くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ:建物・歴史的建造物・街ブラ等 > 青森県内

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上の写真は遊歩道脇の奥入瀬川の石の石垣と楓林橋。そして楓林橋からの景色。
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古牧豊明殿。
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向かいには里山農園方面への道とポニーのお家があります。
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こちらも人懐こいです。
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ちなみに「のれ」と「それ」がいますが、どちらかは最初に星野リゾート青森屋前でお出迎えをしてくれたポニーです。
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それにしても以前の記事(2012年)と比べて色々と変わっていました。むしろ変わり過ぎて別なところに来たくらいの感覚です。今も色々工事しているようですし。
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古牧浮見堂へ。
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カッパ沼に浮かぶ浮見堂。
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ピンボケ。
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芸術は爆発だ!
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和婚式場。
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浮見堂前。
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色々な種類の風鈴がありました。
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音色に癒されます。
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南部鉄器風鈴。
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浮見堂前から見た南部曲屋。
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あちらには何かが祀られているようです。向かってみます。
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九千坊河伯大明神(平成7年7月(自28日-至30日)第16回日本河童龍神祭、古牧温泉渋澤公園社長杉本行雄謹書)とあります。
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カッパ!
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更に閻魔帳を持ったカッパ!
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河童九千坊を祭祀するに当って…『此處に祭る河童の棟領九千坊は河童一族にとっては最高位の存在であってそれは威徳備はる神と申しても過言ではない。古来日本中で敬愛されてきた河童世界の基を築いた大祖である。我らは河童が将来龍になって昇天すると言う故事に倣って河童龍神の稱名を冠しここに一宇を建立して祭祀奉るものである。願はくばわれら河童の為に尊き御加護の深からむことを。九拝謹書、篁秋』
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隣へ。
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こちらは根精さまでした。
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根精さま…『子孫繁栄の神として崇められている根精さまは石や木で写実的に男根を形どったものである。当地方では「コーヘンさま」と呼び、子宝を願う人や、安産を願う人達が信仰してきた。又、豊穣をもたらす神、商売繁昌、交通安全の守り神としても敬い尊ばれている。』
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その隣は弁財天と鍾馗。
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弁財天と鍾馗…『弁財天はその昔、印度で「河を清める神」として人々に親しまれていた。又、鍾馗さまは中国の唐の時代に「悪魔除けの神」として民衆の中で信仰をあつめていた。仏教が日本に伝来した奈良時代末期、弁財天と鍾馗さまの信仰が我が国古来の素朴な男女信仰と混合し、村落の守護神(悪魔除け)となった。当公園では弁財天と鍾馗さまを来園者の守護神として祀り、皆さまの無病息災を願うと共に、再びご遊園いただきますよう見守っております。』
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九千坊河伯大明神前から見た浮見堂。
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カッパ沼越しに見た対岸の八幡馬ラウンジ。
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ズーム。
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更に角度を変えて。
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かっぱ沼越しの浮見堂。
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東屋(案内図では鐘楼堂)。工事中のため立入禁止でしたが梵鐘が見えます。
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かっぱ沼を一周してきました。
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以上、かっぱ沼を中心とする73万㎡に及ぶ古牧温泉渋沢公園でした。
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星野リゾート青森屋。
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星野リゾート青森屋前でポニーが出迎えてくれました。
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馬優先です。
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十和田観光電鉄線廃線跡。
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公園案内地図。
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公園散策ガイドマップ。
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ちなみにここまでは青森県三沢市古間木山。この西大門から先は住所が青森県上北郡六戸町犬落瀬堀切沢。
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最初に目に入った建物。
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日本河童大明神です。昭和59年7月28日第5回カッパ祭の日建立。
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以前より立派になっております。
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社殿内。
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神像と河童。
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木札はよく見えず。
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棟札かと思ったのですが一番上の木札には「岩木山の神さまに制圧された河童」と書かれています。他は見ておりません。
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日本河童大明神の横の碑はかっぱ村々長碑「年ごとの河童祭は楽しけれ世外の人の集る二日」。かっぱ村々長は中河与一氏。
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「なまめかし初夏の古牧の浮見堂」宍倉宗夫。
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八幡馬ラウンジ・菱刺しの庭・あおもり工房。工事中でした。青森県南部地方の伝統工芸品・八幡馬や、それに描かれた模様をデザインに取り入れた照明が照らす空間で寛ぐことができます。大きな窓から夕日や月を眺め、ゆったりと過ごすことができます。
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こもれび小路を歩いてカッパ沼を一周します。
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澁澤大門。この先に渋沢神社、そして旧渋沢邸があるのですが、既に立入禁止になっていました。旧渋沢邸は東京都江東区へ移築。最後の公開日は平成31年1月だったようです。情弱でございます。
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こちらは彫刻家鈴木正治氏の作品っぽいです。確認はしていません。常福院青岩寺で見たものと酷似していたので。
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ふれあい牧場。2頭の馬がいます。
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すぐに近寄ってきました。
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めちゃ触れ合えます。
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南部曲屋。古民屋レストラン。古来、全国有数の馬産地だった南部地方独特の馬屋と住居が一体となった建物。この古民家でこの地方ならではの囲炉裏を囲んで召し上がる特別朝食をはじめ、青森の食文化を味わえる夕食「七子八珍会席」を楽しめます。
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まだ半周していませんが長くなったので…
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紅灯の巷といわれた桐萩。
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公娼の街として開かれ、往時には十指に余る女郎屋があり、30名を超える娼婦がおりました。
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戦時中は統制のこともあり、賑わいはやや下火になるも、戦後の自由な空気の中で、公娼廃止の昭和33年までは城山側に女部屋、向側には飲食店が立ち並び、不夜城を思わせる雰囲気だったそうです。昭和33年から町並みは変化し、2度の大きな火災(昭和31年4月の三戸町役場留崎支所を火元とした火災で、旭樓からときわ樓まで類焼した所謂桐萩大火。その復興直後、昭和32年のよか樓を火元とする火災によりよか樓・松月が全焼。なお原因は女中のロウソクの消し忘れと推定。)もあって昔の面影はあまり残していません。
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明治以前の女部屋については不詳。当然遊郭はあったと考えられますが記録は僅かです。糠部五郡小史(明治23年)には「6軒あり、梅川樓、松葉樓、柳光樓、快運樓、時和樓、青木樓。娼妓34-35名」とあります。
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なお、桐萩は遊郭ができてから名付けられたもので、元は「切接ぎ」と云われていました。三戸城築城時の永禄年間(1560年頃)に現在の目時道の突端として延びていた今の城山を削り、梅内・泉山方面に通れるようにしたものです。本来は城防衛のための切通しでした。この切通しを切接ぎと呼んでいました。いつの頃からか遊郭ができて桐萩の文字を当てるようになります。安政4年の記録には「きり萩の与七」が三百文を出したとあり、桐萩の文字が明治以前から使われていたことは分かりますが、この記録と遊郭との関連は不明です。
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桐萩で早くから女郎屋として開業したのは「よか樓」です。昭和12年には左側に旭樓-福田樓-西花樓-山口樓-よか樓-松月樓-福徳樓と並び、更に福徳樓の奥には時和樓とみどり樓がありました。昭和20年には4軒(よか樓、松月樓、福徳樓、旭樓)が見え、女は10名に満たず。いくつかの飲食店もあり、「チャンス」などと呼ばれたカフェ兼ビリヤードなどもありました。昭和23年には隆盛を極め、桐萩入口には赤門が造られ女郎屋も急増。桐萩の賑わいも正しくは公娼によるものではなく、所謂赤線地帯です。赤線は昭和33年4月1日に売春防止法実施により消滅。この時期の桐萩には女の居る店、飲食店を兼ねながらの店が多く作られています。つまり赤線廃止後はバーやキャバレーという名のもとで私娼は生き残りました。つまり青線と呼ばれるものです。城ノ下側に、喜月、福徳、松月、よか樓、ときわ樓、えびす、西村、旭樓、末広など、桐萩側に、やよい、横綱、角力屋、池田屋、王将、菊水、ふじの屋などが立ち並びました。最も繁昌した頃でダンスホールなどもあったそうです。昭和40年代になると客足は遠のき、桐萩も廃れていきます。工夫された店もたくさんできましたが次第に消えていきました。函館屋、カトレア、ぜん、ともこ、黒猫、タンポポといった店などです。なお、桐萩とは場所が異なりますが、大きな料亭として蟹子沢の上に松の屋、鬢田に梅月がありましたが、いずれも廃業しており、梅月は取り壊され、当時を偲ぶものとしては庭の松くらいしか残っていないそうです。
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戦後の桐萩の女たちは10時に起床、午後早くに「城の湯」(赤門近くにありましたが焼失)に入り、午後5時に夕食をとり、その後化粧をして来客に備えるという生活でした。性病検査場は松月の向かいにあり、後には馬喰町の橋本医院で行われています。
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左側の建物が元松月樓。
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松月はかつての遊郭であり、後に旅館を営みました。
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松月の脇に金勢様があります。
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小祠と石碑が2基。
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傍らには石があり金勢大明神と刻みます。紀年銘は明治10年で「貸坐」の文字も見えます。常設の女郎屋が桐萩にできた頃と推定されます。
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その手前の石碑は残念ながら読み取れず。
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金勢様の祠。
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祠の大きさの割にはかなりの数が奉納されているのがわかります。
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個性的なものも。
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木札には「金勢大明神璽」とあります。
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遊郭の並びの向側。
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青線の名残です。
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上記にも出てきた「ともこ」の看板が残っていました。
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もちろん営業はしておりません。
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いかにもっていう感じの看板です。
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元福徳樓。
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3階建。
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現在は廃墟ですが、大変立派な建物です。
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階段の造りがいかにも遊郭。間違いないですね。廃墟のままになっているのがもったいないくらいの建物ですね。
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神棚に稲荷様も祀られていました。ちなみに不法侵入したわけじゃないですよ。窓ガラスが割れていて、道から中が見えるんです。
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その奥のみどり楼もかつての姿を留めているようですが、草木に埋もれている上に私有地のようになっていたので行っていません。
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道の駅いかりがせき(津軽関の庄)。
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碇ヶ関御関所の歴史…『津軽藩初代藩主津軽為信公が天正14年(1586年)に秋田比内の浅利氏を攻め、帰陣するときに当地に関所を設けたことから、それまでの碇ヶ岡という地名を碇ヶ関に改めました。幕府の記録には「厳重なる事箱根の関所も及ばない」と記録されていることから、碇ヶ関御関所の堅固さがうかがえます。また、碇ヶ関御関所は藩主が参勤交代の際、宿泊する御仮屋でもあり、ここで旅装に着替えました。道の駅いかりがせき敷地内に当時の様子を再現した御関所資料館があります。』
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旧関所跡の写真。懐かしいです。
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文化観光館入口に湯島天満宮様旧社殿の獅子頭があります。
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湯島天満宮様旧社殿の獅子頭…『湯島天満宮(東京都文京区)様は、学問の神様「菅原道真公」を祭神とする、千百年の歴史を持つ日本有数の名神社である。毎年その霊験にあやかるための参拝者が後を絶たない。また、数多くの歌などで知られる「白梅」がつとに有名である。平成13年5月、「碇ヶ関商工会」は旧社殿に鎮座していた4体のうち、2体の獅子頭をご寄贈をいただいた。同会は村おこしとして毎年8月14日、15日に「碇ヶ関御関所祭り」を主催しお神輿を運行しているが、そのご指導を依頼したことをきっかけとして湯島天満宮大祭、湯島白梅祭り、文京区祭りに毎年参加を重ねてきた。また、湯島の皆さんも「碇ヶ関御関所祭り」にお神輿指導と交流をかさねて参加された。このたび、この十数年におよぶ「お神輿」を仲人とした、「長年親しく築き上げてきた友好の証」としてこの獅子頭をご寄贈いただいたものである。この獅子頭は三百年以上の歴史を持ち年代的にも大変貴重なもので、「麒麟・獅子」など5つの動物が合体した非常におめでたいものである。また、平成13年10月当駅のグランド・オープンに際し、湯島天満宮様から「白梅」を2本ご寄贈いただいた。こちらは当駅の庭園に記念植樹していただいたが、毎年4月には華麗な花で、本格的な春の訪れを教えてくれている。平成17年9月7日全日展副理事長西谷逸泉』
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素晴らしいものです。
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間近に見ることができます。
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湯島神社見取図もありました。
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