くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ: 寺・神社 (栃木県)

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宇都宮二荒山神社』から続きです。
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境内マップを見ると駐車場方面(裏坂)に、末社東照宮(狛犬一対あり)・おたりや堂・蒲生秀実記念碑(熾仁親王)・乃木希典記念碑などがありますが時間の都合上行きませんでした。
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初辰稲荷神社。
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4.5
御祭神は倉稲魂命。
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例祭は陰暦2月初午日午前10時。月次祭は毎月初午日午前10時。
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鳥居の脇に狐や石灯籠、手水石が並べられています。
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社殿。
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社殿内。
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社殿前狐二対。
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いずれも紀年銘等は確認しておりません。
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明神の井。
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宇都宮は、地形の関係で湧き水が多く、江戸時代の人々は、主な湧き水を七つ選んで「七水」、これとあわせて「七木」「八河原」などを選んで名所としました。この「明神の井」は七水の一つで、明治天皇がおいでになったときさしあげた、茶湯に使われました。また、この水を使うと書道が上達するという言い伝えが残ってます。今でも、清らかな水がくみ上げられています。
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宇都宮の名水「二荒山神社の明神の井」。
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宇都宮の名所「七木七水八河原」(しちぼく・しちすい・はちがわら)。※諸説ありますが「宇都宮の旧跡」の所載によるもの。
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宇都宮の地形。
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明神の井…『宇都宮の名所七木七水八河原の一つで代表的な由緒深い「明神の井」をこのたび復興致しました。この井戸にまつわる伝承は数多く残されており、明治天皇が明治42年11月那須野ヶ原大演習の折当地に行幸がありこの井水を以って湯茶を献ったと伝えられております。この井戸水は御神水で霊水でありますので、御手水にあるいは神棚に供える御水にまた書道等の技芸の水に御使用になると上達すると言う信仰があります。お持ち帰りになり、御神徳を戴かれるようお奨めします。』
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十社(県内延喜式内社の合祀)。
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十社(県内式内社の神)。
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須賀神社・市神社。
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石灯籠一対。
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狛犬一対。
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昭和59年3月奉納。中々個性的なお顔でございます。
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社殿向拝。
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須賀神社(お天王さん)。
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市神社(商売の神)。
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明治百年記念事業二荒山会館建設之碑…『今を去る約百年前所謂明治元年の戊辰役に際し当宇都宮に戦火の為大部分焼失し此の神社も亦烏有に帰するに到る然るに氏子崇敬者の赤誠により社殿は復興を見たるも社務所迄には資力到らず荏苒今日に及びたり。時恰も昭和43年に明治百年を迎へるにあたり之を記念して博く篤志者の奉賽を得約一億二阡余萬円を費して時世の要請に応ずる規模の見事なる会館を建設し得たるは慶賀の至りとす。此所に後世の為簡略ながら記念の文とするものなり。昭和45年11月7日竣工。宮司西田重一撰・葭田真齋書』
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女坂上、社務所裏の休憩所。
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宰鳥(蕪村)句碑「鶏は羽にはつねをうつの宮柱」宰鳥。
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宰鳥(蕪村)句碑の記…『俳聖与謝蕪村は、寛保3(1743)年歳末に宇都宮の俳人佐藤露鳩の許を訪れて当市に滞在、翌年正月に蕪村最初の「歳旦帖」を編集発行した。それは表紙に、この碑の上部にあるように円の中に次の文字をあしらった、ユニークなものであった。「寛保四甲子 歳旦歳暮吟 追加春興句 野州宇都宮 渓霜蕪村輯」その中で蕪村は、それまで使っていた「宰鳥」の号で、「いぶき山の御燈に古年の光をのこし、かも川の水音にやや春を告げたり」と前書して、この碑にある「鶏は羽にはつねをうつの宮柱 宰鳥」の句を詠んだ。これは当社宇都宮二荒山神社の社頭で新年の夜明けを迎えた鶏が、勢いよく羽ばたいている姿に寄せて、この地で俳諧師としての第一声をあげた喜びを詠んでいる。また表現も「羽をうつ」と「宇都宮」、「宮」と「宮柱」とを掛けた華麗な句である。こうした事実が、今まであまり知られていなかったのを極めて残念に思い、このたび多くの方々のご支援をいただいて、その事跡を顕彰するためにここに記念の句碑を建立した。なお、この「歳旦帖」で初めて「蕪村」の号を用いている。「古庭に鶯啼きぬ日もすがら 蕪村」の句碑が、仲町の生福寺境内にある。姉妹句碑として愛されることを念願する次第である。平成11年11月蕪村顕彰会・宇都宮ニ荒山神社・成島行雄撰文』
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宇都宮二荒山神社ライトアップ施設完成記念タイムカプセル(平成10年3月吉日・289名の御芳名帳とこの時代の資料を後世に残すため永く地中に収めます)。
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正面石段(男坂)途中へ。石灯籠(除隊紀念・大正元年12月)。
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台座碑文。
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弘化3年正月の石垣。
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大谷石。
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劍宮(武道の神)。
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案内板。
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十二社(肇国の神)。
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案内板。
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菅原神社(学問の神)。
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鳥居扁額と小祠。
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42.5
石灯籠一対(弘化3年9月吉祥日)。
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案内板。
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筆塚。
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針霊碑。
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正面石段を挟んで反対側へ。
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松尾神社(お酒の神)。
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石灯籠一対(明治9年3月)と小祠。
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案内板。
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荒神社(疫病鎮めの神)。
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案内板。
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水神社(水の守神、罔象女大神)。
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宇都宮市馬場通り。宇都宮丘陵の先端部に鎮座。江戸時代には関東平野が一望できたことから、二荒山神社の石段を降りたところから関東平野が始まっているといえます。っていうかタモリさんがそう言ってました。
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式内社(名神大社)論社、下野国一宮。旧社格は国幣中社で現在は神社本庁の別表神社。神紋は「三つ巴(菊に三つ巴)」。正式名称は二荒山神社ですが、日光の二荒山神社と区別するために鎮座地名を冠して「宇都宮二荒山神社」と呼ばれます。古くは宇都宮大明神などとも呼ばれました。現在は通称として「二荒さん」とも呼ばれています。
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樹齢400年の栃木県産のケヤキを用いた、高さ9.7m、幅13.8m、柱の直径90cmの大鳥居。江戸時代の同神社の両部鳥居を復元したもの。かつてあった鳥居は第2次世界大戦中に空襲で焼失し、その代わりとして1946年12月に明神鳥居が建てられましたが、その鳥居も老朽化が進んだため、2008年10月12日に現在のものに建て替えられました。
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案内板「式内名神大社・下野国一之宮 宇都宮二荒山神社御由緒」より…『【御祭神】豊城入彦命【相殿】大物主命(大黒さま)事代主命(恵比寿さま)。主祭神、豊城入彦命は、第十代崇神天皇の第一皇子であらせられ勅命を受けて東国御治定のため、毛野国(栃木県・群馬県)に下られました。国土を拓き、産業を奨励し民を慈しんだので命の徳に敬服し、族は鎮まり、その子孫も東国にひろく繁栄され四世の孫奈良別王(ならわけのきみ)が第十六代仁徳天皇の御代に下野国の国造となられて国を治めるに当たり、命の偉業を偲び御神霊を荒尾崎(現在の下之宮)の地に祀り合せて国土開拓の神大物主命、事代主命を祀られました。その後承和5年(838)に現在の臼ケ峰に遷座されました。以来平将門の乱を平げた藤原秀郷公をはじめ、源義家公・源頼朝公、下って徳川家康公などの武将の尊崇を受けられました。古くは、延喜式内社、名神大、当国一之宮明治になって国幣中社に列せられ、「お明神さま」の名でひろく庶民に親しまれ篤く崇められてきております。宇都宮の町もお宮を中心に発展してきたので市の名も社号をそのまま頂いてきており市民憲章にも「恵まれた自然と古い歴史に支えられ二荒の杜を中心に栄えてきた」とうたわれています。』
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第10代崇神天皇の御代に遡ることができる神社です。当社は何度も火災に遭っており、近年に入ってからも天正13年、安永2年、天保3年、更に明治維新の戊辰の役と4度もあって古い史料の殆どを焼失。現在残っている社記には、第16代仁徳天皇の御代に毛野國が上下の二国に別けられ、御祭神豊城入彦命の4世孫奈良別王が下毛野國の国造に任ぜられます。この時祖神である豊城入彦命を荒尾崎(下之宮)に祭神として祀ったのが始まりで、その後承和5年(838)に現在の地臼ヶ峰に遷されたと伝えられています。延長5年(927)に政治のよりどころとして完成した延喜式・神名帳には東山道街道筋として「下野國河内郡一座 大 二荒山神社 名神大」とあります。栃木県内には由緒ある神社が11社記されていますが名神大社は当社のみで代々城主が社務職を兼ね「宇都宮大明神」と称し、郷土の祖神・総氏神さまとして篤い信仰を受け下野國一之宮といわれていました。御祭神は豊城入彦命。相殿大物主命・事代主命。豊城入彦命は第10代崇神天皇の第一皇子で上毛野君・下毛野君の始祖と古事記にあります。また日本書記の崇神天皇48年の条には命と活目尊の二皇子が召され共に慈愛厚く優れておられ、どちらを皇嗣とするか夢占いがなされ弟活目尊(垂仁天皇)が皇太子となり命は大和朝廷の東國守護に下向されたと記されています。命の子孫も詔によって下り、東國御治定のよりどころとして祖神豊城入彦命と大物主命(大国さま)事代主命(恵比寿さま)を合わせて祀られました。御祭神は武徳にも優れ古くから武将の信仰が篤く藤原秀郷公(平将門の乱)、源頼義・義家公(前九年・後三年の役)、源頼朝公(源平の役)、徳川家康公(関ヶ原の合戦)など各々当社に戦勝祈願し、神領・宝物の寄進や社殿改築をされています。江戸時代の当社神領は1500石に達し、鹿島・香取神宮を上回っていました。また、火防信仰も古くから起り、12月15日・1月15日の冬・春渡祭には今でも県内・近県からの信者で夜遅くまで賑わっています。
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正面石段。男坂95段。
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明神山(臼ヶ峰、標高約135m)山頂に鎮座。
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石段の上に唐破風神門。
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神門。
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10.5
神門から振り返るの図。
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案内板。内容は上記に同じ。
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「枝源五郎」の銘が刻まれた手水盤。宇都宮城下の旅籠「松屋」に生を受けた江戸時代の侠客枝源五郎。困っている人に手を差しのべるなど仁義に厚く、後に江戸に出て大親分になりました。その人柄が見込まれ、宝暦年間(1751-1764)の頃、目明かしも務めました。信仰心も厚く、宇都宮市の慈光寺赤門の建設を町民に呼び掛け資金を集めました。残念ながら当時の赤門は宇都宮空襲で焼失し、現存のものは2008年再建したもの。慈光寺には源五郎が自ら生前に建てた墓である逆修墓がまつられています。二荒山神社の手水盤は江戸神田橋の鋳物師に造らせたもので、天明5年に寄進。戊辰戦争で焼失したため、現存する手水盤は明治期に造り直されていますが、「枝源五郎」の銘は刻まれています。
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上記のように明治時代に修復されたものであり、江戸時代のものは形が違っていたようです。また、江戸で鋳造されて宇都宮に運ばれてきたわけですが、その運搬の途中の逸話が伝えられています。「江戸より手水鉢を荷車に乗せて運搬の途中、千住大橋を渡ろうとしたが、橋番が見とがめて車を留めさせた。源五郎は親交のあった角力(力士)数人にたのんで、これを持たせて橋を渡った。見物していた人たちはみな感嘆したという。」。下の写真は江戸時代の絵図(二荒山神社祭礼図絵)に描かれた手水鉢と古文書の記録。
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社殿。
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15.5
現在の社殿は明治10年に明治新政府によって仮社殿として再建されたもの。正面の石垣は江戸末期のもので、弘化3年丙午正月吉日の記載があります。神社は宇都宮城の真北に当り、大通りの大鳥居から表参道石段95段を登り詰めたところに唐破風神門があり、左右八間の廻廊が配されています。神門を入ると東側に神楽殿、西側に手水舎及び神符守札授与所があり、中央奥に御本社(本殿・拝殿)があります。以前の本殿は入母屋造でしたが、現在は神明造になり、拝殿は入母屋造です。神明造の本殿と入母屋造の拝殿が相の間で結ばれた少し変った様式です。宝物・文化財として、三十八間星兜(国指定重要美術品)、鉄製狛犬(国指定重要美術品)、正次作太刀(県指定文化財)、新式和歌集(市指定文化財)、本殿勾欄擬宝珠(市指定文化財)、三十六歌仙額(市指定文化財)があります。
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神社庁より…『下野国一之宮式内名神大社。御祭神豊城入彦命は、第十代崇神天皇の第一皇子で毛野國(栃木県、群馬県)を拓かれた郷土の祖神、総氏神様として篤い信仰を受けております。また、御祭神は武徳にも優れ古くから武将の信仰も篤く藤原秀郷公、源頼義、義家公、源頼朝公、徳川家康公など各々当社に戦勝祈願し神領・宝物の寄進や社殿改築をされています。下野國一之宮、元國幣中社。《二荒の杜》県都宇都宮の中央に鎮座し、境内はシイの木、イチョウ、桜、杉、もみじ、榊等の木々が生茂り、街の中心部にいるのを忘れさせる深い緑に覆われている。《明神の井》宇都宮は、地形の関係で湧き水が多く、江戸時代の人々は主な湧き水七つを選んで「七水」、これとあわせて「七木」「八河原」などを選んで名所としていました。この「明神の井」は、七水の一つで明治天皇がおいでになった時、さしあげた茶湯に使われました。また、この水を使うと書道が上達するという言い伝えが残っています。いまでも清らかな水が汲み上げられています。※飲料については当神社までお問い合わせ下さい』
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渡殿・本殿。塀の隙間からしか見ることができませんが狛犬一対あります。
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本殿横に女體宮。
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女体宮…『一.御祭神-三穂津姫命。一.例祭日-10月22日午前10時。一.御神徳-生産、出産の女神。女性の身心諸願成就。縁談・安産に霊験あり。』
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灯籠一対。
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狛犬一対(昭和52年6月吉日)。
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天水桶一対(昭和48年1月吉日)。
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手塚七木句碑「うぶすなの大杉ゆするどんどかな」。
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神楽殿。
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二荒山神社の神楽(宇都宮市指定無形文化財・昭和44年2月12日)…『神楽は神聖な場所に神々を迎え、その前で踊る舞踊であり清めや豊作祈願などの意味が込められている。二荒山神社の神楽の起源は江戸時代の中頃と伝えられており、神社では宮比流太々神楽と称している。舞は、1月28日、5月28日、9月28日の3回奉納され、岩戸の舞や稲荷の舞など18演目あり、舞面は、40面あり、「明治四年(1871)高田運春」の銘などがある。宇都宮市教育委員会・平成4年3月建』
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神馬の像。
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『文治5年源頼朝奥州征伐の折、宇都宮大明神に戦勝を祈願し、凱陣にあたり御神恩報賽のため、神馬を献納された由来に基づき、二荒山神社厄難消除祈祷講結成六十周年を記念し、本講社の弥栄と講員氏子の開運家内安全を祈念して、茲に奉納するものなり。昭和55年9月吉日二荒山神社宮司松本盛邦、二荒山神社厄難消除祈祷講社』
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前田雀郎句碑「夢の中古里人は老ひもせず」。昭和40年8月。
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前田雀郎句碑…『雀郎は、名前を源一郎といい、明治30年二荒山神社の眼下であった相生町の足袋商前田屋の長男として生まれた。若くして川柳の道に入り、宇都宮市立商業学校卒業後上京して講談社に入社、のち都新聞社に移り、都柳壇の選者となる一方、古俳諧の研究につとめ「俳諧と川柳」、「柳多留序文の研究」等の研究書を刊行し川柳の正しい在り方を示した。昭和19年戦火を避けて宇都宮に疎開し、県内において川柳の普及と指導に務め、昭和27年下野新聞に柳壇が設けられるや選者となり、同年栃木県文化功労者に選ばれた。昭和29年再上京し、同33年「川柳探求」を刊行し、川柳の進む道を世に問うた。このようにして、全国的な川柳家として活躍した雀郎であったが、昭和35年病を得て急逝した。享年62であった。』
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イチョウ。
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精子の動きの撮影に成功したイチョウ記念碑。
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『このイチョウは樹齢300年の雌株である。イチョウは精子を作って受精するが、その精子は1896年東大助手平瀬作五郎氏によって初めて発見された。しかし、精子の姿は映画には勿論、写真にすら撮られていない。この木は1972年、高校教諭松本正臣・斎藤長重両氏が研究の末、そのギンナンによって動く精子の姿を世界ではじめて映画にとらえることに成功したイチョウである。二荒山神社』
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渋谷行雄歌碑。
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戸田忠至歌碑。
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文可句碑「願ふ事叶ふ天気の御くらかな 七十翁文可」。明治25年4月。
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魯庵先生紀恩碑(戸田忠友)。大正2年1月。
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鮫島重雄記念碑(第十四師團建築紀念碑)。明治42年3月。近藤富壽書。
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田谷安三郎記念碑(奉納基金参百圓)。
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杉苗奉献碑(明治31年10月宇都宮二荒山神社宮司正七位戸田香園篆額撰文及書)。
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永井高一郎記念碑。昭和39年春5月吉日。氏子出身の元力士。宮司西田重一誌。
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献木記念碑(樅10本・深山櫻5本、栃木県知事横川信夫、栃木県議会議長大渕源一郎)。
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献木記念碑(大山木・日露戦役紀念)。明治38年4月19日。小平縣治。
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絵馬掛。
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斉館。
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神札所。
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ご当地おみくじ…「しあわせ餃子おみくじ」。餃子の皮の中に縁起物が包まれています。
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全部で5種類(水餃子、焼餃子、翡翠餃子、海老餃子、胡麻餃子)。
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餃子食べたくなります。
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社務所・二荒山会館。
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古神札納所。
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車祓所。
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御神庫。
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楠献木記念碑(迪宮親王殿下御降誕紀念・國幣中社二荒山神社境内)。
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54.5
宇都宮二荒山神社前の大通りにあった標柱「旧町名・釈迦堂町」…『この付近には、かつて二荒山神社の別当寺である東勝寺がありました。この東勝寺が廃寺となり、境内にあった釈迦堂の跡地にできた町ということでこの名が付きました。二荒山神社から延びる丘陵を開いて道を通した当初は、「切り通し」とも呼ばれ、ネバ土のため歩くのが大変な所でした。明治時代の初め頃、相生町となりました。』
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ってことで、長くなりましたので…
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宇都宮パルコ入口に鎮座。二荒山神社の発祥の地(池辺郷荒尾崎・別名小寺峯)であり、荒尾崎裾部の崩落を避けて現在地に遷座したと考えられています(838年)。
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2.5
鎮座地は宇都宮市馬場通りで、本社鳥居前の道路を渡ってすぐになります。
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御祭神は豊城入彦命。
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HP「栃木県の神社」によりますと『現在の二荒山神社から南に尾根が続き、パルコあたりが盛り上がっており「池辺郷荒尾崎」と呼ばれた。別名を「小寺峯」といい、北西に鏡ヶ池が広がっていた。一説に崇神天皇の皇子豊城入彦命がここ小寺峯に三輪山の大物主命を勧請したというから推定2000年ほど前、つまり文字もない時代の創建と長く信じられてきた。豊城入彦命から四世から六世代後の下野国造・奈良別王による創建説によっても1600年ほど前の古墳時代の創建。承和5年に北峯の「臼が峯」に遷座し、「宇都宮大明神」と称したのが現在の二荒山神社である。臼が峯はこれによって「明神山」と呼ばれるようになる。発祥の地はそのまま「下之宮」として残され、お城から見て二荒山神社参道・明神馬場の北の先右手にあったが、本多正純が二つの峯の間を削って東西に大通りを造成した際に参道ともども分断された。明治5年に戊辰戦争の死者を祀る「招魂社」が下之宮境内に建立される。招魂社は昭和15年に作新学院北の一の沢に遷座し、昭和22年彰徳社、昭和28年栃木県護国神社と改称する。昭和36年の都市計画で小さな丘だった小寺峯も平らに削られ、小ぶりの社殿が新築された。その後、平成9年3月8日に都市再開発によりパルコ西入口にコンクリート造りを主体に本殿が改築され、拝殿が新築された。なお、境内にあった「およりの鐘」は昭和19年に駅前の宝蔵寺に移されている。』とあります。一部抜粋です。HPには大変詳しく書かれているので参照下さい。
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本殿。
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手水舎。以下は手水舎にあった由緒案内板。
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下野国一之宮二荒山神社攝社下之宮…『当神社は二荒山神社の発祥の地(荒尾崎)に創建された神社で「二荒山神社攝社下之宮」と称し御祭神は本社(臼ヶ峰)に鎮斎される二荒山神社と同神「豊城入彦命」をおまつりしております。ご由緒は大変古く第十六代仁徳天皇の御代下毛野の国造であった奈良別王が東国治定の功績高い豊城入彦命を御祭神として国社をこの地に建立後世838年に峰続きの臼ヶ峰に本社を造営し発祥の聖地を下之宮として永く奉斎してきました。下之宮は長い歴史の中で丘陵は道路で分断され、招魂社は護国神社として移設しおよりの鐘は寺領に納め更に小高い丘は削減しビル陰にて奉祀されてまいりました。相生町再開発事業と共に由緒深き聖地に下之宮のご復興をみたものである。』
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