊の冥福を祈るとゝもに 常に心しよう 海難はまたやってくることを』。
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四つのテスト。
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宮沢賢治詩碑「われらひとしく丘にたち 青ぐろくしてぶちうてる あやしきもののひろがりを 東はてなくのぞみけり そは巨いなる鹽の水 海とはおのもさとれども 傳へてききしそのものと あまりにたがふここちして ただうつつなるうすれ日に そのわだつみの潮騒の うろこの國の波がしら きほひ寄するをのぞみゐたりき」
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宮沢賢治(作品省略)…『宮沢賢治、明治29年岩手県花巻町(現花巻市)に生まれる。大正3年盛岡中学校卒業、大正6年盛岡髙等農林学校農学科(現岩手大学農芸化学科)卒業。詩人、童話作家、農業科学、鉱物研究者。童話では「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」。詩「雨ニモマケズ」は代表作。賢治が明治45年5月27日中学校4年の修学旅行に北上川を川蒸気で下り、石巻の日和山から生まれて初めて海を見て強い感動をうけ、その折の印象を詠んだものである。』
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東日本大震災記念碑「友愛」…『平成23年3月11日午後2時46分に発生した東北地方太平洋沖地震による大津波は、我が国の観測史上例のない大災害となり、多くの市民の尊い生命と財産が奪い去られ本市は最大の被災地となった。私たちは、全国の仲間の力強い友愛と支援の輪に支えられ、「がんばろう!石巻・支え合う友愛・絆」を合言葉に、老人クラブの火を消さないよう再建と復興に努めてきた。この震災を教訓に、命の大切さ、人と人の絆、故郷を思いやる心を次世代に伝えていかなければならない。犠牲者の鎮魂と友愛の心を誓うとともに、震災の悲劇を風化させることのないよう記念碑を建立するものである。平成27年3月石巻市老人クラブ連合会』
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春峯齋先生碑。碑文「齋一良先生墓誌銘」。内容は省略。
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史蹟石巻城趾(山内習謹書)。
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鶯蛙蛙会・百吟会句碑。
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「奥の細道 日和山」碑。
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内海安吉先生之像。詳しく知りたい方はwikipediaでどうぞ。
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石巻城跡。
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石巻城跡…『文治5年(1189)の奥州合戦の恩賞として、源頼朝の家人葛西清重は、牡鹿郡ほか数か所の所領を給付されました。以後、天正18年(1590)に豊臣秀吉によって滅ばされるまで約400年の間、牡鹿郡は葛西氏の重要な所領であり、なかでも石巻に日和山は、その居城があったところという伝承が残っています。しかし葛西氏の奥州における所領支配の実態は明らかでなく、その居城についてもはっきりしたことはわかりませんでしたが、昭和58年(1983)の発掘調査によって、ここ日和山に大規模な中世城館があったことが確認されました。この城跡が、葛西氏にかかわる有力な城館であることは間違いなく、石巻市のシンボル的な城跡、(「石巻城跡」)として長く保存することとなりました。この「石巻城跡」地内で土木工事や住宅建設等を行いたいときは、60日以前に石巻教育委員会へ相談してください。平成2年3月石巻市教育委員会』
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招魂碑(大正11年5月10日)。日が落ちてきたので内容は省略。
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日和山…『日和山は標高60.4メートル。山上に延喜式内社である鹿島御児神社が鎮座し、中世には葛西氏が城館を構えていたと伝えられ、平成9・10年の発掘調査では、拝殿の北側から空堀の跡などが見つかりました。眼下に見える北上川の河口は、江戸時代には仙台藩の買米制度によって集められた米の積出し港として、千石船の出入でにぎわいました。日和山は出航に都合のよい風向きや潮の流れなど、「日和」を見る場所であることから、その名が付いたと考えられています。元禄2年(1689年)、松尾芭蕉と曽良が石巻を訪れた時の「曽良旅日記」には「日和山と云へ上ル 石ノ巻中不残見ゆル奥ノ海(今ワタノハト云)遠嶋尾駮ノ牧山眼前也 真野萱原も少見ゆル」と日和山からの眺望が記されています。また、「奥の細道」には「…石の巻といふ湊に出ス こかね花咲とよみて奉りたる金花山海上に見渡シ 数百の廻船入江につとひ 人家地をあらそひて竈のけふり立つゝけたり」と表現されています。「こかね花咲」とは、万葉集巻第十八にある大伴家持の「天皇の御代栄えむと東なる 陸奥山に金花咲く」の歌をふまえています。天平産金地は、涌谷町の式内社黄金山神社の御神体として崇められた、黄金山を中心とした地域であったのですが、芭蕉の頃には金華山が産金地であると考えられていました。鹿島御児神社の鳥居をくぐり、拝殿に向かう階段を上った右側に、延享5年(1748年)に雲裡房の門人である棠雨を中心として建立された「雲折ゝ人を休める月見かな」という芭蕉の句碑があります。また、日和山には石川啄木、宮沢賢治、志賀直哉、斎藤茂吉、種田山頭火、釈迢空(折口信夫)などの文人が訪れており、日和山公園には多くの歌碑や句碑などが建立されています。』
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鹿島御児神社の鳥居へ。
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大鳥居のある公園南側からは太平洋、北側からは雄大な北上川の流れが一望できます。眼下に流れる旧北上川の河口からは広く太平洋が広がり、天気が良い日は、牡鹿半島の他、遠く松島や蔵王の山々などを見ることができます。
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門脇、南浜…『江戸時代、目の前には白砂青松美しい海岸が広がっていました。明治時代以後、農地の開墾が進み、昭和になり、北上川西岸に工業港が整備されると、パルプ工場をはじめとする多くの工場が立地し、門脇、南浜地区は急速に市街化が進み、石巻市立病院、石巻文化センター、そして、約3000軒を超える人家が立ち並ぶ街として発展しました。しかし、東日本大震災の大津波はこれらの家々を全て押し流し、同時に発生した津波火災が街を焼き尽くしました。この地域は、災害危険区域として居住できない地域となりました。現在、東日本大震災で亡くなった多くの方々の慰霊の場、震災を伝える場、感謝を発信する場として、国の祈念公園を整備することが決定しています。』
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石巻港。1997年(平成9年)撮影。
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日和山と人家が立ち並ぶ街並み。2009年(平成21年)撮影。
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日和山…『日和山は、松尾芭蕉、石川啄木、宮沢賢治など多くの文人墨客が訪れた、石巻のシンボルです。目の前には広く太平洋が広がり、牡鹿半島、遠くには蔵王連峰、そして時には相馬地方の山並みまで見ることができます。そして春には桜、ツツジの名所として多くの市民が訪れる憩いの場所でもあります。標高約56mの小高い山は、2011年3月11日の東日本大震災時、数えきれない人が避難した命の山となりました。そして避難してきた人々は、降りしきる雪の中、信じられない光景を目にします。高さ6mを超える大津波が目の前の街並みや車を押し流し、同時に発生した津波火災によって燃え上がる街の景色です。人々は、絶望感とともに家族、友人の無事を祈りながら夜を明かしたのです。』
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2011年3月11日15時26分日和山公園。津波の様子を見る人たち。(写真提供:㈱石巻日日新聞社)
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津波による浸水深の状況。※浸水深は平成23年6月までの現地踏査結果による。
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松尾芭蕉句碑へ。
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松尾芭蕉句碑は鹿島御児神社の鳥居の先にあります。
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松尾芭蕉句碑…『「雲折〱人を休める月見かな」大意…(月見をしていると月に見とれてしまい、我を忘れるが、ときどき月が雲に隠れたときに一息つくことができる。)松尾芭蕉(1644-1694)の句で、西行の歌「なかなかに時々雲のかかるこそ月をもてなすかざりなりけり」を踏まえて作られ、句集「春の日」・「続虚栗(ぞくみなしぐり)」等に収められている。1685年(貞享2)、芭蕉42歳の句であると推定されている。芭蕉の墓は義仲寺(ぎちゅうじ・滋賀県大津市)にあるが、義仲寺に詣でることができない蕉門の俳人等が各地に芭蕉の供養碑を建立した。この碑もそのひとつとして芭蕉が訪れた日和山に建てられたものと推定される。芭蕉の供養碑を収録した「諸国翁墳記」には「月見塚」として掲載されている。碑の上部中心に「芭蕉翁」、その下に三行分かち書きで句が刻まれている。碑文によれば、1748年(延享5)3月に雲裡坊(うんりぼう)門人等により建立された碑である。雲裡坊は、尾張出身の俳人で、蕉門十哲の一人各務支考(かがみしこう)の弟子である。1741年ごろ仙台に招かれ滞在し門人を養成していた。その後、1743年には、義仲寺の無名庵五世となっている。』
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その他、日和山公園内の門馬重作翁之像、種田山頭火句碑、筆塚碑、川村孫兵衛像、石巻開港記念碑、保原花好句碑、釈迢空歌碑、石川啄木歌碑、新田次郎歌碑、フランク安田顕彰碑など色々と紹介したかったのですがタイムアップ。
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文学の散歩道案内図。
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最後に撮った桜の碑「花心有情」という碑ですが、急に暗くなってしまい読み取れませんでした。「南風に乗って海鳴が聞こえてくる 春霞が立ちこめ日和が丘は 桜の花で彩られ 喜びに溢れている 私達に先輩たちの心を引きつがせるかのように 日和が丘はそよ風もかるい 喜びを育てよう」だと思いますが自信なし。
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ってことで、以上日和山公園でした。なお、鹿島御児神社については別記事にしております。
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盛岡城跡 ~其之弐』からの続き。
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御台所跡方面に下りて、毘沙門堂跡を通り、帯曲輪(中津川)方面へ。
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鶴ケ池に架かる橋。
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橋上から見た鶴ケ池。
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5.5
鶴ケ池に沿って帯曲輪の鉛蔵方面へ。
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この付近はホタルの生息地のようです。
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盛岡城跡公園ホタルの里…『この「ホタルの里」は昭和54年ホタルの減少が目立つようになったことから「盛岡でも昔のようにホタルが見られるようにしよう」と整備したものです。ホタルは水質・水温・カワニナ貝・クレソンなど生態系の微妙なバランスの上に生息しています。ホタルの生息は、その場所の自然が豊かであることの証しです。例年、6月下旬から7月中旬までの短期間、小川の周りを飛び回ります。ホタルを皆で見られるよう、捕まえたりせず大切にしましょう。●ホタル生息地…この池から流れる小川には「ヘイケボタル」と「ゲンジボタル」が住んでいます。ヘイケボタルは体長7-10mm、雄雌の大きさはほぼ同じでチカチカと瞬くような光を放ち明滅します。ゲンジボタルは体長15-18mm、雌の方が大きくピカーピカーとゆっくり大きな光を放ち明滅します。ホタルが現れるのはゲンジボタルの方が早く6月下旬から7月上旬にかけてヘイケボタルは7月上旬から中旬にかけて日暮れどきの7時頃-9時頃、曇って風の吹かない蒸し暑い夜に多く見られます。盛岡ホタルを守る市民の会』
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案内板を見ると「残念石」という文字が見えます。
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気になるので向かってみます。
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毘沙門橋付近にあるようですが特別変わった石は無く…
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この石?
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後から調べたら、この付近は石切り場で、残念石は矢穴が開いた石ですが、結局石垣としては使用されずにそこに残されたままの石のことらしいです。
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説明がなかったので何のことか全くわかりませんでした。矢穴が開いた石よりもこっちの雨宿りできそうな石の方が珍しいと思ってしまうじゃないかー!残念!
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おかげさまで無駄に石の写真撮ってます。
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鍛冶屋門跡方面・淡路丸石垣。
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中津川沿い。遊歩道があります。
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17.4
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毘沙門橋。
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18.4
18.8
下ノ橋を渡った先に新渡戸稲造生誕の地がありますね。行きませんが。
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19.5
芝生広場へ向います。
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芝生広場。侍屋敷跡です。
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21.4
21.6
21.8
案内地図。
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この付近です。
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宮澤賢治「岩手公園」碑。
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24.4
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宮澤賢治「岩手公園」碑案内板より…『宮澤賢治(1896-1933年)は、岩手県花巻の地に生まれた。その生涯は、熱烈な法華経信仰に生き、詩人・童話作家・科学者・農民指導者として、21世紀を予見し秀れた作品を今日へと託し、37歳若さで世を去った。文語詩「岩手公園」は、死期迫る1ヶ月前の、昭和8年(1933年)8月22日に病床で清書し終わった、「文語詩稿一百篇」中の一詩である。作中の「タッピング」は、明治41年(1908年)から大正9年(1920年)まで、盛岡バプティスト教会牧師だった、米国人ヘンリー・タッピングがモデルである。「ミセスタッピング」は、夫人のG・F・タッピングで、教会附属の盛岡幼稚園を創立した。「大学生のタッピング」は息子のウィラード・タッピングで、「なが姉」はヘレン・タッピングである。賢治は、盛岡高等農林学校の1年の時、親友を誘ってタッピング師の聖書講座を聴講している。散策中に出会った賢治の印象深い感懐が、美しい街の風景と重なり、詩品高い文語詩となった。この碑は、「賢治の詩碑を岩手公園に建てる会」によって、昭和45年(1970年)10月21日に除幕された。』
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教育記念像。
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教育記念像台座碑文…『昭和17年、水泳訓練中に溺れている児童を救い殉職された下閉伊郡豊間根村立国民学校小国テル子訓導の事績を讃えるため、岩手女子師範学校に顕彰碑が建立されたが、昭和23年同校の火災で損壊した。昭和30年、岩手県教職員組合が堀江赳氏に依頼し、教育の尊さを平和の象徴として岩手公園梅林内に教育記念像を設置し、その際台座に顕彰碑の残片を埋め込みその精神を継承した。以来38年、損傷が著しく、このたび県内の教育関係者のご協力を賜り、佐藤祐司氏によって修復復元され、この地に移転されたものである。平成5年9月26日教育記念像復元事業実施委員会』
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瀬川正三郎胸像。
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瀬川正三郎胸像台座碑文…『明治23年2月14日-昭和47年12月15日(1890-1972)。岩手県柔道界の指導者(講道館柔道八段)。盛岡中学(現在の盛岡第一高等学校)の柔道教師の後、柔道整復師として整骨院を開業。治療に当たっては、困っている人や小学生、中学生からはお金を取らなかったことでも知られている。「サンコさん」の愛称で親しまれ盛岡の地方自治、スポーツ振興に尽力した。盛岡市警防団団長、盛岡市消防団団長、岩手県消防協会会長、盛岡市体育協会会長、岩手県スポーツ振興審議会会長並びに盛岡市スポーツ振興審議会会長などの公職を歴任。昭和33年市勢振興功労者表彰、昭和37年藍綬褒章を受賞、昭和40年勲五等双光旭日章を叙勲。』
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再び毘沙門堂跡方面へ。
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30.5
毘沙門清水。
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鶴ケ池に沿って台所門跡前を通り、「もりおか歴史文化館」へ向かいました。
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案内板「盛岡城跡公園(岩手公園)開園百年」より…『岩手公園は盛岡市民・観光客をはじめ多くの皆様に愛され憩いの場となっております。県都・盛岡市の中心に位置しながら喧噪を忘れて雄大な石垣を仰ぎ、歴史散策と四季折々の自然が楽しめる場所です。明治39年(1906)に開園され、その式典は各界各層から集まり盛大に行われ、終日賑わったと伝えられています。公園となる前は、盛岡城として(慶長2年・1597年に築城が始まります)藩政時代の象徴であり、その威容は武士をはじめ領民にとりましても心のよりどころでありました。明治7年(1874)残念ではありますが、お城の建物は解体され、その後市民の憩いの場として生まれかわり、石川啄木・宮澤賢治をはじめ多くの人々に愛され続けて開園百年を迎えました。近年、公園をとりまく環境は大きく変わってきました。岩手公園百年の節目は史趾盛岡城の歩みでもあります。これまで以上に、歴史と伝統を後世に伝え、やすらぎとやさしさのある公園としてもっと親しく活かされることを願っています。さあ、これから公園を散策してみてはいかがですか。四季折々様々な景色が皆様方をおまちいたしております。櫻山神社社務所』(※なお、案内板上部の櫻山神社の御祭神については「櫻山神社」の記事を参照下さい。)
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盛岡城絵図。
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以上、大変長くなりましたが盛岡城跡でした。
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盛岡城跡公園(岩手公園)』からの続き。
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渡雲橋は二の丸と本丸を結びます。
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渡雲橋から見た西方面(左が本丸・右が二の丸)。
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渡雲橋から見た東方面(右が本丸・左が二の丸)。
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さて、本丸です。
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南部氏は甲斐源氏の一族でしたが、南北朝時代の頃より糠部(青森県三戸郡・八戸市周辺)に基盤を置き、室町・戦国時代に次第に勢力を伸ばし、奥州北部の有力大名に成長しました。天正16年に初代盛岡藩主南部信直は斯波氏を滅ぼし、天正18年に豊臣秀吉から南部七郡の領有を認められます。翌天正19年に秀吉の重臣浅野長政の助言によって信直は三戸から不来方に居城の移転を決定。慶長2年には嫡子利直を総奉行に鋤初が行われたと伝え、翌慶長3年の正式許可の後、築城工事が本格的に進められました。この地は旧北上川と中津川の合流点の丘陵で、かつて南部氏の家臣福士氏の不来方城(淡路館・慶善館)が存在した場所になります。ここに新たな縄張で石垣を巡らして本丸・ニの九・三の丸を築きました。また、内丸から本町方面、中津川対岸の内加賀野・紺屋町・肴町・穀町方面にも外曲輪や総構遠曲輪の堀を巡らし、更に慶長14-17年にかけて中津川両岸が上の橋・中の橋・上の橋で結ばれて城下町の建設と整備が進められました。以来盛岡は江戸時代を通じて盛岡藩の中心として栄え現在の盛岡市へと引き継がれています。明治の廃藩置県の後、城は明治5年に陸軍省所管となり、明治7年に城内建物は取り壊されました。明治36年に岩手県により公園整備が開始され、明治39年に「岩手公園」として開園。その後、所管は盛岡市に移されて国指定史跡となりました。東北随一の美しい石垣を見ることができます。昭和59年からは市が石垣修復工事と発掘調査を行っています。
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戦国時代の不来方城(不来方城1・2期)は、丘陵を切り盛りして平坦地や空堀・土塁を廻らせた土の城で、建物はほとんどが板葺き・茅葺きの屋根でした。最初の盛岡城1期は、不来方城の堀を埋め、平坦地を拡張して築かれました。頂上の本丸・二の丸の一部には石垣が積まれ、瓦茸きの櫓などもありましたが、中腹の腰曲輪や二の丸西側・三の丸などは土手のままで、周囲に木柵が廻っていました。腰曲輪が石垣になるのは盛岡城2期の段階で、この時に本丸石垣も積み直されており、双鶴(向鶴)紋の瓦が葺かれます。しかし間もなくして本丸の三重櫓などが落雷で焼失。これらの建物は延宝2年より再建が始まりますが、ほぼ同時期に二の丸西側も北上川の川筋が切り替えられ、貞享3年にかけて高い石垣が築かれます。これが盛岡城3期であり、この時期から主要な櫓などには赤瓦が葺かれるようになります。
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8.5
Wikipediaより…盛岡城は岩手県盛岡市(陸奥国岩手郡)にあった日本の城。別名不来方城(こずかたじょう)であると一般に理解されていますが、厳密には盛岡城の前身であり両者は別の城郭。盛岡城は南部(盛岡)藩南部氏の居城。西部を流れる北上川と南東部を流れる中津川の合流地、現在の盛岡市中心部にあった花崗岩丘陵に築城された連郭式平山城。本丸の北側に二の丸が配され、本丸と二の丸の間は空堀で仕切られ現在は朱塗りの橋が架かっていますが、存城当時は廊下橋(屋根付橋の一種)が架けられていました。更にその北側に三の丸が配され、本丸を囲むように腰曲輪、淡路丸、榊山曲輪が配されました。本丸には天守台が築かれましたが、幕府への遠慮から天守は築かれず、天守台に御三階櫓が建造されて代用とされました。後の天保13年に12代利済により天守へと改称。白い花崗岩で組まれた石垣は、土塁の多い東北地方の城郭の中では異彩を放ちます。建造物は明治初頭に解体されており現存するものは少なく、城内に移築された土蔵と、市内の報恩禅寺(名須川町)に移築された門が残っていますが、移築門については城門であった確証は得られていません。また、清水寺にいずれかの門か定かではない城門が、木津屋本店奥土蔵(南大通)、岩手川(旧浜藤酒造・鉈屋町)に土蔵が再移築され現存。また、徳清倉庫(仙北)には二の丸にあった勘定奉行所の一部が移築されています。他に日露戦争で戦死した南部家第42代当主南部利祥を表彰した騎馬像「南部中尉銅像」が明治41年に建立されましたが、太平洋戦争中に金属供出で持ち去られており、現在は台座しか残されていません(櫻山神社に胸像部の鋳型、報恩寺に馬の頭の部分の鋳型が現存)。現在の盛岡城址は近代公園の先駆者である長岡安平の設計により、明治39年に「岩手公園」として整備され、当地で学生時代を過ごした宮沢賢治の詩碑や、石川啄木の「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」と刻まれた歌碑などが公園内にあります。
9
9.5
石垣について…『●本丸東側石垣は花崗岩の野面石(自然石)を多く用いており、割石は角石など一部に使用されています。盛岡城で最も古い、築城当初の慶長年間の石垣と考えられます。本丸南西部や北東部では現在の石垣の中に埋もれた築城当初の石垣が確認されています。他に二の丸の廊下橋下や不明門の西側などに古い石垣を見ることができます。●腰曲輪石垣は花崗岩を粗く分割した割石を力強く積んでいます。割石には分割時の矢穴が残っています。元和から寛永年間初期の石垣であり、同じ石垣は本丸の北半分と南東部、三の丸の北側を除いた部分などに見られます。●二の丸西側石垣は北上川の川筋を切替えた後に積まれ、「貞享三年三月吉日」の普請奉行銘を残す石垣です。規則正しく四角形に加工された奥行の長い石材を用いています。石垣の稜線には美しい反りがあり急勾配に高く積み上げられています。角石は鑿で整形されて、石材を切組んだ箇所が見られます。●三の丸北側石垣は元和から寛永年間初期に積まれた石垣が地震で破損し、積み替えられた石垣と考えられ、「宝永二年九月二日」の普請奉行銘を残します。二の丸より大きな横長の長方形の石材で積み上げており、角石は鑿で整形され、石材同士で切組んだ箇所が見られます。』
10
10.4
10.8
騎馬像「南部中尉銅像」台座。
11
案内板より…『●盛岡藩の解体と南部家…明治元(1868)年(慶応4年)、奥羽越列藩同盟の各藩が戦争に降伏する動きを受けた盛岡藩は久保田(秋田)藩に対して休戦の使者を送って、9月24日に降伏の手続きを取った。盛岡城へは官軍の先遣隊が10月10日に入城して接収された。それと時を同じくして藩主利剛・利恭父子親子は以下、主席家老楢山佐渡など戦争の首謀者は東京への連行指令が出され、11月13日に監察使に伴われて東京へ出発した。東京に着いた利剛・利恭は、南部家の菩提寺芝の金地院に入り謹慎。その後、江戸下屋敷(現:有栖川宮記念公園)を経て、明治3年7月頃から東京府神田区西小川町二丁目9番地へ移り住んでいる。利祥は、父利恭、母喜久子の長男として明治15(1882)年1月25日、東京府神田区西小川町(現:専修大学敷地)で誕生した。明治21年1月9日に学習院初等科に入学、7月に予備科第六級を卒業し、第五年級に進級して毎日乗馬で通学したと伝えられる。8歳となった明治23年6月には旧熊本藩細川家の次男長岡護全(後に日露戦争で戦死)とともに皇太子殿下(後の大正天皇)の「御学友」に任ぜられた。なお、この年の7月に自宅は神田区小川町から麹町富士見町(現:護国神社東側の白百合学園敷地)に転居し、学習院初等科四年級から軍人として歩んだ多感な時期を過ごしている。11歳の時、明治26年9月には中等科第一年級に進み、翌年10月には西郷従義・毛利八郎・岩倉道倶らとともに東宮職出仕を拝命して、殿下とともに沼津・葉山・箱根・御殿場・那須など各地の御用邸に供奉、明治28年11月、第二年級の13歳の時に依願退任するまで続いた。●軍人として歩み始めた利祥…明治30年7月、学習院第四年級卒業と同時に陸軍幼年学校の進学を試みたが、受験に失敗。翌31年9月、16歳の時に陸軍中央幼年学校に入学した。この陸軍入りを強く勧めたのは、東京で南部家を支えた東條英教(英機の父)少将であったと言われ、幼年学校から士官学校を通じて利祥の身元保証人になっている。明治34年5月に幼年学校を卒業した後は、士官候補生として近衛騎兵連隊に配属され、同年12月には陸軍士官学校に入学した。成人となった明治35年6月には従五位に叙せられ、4月には参内拝謁して天盃を下賜されている。また、この年の11月には陸軍士官学校を卒業し、騎兵見習士官を拝命。明治36年6月に近衛騎兵連隊附の陸軍騎兵少尉に補された。●利祥の戦死と岩手公園の開園…明治37年、日露戦争に出征した利祥は、翌38年に近衛騎兵連隊第一中隊第三小隊長となり、旅順攻略後の2月21日からロシア軍の拠点、奉天に向けて進撃を開始した(奉天会戦)。3月1日からは攻撃が激化、3月10日に奉天が陥落する直前の同月4日の井口嶺争奪戦の最中、敵弾に倒れて戦死した。一方、利祥が日露戦争へ出征した明治37年には、明治23年以降、南部家所有に戻ったものの利用されずにいた盛岡城跡の土地利用について、利祥は県知事北條元利との間で新しい公園を作るための作業を行っていた。それまでの公園は、明治10(1877)年に開園し、明治39(1906)年に「岩手公園」に引き継がれるまで内丸(中ノ橋から上ノ橋にかけての中津川右岸)にあって狭隘であった「盛岡(内丸)公園」があったが、周囲が官民の所有地が入り混じり、かなり変形した狭隘地であったことから新しい公園が必要とされていた。すなわち、利祥は盛岡城跡を後の「岩手公園」にすることを決断した南部家の当主で、その意志は弟利淳に引き継がれた。●南部利祥伯爵銅像の建立…盛岡城跡(岩手公園)の本丸に今は台座を残すだけになっているその上には、かつて南部家42代当主南部利祥の騎馬像が建っていた。陸軍騎兵連隊の少尉として日露戦争へ出征していた利祥は、明治38年3月4日に満州の井口嶺で戦死した。この戦死を受けて政官財人や旧藩士を中心とした人々は、朝敵となった旧藩の汚名をそそぎ、南部家当主の武勲をたたえ銅像を建立するための募金活動を行った。銅像は5千数百人から寄せられた寄附金とともに皇太子殿下(大正天皇)からの下賜金により明治41年9月15日に竣工した。しかしながら、太平洋戦争の戦局悪化から金属の供出が求められ、銅像は玉垣の鎖とともに昭和19年4月4日に自主的に供出した。供出に先立つ「出陣式」は、南部家など関係者約500名が参列して盛大に催された。このほか戦時中には横川省三像、中ノ橋の欄干、県の時鐘、県の鉄門なども供出された。●南部利祥伯爵銅像台座の現代的意義…平成30年は、明治維新(明治元年)からちょうど150年を迎え、また本丸に台座だけが残る南部利祥伯爵銅像が建てられてから110年を迎えた。盛岡城は江戸時代を通して盛岡藩の藩庁であるとともに、南部氏の私的居住空間であったが、戊辰戦争の敗北にともなって新政府(兵部省)の管轄に置かれた。明治7(1874)年、維持管理ができず老朽化した城内の建物は取り払われ、更地になった城地は引き続き陸軍省が管理したが、明治22(1889)年、土地の払い下げの動きを知った南部家は取得に動き、翌23年に有償で縁故払い下げを受けた。その後、使われることがなく推移したが、明治36(1903)年10月19日に南部家第41代利恭が亡くなり、利祥が家督を継いだ後の12月には盛岡城跡の土地を南部家から借地して公園とする案が県議会に提出され可決している。この南部家の私有財産であった「盛岡城跡」を県民共有の娯楽地「岩手公園」として開放するにあたっては、南部家の家政顧問であった原敬が大きく関与したことが伝えられている。いずれにせよ、南部家の当主となった利祥が、時の県知事北條元利との間で「土地使用貸借契約書」の草案を作成した。この草案は9条から構成されているが、その中で最も注目されているのが、第3条中の「城内ニアル石垣其の他、旧城址ノ形状ヲ表示スベキ営造物ハ之ヲ保存シ…(後略)」とした条文であった。明治39(1906)年4月14日に公園造成に着手し、その年に開園した「岩手公園」はこの「保護措置」により大きな改変が行われることがなかった事が、後の「近世城郭の本質的価値を良好に遺している」として、昭和12(1937)年4月1日の「国指定史跡」告示につながっている。利祥は、明治38年に戦死したため、新たな公園の姿を観ることは無かったが、その意志は弟の利淳に引き継がれ、明治39(1906)年9月15日「岩手公園」は開園した。利祥の銅像建立の位置は、「岩手県公園設計図」が描かれた段階で既に描かれており、公園開園日と同じ9月15日に銅像の除幕式が行われたことに深い因果を感じさせる。当時、利祥の生き様と死に様は悲しみと同時に、朝敵とされて戊辰戦争を戦った「盛岡」の汚名挽回を果たした旧主君として賛美され、皇室の藩屏たる国家と天皇に殉じる英雄とされた。明治20年以降に盛行する全国の軍人の「銅像」は、正しく理想的な臣民像を育む手段として扱われたのである。利祥の銅像は太平洋戦争の金属回収令を受けた自主供出により、二度とこの場所に戻ることは無かった。今日残る台座は、戦争の悲劇と教訓を伝える「戦争遺跡」でもある。また、今日まで語り継がれてきた「南部利祥伯爵銅像」は「軍人崇拝」や「英雄賛美」の象徴ではなく、文化財を保護しながら広く県民のために私有地の開放を決断した人物としての位置づけられる。』
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明治39年に岩手公園(盛岡城跡公園)が開園した時、園内に8棟の四阿が建てられて、それぞれに景観や自然、情緒にちなんだ愛称が付けられました。
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夕陽亭(本丸西側)・凌虚亭(天守跡)・枕流亭(淡路丸下梅林)・望岳亭(二ノ丸西側)・拾翠亭(三ノ丸南側)。
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凌虚亭(天守跡)です。
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案内板「本丸北西部の発掘調査」…『本丸北西部では、石垣修復のための発掘調査により、福士氏の不来方城(14世紀末-16世紀末)から、南部氏の盛岡城1期(16世紀末)、盛岡城2期(17世紀前葉以後)の変遷が確認されています。本丸北半部の石垣は、元和3年(1617)-同5年(1619)に築かれたと考えられ、中央には本丸正面の廊下橋門、北西角には4.5間×3間(約9.0×5.4m)の小納戸櫓が設けられ、廊下橋門と小納戸櫓の間は8間×2.5間(約14.3×4.3m)の多聞櫓(長屋)で結ばれていました。このほか小納戸櫓の南からは、次(控え室)、湯殿(風呂)、排水施設も確認されています。小納戸櫓台の石垣については、発掘調査結果に基づいて、明治期の公園整備により部分的に撤去されていた石材を補い、復元したものです。』
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現在地。
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本丸北西部の遺構配置。
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発掘調査の様子。
19
真っ赤に染まった本丸を跡にします。
20
本丸から腰曲輪へ。御馬場跡付近から下ります。
21
21.5
本丸石垣。四阿は凌虚亭。
22
石垣を見上げるの図。
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宮野小提灯句碑。
24
宮野小提灯句碑…『「月待つや 独り古城の 松のもと 小提灯」宮野小提灯(本名=藤吉)は明治28年(1895年)盛岡市仙北町に生まれた。15歳頃から俳句に親しみ、大正3年高浜虚子主宰の「ホトトギス」に投句を開始。花鳥諷詠を信条とし、本格的に取り組む。昭和5年県内の俳人に呼びかけ、山口青邨を選者とした「夏草」を創刊。以後「夏草」は平成3年5月まで通巻650号が発刊され、多数の後進俳人を育成した。郷土を愛し、郷土を詠いつづけ生涯を市井の俳人として過ごした。豊かな詩情と朴訥とした表現は、時代を越えて人々の心に明りを灯し続けている。昭和26年、この地に句碑が建立され、昭和33年には、岩手日報文化賞が贈られた。昭和49年7月7日、78歳にて永眠。その人柄を示す句を記す。「日もすがら 蜩鳴くや 山稼」「夕寒や 箕もて追はるゝ 矯鶏二つ」平成30年7月盛岡市観光交流課』
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腰曲輪吹上馬場跡・彦御蔵(米内蔵)。
26
26.4
26.8
岩手山が見えました。
27
27.5
池野祐壽翁紀徳碑(大正7年8月)。碑文省略。
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裏面にも碑文(北田親氏・中村治兵衛)あり(省略)。
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腰曲輪の遺構変遷…『石垣修理に伴っておこなわれた発掘調査の結果、腰曲輪の構造が大きく4時期にわたって変化していることがわかりました。①不来方城期(15-16世紀)-盛岡城築城以前の福士氏の居城であった時期で、斜面に空堀、土塁などが階段状に設けられ、本丸の周囲を廻っていました。②盛岡城1期(16世紀終末)-南部氏における築城が開始された時期で、本丸や二ノ丸などには石垣が築かれましたが、腰曲輪は土手のままで、周囲に柵が廻っていました。③盛岡城2期(17世紀前半)-腰曲輪の南側と東側、北東側に石垣が築かれます。この時期の腰曲輪の南側は、現状の平坦面よりも2mほど低い窪地になっていました。④盛岡城3-5期(17世紀後半)-腰曲輪西側にも石垣が構築されたほか、南側の窪地はしだいに埋め立てられ、江戸時代末期(19世紀前半)には、現状のような平坦な地形になりました。』
30
腰曲輪の遺構変遷(断面模式図)。
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発掘調査の様子。
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江戸時代前期の絵図(伝寛永盛岡城図)。
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本丸石垣。上に見えるのは凌虚亭。
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案内板。
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二層櫓跡の調査。
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江戸時代中期の絵図(明和3年書上盛岡城図)。
37
復元図。
38
この付近には御宝蔵がありました。
39
淡路丸へ。
40
40.5
淡路丸から見た本丸石垣。
41
41.5
この付近です。
42
櫻山神社跡碑。
43
櫻山神社は江戸時代中期の寛延2年に盛岡藩第8代南部利視により盛岡藩初代信直の遺徳を偲び、盛岡城内淡路丸に神殿を建立、同年9月26日にその神霊を勧請して「淡路丸大明神」と奉ったのに始まります。
44
本丸石垣(御未門)。
45
45.5
御未門付近。
47
渡雲橋が見えます。
48
御台所跡を見下ろします。
49
盛岡城跡 ~其之参』へ続く。
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1
盛岡市内丸。
2
案内板「国指定史跡盛岡城跡」(所在地:盛岡市内丸1番地ほか。指定年月日:昭和12年4月12日)…『盛岡城は、三戸から不来方に居城の移転を決定した南部信直(盛岡藩初代藩主)が、慶長2年(1597)に嫡子利直(2代藩主)を総奉行として築城を始めたと伝えられ、翌慶長3年(1598)の正式許可の後、築城工事が本格的に進められました。城の縄張りは豊臣家重臣の浅野長政の助言によるものといわれ、北上川と中津川の合流点に突き出した丘陵に本丸・二ノ丸・三ノ丸・腰曲輪などを配し、それぞれに雄大な石垣を構築して内曲輪(御城内)としています。さらに、内曲輪の北側は起伏の激しかった現在の内丸地域を平坦にして堀で囲み、南部氏一族や藩の家臣たちの屋敷を配置して外曲輪としました。また、外曲輪の中津川対岸の城下を堀で囲み、武士や町人たちの屋敷街である遠曲輪(総構え)が配置されています。築城工事は、北上川や中津川の洪水にみまわれながらも続けられ、築城開始から36年後の寛永10年(1633)に南部重直(3代藩主)が入城して以来、藩政時代を通じて盛岡南部氏の居城となりました。盛岡城は、廃藩置県の後明治5年(1872)に陸軍省所管となり、明治7年(1874)には内曲輪(御城内)の建物の大半が取り壊され、城内は荒廃しましたが、明治39年(1906)に近代公園の先駆者である長岡安平の設計により岩手公園として整備され、市民の憩いの場として親しまれています。平成18年(2006)には開園100周年を記念し、「盛岡城跡公園」と愛称をつけました。平成20年10月30日盛岡市』
3
3.4
3.8
下曲輪-三の丸。
4
4.4
4.8
鶴ケ池周辺。
5
下曲輪(櫻山神社)の左右に鶴ケ池と亀ケ池があります。
6
鶴ケ池。ガス燈や噴水があります。
7
7.5
櫻山神社の烏帽子岩。
8
烏帽子岩付近から見た三の丸瓦門・石垣。
9
9.4
9.8
この付近です。
10
三の丸。
11
11.5
紅葉しております。
12
12.5
人が多いのは紅葉のせいかと思われます。
13
三の丸から見た鶴ケ池(御台所門)方面のイチョウ。
14
黄色が映えます。
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石垣はこの部分になります。
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逆に下(台所)から三の丸を見上げるとこのような感じです。
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工事していてあまり近づけませんが。
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三の丸から台所全体を見下ろした図。
19
烏帽子岩。櫻山神社本殿裏。
20
20.5
烏帽子岩(兜岩)のいわれ…『盛岡城築城時、この地を掘り下げたときに、大きさ2丈ばかり突出した大石が出てきました。この場所が、城内の祖神さまの神域にあったため、宝大石とされ、以後吉兆のシンボルとして広く信仰され災害や疫病があった時など、この岩の前で、平安祈願の神事が行われ、南部藩盛岡の「お守り岩」として、今日まで崇拝されています。』
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三の丸井戸跡付近。
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石垣。
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この部分です。
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下(台所)から見上げた二の丸・本丸石垣。
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三の丸から二の丸へ。
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車門。
27
27.5
この付近です。
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啄木歌碑。
29
『不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心』
30
30.4
30.8
啄木歌碑…『少年時代の石川啄木が学校の窓から逃げ出して来て、文学書、哲学書を読み、昼寝の夢を結んだ不来方城二の丸がこの地だった。その当時盛岡中学校は内丸通りに在り、岩手公園(盛岡城跡)とは200メートルと離れていなかった。この歌碑は、昭和30年10月、啄木誕生70年を記念して盛岡啄木会の協力で建てられたものである。かつては、ここから岩手山を遠望することができ、盛岡市内も見おろせる風光の地であった。歌碑の文字は、啄木の恩友金田一京助博士の書である。』
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現在の眺望。
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二の丸。
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大書院跡。現在は新渡戸稲造記念碑(新渡戸稲造博士生誕100年記念・「願わくはわれ 太平洋の橋とならん」昭和37年9月)が建立されています。
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二の丸石垣から…
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台所を見下ろすの図。
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二の丸井戸跡付近には、三戸城址の記事で紹介した五訓之森碑や榊山稲荷曲輪跡があります。榊山稲荷曲輪跡は曲輪跡であり、神社自体は残されていません。城下町の総鎮守であった榊山稲荷神社(慶長2年創建)は明治30年に荒川清次郎氏により盛岡市北山2丁目に再興されています。
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37.5
消防義魂碑。
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警察彰功碑。
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碑文。
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案内板「二ノ丸の建物」…『二ノ丸は中ノ丸とも呼ばれ、本丸と共に重要な場所でした。二ノ丸は明治39年(1906)の岩手公園整備の際に造成されたため、現在はほぼ同一平坦面になっていますが、藩政時代には南東部が2mほど高くなっており、その上に大書院と呼ばれる御殿がありました。ここでは、さまざまな儀式や儀礼が行われたほか、藩主との対面の場ともなっておりました。二ノ丸南西部の石垣も明治期の公園整備の際に失われましたが、本来は2mほどの高さで西側に延びて喰違虎口を形成し、穴門が設けられていました。北側は、幅3.5m-5mの石土居で囲まれており、北東部には喰違いの虎口に「車門」が設けられていました。西辺部には井戸跡の石組みが残っています。』
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盛岡城跡公園(岩手公園)全体図。
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江戸時代後期の盛岡城(明和3年書上盛岡城下絵図)。
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明治期の公園整備(巖手縣公園設計図)。
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建物配置復元図(江戸時代後期)。
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二の丸から見た渡雲橋。
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【沿革】
・平安時代後期、清原武則の甥橘頼為の本領として『陸奥話記』に記された「逆志方」とは不来方のことであるという説があります。盛岡城は別名不来方城としていますが、厳密には盛岡城の前身であり両者は別の城郭。
・天正18年、陸奥国北部を勢力下に置く南部氏は、安土桃山時代に天下統一を果たした豊臣秀吉より、当主の南部信直が5ヶ郡(閉伊郡、岩手郡、鹿角郡、紫波郡、ならび糠部郡)の所領を安堵。
・天正19年、九戸政実を倒し、三戸城から九戸城(後に福岡城と改称。現在の二戸市福岡)に本拠を移しました。失領していた津軽3ヶ郡(平賀郡、鼻和郡、田舎郡)の代替地として和賀郡、稗貫郡の2ヶ郡が加増されて7ヶ郡10万石の所領を安堵。
・文禄元年、蒲生氏郷や浅野長政より九戸では北辺に過ぎるとの助言を受けて不来方の地を本拠とすべく整地を開始。
・慶長3年、京都にあった南部信直は嫡男の利直に築城を命じて、兵学者の内堀伊豆を普請奉行として築城に着手。これより先は南部氏の臣下である福士慶善淡路が不来方の地に設けた「慶善館」が即ち本来の「不来方城」。福士氏は南部氏が滅ぼした九戸氏と縁戚関係にあり、これを忌避した南部氏が不来方から福士氏を遠ざけたことにより当地は南部氏の居城となりました。
・慶長4年、信直病没。慶長5年、関ヶ原の戦いで利直は東軍に属したため徳川家康より所領を安堵。
・慶長年間(-1615年)には総石垣の城としてほぼ完成し、利直は地名を「盛り上がり栄える岡」と言う願いを込めて「不来方」から「盛岡」に改称。利直が三の丸を整地した際に見つかった烏帽子岩(宝大石)は現在も三の丸跡に鎮座しており、櫻山神社(旧淡路丸大明神)の社宝として崇敬。築城と共に城下町の建設を進め、中津川以北の湿地帯を埋め立てて市街地とします。また、中津川には「上ノ橋」「中ノ橋」「下ノ橋」(盛岡三橋)が架橋されました。慶長14年、上ノ橋に、慶長16年には中ノ橋に、それぞれ城下町建設を記念して、旧府・三戸から移された青銅製の擬宝珠が付けられました。現存する上ノ橋の擬宝珠は、国の重要美術品に認定。
・寛永10年、盛岡城の全城が竣工(3代藩主重直)。寛永11年に失火により本丸を焼失し、一時、福岡城(九戸城)を居城とします。翌年の寛永12年には修復され、再び盛岡城に戻り、以後、盛岡藩の藩庁として明治維新を迎えます。
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・明治4年、廃藩置県により廃城。
・明治7年、廃城令では当初存城とされましたが、老朽化が著しく一般に払い下げとなり、ほとんどの建物が解体移築。その後、陸軍用地となった土地の建物を除いて旧藩主南部家に払い下げとなります。
・明治39年、岩手県に貸与され、長岡安平の設計により「岩手公園」として開園。
・昭和9年、盛岡市が旧城地を南部家より買収。
・昭和12年、城跡が「濠湟石壁土壘尚ヨク存シ舊規模ノ見ルベキモノアリ」として国の史跡に指定。
・昭和31年、岩手公園として都市計画決定。一般公園として開設。
・昭和55年、総合公園として開設。
・平成元年、日本の都市公園100選選定。
・平成18年、日本100名城(6番)、日本の歴史公園100選に選定。愛称を「盛岡城跡公園」に決定。
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盛岡城跡 ~其之弐』へ続く。
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まとめ。
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