くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ: 寺・神社 (六ヶ所村)

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青森県上北郡六ヶ所村倉内。小川原湖北の内沼近く。相沢川が小川原湖に注ぐ平坦地に鎮座。中志の産土様。
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社地付近の地名をハヤシと呼んでいますが、これは「神のハヤシ」のことであり、この川の古い呼称です。中志集落は藩政時代は倉内村の支村として扱われており、寛政年間の邦内郷村志によりますと、安永9年の調べで「倉内村三十五軒のうち中志七軒」とあり、この頃には既に神社が創建されていたと考えられます。社殿内には「天保十四年九月吉日再建」の棟札を所蔵。
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当地方では明神様といえば龍神であり、水の神を指します。
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中志では丹内様のお姿は蛇体であると信じ、内陣の内御堂には蛇体を描いた絵馬が納められています。他の霊地や神社から分霊もしくは勧請したものではなく、地元の自然崇拝から誕生した神社です。
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三間四方の社殿は昭和38年12月に再建、昭和63年4月21日に大規模修覆しています。内陣には丹内様の内御堂と並び、相沢川と合流している滝ノ沢川から名前をとった滝ノ沢大権現の内御堂も置かれています。滝ノ沢大権現の内御堂には明治25年12月20日銘の棟札が納められています。滝ノ沢大権現の獅子頭は中村家で保管(※社殿内にありました)。丹内様の御縁日は3月6日・9月6日。代々俗別当は駒形家でしたが、現在は中村家。
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丹内の地名はアイヌ語で「タンネナイ」といい「長い沢」という意味で、蝦夷館と呼ぶチャシ跡一帯に竪穴住居跡がかなり早くから発見されており、このチャシが中志に転訛したとも伝えます。明治22年の町村制により中志という村落名は消えてしまいましたが、字家ノ上・字道ノ上の地番にある集落は現在でも中志と呼ばれているようです。
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青森県上北郡六ヶ所村鷹架。新納屋部落。国道338号線沿い。むつ小川原港の西。鷹保沼の東。市柳沼の北。
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核燃料サイクル施設などが建設されているむつ小川原開発地域において唯一住民が暮らし続けていた新納屋部落の氏神様。後に集落は買収され、70代には約90戸あった住民のほとんどは土地を明け渡しましたが、住人の故小泉金吾(2010年・享年82歳)は核燃料基地の村となりつつある開発用地内で、85年からはただ一軒、最後まで移転に応じることなく抵抗を続けました。先祖の意志を継ぎ泉田神社も守り続けました。泉田稲荷神社は六ヶ所再処理工場反対の象徴とされている神社で、平成13年6月10日修繕改築。毎年6月10日を例祭日とし、反対運動の方々が集う神社として知られ、社殿には賛同者・協力者の名が連ねられ、その全員が了解しないかぎり、神社の解体・移転等はできないことになっており、これにより再処理工場の予定地は内陸へ移転せざるをえなくなったそうです。平成30年には全国反核有志らによって「泉田稲荷堂」の幟旗が寄贈されています。
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社殿向拝神額「天地眞明泉田稲荷堂」。
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社殿内。綺麗にされています。中央本殿。両脇に獅子・狛犬。由緒等については新納屋開村百年之碑の碑文も参照ください。明治6年3月10日、小泉金助と田中丑蔵の2人が三戸郡豊崎村から移住し、地引網イワシ業を始めた新しい漁村で、この明治6年の開村の頃から奥の院(石殿)は安置されています。その後、イワシの漁獲量は減少し、出稼ぎにより生活を支えました。耕地は全くの不毛の地で、昭和6年12月、工藤栄一と沼田正の2人が工藤農場を開き、初めてこの不毛の地に美田を切り拓きます。神社はかつて多くの氏子崇敬者で賑わいましたが、新城平への移転にて管理が困難になっていきました。昭和18年7月27日に改築建造し、泉田稲荷神社と命名。日清・日露戦争から太平洋戦争に至るまで、多くの出征兵士が村から出ていきましたが、一人も戦死者が出なかったことから、稲荷様の御利益だとして、新たに建て直しました。昭和45年3月10日に修復。奥の院には小泉金助、田中丑蔵らが祀った石殿が安置され、中には新しい一対の陶製狐像が安置されています。石殿の両脇に狛犬一対。
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新納屋開村百年之碑。
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裏面碑文…『新納屋部落は明治六年三月十日小泉金助 田中丑蔵両氏の当地移住に依って大平洋岸の砂丘地に地曳網による鰯漁業を営む集団網場に始まり 以来沿岸漁業を以て生計を立ててあったが大正末期より昭和の初めにかけて機械化漁業の圧迫によって急激に漁獲量を減じ生計の窮乏は年と共に加わり漁夫出稼等で辛うじて命数を保つた程の惨めな状態で有った 耕地を有する者当時三十余戸の内二割に満なかった 由来一望漠々として人の姿を見ず不毛の名を残すのみの山野にこの地を相して開拓に心を潜めた工藤栄一 沼田正の両氏は元平沼地区御料地の原野と米内山家の権利譲渡を受け昭和六年十二月工藤農場を創設し二期に亘り工事を進め昭和十二年八月遂に水田百三十三町歩畑三十町歩の開墾を完成するに至る この間百難千苦雲霧よりも多く其の因厄は実に言語に絶せしも不撓不屈この難事業を克服し又部落を挙げて努力を傾け人は和を供して萬頃の美田現出し不毛の汚名を消すことが出来た その後も部落挙げて耕地拡張に全力を注ぎ現経営総面積二百五十八町歩内水田百四十八町歩畑百十町歩之を耕作なす者八十六戸を算するに至る 又先住者の遺名を永遠に伝えると共に部落の氏神として昭和十八年七月二十七日清祥の気漲る社日を選び泉田稲荷神社と稱号し改築し落成の式典を挙ぐる 茲に相図り開村百年を記念し其の遺業と芳徳の概略を碑に刻み泉田稲荷神社の境内の丘に建て之を後世に伝う 昭和四十七年十月十日 新納屋部落一同建立 杉山武書 十和田市十一丁目加賀沢石材店刻』
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青森県上北郡六ヶ所村倉内。小川原湖北の内沼の岬の先・内沢橋近くに鎮座。内沼の産土様です。
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内沼は中志と連なる集落で、戦前まで渡船場がありました。増水した時は大変でしたが、水が少ない時には船を並べただけでも対岸に渡れたことから「因幡の白兎」に似た伝説を残します。鰐(ワニ)のような船を並べた入口付近に神社が建てられたことから「鰐口大明神」と名付けられたとも伝えます。いずれにしましても沼の安全を祈って創建されたことは確かです。
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神社を管理している俗別当は代々木村家で、内沼に初めて住み着いた木村家の初代直太郎が鰐口大明神を祀りました。直太郎は江戸時代後期の人物で、会津から移住してきました。平沼の修験である平郡左右治家所蔵の「霞支配棟札扣」によりますと「新造鰐口大明神堂 文政十年 大工松之助 内沼」とあります。つまり創建は文政10年です。
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元は鰐の上に神明様が乗った木彫神像が御神体として納められていましたが、戦後まもなく盗難に遭ってしまい、その後、昭和35年1月に社殿再建、昭和57年1月18日に新たに高さ15cm程の龍神立像の御神体が納められました。御神体とともに鉄製祈願鳥居も数枚納められています。例大祭は8月7日で、かつては前の晩にお籠りをして鰐口大権現の権現様をアソバセており、現在その獅子頭は木村家で祀っており、社殿には権現様の写真のみが飾られています。
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青森県上北郡六ヶ所村泊。
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由緒等は調べていません。拝殿向拝の蟇股・木鼻等。蟇股は最初狐かと思いましたが玄武ですかね。
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拝殿にも彫刻が施されています。
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天女もいました。
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海老虹梁・手鋏。
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拝殿内。地図では「泊神社」とだけありましたが、「勢至辨財天」であることがわかります。
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神社の目の前は泊漁港。
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泊漁港を見下ろします。泊漁港漁船陸揚げ場の先「中山崎」には中山稲荷神社が鎮座。
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中山稲荷神社はこの辺です。
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泊漁港漁船陸揚げ場にも鳥居・神社が見えていました。
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青森県上北郡六ヶ所村平沼。田面木沼のすぐ東。平沼警察官駐在所や平沼保育所のすぐ近くになります。
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かつての平沼村。村高は「正保郷村帳」9石余(畑のみ)、「貞享高辻帳」11石余、「邦内郷村志」「天保郷帳」ともに35石余、「安政高辻帳」28石余、「旧高旧領」35石余。「邦内郷村志」では家数36、馬117。「本枝村付並位付」によりますと位付は下の下、家数27。嘉永3年の家数18。天和2年に切支丹禁制、貞享5年に捨馬禁止の高札が立てられています。元和元年には酒屋数1軒と公儀へ届け、寛文7年海運に関する高札を地内に建てています。正徳2年公儀より船道高札と添札を調えるように達せられます。延享元年領内産物として白魚を書上げ。天明7年幕府より蝦夷地探索のための巡見使が泊浦より当地まで歩いています。また「東遊雑記」の著者古川古松軒が巡見使に随行して泊港より当地に来て1泊して岡三沢に向かいました。享和元年伊能忠敬は幕命により陸奥の海辺地図作製のため泊村に着き、この頃の地名として当村の名も記されています。また測量のために当村に立ち寄ったともいいます。天保6年「盛岡藩御国中分限者番付中」に当村の橋本久助が前頭23枚目に記されています。安政3年「太守様御巡国の節諸留写」によりますと、藩主は泊村秋田屋忠七宅へ泊り、翌日尾駮沖之丞家小休したのち当村久助家へ泊ったと記されています。文久3年野辺地野村治三郎の持船で御用銅・大豆・紫根を積んでいた神力丸が当村沖で暴風雨のため沈没し5人が死亡。
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御祭神は天照大御神。
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社殿は新しく感じます。神明宮は追館にある熊野神社よりも遥かに古いと伝えるも由来・由緒は不明。
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熊野神社創建時には神明宮の神楽が奉納されており、その詞・拍子・仕様等から推測すると、七戸の天王神社とほぼ同じ頃ではないかと云われています。七戸見町観音堂旧蔵「覚」によりますと、宝暦10年正月、平沼には熊野社と神明宮が見えます。別当は蓮華院。
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境内のアジサイ。
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