くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ: 寺・神社 (南部町)

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赤石十二神社。三戸郡南部町赤石待場。県道134号線沿いに鎮座。
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赤石けやき(町指定文化財)。赤石地区の歴史を見守ってきたけやきの木。高さ約22m、周囲約7m、推定樹齢約320年。
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3.5
根元に大きな瘤が多い木です。
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4.5
神社入口右手に池がありました。
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道路を挟んで神社の逆側にも水が湧いている場所がありました。
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石祠。神札(十二神社靈)があります。
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念佛供養塔など。
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8.5
湯殿山・月山・羽黒山の石塔と金毘羅大権現(慶應3年10月10日)の石塔。
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十和田山(弘化4年)と巖手山(明治30年)の石塔。
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狛犬一対(昭和9年3月26日・伊勢参拝記念)。
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11.5
赤石舘跡…『赤石の東、馬淵川右岸に臨む断崖に位置する。天正(1573-92)の頃には桜庭安房の居舘であった。天正20年の諸城破却書上にはみえないので、この頃すでに廃棄されていたものとみられる。桜庭安房は、戦国時代より南部氏の重臣として活躍し、子孫は盛岡藩高知の家柄として、藩政を担った。同氏は元和6年(1620)に没し、三光寺に墓所がある。』
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赤石旧跡図。周囲に館跡、遺跡などたくさんありますね。
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二之鳥居。
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狛犬一対。
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末社。
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稲荷宮のようです。
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17.5
参道石段。
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石段上。
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狛犬一対(明治21年9月6日)。
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なかなか個性的でございます。
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21.8
石灯籠一対(文久元年7月22日)。
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22.5
赤石十二神社の御祭神は天照大神・外十一神。『水神竜神 十和田信仰』(小館衷三)に、「南部町赤石の十二所神社は熊野系の神社であるが祭神の一人におかみ神があり(以下省略)」とあります。
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祭日は9月8日。長谷山上にあった月山・天神・薬師の三社の一なる薬師堂を天延元年(973)3月5日に、本村字上平に遷座。更に寛政9年(1797)4月に現在地に遷座。南部家27代利直公の令室が眼病に悩み、当社に祈願して平癒を得、以後祭典毎に御初穂を奉献したと伝えます。明治12年村社列格、明治42年幣帛供進指定。
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蟇股・木鼻。
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25.4
25.8
手挟・海老虹梁。
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26.5
拝殿内。
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27.4
27.8
拝殿前の手水石(明治2年11月吉日)。
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末社稲荷神社。
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達者村百景。眺めることにより心が癒され、達者(健康)になれるような南部町内の優れた景観ポイント100箇所を「達者村百景」として選定しているようです。
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狛犬一対。
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石灯籠一対。
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御祭神は土祖神。
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狛犬一対(昭和19年)。
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石灯籠一対。
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御神馬一対。
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かつての平村で、枝村の若宮村には若宮八幡(若宮八幡宮は宝暦5年「常林寺門間数改書上帳」に「堂四尺四方、享徳3年建立、施主岩間□□□東□儀兵衛、別当見正坊」と見え、「国誌」には応安7年12月の勧請とあり、仁王像があります。)があり、枝村宗前村には馬神を祀る宗前(蒼前)神社がありました。
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この若宮堂と蒼前神社を合併して今日の神社に整えられ、昭和5年には現在地に新しく社殿を建てています。なお、上記のとおり、若宮堂は享徳3年(1454)に東氏二代目の信政が祀ったものと伝えられています。宝永7年(1710)「八戸藩勘定所日記」に、下名久井若宮堂とあり、堂を建てるときには藩から必要な用木などがつかわされました。
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拝殿蟇股。
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木鼻。
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手鋏・海老虹梁。
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拝殿内。
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拝殿前の手水石。
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平神社の沿革…『一、若宮八幡宮:応安7年12月28日(1374年)。三戸郡名川町大字平字若宮前55。祭神を土祖神として創建。二、蒼前神社:天正2年正月19日(1574)。三戸郡名川町大字平字相前。馬護神として創建。祭神保食大神(豊受姫命)。三、平神社:昭和4年10月15日着手。昭和5年4月5日完成(1930)。三戸郡名川町大字平字若宮前一番地。平尋常高等小学校跡地。寄付を受け若宮八幡宮と蒼前神社が合併移転。村社平神社と改称。平成7年8月18日(1995)平神社責任者佐藤政八。』
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幣殿・本殿。千木外削ぎ、鰹木4。
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平神社鳥居新築・境内土留工事記念碑。
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記念碑には剣や狐。
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そして両側には馬。
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神楽殿。
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石塔群。
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石塔群前に石灯籠一対(天保4年7月19日)。状態は良くありません。
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石塔は金毘羅大権現、有縁無縁三界万霊塔、南無阿弥陀佛百万遍供養等(平村念佛講中)、百万遍供養塔、三界万霊等、庚申塔、山ノ神、庚申塔など。
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一部読み取れない石碑もありました。
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凱旋紀念碑。明治37・38年、日露戦争。
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御神木のイチョウ。
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仁王様鞘堂(平成11年8月19日)。
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狛犬一対(弘化2年7月16日)。
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どちらも阿形に見えますね。
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背中に綺麗な穴があいていました。
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石工。
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石燈籠一対(天保15年3月11日)。
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仁王様一対(文政6年4月吉日)。
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なかなか個性的でございます。
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片方は紙だらけ。
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参詣者が自身の体の悪い箇所を紙で撫でて、その紙を濡らした後、仁王様の同じ部位をめがけて投げつけ、紙が当たるとその箇所が良くなるという風習が昔からあり、現在も一部の地域に残っています。
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なお、この仁王様の作者は不詳のようです。
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南部町大向経ケ森。三戸駅からも比較的近い場所。入口は2ヶ所ありますが、いずれの入口にも案内板や鳥居が無いのでわかりにくいです(厳密にいえば本殿裏手からも行けるようになっていたので3ヶ所)。
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道路からはこのような感じで神社と鎮守の森が見えているので、何となくわかるとは思いますが。
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思っていたより境内が広いですね。
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向大神宮。
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正面石段。
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石段の脇にあるこの松が何か凄いです。
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三頭木ではなく、3本の松がそれぞれ根っこで繋がっている感じ。
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石段の下から見るとこんな感じ。
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こちらもある意味似たような感じですね。
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向大神宮社殿。
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向拝神額「大神宮」。
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社殿内。
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向大神宮経ヶ森由緒…『向大神宮には、古来から「小田子様」と称せられる「火の神」を奉齋していたと伝えられる。その後、安政元年、極檀忠太翁が仲間(名不詳)を集めて、本殿の部分を建立した。初代別当は、工藤與五七(弘化元年2月10日生、1844年)なるものが仕え、明治4年、與五七が27才の時、伊勢の皇太神宮を参詣、そのおりに神明様(祭神天照大神)を御分霊拝受して経ヶ森の向大神宮お奉齋したと伝えられている。明治の時代に、大洪水に見舞われ経ヶ森の下までの増水となった。この時、別当與五七が一心不乱に経文を唱えると、溢水していた水も次第に少くなり危うく一難を免れたという。この様に経文を唱えた御利益から、この地を「経ヶ森」と称するに至ったとの説がある。現在本殿に祀られている御神体…天照皇大神御分霊・愛宕大権現御分霊・小田子様。経ヶ森境内には主尊…不明、石造、寛政11年己未7月吉日。稲荷社…木造。阿保原地蔵尊…虫歯の神様。金毘羅…十和田、石造、安政4年丁巳7月。明神様。』
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本殿覆屋・火の見櫓。
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御神木の松。こちらの松も独特な形。
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末社の稲荷社。
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稲荷社内。
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棟札には「新築経ヶ森稲荷神社覆堂壱宇・平成2年11月3日」とありました。
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これまた独特な形の松。
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阿保原地蔵尊。
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下部に「刈田郡」と彫られています。
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象頭山金毘羅大権現・十和田山青龍大権現。
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安政4年丁巳7月。
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明神様。数字が見えるも紀年銘はわからず。下部分が欠損していると思われます。
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主尊。寛政11年己未7月吉日。
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招魂之碑(明治44年9月・帝國在郷軍人會向村分會建立)。
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招魂之碑修復寄進者御芳名(平成4年7月23日竣工)。
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眺望。
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社号標(昭和23年春祭・奉納岩舘春次郎)・玉垣(御鎮座1100年祭記念・奉祈皇國之独立隆昌・昭和28年9月5日奉納)。
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北海道神社参拝詩碑(昭和52年8月23日・北海道神社参拝団)。
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大きな井戸。
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って井戸なのか池なのかはわかりませんが。
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御神水とあります。
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その横にある小祠。
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蛇(竜神)が祀られています。
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腰掛石2基。町指定文化財(昭和55年3月26日)。聖寿寺館(本三戸城)に放火した赤沼備中と、それを追いかけた下斗米昌家がこの場所で戦い、勝敗がつかないまま互いに疲れ果て、腰を下ろして休んだと伝えます。元は諏訪神社の後方、国道(旧八戸街道)を挟んで北側に赤沼石があり、南側に下斗米石があったといわれていますが、いつの頃かここに移されました。二つ並んでおり、大きい方が赤沼石で、小さい方が下斗米石といわれています。
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腰かけの石…『赤沼備中守と下斗米覚左衛門とが合闘したが勝負がつかないので、道端の石に腰をかけてひと休みしてから馬淵川のまん中で決闘した。その時腰をかけた石だと云われている。』
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参道石段。
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石段上にも社号標。
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石段上からの一之鳥居。
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石灯籠一対(文久3年7月27日)。
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諏訪神社は三戸郡南部町玉掛諏訪ノ平に鎮座。諏訪ノ平駅の近くです。
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御祭神は建御名方富命、八坂刃賣命。祭日は9月5日。御利益は国土開拓、武運長久、農業守護。
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南部藩主光行公が甲州から入国に際し、新領開発・藩中安全の守護神として、建久3年(1192)7月27日に諏訪平に創建(もしくは同年長野県の諏訪大社から分霊し、2代の実光が承久3年(1221)に現在の同町諏訪ノ平に祀ったと伝わります。)。以来累代の藩主に篤信されたと伝えます。当地方著名の神社として多くの人々に崇敬され、明治23年4月5日郷社に列せられます。大正12年2月3日幣帛供進神社として指定。神事の供え物は特徴的で、「特別神饌」と呼ばれ、宮司が伝統に則り赤飯や甘酒、焼き魚などを作って供えます。宝永7年(1710)の火災により貴重な史料が失われたものの、特別神饌を盛岡城に届けたとの記録や、その際に用いた木製黒漆塗りのお神酒入れが現在も残ります。また、明治に入って近くの寺が廃止され、その際に檀家を引き受けており、この地域の葬儀で神葬祭が多いのはその名残だと云います。宮司が女性というのも珍しい神社です。
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拝殿内。
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本殿覆屋。
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拝殿前の手水石(明和5年7月21日)。
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「梶」の親木。
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梶の木は神道では神聖な樹木の一つであり、諏訪神社などの神紋や日本の家紋である梶紋の紋様としても描かれています。由来を読んだところ、こちらの木は「梶」と名付けられた木の親木とのことです。
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梶の由来…『雨が降っても われもしないで 腐りもしない 文吾とも 大助とも違う 不思議なことだ 実は とても美しい そしてとても甘い そして実がうむとわれ易いので シソの葉に巻いて梅干にするには一番良い 実が甘いので梅酒には最上である と 諏訪平の佐々木要一郎さんが四十年の間一生懸命に研究しました そして 梅の実に 細かい毛のようなものが沢山生えているのが分かりました これは不思議な梅だ この梅は諏訪様の宅にある三百年も経っている古木の孫木だから御神木であろうというので佐々木さんが 私に この不思議な梅に名前をつけてくれとのことになりました 私は諏訪の大神さまにお願いして諏訪様の御神紋である梶の葉をいただいて梶 という名前をつけることにしました 佐々木さんがとても喜びまして昭和四十九年十一月六日に 諏訪様の御本社である 長野県の諏訪大社に私といっしょに 御礼参りに行ってまいしりました そして この梶の梅のことを 皆さんにお知らせして 諏訪さまの御神徳をお伝いし この梶を地方の名産として普及したいものだと 熱心に働いています このたび 私は 梶の親木である枯木を 私の宅から 神前に移し 梶の由来を記して梶の親木が腐らないように屋根をかけ 記念の碑を造り 末永く御神徳を仰ぎ 梶の実のお陰をいただく人が多くなりますようにと佐々木さんにおたのみして 親木の移転と記念碑を造っていただいた次第であります 昭和51年9月5日第31代諏訪神社宮司石井昌胤 歌詞 諏訪平 佐々木要一郎』
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境内社。
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夫婦稲荷神社です。
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立派な社殿です。
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社殿前には大小二対の狐がいます。
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こちらは諏訪稲荷社。
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本殿横に鎮座。
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裏参道。
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裏参道入口の鳥居。
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社号標。
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「南部藩主祈祷社」。
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狛犬一対(昭和10年11月26日)。
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手水舎(昭和18年9月5日奉納・栗生春次郎)。
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御神木。
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こちらはかつての鳥居でしょうか。よくわかりませんが。紀年銘は昭和17年11月です。
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忠魂碑・招魂碑・祖霊社。
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神楽殿。
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社務所。
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三戸郡南部町下名久井鍛冶長根。法光寺別院跡、犬房坂上。
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下名久井村は江戸中期に名久井村が当村、高瀬村、平村、上名久井村、鳥下内村、鳥谷村、法光寺村、泉清水村に分村して成立したと考えられます(諸説あり)。
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神社として八坂神社と白山神社(高瀬村諏訪神社に合祀されるも、現在は白山下河原の南方台地白山に在り)が見えます。八坂神社は元文2年草創と伝え、奇峯学秀による牛頭天王像を安置し、村民の信仰が篤かったそうです。
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八坂神社の御祭神は素戔嗚尊。祭日は7月15日。下名久井城の東にある城の守り神。境内には牛頭天王堂がありますが、ここの御本尊が上記で説明した奇峰学秀(田子町・青森円空と称される江戸時代中期の僧侶)が造った牛頭天王像です。明治初年の神仏分離令により、牛頭天王と同じものとされる素戔嗚命を御祭神として八坂神社を新しく建て、産土神とし、牛頭天王を末社としました。
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社号標(昭和13年7月15日)。
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狛犬一対(明治34年6月14日)。
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石燈籠一対(文化13年7月吉日)。
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手水石(文政12年6月15日・奉納御寶前)。
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拝殿。
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蟇股・木鼻。
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拝殿神額。
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本殿。
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末社。
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末社。
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こちらには釈迦如来っぽい坐像が祀られていました。
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紀念碑(明治37、8年)。明治三十七八年の紀年銘は日露戦役記念碑です。
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牛頭天王堂。
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奇峯学秀作の木造牛頭天王像は町指定文化財。像高約70cm。牛面を額に施し、髪を逆立て、目と眉を吊り上げた厳しい表情をしており、左手に斧、右手には羂索を持ち、堂々と台座に座っています。顔は胡粉と朱で彩り、これまでの学秀の作柄とは異なります。牛頭天王は京都祇園の八坂神社の御祭神で、疫病を防ぐ神であり、薬師如来を本地仏とし、神道における素戔嗚尊と同体であるとされています。この牛頭天王像は同時期に奉納された棟札から、学秀入寂の2年前にあたる元文2年(1737)に、名久井村三書林顧養庵(法光寺の隠居寺)で余生を送っていた学秀が、名久井村の梅内宇兵衛の依頼で製作し、牛頭天王堂に納められたもの。製作年代が棟札から明らかになっている上、その年代から学秀最後の作と考えられます。
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牛頭天王棟札(長さ90cm)も町指定文化財。裏面には学秀の署名と花押があり、学秀仏とともに納められた棟札としては現存する唯一のもの。表の墨書きは『聖主□中天 五日市村梅内宇兵衛實武与申仁有之 迦陵頻伽聲 知善悪之業知過去現在未来捨悪 哀愍衆生者 取善禅者成然當所従古来牛頭天王 我等今敬禮 之宮有之新作天王為菩薩因願望成就畢 元文二乙巳年七月十七日施主梅内宇兵衛實武』。裏の墨書きは『牛頭天王作者 八戸大慈寺六世奇峯學秀 花押』。八坂神社境内にある間口2間、奥行1間半の牛頭天王堂に牛頭天王像とともに置かれています。
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奇峰学秀(生没年不詳-1739)は現在の三戸郡田子町出身の江戸時代中期の僧侶。岩手県九戸村伊保内の長興寺7世(一説に11世)住職を務めたのち、八戸大慈寺の6世として迎えられ、正徳2年(1712)には千体の観音像を彫って八戸藩の各地に寄進。更に10年後の享保7年(1722)には、田子町の釜淵観音堂において再び千体の観音像を彫りました。弥勒菩薩像や十一面観音像は田子町の姥ヶ岳神社に残され、地方仏師の貴重な作品として県重宝に指定されています。晩年は五日市の三書林顧養庵(法光寺の隠居寺)で余生を送っていたと伝え、元文4年(1739)に入寂し、三書林顧養庵の墓地に葬られました。
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牛頭天王像前には牛がおりました。こちらは指定文化財ではありません。
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反射して見にくい碑。出羽三山。台座には青森県神和講とあります。
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裏面碑文は拝詞…『「あやにあやに奇しくたふと月山大神の御前を拝み奉る」「あやにあやに奇しくたふと出羽大神の御前を拝み奉る」「あやにあやに奇しくたふと湯殿山大神の御前を拝み奉る」昭和53年5月吉日』
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庚申塔。
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湯殿山・十和田山・金毘羅山。
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羽黒三山(慶應3年)
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十和田山(天保)。
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金毘羅大権現(安政2年4月10日)。
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五日市城(下名久井城)の由来…『鎌倉幕府御家人の工藤祐経(源頼朝の重臣)の長男でもある犬房丸(工藤祐時)は、訳(曽我物語)があってこの地を賜り五日市に築城した犬房丸伝説がある。犬房坂(いばさか)と言い伝えられる坂があり、由来として語り継がれている。それに工藤祐時の子息も居城と言う伝説もある。あるいは平泉の藤原氏の討伐の功績により源頼朝から糠部地方を拝領し、鎌倉幕府御家人である工藤小次郎行光の弟の祐光(又は資光)が、文治5年(1189年)~建久9年(1198年)頃、五日市村に下向し築城したと言われている。五日市城は7つの館(大舘、外舘、仁良舘、和舘、東舘、絵舘、古舘)を形成し、本城(大舘)には舘神があり、集落内には家来の屋敷(在家、台所屋敷)、施設の跡(鍛冶長根、元町)、後家堀(ごけっぽり)など、城跡に由来する地名が現在もある。北西に馬淵川、南に五日市川(如来堂川)、東には油川が流れ、約250町歩の広さを領有し、唯一の水源がある東舘の遠方の助川方面より用水路の造成を為し、七舘まで水を引き堀を巡らせて本城を防衛した。舘跡の其の遺構からも堀割が重要を為し、さらに五日市川、油川の段丘と湿地をも利用した、大規模で守りのかたい天然の要塞でもあった。尚、里人の言に依れば天文年代(1532~54年)に、三戸南部氏の宗家24代南部晴政の家臣、赤沼備中が五日市城主であると言われ、赤沼という地名も現存している。その後の五日市城は城主不明となり、様々な諸説はあるが慶長3年(1598年)の「三戸舘持支配帳」には載っていない謎に包まれた城跡となった。昭和に入り諸事情で八坂神社周辺の堀跡と池、その他の堀跡、用水路も埋め立てられた箇所もあるが、名久井岳を真向かいに望み、風和む丘の五日市は自然の災害も少なく温暖な気候と豊かなる郷として中世の面影を今に伝えている。平成24年3月吉日』
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五日市舘跡の図。
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