くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ:建物・歴史的建造物・街ブラ等 > 青森県内

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青森県むつ市田名部町。歓楽街でお酒を浴びた後、〆のラーメンを頂こうとマップを見ながら歩いていたら、なぜかあの有名な「とびない旅館(本館)」に着いてしまいました。
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本当は「ラーメン大将」を目指していたのですが…お酒って怖いですね。ちなみにとびない旅館のすぐ近くに田名部交番があったので、この後無事にラーメン大将に辿り着きました。田名部交番の方々、親切に教えて頂きましてありがとうございます。実は田名部交番の明かりがラーメン大将の明かりだと思って歩いてきました…お酒って怖いですね。なぜ繁華街から少し外れたこの場所に交番があるのか不思議に思いましたが、ここは旧下北交通大畑線田名部駅跡なんですね。つまり駅前交番です。夜なので全然気付きませんでした。
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さて、とびない旅館はとても賑やかでした。
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きっと何かが行われてるのでしょう。泊まりたかったです。
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下北妖怪ハウス。
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夜に見てもディープですね。
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明かりがついていたので外から少しだけ見ることができました。
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下北妖怪ハウス入口。
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張り紙。見学したいと思ったけど、旅館の賑やかさが外まで伝わってきたので諦めました。
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2010年9月25日の新聞記事(実物大の鬼太郎手作り)もありました…『ガラスの向こうに並ぶ鬼太郎、猫娘、ねずみ男…。(中略)同市では7年前の夏、「ゲゲゲの鬼太郎」の作者の水木しげるさんを招いて「下北妖怪夏祭り」を開いた。その際、沿道をパレードした妖怪たちのマスクを制作し、祭りの実施委員長を務めたのが源ちゃん。(中略)あっと驚くのが2階の展示だ。閻魔殿の門をくぐると、紙粘土で手作りした鬼たちが待ち受ける。地獄を巡った後に現れるのは「まぼろし商店街」。(中略)手を動かしながら歩く「AMG1型」は「青森源ちゃん1型」の意味とか。県立美術館で今年あった「ロボットと美術」展のワークショップではペーパークラフト作りを指導した。旅館の宴会場も、今や半分以上が模型などの展示スペースになった。幼いころの夢のかけらを拾い集められそうな「コアな宿」の極めつきは本物の飛行機。なんと、車庫を改築した倉庫に旅客機の傑作とされる「DC-3」の機首がまるごと収められている。「ワクワクするような場所があれば、本当に好きな人は新幹線がなくても来る。まちおこしの前に自分おこし、やる気おこしが必要だ」。源ちゃんはいつも辛口、そして元気なのだ。』
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下北妖怪ハウス内(ほんの一部)。
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ワクワクしないわけがない。
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下北妖怪夏祭りパレードのマスク。クオリティが高いです。
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とびない旅館の横側。
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想像していたよりもかなり大きい旅館でした。あっ、ラーメンラーメン!!
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yuki散歩part11。この日は下北の温泉旅館を予約できず、むつ市の田名部神社近くのホテルへ宿泊。せっかくなので街へと繰り出します(→最初からその気満々)。ちなみにこの日は遠くに打ち上げ花火が見えていました。大きな花火でしたが何かは不明です。
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さて、ホテルから頂いたパンフレットを見ると結構お店が立ち並んでいるようですね。
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下北半島随一の歓楽街とはいえ、街の規模及び人口に対して明らかに多過ぎるくらいのお店の数です。
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漁師の方や自衛隊の方が多いのでしょうか。もちろん私のような観光客も時期によってはたくさんいると思いますが。
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田名部神社のすぐ横にある小路「神社横丁」は行政からの要請で敷地内に受け入れた闇市の名残りだと言います。
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その他、田名部横丁、親不孝通り、レンガ通り、ミナト通り、天きん通り、桐半通り、はまなす通り、ふれあい通りなど網の目のように小路が広がっており、結構ディープな雰囲気です。
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普通の居酒屋をはじめ、郷土料理、和風料理、寿司屋、ホルモン屋、小料理屋、焼き鳥屋、蕎麦屋、ラーメン屋、バー、スナック…。
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まぁ見た感じではスナック数が半分っていう感じもしましたが…人口を考えるとそれはそれで凄いことです。
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下調べなしではどのお店に入るか絶対に迷いますね。いや、むしろこれだけお店があるのならば、下調べはせずに実際に来てみてから、自分に合った雰囲気のお店を探した方が早いです。
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田名部神社から少し離れた場所でも夜までやっているカフェなど色々ありました。
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それでは説明省略でいかせていただきます!写真はあまり撮っていません。何か…完全にお酒ありきのお食事内容ですね…スタートが大ジョッキ&バクライ&ホヤって…(* ̄^ ̄)<カンペキ!
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田名部神社も夜は妖艶な雰囲気でした。
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「らーめん大将」へ。ギョーザ・カレーギョーザ・青じそギョーザ・いかギョーザと餃子の種類が多かったです。
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ふのりラーメン(600円)。外観はかなりインパクトありますね。もっともパンフレットに載っていた写真を見て訪れたわけですが。
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いただきます。
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ごちそうさまでした。
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いつもの私なら飲み歩きながら色々散策しそうですが(※方向音痴なだけですが)、旅の疲れが溜まっていたのでさっさとホテルへと戻ってしまいました。いや、これだけ飲み食いしたら「さっさと」ではありませんね。
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頂いたものはどれもおいしかったので、またそのうち行くことでしょう(●´З`●)
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青森県上北郡六戸町犬落瀬後田。「道の駅ろくのへ」です。
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六興祭の時に訪れたので、旧苫米地家住宅内もお店(六戸初のクラフト市「カフェ日和」開催中)がいくつか入っており、雰囲気は伝わらないかも知れません。
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旧苫米地家住宅(六戸町文化財指定第5号・平成4年11月30日指定)…『<由来>六戸町において、奥入瀬川流域に現存する家屋のうちでは最古と思われるのが、柳町の苫米地勲氏の住宅である。苫米地家の由緒やこの家屋の建築年代を示す史料などは一切残されていないが、上北地方の民家の建築手法の進展状況から比較してみるとおそらく江戸時代後半には建てられたものと推測される。(六戸町史より)旧苫米地家住宅には、「しきだい(式台)」と呼ばれる施設が設けられており、当時は武士階級の住宅に限られた出入口(建物正面左側)であったとされ、身分や家の格式を表現する施設であったとみられる。住宅地、六戸町大字柳町字柳町15の1より平成17年3月現在地へ移築』
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中へ行ってみましょう。
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平面図。
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入って右手へ。
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「まや」です。馬がいました。
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「いたにわ」です。
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色々展示されていましたが暗いです。
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「にや」
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「とおり」「かまど」「ろ」「ながし」
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「じょい」
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「ねべや」
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その他「ものおき」「まえざしき」「おくざしき」等は出店で占領されていたため写真はありません。
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尻屋崎開放時間…8:00-15:45(4/1-4/30)。7:00-16:45(5/1-11/30)。それ以外はゲート閉鎖。
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尻屋崎は下北郡東通村尻屋北方にある岬。昭和43年指定された下北半島国定公園のうち。太平洋に突出し、下北半島の北東端を占めます。津軽海峡東門の南角にあって津軽海峡と太平洋を分け、北海道恵山岬と相対。一帯は松林と芝生の草地の広がる海岸段丘となり、牛馬の放牧地として利用されています。
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後背の桑畑山(400m)は石灰岩の山として知られており、昭和32年から日鉄鉱業尻屋鉱業所が尻屋鉱山として石灰石の採掘を行っています。鉱石は尻屋港から北海道室蘭に運搬。近年では山麓に東北開発セメントが建設され、セメント生産が行われているそうです。
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ここで周年放牧される馬は寒立馬と呼ばれ、厳しい自然環境下に生育するためその耐久力は抜群。この馬は明治期外国種との雑種繁殖が進んだため在来種ということはできませんが、日本の他の地方に比較して雑種化の速度が遅かったため、現有馬の外観にその名残を見ることができます。牝馬のみを残し、雄馬は肉用として市場に出されます。
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昭和47年には9頭まで減少しましたが、保護対策が進められ、同54年37頭、同55年43頭、同56年55頭が放牧。現在は30頭ほど。
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寒立馬というその名が示すとおり、雪の吹きすさぶ中、寒さや風雪にじっと耐える姿が印象的な寒立馬。南部馬を祖先に持ち、改良を重ねた田名部馬をブルトン種などと交配し、尻屋地区独自の農用馬にしていたもので、粗食や寒さに強いのが特徴。
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普段はゲートで仕切られた尻屋崎の敷地内に放牧されており、その様子は自由に見学することができます。自由に見学できますが足元には注意してくださいね。アレ踏みますよ。
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春に敷地内のあちこちを移動し、母馬のそばを飛び跳ねる愛くるしい仔馬の姿が見られますが、冬期間はアタカと呼ばれる場所で冬を越します。その姿はいつ見ても心が揺さぶられます。平成14年11月18日青森県天然記念物指定。
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元来、田名部馬・尻屋馬・野放馬と呼ばれていましたが、昭和45年村立尻屋小中学校長をしていた岩佐勉が猛吹雪に耐えて生き抜くその姿を「東雲に勇みいななく寒立馬筑紫ヶ原の嵐ものかは」と詠んで以来、寒立馬の名で呼ばれるようになったといいます。
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青森県下北郡東通村の尻屋崎の突端に立つ白亜の灯台。日本の灯台50選。昔から難破岬と呼ばれている尻屋﨑は本州最北東端に位置し、明治9年10月20日より船舶の安全を見守りながら海を照らし続けています。昭和20年に空襲で破壊されるも翌年9月より業務再開。
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「日本の灯台の父」と称されるブラントンによって設計された二重のレンガ壁による複層構造。レンガ造りの灯台としては日本一の高さを誇り、イギリス人が起工した東北最古の洋式灯台としても知られています。内部の一般公開もされており、灯台好きは必見ですね。この日も一般公開されていましたが、霧が凄かったので眺望はないだろうと予想し、泣く泣く断念しました。※高所恐怖症の言い訳でございます。
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幕末の慶応2年、改税約書(江戸条約)の締結により全国に洋式灯台が建設されることになりましたが、その際に尻屋崎灯台建設計画はありませんでした。それが急に明治6年6月に起工されたことと、当時としては最新の機械が次々の導入されたことから、いかに尻屋﨑が古くからの航海上の難所であったかを知ることができます。灯台付近の海中には大根・トド島・イサゴ島その他の岩礁が多く、その上海霧(ガス)が発生し、冬季の暴風雪も強く、海難事故が多く発生しており、船の墓場と呼ばれる魔の海とされていました。明治10年11月霧信号を出す装置、同12年12月蒸気霧笛、明治34年12月沖の岩礁を照らす照射灯(アーク灯)がそれぞれ日本初のものとして設置されています。尻屋崎一帯は石灰岩地域で、高さ約20mの海岸段丘の上に、その石灰岩を貫いている火成岩(角閃石閃緑岩と呼ばれる深成岩)に灯台は建てられています。
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尻屋﨑灯台百周年記念碑(昭和51年8月12日・青森県知事竹内俊吉、東通村長川畑義雄)。
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灯台横海沿いの岩場へ。
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第二進徳丸殉難者之碑があります。昭和39年1月20日、尻屋沖で起こった遭難事故の慰霊碑(10名の名が刻まれています)。同年4月29日に進徳海運株式会社の佐川末繁社長が建立。
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尻屋岬の先端にあるオセンダクを着た石造延命地蔵尊立像。
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「海難地蔵尊」と呼ばれており、海上安全を祈る人々に信仰されています。
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「本州最涯地尻屋崎」標柱。本州最涯地…ぴんときません笑
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砂防林記念碑。
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鳴海要吉の文学碑…「諦めの旅ではあった磯の先の向い燈台に日が映して居た」。裏面碑文…『鳴海要吉先生は黒石の人、若くして文学に志し、島崎藤村、田山花袋に師事した。先生が東通村田代尋常小学校に赴任されたのは、明治40年10月のことである。教鞭をとるかたわら、作歌活動に勤しまれた先生は、尻屋崎、猿ヶ森砂丘、左京沼など、私達の故郷の自然を広く発表された。いまその代表作を刻み、先生の面影を忍ぶよすがとしたい。昭和53年9月吉日東通村村長中村由蔵』
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新むつ旅館(八戸市)』からの続きです。
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宿泊場所となる2階へ行きましょう。
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Y字型の階段。
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かっこいい!映画のセットみたい。
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鶯張りみたいに音をたてながら階段を上ります。何度でも言いますが私の体重のせいではありません。
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空中廊下。
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吹き抜けから周囲を見渡せます。
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神棚。
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天照皇大神宮。
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20畳の宴会場と5部屋を構えます。
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私が泊まった部屋は一番広い部屋。
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お部屋の中も見所いっぱい。
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※朝とお昼と夜の写真が混ざっていてすいません。
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広過ぎるお部屋で、正直半分はまったく使用しませんでした。
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贅沢。
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開業当時からある柿の木の鏡台。
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外からは見えませんが、雨戸の内側にもしっかりと手摺りが残っていました。
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歴史を感じます。
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扇風機にも歴史を感じます。
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屋号が刻まれている鬼瓦(部屋より)。
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部屋を出て再び探索。
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色々あります。「色々あります」としか言ってませんが、女将さんが丁寧に全部説明してくれます。
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隠し階段。
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急勾配です。
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他の部屋も全部見学させて頂きました。
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和平氣象満乾坤。意味ですか?わかりません。和平(平和)の気持ち(心)が天地(全世界)に満ちる的な意味かと思います。適当ですいません。
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君が代の額。近衞文麿と見えます!!
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旅館に隣接していた土蔵(明治40年建造)を解体した際に発見された大工の墨書。
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当時の貸座敷料金や接待料が記された墨書もあり、資料として貴重なものです。女将さんは「蔵は壊さなければよかったー!」と言ってました笑
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今は雑草に埋もれていますが、あの辺にあったそうです(部屋より)。
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土蔵側。
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こちらの隠し階段は消防法の関係で後から造られたと説明された気がしますが、新しさはあまり感じませんね。そのように造ったのかな。
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鶴と梅の花をあしらった釘隠しが部屋の所々にあります。
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こちらは折鶴の釘隠しです。同じものがたくさんありますが、ほとんど盗まれており、この1つだけが本物です。周りには丸く傷が付いています。
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こちらはレプリカ。区別はつきませんけどね。
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帳場へ。屋号が入った沈金彫輪島塗の器や、当時の遊客名簿(宿帳)、諸相場(各種相場表・遊興費や米代、酒代等々の物価表)を自由に見ることができます。
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飾ってあるものを色々見ます。
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「傷だらけの天使」のロケで訪れた豊川悦司さん御一行。台本や写真集などもあります。
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「傷だらけの天使」(1997)。
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主演は豊川悦司、真木蔵人、菅原文太、原田知世など。
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豊川悦司さん、新むつ旅館の浴衣姿もかっこいい…
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「わたしと小鳥とすずと」(金子みすゞ)。
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明治31年開業当時から残っている高価な陶器の数々。これらも宿泊客の皆さんに現役で使用されています。
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金精様(木製男根)。こちらも当時のものです。
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お客さんがいない時に娼妓が縄に結ばれたこの金精様を廊下などで引きずり回して商売繁盛を祈願したそうです。
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遊客帳。
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この無造作な保管状態が素敵です笑
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じっくり拝見させて頂きました。
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遊郭名簿には当時の顧客の住所並びに特徴などが詳細に記されているため、写真には一部モザイクを入れさせて頂きます。
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弘前からも来てるしね。
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大福帳。
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昔の写真。楽しそうです笑
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大正初期の新むつ旅館前。
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昔の写真たくさんありますよ。
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これはほんの一部です。
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館鼻岸壁朝市まっぷが貼ってありました。朝市からも近い場所にあるので是非。
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イサバのカッチャ。
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以上、新むつ旅館でした。
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遊郭に興味なくても、普通にいい旅館だと思いました。結局は女将さんの人柄なんだと思います。
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個人的に八戸は県外よりも行く機会が少ないんですけど、また絶対泊まりに行きたいっ!おかめさんに会いに…おかみさんに会いに!
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