くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ:建物・歴史的建造物・街ブラ等 > yuki散歩

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マンガを活かしたまちづくりを推進している宮城県石巻市。
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ってことで、石巻市立町付近をyuki散歩(※yuki散歩part15になります)。
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既に暗かったので立町大通り付近からほんの一部だけの紹介です。
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たちまち商店街マップ。
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「いしのまきマンガロード」案内板。
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まずは誰もが知っている仮面ライダー!
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仮面ライダーBlackはめちゃBlackだったのでフラッシュ撮影。
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サイボーグ009。島村ジョー。
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サイボーグ004。アルベルト・ハインリヒ。
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サイボーグ006。張々湖(ちゃんちゃんこ)。※隣は「立町」標柱。
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サイボーグ007。グレート・ブリテン。
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モニュメントだけではなく、ベンチやポスト、マンホールの蓋など、至る所に石ノ森キャラが隠れています。※写真はスカルマンポスト。
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佐武と市。
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ってことでホテルへ向かいます。
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石巻グランドホテル(宮城県石巻市千石町)。
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石巻鋳銭場作業工程絵図。仙台藩(第5代藩主伊達吉村公)では、北上川河口の石巻に鋳銭場を設置し、享保13年(1728)正月から寛永通宝の鋳造を開始。これが寛永通宝享保仙字銭で、操業の断続もありますが、約140年間にわたり石巻鋳銭場が存続することとなりました。この絵巻は、石巻市毛利コレクションに所蔵されている絵図をもとに陶板に再現したものです。鋳銭場は地名として当ホテル周辺に残されています。
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石巻市地産地消推進店グルメガイドブック。
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うに、ホタテ、金華さば、金華かつお、あなご、ホヤ、牡蠣、クジラなど海産物が多いですね。どれもおいしそう。
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お店もたくさん載っていましたが、今回は下調べをしていなかったのでホテル内の「日本料理石亭」へ。
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魅かれる…
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けど、我慢。
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お腹いっぱいで満足です(※食べ物の写真は一部です)。
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お酒は墨廼江をチョイス。
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ホテル前にあった「旧町名-新田町」の標柱。碑文『元禄二年五月十日「奥の細道」の旅で石巻を訪れた芭蕉と曾良は、日和山からの眺望を樂しみ、住吉神社に参詣後、新田町の四兵へ宅に一泊した。安永二年三月の「安永風土記書出」には、家数五十二軒と記されている。』※千石町(旧新田町)四兵衛宅=現石巻グランドホテル
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宇都宮駅。
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宇都宮は江戸に欠かせない町でした。今回はそんな宇都宮市をyuki散歩。
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西口にはレンタルサイクルがあります。散歩のはずでしたが、300円と激安だったのでサイクリングに変更。
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それにしても想像以上に餃子の街です。
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右も左も餃子の看板だらけ。
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そして大谷石だらけです。
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大谷石は軽石凝灰岩で、栃木県宇都宮市北西部の大谷町付近一帯で採掘される石材。柔らかく加工がしやすいことから、古くから外壁や土蔵などの建材として使用されてきました。
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ミソを観察。
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大きい荒目より、小さい細目が高級品とされるそうです。
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宇都宮二荒山神社前からバンバ通りへ。二荒山神社の門前町。バンバ通り付近は中世には荒尾崎と呼ばれており、宇都宮明神(現在の宇都宮二荒山神社)あるいは下野宇都宮氏の菩提寺のひとつ東勝寺の境内地でした。江戸時代までに現二荒山神社宇都宮城本丸を結ぶ馬場が形成され、現在のパルコの一角は二荒山神社下之宮があり、江戸期には日光堂がありました。宇都宮氏の時代から宇都宮城と宇都宮明神の間を結ぶ参道であったと言われるこの通りは馬場と呼ばれるようになり、これが転訛して「バンバ」と呼ばれるようになったとも言われています。
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オリオン通りと交わります。アーケードのある商店街で県内最大の繁華街。一条町、江野町、曲師町の3町をオリオン星座のように共に永遠に輝くようにと命名。オリオン通りから更に西に伸びる商店街はユニオン通りです。戊辰戦争と太平洋戦争により建物は焼けましたが、昔の道筋は残されています。
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釜川プロムナードの遊歩道。趣あります。
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みはし通りです。
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二荒山神社宇都宮城を結ぶ御橋から名付けられた通り。
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二荒山神社を参拝する際にはこの御橋を渡って参拝していました。但し、御橋は城主が宇都宮大明神へ参詣する際に利用され、普通の人は渡ることはできなかったといいます。かつては太鼓橋であり、現在の橋は戦後に建てられたもの。釜川は御手洗で大明神参詣人の垢離場。橋の手前には鏡ヶ池があり、「むかし明神社壇の影、池中にうつりしゆゑこの名ありといふ」(日光道中略記)とあります。「鏡ヶ池」標柱には『昔、この辺りに池があり、その池から出てきた鏡を二荒山神社に奉納したことから、鏡ヶ池と呼ばれるようになったといわれています。また、池から出た鏡は、静御前が落としたものだという伝説があります。宇都宮の古い名である池辺郷は、この池を含む広い湿地に由来するという説もあります。』と書かれています。
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大いちょう。
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カトリック松が峰教会から近い場所です。
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とちぎ名木百選・旭町の大いちょう。
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天然記念物大いちょう標柱。
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このように高い位置(土塁上)にあるので詳しくは見れません。
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交差点の角にあるので存在感が増しますね。道も「いちょう通り」と名付けられていました。
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大いちょう(宇都宮市指定天然記念物・昭和32年10月4日指定)…『推定樹齢400年。樹高33m。枝張東西10m。枝張南北13m。目通周囲6.4m。大いちょうは、宇都宮城の三の丸と百間堀の境の土塁の上にあり、宇都宮城ゆかりの名木である。今では、宇都宮市民のシンボルとして、多くの人々に愛されている。宇都宮市教育委員会(平成元年3月建)』
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宇都宮空襲と大いちょう…『宇都宮市は、1945(昭和20)年の7月12日深夜から翌日未明にかけての空襲で、中心市街地の約半分を焼失し多くの犠牲者をだしました。大いちょうも、この空襲により、真っ黒に焼けるほどの被害を受けましたが、翌年には、新芽を吹き見事に再生しました。空襲にも負けなかった大いちょうの強さは、戦後、焼け跡に残された宇都宮市民を勇気づけました。そのことにより、大いちょうは、宇都宮の戦後復興のシンボルとなり市民に親しまれています。その後、市制90周年を向えた1986(昭和61)年に、「いちょう」は、市の木に制定されています。』
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ちょっと見づらいですけど、空襲で焼けた大いちょう(後ろに見える建物はカトリック松が峰教会)。
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カトリック松が峰教会のはす向かいにあった「ダイニング蔵おしゃらく」。大谷石の趣ある建物でした。
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八幡山公園へ。栃木県宇都宮市塙田五丁目にある都市公園(総合公園)で、敷地内には宇都宮タワー、大型複合遊具や八幡山交通公園(ゴーカート)のあるアドベンチャーU、アドベンチャーブリッジ、動物舎などの設備があります。
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宇都宮二荒山神社が鎮座する明神山の北に連なる峰が八幡山です。自然の丘陵を活かした園内になっており、お花の名所としても知られ、約800本の桜と700株のツツジが植えられており、お花見のシーズンにもなるとたくさんの来場者で賑わうそうです。また、山頂付近には高さ30mのクスノキの巨木があります。このクスノキの樹齢は300年といわれており、温暖地に繁るクスノキが関東北部で定着し巨木となることは珍しく、昭和47年12月8日に市指定の有形文化財に登録されています。
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八幡山公園動物舎(八幡山公園動物広場)。宇都宮動物園ではありません。
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30.4
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近くには塙田八幡宮昭徳山東妙寺があります。
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タンチョウ、メンフクロウ、ワオキツネざる、モルモット、アヒル、ウコッケイ、チャボ、ハクビシン、アライグマ、ウサギ、ポニーなどがいます。
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ちなみに無料です。
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正直あまり期待していなかったのですが…
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まさかのカピバラさんがいました。
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普段はのんびりとしていますが、実はとても足が速いらしいですよ。
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混合飼育されているので、じっとしているカピバラさんの餌を他の動物が奪っていきます笑
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他の動物たちが去った後に、静かにその残りを食べていました。自分の餌なのに笑
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他の動物たちも混合飼育されているのが面白いですね。
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正面坂(南入口から宇都宮タワーまでの坂の名称)を上って展望台へ。鳥居があります。
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礎石が残っています。これはどう見ても神社(小祠)跡ですね。かつての塩田園時代に八幡山山頂には秋葉神社が鎮座していたそうです。
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41.5
恐らくその痕跡かと思われますが確証はありません。
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一等三角点、天測点が設置されています。
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眺望はあまり良くありませんでした。
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【八幡山公園沿革(一部wikipediaより抜粋)】
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明治33年1月八幡山墓地供給開始。
明治39年12月八幡山に塩田蓬一郎が塩田園を開園。
大正4年施設維持管理のため入園料徴収。
大正5年6月20日八幡山備え付けの大砲による「ドン」第一発鳴らす。
※八幡山のドン…宇都宮タワーの辺り。元々は第十四師団が宇都宮に駐屯して間もない頃、当時の師団長が師団司令部前の広場に高さ6mの丘を作らせて口径75ミリの旧式野砲を据付け、住民に正午を知らせるため毎日号砲をうたせたのに由来。軍事費削減のため大正11年9月15日を最後に廃止されましたが、市民にも親しまれていたため陳情が絶えぬことから、市は司令部と交渉し、無償で譲り受けて八幡山に設置。同年10月1日より宇都宮市の管轄することになり、初日は師団兵が世話する中、市長が綱を引いて放たれました。昭和7年にはサイレンが設置されたので号砲は廃止されるも、しばらくは大砲は残置されており子どもたちの遊び場になっていました。
大正11年10月1日八幡山東台に午砲所設置。正午時に「ドン」鳴らす。
大正14年2月遊園地「塩田園」を宇都宮市が買収。
大正14年10月市議会の決議により土地所有者の宇都宮文栄から山林等を買収。
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昭和元年4月宇都宮市制30周年祝賀式の一環で東洋花火大会を開催。
昭和2年2月1日宇都宮市立八幡山公園開園。
昭和7年3月31日サイレン設置により八幡山のドン終了。
昭和16年11月プール設置。
昭和20年6月地下に旧陸軍司令部用の地下壕を掘り進めるが完成前に終戦。
昭和28年5月5日八幡山公園に児童公園開園(子供汽車・子供自動車・オクトパス)。
昭和44年老朽化のためプール廃止。プールの閉鎖後は後に駐車場として整備されるまで梅林がありました。
昭和47年12月8日大クスノキが市指定の有形文化財登録。高さ20m。推定樹齢300年。
昭和50年交通公園開園。
昭和53年日本庭園開園。
昭和55年10月3日公園内にUHFテレビ中継搭宇都宮タワー完成。タワーの場所にあった観覧車は撤去。
昭和61年市制90周年とチチハル市友好都市2周年を記念し同市より丹頂鶴2羽贈られる。
平成3年6月タンチョウに雛が誕生。
平成8年10月3日公園内に防災備蓄庫設置。
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案内図。
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48.5
八幡山公園動物広場マップ。
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宇都宮タワー(電波塔)。高さは89m。標高158m地点に立地しているため合わせて247m。
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東京タワーに似ていますね。ミニ東京タワーといった感じ。30mの位置に宇都宮市内を一望できる展望台があります。日本一の地平線が観られるそうですが、もちろん上りません。
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アドベンチャーブリッジ。
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宇都宮タワーがある八幡山頂上付近からアドベンチャーU間を結ぶ日本一の全長152M高さ30M幅1.5M-4Mのモノストーム式鋼吊床版橋。橋の下にはひょうたん池が望めます。
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53.5
う~ん…高所恐怖症の私にしてみたら、想像していたよりもアドベンチャーです。
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やめておきましょう…結局ここまで来て宇都宮タワーもアドベンチャーブリッジもスルーする私…どうぞ御理解下さい。
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お詫びに餃子の写真をアップ致します。
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焼餃子、水餃子、揚餃子…悩みますか?
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私は一切悩みませんね。
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全部食べればいいだけの話です。
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59.5
これこそが真のアドベンチャーです!
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それでも足りなかったら帰りの新幹線で駅弁を食べましょう。
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今回のお弁当は「女将のおもてなし弁当(宮城松島編)」です。「足りなかったのかいっ!」ってつっこまないで下さい。どうぞ御理解下さい。
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もちろん食前酒付です。どうぞ御理解下さい。
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牛たん弁当もちらっと見えてしまいましたが、これはお土産(数時間後の自分への)なので誤解のないように。
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なお、「ほや酔明」を爆買いして、いかにも飲んだくれみたいな写真を撮ってみましたが、これはビールのアテではなく、お友達へのお土産なので誤解のないように。
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yuki散歩part13。秋田市立赤れんが郷土館に行きたかったので、それ以上は何も考えずに予約した赤れんが館通り沿いのホテル(アルバートホテル秋田)がめっちゃ飲み屋街に位置しておりました。
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川反って秋田市大町なのね。小路散策をしたかったのですが、夕暮れ時&土地勘が無かったのでやめました。
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北都銀行本店前交差点(秋田市中通)付近にあった奉行所跡地の標柱…『佐竹藩の町奉行所跡地。明治8年、秋田県に警察が設置され警察部庁舎に生まれ変わり、昭和42年、農林中央金庫秋田支所(現支店)となる。』
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ってことで、特に痕跡はありません。
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旭川越しに川反飲食店街の建物。旭川の命名は菅江真澄が源流の旭岳に因んで名付けたと伝えられています。
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すずらん通り。
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うなぎ横田屋。めちゃいい香りがしていましたが営業していませんでした。どうやら営業時間がお昼のみのようです。そして出前&お持ち帰りは夜までやっているようです。なるほど…罪な香りですね…。すぐ近くには濱の家という大変風情のある料亭がありましたが、店前で観光客がたくさん記念撮影していたのでスルーしました。後からHPで調べたら大正7年創業とのこと。料理も雰囲気よりはリーズナブルに感じました。
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川反は久保田川端・秋田川反ともいいました。久保田城下町の1つ。1-5丁目まであり、5丁目は更に上下に分かれていました。町割は慶長17年以降といわれます。東は旭川に沿い北から1-5丁目が並びます。西は大町・本町に隣接。1丁目は慶長年間に武家屋敷でしたが、寛文年間に旭川を移動、以後町人の町として発展。1丁目には水汲場が設けられ、寛文6年には水汲場破損補修のため入用銀が大町1~3丁目、茶町菊之丁、上肴町、中・上・下亀之丁、上米町1・2丁、下米町1・2丁の各町に割り当てられ、この水汲場使用の町であったことが推定されます。2丁目は当初から商人町で主に染屋が中心をなしていました。文化11年に下5丁目に石川滝右衛門(絹方役所)の秋田畝織があり、同13年に3丁目の那波三郎右衛門が絹方支配人になりました。1・2丁目は二丁目橋で、上・下5丁目は五丁目橋で内町と連絡。五丁目橋は宝暦3年に幕府の許可を得て工事を開始。橋の北側にはさらし場があり、明治元年7月に仙台藩士をさらしたのが最後。1丁目には星辻神社があり、火伏せの神として信仰を集め、4月12・13日のダルマ市は現在でも盛んです。2丁目の稲荷神社は佐竹遷封の際に水戸より白根屋多兵衛が移したもので、寛政11年3月から丁内の氏神。3丁目には秋葉神社がありました。明治4年から秋田町の町名。同11年南秋田郡に所属。同22年秋田市の町名。明治18年の1丁目の戸数は22戸で、翌19年の俵屋大火で2戸を残して全焼。2丁目は36戸で同じく焼失全焼14戸。3丁目は34戸で焼失20戸。4丁目は51戸、上5丁目は31戸、下5丁目は29戸でともに全焼。この火事は4丁目の田原吉之助と亀谷東吉の家屋の間のしの板から出火し、市全体の焼失戸数3,544戸、死者17、負傷者186、53町を焼きました。大火後に料理屋が4丁目を中心に移転して現在の繁華街となります。同5年、3丁目に本県為換方(三井組委託)を設置し、諸上納その他の出納業務を開始。同10年から第一国立銀行秋田支店が業務を始め同30年まで営業。大正13年の「秋田市統計一覧」によると10名以上の従業員を雇用する企業に2丁目の栄太楼製菓工場、3丁目に竹谷金銀工場があります。昭和40年住居表示実施により大町1~5丁目の一部となります。
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ちなみに川反外町の外町の由来ですが、初代藩主佐竹義宣が、築城の構想の一環として久保田城下の町割りをし、久保田城西側すれすれに流れていた仁別川を、更に西側に掘り替えて外掘の役目を持たせたのが現在の旭川で、旭川を境に東側を侍町、西側が町人町とはっきりと分離し、侍町を内町、町人の町を外町を呼称したことによります。
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川反(かわばた)という地名は、川の畔という意味で「川端」と書くのが普通です。藩制時代には川端と書いていたようです。当時の住人は殆ど武士でした。しかし、街づくりが進むにつれて川端は町人の街となり、武士は川の東側に移り住みました。このため川の西岸沿いにある川端は、武士から見て川の反対側に位置するようになり「川反」の字が当てられるようになったと伝えます。明治19年の大火(俵屋火事)によって焼失した芸者屋、料理店が川反四丁目に次々と移転を始め、これを転機として町人の町であった川反は、歓楽街川反となっていきました。明治末・大正から昭和初期にかけて、戦争特需などを背景として歓楽街川反は栄華を誇りました。そこに咲いた花が川反芸者です。川反芸者は器量よしで踊りも唄も上手で、県外から訪れた客によってこの評判は全国に知られていきました。しかも川反芸者は踊りと唄がうまかっただけではありませんでした。本県婦人運動の先駆者である和崎ハルが大正13年に開設した芸妓学校にて、毎週日曜日には約50人の芸者が国語や書道などのほか、希望者は英語まで習っていたといいます。このため川反芸者のお座敷は話題も豊富となり、川反芸者の名が高まっていきました。昭和初期には150人もいた川反芸者ですが現在は僅か数人。現在では川反芸者の復活を目指し、若い舞娘さんも登場して川反の華やかさはまだまだ健在とのこと。
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ちなみに秋田美人という言葉がありますが、明治末から昭和初期にかけて秋田を訪れた多くの文人たちが、川反芸者を指して使ったのが始まりとされています。文豪谷崎潤一郎は明治末に「敦れも恋の奴のような恍惚と物に憧るる表情」などと川反の女を描写しています。谷崎に限らず何人もの文筆家が川反風俗を書いたことにより、川反芸者=秋田美人は全国的に知られるようになりました。現在では秋田女性の代名詞になり、秋田美人の特徴は、背が高く、やや面長で、目は細く切れ長、口は小さく、鼻筋が通り、そしてきめの細かい色白の肌を指すようになっています。
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秋田美人を発見。
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那波紙店(株式会社那波伊四郎商店)。
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国登録有形文化財(店舗兼主屋、文庫蔵、商品蔵、向かい蔵、五号倉庫)。
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明治11年(1878)に初代那波伊四郎氏が秋田藩御用聞商人の那波商店から分家して現在地に創業。当時は茶・砂糖を販売。明治19年頃から和紙を中心に商売。現在の建物は明治19年の俵屋火事で家屋焼失後、同20年に土崎にあった船宿を解体移築したもの。
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屋根の立ち上がりが低く勾配も緩い屋根の造りは、江戸時代末期の表構えを伝えるものとして伝承。
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向かい蔵。明治中期の建物。土蔵造2階建、切妻造妻入、鉄板葺。覆い屋が架けられた内蔵形式。那波伊四郎家の住宅の内蔵と考えられています。梯子が目立ちます。
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茶町通りの那波伊四郎商店倉庫(那波紙店五号倉庫・那波伊四郎商店配送センター)の建物と木。上部に刻まれた家印は本家那波三郎右衛門家と同じ「一に三角」。木造二階建、桁行14.6m、梁間7.6m。切妻造鉄板葺で小屋はキングポストトラスを組みます。外壁はモルタル塗で、正面となる東妻は洗出し仕上げとし、妻壁を立ち上げ、柱形を表すなど意匠を凝らしています。昭和13年建築。国登録有形文化財。なお、現在は五号倉庫しか現存していません。
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電柱…じゃない!!
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さて、暗くなるにつれて賑やかになってきました。
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純米酒が私を呼んでおります。
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しかし疲労困憊だった上に、お店の下調べもまったくしていなかったので、ホテルのすぐ近くにあった「だんまや水産秋田大町店」へ。
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期間限定メニュー!
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cheers!
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うなぎを食べられなかったので期間限定メニュー(伊勢海老、金華鯖刺身、ホヤ刺し、きんきの炙り寿司、伊豆直送金目鯛の姿煮、その他あら汁等)で奮発しておきました。
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金華鯖刺身。
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伊勢海老刺身。
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きんきの炙り寿司。
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金目鯛の姿煮と金華鯖刺身が特に美味しかったです。
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通常メニューからはホルモン炒めと刺身の盛り合わせ。
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魚食べ過ぎ。
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注文し過ぎたので、責任をもってすべて生ビールと秋田の地酒で流し込みましたよ。
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あら汁の器もかなり大きかったよ。汁物は〆として頂きました。
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なお、頂いた地酒の種類は覚えておりません。お店のホールで働いていたМさんのおすすめで頂きました。余談ではありますが、このМさんがお店の忙しさを感じさせないほど素晴らしい接客ぶりでして、料理もお酒も大変美味しく楽しく頂くことができました。たぶんMさんがいなければこんなに奮発していなかったでしょう。クーポン券を綺麗に切ってくれた方もMさんです笑
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結局、また行きたいと思える店になるかどうかは人なんですよね…って改めて思いました。Мさんありがとうございました。
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36.5
こちらはホテルの前(秋田川反漁屋酒場)にいたなまはげです。なまはげが登場するお店のようです。この写真は日暮れ前に撮ったものですが…
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夜に見たら迫力が倍増しておりました!!
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38.5
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