くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ:寺・神社 (岩手県) > 寺・神社 (二戸・一戸・九戸)

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岩手県二戸郡一戸町岩舘。「旧家レストランうらら亭」(築150年・大矢邸)付近から国道4号上を陸橋で渡って行きます。
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ちなみにうらら亭(18世紀後半より子守神社を代々管理)では、事前に祈祷予約をすると乳袋(新聞やラジオで報道された人気の乳袋)と子守神社の手ぬぐいを頂けます。乳袋の中身は子宝への願いを込めたお米で、日々のお食事に少しずつ混ぜることによって、神様の力を宿し子が授かり、手ぬぐいは女性が入浴の時に使用することで乳の出が良くなると伝えられているそうです。更にうらら亭敷地内には、樹齢300年の五葉松があり、隣の米栂の木と絡み合っているその姿から「夫婦松」と呼ばれ、夫婦円満の象徴として祀られています。子守神社の参拝と合わせ、夫婦で手を触れてみるとより一層の効果があると言われているそうです。子守神社に参詣する際はうらら亭に立ち寄ることをおすすめします。
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うらら亭が見えます。
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子守神社は日本各地に存在する神社で、一般的に子供の守護神としての「子守神」を祀る神社であり、氏神とされたり、氏神神社の境内に末社として祀られています。籠守、子護などとも書かれる場合があります。
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子守神社には2つの系統があり、1つは水分神、もう1つは熊野本宮大社第八殿子守宮の系統。水分神は本来水神ですが、「みくまり」が訛って「みこもり(御子守)」となり、子守神ともみなされるようになりました。総本社は吉野水分神社(奈良県吉野町)。熊野本宮大社第八殿子守宮は『梁塵秘抄』に「神の家の子公達(きうだち)は、八幡の若宮、熊野の若王子・子守御前」と詠まれた熊野権現の御子神。この系統の神社には、藤白神社(和歌山県海南市)末社の楠神社(通称子守社)などがあります。
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当子守神社は正徳6年(享保元年)に創建され、18世紀後半から大矢家が守り継いでいます。
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子授けや安産、縁結びの御利益があると伝わります。
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近年、メディア等に取り上げられ、また、参拝後に実際に子どもを授かった夫婦からの口コミも広がって、子宝祈願のパワースポットとして全国各地から参拝客が相次いでいるそうです。
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地元では昔からおっぱいの神様(胸の病気から守る)として親しまれていたそうで、東方には「おっぱい山」として信仰を集めている「二ツ森」という山もあり、神社付近一帯が女性のパワースポットとなっているそうです。
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拝殿内。
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境内石祠2基・石灯籠1基。
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もう1つ境内からの道がありました。行ってないのでわかりませんが、他にも参道があるのかな。
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境内案内板より…『子守神社は、江戸時代中ごろ、正徳6年(1716)に創建されました。18世紀後半より、大矢家初代大矢嘉兵衛が、別当として鎮座まします子守神社を守ってきました。その後現在まで、代々受け継がれています。創建以来、三百年もの永い間、地域の氏神様として、又、縁結び・子授かり・安産・お乳を守る(母乳がよく出る、乳ガンにかからない)・子どもを守る(災難、事故、病気など)・子育てにご利益のある霊験あらたかな神社として、地元はもちろん遠来からも篤く信仰されている神社です。現在のお社は、大矢家七代目大矢嘉平が昭和31年に再建したものです。例大祭は、毎年旧暦3月3日に執り行われています。平成26年5月吉日、子守神社を守る会』
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岩手県二戸郡一戸町。国道4号線沿い。COSMO石油向かいに駐車場。この付近は北館跡です。駐車場・一戸公園となっています。
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駐車場にこんなものが。子どもたちの遊びでしょうか。
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ここから下(左・南)に向かうと八幡館跡、神明館跡、常念館跡と順に下るような配置です。上(右)が北館。
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特に案内看板等があるわけではないので、素人にとってその遺構等を楽しむには、下調べ無しでは難しいかも知れません。
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石祠。何かはわからず。
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北館跡から八幡館跡へ少し下った場所には三神社が鎮座していました。
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八幡館、神明館などとあることから三社託宣の三社かと思ったのですが、合祀された三神かも知れませんし、いずれにせよ由緒等はわかりません(調べていません)。館神といった雰囲気ではありませんでした。県外の神社なのでこれ以上の追究はいたしません。
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社殿。
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向拝神額。
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拝殿内。中央に本殿。
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反射してよく見えませんでしたが、横にはやや大きめの静御前らしき人形が祀られていました。
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三神社の鳥居の脇に「史跡一戸城跡」の標柱があります。
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この標柱にも特に説明はありません。
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三神社脇にあった馬頭観世音の石塔。結構大き目の石塔です。
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紀年銘は慶應3年卯7月(1867)。
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高台にあるのはわかりますが、草木によって眺望はありません。季節によるかも知れませんが。
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北館へ。
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さて、一戸城は戦国期の平山城で糠部郡一戸に所在します。
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城跡は一戸町北部中央の馬淵川右岸、比高60mの台地上に位置します。国道4号線により分断されています。
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主要郭は南北に連続した段丘崖の高台部を利用した北館、八幡館、神明館、常念館の4つの郭で構成されていました。主郭は神明館であったと考えられているようです。
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一戸南部氏の居城であり、築城は室町期の建長年間(1249-1256)一戸南部氏の2代目南部義実によるものとみられています。天正9年(1581)城主一戸兵部大輔政連父子は実弟の平館政包により殺害されて一戸氏の嫡流が滅亡し、一戸城には九戸政実の腹心の一戸図書が入りましたが、南部信直は一戸城を攻め落とし、北主馬秀愛を城主とします。天正19年(1591)九戸政実の乱では籠城して九戸氏側の夜襲に耐え、乱の後は石井信助が城代となりましたが、天正20年(1592)「諸城破却書上」には「糠部郡之内 一戸 平城 破 信直抱 代官 石井新助」とあり破却されました。昭和54年以降、北館、八幡館、無名郭などが発掘調査されているそうです。昭和63年に出土した馬の焼印は、中世糠部の馬産を考える上で唯一の資料と言われています。
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ベンチがあります。
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座っても草木によって眺望はありません。
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中央にある松だけ周囲を柵で覆われていました。よく見えませんが、根元は塚のようになっています。特別な由緒でもあるのでしょうか。
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案内板等もありませんが、いずれにせよ綺麗な三頭木でした。
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四阿。
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赤松と石碑群。
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一戸城跡とは直接関係のないものでしたが紹介します。
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石灯籠一対(昭和45年5月吉日)。
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忠魂碑(明治40年6月)
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裏面に日露戦歿戦病死者。
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両脇に顕彰碑(陸軍・靖国神社創建百年記念事業として建立・昭和45年5月・一戸町遺族連合会)。地区別(一戸・鳥海・浪打・姉帯・奥中山)、戦争別(満州事変・支那事変・大東亜戦争)。
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平和之碑(岩手県知事中村直書)。
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裏面碑文…『昭和6年9月18日、満州事変勃発、支那事変から大東亜戦争へと長い戦争が続き、多くの戦友が祖国の安泰を希って戦場に斃れ、或は水漬屍となって散って逝った。僥倖にも私達は九死に一生を得て祖国に還って耒たが、戦傷をうけた私達にも長い苦難の生活が続いた。然しながら現在の日本の繁栄と、国運の隆盛を見るとき実に感慨無量である。私達は子孫のために悲惨な戦争のない真の世界平和を念願し、戦死された戦友達の為に心から冥福を祈り、傷痍軍人有志の賛同を得て、平和之碑を建立してその名を刻し、永久にその意を顕そうとするものである。昭和59年3月吉日岩手県傷痍軍人会一戸支会』※傷痍軍人名省略
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創立二周年記念植樹標柱(染井吉野桜・ロータリークラブ・昭和62年4月)。
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消防士義魂碑(昭和6年4月・一戸、鳥海、小鳥谷、姉帯、田部消防組)。
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日露戦争凱旋紀碑(明治40年6月建立)。
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碑文。
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地図によると月山神社から直接伝長慶天皇御墓へ行く道がありますが、私は一旦毘沙門堂まで戻ってきました。
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毘沙門堂横にある神水の池。草でちょっと見えにくかったです。
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神水の池…『古くからこの池の周辺はよく清められ、池中には神水を深く湛えていて、参詣人が黙念して「おひねり」を投じ、その吉凶を判断する場所であった。』
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神水の池の横に金剛社。
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金剛社内。大日如来坐像(智拳印・蓮華座・二重円光)。
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毘沙門堂から伝長慶天皇御墓へ向かうには月山神社と反対側の道へ進みます。
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普賢堂。
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想像以上の末社数ですね。すべて参拝する方は相当小銭を持ってきた方がいいかも。
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普賢堂内。
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こちらはくずし字のため平成生まれの私には「塚」しか読めず。
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紀年銘は平成20年5月吉日…平成かいっ!
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伝長慶天皇御墓入口の案内板が見えてきました。
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110mの上り坂です。
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伝長慶天皇御墓。
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伝長慶天皇陵…足利幕府と対立した後醍醐天皇の孫、南朝の長慶天皇の墓と伝えられています。その葬列が始まりとされる天台寺の神輿行列は、本堂の周りを静かに3周するという特殊な形式です。
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ちなみに天皇は譲位後に南朝勢の協力を求めて、各地を潜幸したという伝説があり、全国に御陵伝説地が点在しています。
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伝長慶天皇御墓に月山神社への道がありました。150mのようです。やはりこちらの方が近いですね。
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伝長慶天皇御墓入口の案内板まで下ってきました。先に進みます。
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稲荷社。
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稲荷社内。
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大日堂は標柱のみ。
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蔵王堂。
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蔵王堂内。木造蔵王権現立像。
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天神堂。
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天神堂内。
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一王子堂跡。
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一王子堂跡…『一王子堂については詳らかでない。堂の側面の道路は旧桂清水及び祓川(長流部川)に通じ、別名福岡通り又は裏門ともいう。』
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道は本堂を一周している感じです。
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白山堂。
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白山堂内。棟札(昭和58年5月5日)。
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馬頭観音堂。
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馬頭観音堂内。
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恵比須堂は標柱のみ。
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北白川宮成久王殿下御台臨紀念碑(大正4年9月1日・侯爵西郷従徳謹書)。
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山王社。
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山王社内。ってことで本堂を中心にぐるっと回って鐘楼堂付近まで戻ってきました。
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長きに渡りお読み下さった皆様、ありがとうございました。これでも内容的には結構大雑把に書いたつもりです。ちなみに今回のルートと現在地。
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これまでの記事とその位置。また訪れてみたいお寺でした。
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