くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ: 寺・神社 (神奈川県)

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大本坊。大本坊は第二次世界大戦の戦禍で消失し、同時に大本堂も失ったため、一部改造・荘厳を施して昭和20年12月から仮本堂として活躍した建物です。その後、大本堂再建の日まで仮本堂として使用され、昭和33年5月に御本尊様は現在の大本堂へ御遷座が行われました。
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浄光殿。
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消防記念碑(明治20年)。
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江戸消防記念碑…『東京消防組の発起にて建設された。その趣旨は、享保年間、江戸町奉行大岡越前守忠相、江戸市中へ町火消というを設け、その名の区別をいろは文字のように、48組とした。爾来、明治の初めまで組の名を残していたが、その起元を永久に伝えるために、明治21年石工、酒井八右門起工せるも、いろは歌は弘法大師の御歌なので当山へ建立したという。』
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忠魂碑(明治42年1月)。
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植木供養之碑(献木いちょう・昭和51年)。
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忠勇之臣碑(明治38年8月)。
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高浜虚子句碑「金色の涼しき法の光かな 虚子」。
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句碑之由来碑…『昭和33年5月14日再建新本堂へ御本尊御遷座の式典修行の砌當山玉藻句会は俳壇の巨匠高浜虚子翁を招じて記念句会を開筵した。其際の翁の献句を建碑して御遷座一周年記念とする。ちなみにこの句碑の揮毫は翁の絶筆である。昭和34年5月14日大本山川崎大師平原寺第44世隆天。この額字は虚子翁次女星野立子女史毫』
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施茶翁碑(天保6年)。
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大法要奉修記念之碑。
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六世竹本綱大夫碑(明治16年9月24日)。
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六世竹本綱大夫の碑…『竹本及び斯道の人々の寄進にして題字は8世其角の筆。辞世の句に「ものいはで立出るなり秋のくれ」』
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大願成就浅間大神碑(大正10年11月)・大師登山會碑(昭和14年6月)。
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青木正太郎翁壽碑(昭和6年)。
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鶴澤勝造君碑(大正5年10月)。
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種梨遺功碑(大正8年3月)。
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種梨遺功碑…『長十郎梨の良種を発見した当麻辰次郎(文政9年・1826-明治38年・1905)遺功の碑。碑文に「長十郎梨、豊産にして美味、頗る良種」と讃えている。大正8年(1919)3月の建碑。』
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力石5基。
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力石…『この力石は、むかし当山の境内で若者たちの力くらべに使った石である。左の2つは「さし石」といって、これを頭の上までさしあげた。大きい方は、36貫ある(135キログラム)。右の3つは、「おったて石」といい、これを起して、まっすぐに立てた。一番大きいものは、100貫もある(375キログラム)。これが出来た者は、一人前とみなされた。』
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橘樹郡出身征清陣亡軍人招魂碑(明治29年)。
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永代植樹記念之碑。
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正岡子規句碑「朝霧の雫するなり大師堂 子規」。
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句碑之由来碑…『明治の俳聖・正岡子規(1867-1902)は明治27年(1894)11月3日に川崎大師を参詣され俳句を詠まれた。当山では平成26年の大開帳奉修を記念し、子規直筆の句集「寒山落木」より、当山に縁の句「朝霧の雫するなり大師堂」を建碑し、永く子規の足跡を記すものである。平成26年5月1日』
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つるの池。
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つるの池…『この池は、元はひょうたんの形であった。往時は多摩川から分水した二ヶ領用水が池に入り、鶴や鴨が悠々として遊んだという。昭和9年大本坊建立により大半が埋められ今日の形となった。中央の亀を模した岩の三羽の鶴が往時をしのばせる。』
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やすらぎ橋。
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やすらぎ橋…『平成26年大開帳奉修記念建立。お釈迦さま、お薬師さまへと続く朱色の橋。古来、朱色は災難を除き、幸福を招くといわれております。欄干には悟りへと向かう段階(発心・修行・菩提・涅槃)を表す種字(梵字)20文字が刻まれています。やすらぎ橋を欄干伝いに渡り、清らかな心でお釈迦さま、お薬師さまにお詣りください。』
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釈尊像。つるの池に架けられたやすらぎ橋を渡ると降魔成道釈迦如来像を参拝することができます。
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降魔成道釈迦如来像(開創850年慶讃記念造立)…『29才で出家された釈尊は6年の苦行の後、菩提樹の下で禅定に入られた。種々の悪魔が現れて誘惑し、あるいは脅迫して妨害したが、釈尊は悉く退け、成道(悟りを開く)された。この時、釈尊は左手を膝の上に置き、右手をのばして大地をさした。このお姿を「降魔成道」という。昭和52年開創850年記念として造立され、前年12月8日釈尊成道の聖日に入仏開眼法要を修行した。胎内には、インド大菩提会を通じて勧請された真身仏舎利が奉安されている。毎年12月8日、成道会法要を修行。製作・元亜細亜現代美術展副理事長、元日本陶彫会会員、彫塑家矢崎虎夫氏(1904-1988)』
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三世桃隣句碑(享和元年)。
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信徒休憩所。平成26年当山吉例十年目毎大開帳奉修記念事業として、つるの池池畔に建設。
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木蓮(平成19年・開創880年記念)。石柱はかつての裏門(西解脱門)かな。
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薬師殿。開創880年記念事業として平成20年11月1日に開設。堂内には薬師瑠璃光如来尊像、薬師瑠璃光如来を信仰する人々を守る武神である十二神将が奉安されています。また、御本尊薬師瑠璃光如来の御分身・なで薬師が奉祀され、撫でることにより身体健全、病気平癒が祈念できます。
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薬師殿の前にいるとカンボジアにでもいる気分(笑)
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至真門。
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昭和53年再建立。鉄筋コンクリート造りで、信徒会館の南玄関に通じ、薬師殿への入口に位置します。ブロンズ製の扁額は当山第44世中興第1世貫首(隆天大和上)の揮毫。
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信徒会館。
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41.5
弘法大師御誕生1200年鑽仰と、昭和49年大開帳奉修の記念事業として建設。
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金色に輝く宝塔は御本尊厄除弘法大師のご誓願宣揚と正法興隆を目指す根本道場の象徴。
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古賀政男先生像(昭和59年)。
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台座には「川崎大師讃歌」の譜面があります。
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水子地蔵尊(平成元年)。
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しょうづかの婆さん(寛文11年)。
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しょうづかの婆さん…『人は死後三途の川を渡るという。その川の奪衣婆、すなわち「葬頭河の婆」が訛って「しょうづかの婆さん」と呼ぶようになったらしい。その昔、品川のお台場にあったといわれ「台場の久兵様」とか「歯のお地蔵さん」と呼ばれていたこともあったという。昔から、歯の痛みをいやし、容貌を美しくすると信じられ、その他にも健脚や諸願をかける人が多く、香華絶ゆることがない。』
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48.5
西解脱門。かつては石柱だけの門でしたが、昭和61年12月に鉄筋コンクリート造の中世和風様式の門に生まれ変わりました。建立1周年を記念し当山第44世中興第1世貫首(隆天大和上)揮毫の縦額が取り付けられています。
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清浄光院へ。
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50.5
壇徒総菩提所。「一般ご信徒はご入堂は、ご遠慮申し上げております。」とありました。
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51.5
立派な建物です。
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まだまだ見所はあるかと思いますが今回はこれで終了。
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不動門。
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第43世隆超大僧正が昭和23年有縁の地から譲り受けて移築建立。
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当初は昭和20年4月15日未明の戦禍により焼失した山門跡地に建立されていましたが、昭和52年に現在の大山門が建立されたことに伴い、不動門として移築。
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不動門…『この門は、太平洋戦争後、当山第43世・隆超和上が、戦災によって失なわれた旧大山門の跡地に、昭和23年有縁の地から移築された建物で、新たに大山門が復興するまでの約30年間にわたり、当山の山門でありました。(総欅、銅板葺き、二層楼門造り)』
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鐘楼堂。
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不動門と共に有縁の地より譲り受けたもの。
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鐘楼堂…『鐘楼堂は寛政元年(西暦1789年)正月、当山三十三世隆範代に創立されたもので、本堂の前に在ったものを大正12年の震災で倒壊した為、昭和5年に現在の所に移転され、さらに昭和20年戦災により焼失、昭和23年に再建されたものである。鐘は(重要美術品)延徳3年に鋳造されたものであったが、其の後寛政7年(西暦1795年)5月、当山三十三世隆範法印の代に再鋳されている。大本山川崎大師平間寺』
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四國八十八ヶ所遥拝所碑(大正3年・四国霊場開基壱千壱百年紀年)。
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三界萬霊供養塔(大正9年8月)。
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大日遍照法界智鏡高鏡霊臺(明治42年)。
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永代護摩料碑(大正3年)。
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五重塔建設資金碑(昭和14年)などなど。
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八角五重塔。
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昭和59年の吉例大開帳並びに弘法大師1150年御遠忌を記念し落慶。境内と諸堂宇との調和を考慮し、更に真言の様式にかなうよう華麗にして格調ある八角としています。八角は最も円に近い建造物の形といわれ、「包容力」「完全性」を象徴しています。
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八角五重塔(中興塔)…『弘法大師1150年御遠忌と当山吉例10年目毎の大開帳奉修を記念して現貫首により発願され、十方有縁檀信徒の信助によって、昭和59年に落慶されました。この八角五重塔の地階には、釈迦如来をご本尊とする慰霊堂、一層には金剛界五智如来と真言八祖がおまつりされています。二層は金剛界及び胎蔵界の石彫梵字曼陀羅とともに、中央に恵果阿闍梨(中国の高僧・弘法大師の師僧)と、向って右に弘法大師(空海上人)、左に真言宗中興の祖・興教大師(覚ばん上人)のご尊像をそれぞれおまつりしています。塔上の相輪の下の露盤内には、翡翠の金剛界大日如来像が納められています。恵果阿闍梨(746年-805年)。弘法大師(774年-835年)。興教大師(1095年-1143年)』
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17.5
八角五重塔讃歌(貫主高橋隆天)…『塔は これ崇高なる釈尊、大日如来の清浄なるみ姿 その気高き尊願に 人びとはみちびかれ 慈しみのみ心を知る あゝ光明満法界 あゝ風光る 五重塔よ 八角は これ美妙なる円、真言密教の深奥なるみ教え その無辺の仏恩に 人びとはすくわれ 浄らかなる覚りを得る あゝ如実知自身 あゝ風薫る 中興塔よ』
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八角五重塔(中興塔)…『参詣日のお知らせ。毎月の第1日曜日と21日ご縁日。開扉時間午前10時より。閉扉時間午後3時30分まで。御自由にご参詣下さい。』
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まり塚碑。
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狛犬一対(芸団協受賞記念・理事長柳貴家正樂・昭和55年2月吉日)。
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21.5
まり塚碑…『昭和35年5月の建立。毎年5月21日、まり塚祭りを行う。当日は境内にて、有名芸能人により、特設舞台から演芸が奉納され1日中賑う。』
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22.5
旧本堂礎石。
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旧本堂礎石…『旧本堂は、天保5年(1834年)弘法大師一千年御遠忌を記念して建立された。間口16間(28.8メートル)奥行18間(32.4メートル)建坪290坪(957平方メートル)、高さ73尺(22メートル)、総欅造総銅甍葺の宏壮な建物であった。昭和20年4月15日未明、第二次世界大戦の戦禍を蒙り、諸堂とともに焼失した。礎石は全部で72個(大・52個、小・20個)、大きなものは4方が3尺1寸7分(105センチ)、厚さ1尺5寸(59センチ)ある。』
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関東第一霊場碑。『都新聞社主催関東十霊場推薦投票ニアタリ川崎大師百六十一万二千五百三十五票ヲ以テ第一位ニ推サル依ッテ之ヲ建ツ昭和7年12月5日。追文:太平洋戦争ノ戦火ニヨリ原碑ノ損傷ハナハダシキタメ都新聞ノ後身デアル東京新聞之ヲ再建ス。昭和43年9月21日第四十四世隆天代』
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宝篋印塔。
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宝篋印塔…『元は山門より入り本堂へ通ずる中央に在り、宝暦6年3月第29世法印如実の徳川三卿の随一の田安家より寄進されたもので、中に湯島霊雲和上開眼の経筒銅等が納められた。3月21日宝幢院祐晃法印が開眼供養された。尓来破損を生ずる度に田安家より修補の特例があったという。』
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伊呂波歌頌徳碑(大正5年)・菩提樹(川崎大師日曜教苑開苑20周年記念植樹・昭和59年10月14日)。
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木村新左衛門紀念碑(昭和5年)。
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観音銅像(明治42年・三界萬霊)。
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観音銅像…『御丈け2米5百・台巖3米7百4方。明治36年1月東京、吉川兼吉氏の発願寄進されたもの。その年の3月盛大なる除幕式開眼供養が修行された。原型製作は、帝室技芸員鈴木長吉先生。』
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聖観音像(明治36年)。※平成29年開創890年記念日本百観音霊場お砂踏み参拝所開設準備のため修復中により台座のみの写真です。
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遍路大師尊像。
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昭和48年の弘法大師御誕生1200年記念事業として造顕。毎年9月20日には遍路大師年祭が執り行われます。遍路大師尊像には健康、健脚を祈念して献水されるご信徒の姿が多く見られます。また、尊像を結界する新四国八十八ヵ所霊場も創設され、当山第44世・中興第1世貫首が四国霊場巡拝の際に頂いてこられたお土砂が埋められ、ここに各霊場の御本尊がお迎えされています。お砂踏み霊場として全国各地からのご信徒の参拝が日々続いています。
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弘法大師遍路尊像に起請す…『昭和48年は真言宗の開祖弘法大師御誕生壱千二百年正当の年である。大師は光仁天皇宝亀5年(西暦774年)6月15日讃岐国多度郡屏風が浦(四国善通寺市)に御誕生幼名を真魚と申し名門の出であった。延暦23年(西紀804年)渡唐し青竜寺恵果阿闍梨に従い受法して真言密教を日本に請来され鎮護国家済世利人を根本信条とせられた。当山はその大師を御本尊としその信条を基として民生安定災厄消除を祈願する霊場である。是を以て御誕生壱千二百年を讃仰して大師遍路の尊像を安置することを発願した。即ち淀橋常夜灯講々元並に世話人各位等深くこの浄業を理解せられてその完成を賛助せらる。奇特の至りに堪えない。乞い願くはこの功徳によって大方の善男善女等の上に無辺の利益を承らしめんことを謹んで起請し奉る。南無大師遍照金剛。昭和48年5月1日大本山金剛山平間寺第44世大僧正隆天』
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お手屋。
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不動堂。
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昭和39年4月落慶。御本尊の不動明王尊像は、成田山新勝寺御本尊の御分躰を勧請し奉ったもの。
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38.5
御縁日は毎月28日。武相不動尊霊場第1番札所、関東三十六不動霊場第7番札所。
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不動堂…『当山の不動堂は、御本尊に千葉・成田山新勝寺不動明王の御分躰をおまつりしています。明治23年に建てられた以前の建物は典雅なお堂でありましたが、昭和20年4月、戦災によって焼失しました。現在のお堂は、昭和39年4月に再建されたものです。武相二十八不動尊の第一番札所として信仰をあつめています。ご縁日毎月28日午後3時不動尊大護摩供奉修(鉄筋コンクリート単層入母屋造り、向拝唐破風付)』
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福徳稲荷堂。昭和20年4月15日未明の空襲を逃れた貴重なお堂。
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御祭神は倉稲魂神。毎年2月21日に年祭法要が執り行われます。
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狐一対。
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43.5
夢石(奉納原田孝殿)。
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金剛山金乗院平間寺。通称川崎大師(厄除弘法大師)。
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2.8
大山門。昭和52年建立(当山開創850年記念事業)。
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3.5
大山門(遍照門)…『この大山門は昭和52年(1977)、当山開創850年記念として建立されました。山門は、堂塔、伽藍を囲む浄域結界の総門であり、この大山門の四方には、仏法の守護尊として京都東寺の国宝・四天王像を模刻・鋳造した持国天(東方)、増長天(南方)、広目天(西方)、多聞天(北方)が奉安されています。現在楼上には、信徒各位からの「写経・写仏」が納められています。(鉄筋コンクリート重層入母屋造り袖廊付)』
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大提燈(魚がし)。
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持国天(東方)。
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6.5
増長天(南方)。
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7.5
広目天(西方)。
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8.5
多聞天(北方)。
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9.5
平間寺の文化財…『平間寺は、真言宗智山派の大本山で、金剛山金乗院平間寺と称し、厄除弘法大師または川崎大師として、音から庶民の厚い信仰をあつめています。特に江戸時代中頃からは、徳川将軍家でも厄除けに参詣していました。創建は、平安時代・大治3年(1128)、この地で漁労を業としていた平間兼乗が、夢まくらに高僧のお告げを受けて海中より弘法大師の御像を引きあげ、それを高野山の尊賢上人が開基供養したのにはじまるといわれています。当寺には歴史や信仰を物語る数多くの文化財がのこされています。それらの中から川崎市教育委員会では、絹本着色・毘沙門天像、絹本着色・地蔵菩薩図(ともに鎌倉時代)、絹本着色・弘法大師像(室町時代)、絹本着色・日輪大師像(江戸時代)など、20件のすぐれた絵画を川崎市重要歴史記念物に指定しました。また、境内に据えられている弘法大師道標、六字名号塔(ともに江戸時代)は、川崎大師の庶民信仰を今に伝える貴重な石造物として、川崎市重要歴史記念物・同郷土資料に指定しました。平成2年2月川崎市教育委員会』
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絹本着色・日輪大師像。
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大本堂。
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12.5
当山吉例大開帳奉修の記念すべき昭和39年5月に落慶。堂内には御本尊厄除弘法大師を中心に、不動明王・愛染明王などの諸仏が奉安されています。
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毎日お護摩が修行され、世界平和、国家安穏、信徒安全が祈願されています。また、古来より勅願寺に列せられた由縁によって大本堂大棟には菊花の紋章が許されています。
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御本尊厄除弘法大師。成田山新勝寺、高尾山薬王院とともに真言宗智山派の大本山寺院。開山尊賢上人、開基平間兼乗。関東三十六不動7番、武相不動尊霊場初番、関東八十八ヶ所霊場特番、玉川八十八ヶ所霊場初番、東海三十三観音霊場33番、東国八十八ヵ所霊場初番。
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崇徳天皇の御代、平間兼乗という武士が、無実の罪により生国尾張を追われ、諸国を流浪したあげく川崎の地に住みつき、漁猟を生業として貧しい暮らしを立てていました。兼乗は深く仏法に帰依し、特に弘法大師を崇信していましたが、我が身の不運な回り合せをかえりみ、また当時42歳の厄年であったため、日夜厄除けの祈願を続けていました。ある夜、一人の高僧が兼乗の夢枕に立ち、「我むかし唐に在りしころ、わが像を刻み、海上に放ちしことあり。以来未だ有縁の人を得ず。いま、汝速かに網し、これを供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり、諸願もまた満足すべし」と告げました。兼乗は海に出て、光り輝いている場所に網を投じると、一躰の木像が引き揚げられました。それは大師の尊いお像で、兼乗は随喜してこのお像を浄め、ささやかな草庵をむすんで、朝夕香花を捧げ、供養を怠りませんでした。その頃、高野山の尊賢上人が諸国遊化の途上、たまたま兼乗のもとに立ち寄り、尊いお像とこれにまつわる霊験奇瑞に感泣し、兼乗と力を合わせ、大治3年(1128)一寺を建立。兼乗の姓である平間をもって平間寺と号し、御本尊を厄除弘法大師と称し奉りました。
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16.4
16.8
お護摩札お渡し所。
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お護摩受付所・護持志納金受付所(2F)・日本百観音霊場お砂踏み参拝所開設志納金受付所(平成29年開創890年記念)。
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納札殿。
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みくじ納め所・弘法大師願掛け守納め所。
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清瀧権現堂(昭和49年建立)。清瀧権現社結界駒寄せ寄進丈…『大本山川崎大師平間寺の復興事業が完成し殊に御当山鎮守である清瀧権現社が本年春の大開帳奉修期間中に落成されたことは誠に吉慶限りなく山内勤務者一同はこの勝縁・法幸に深く感銘するものであります。ここに平素御本尊厄除弘法大師様に結縁・奉職している私共はこれら浄業完遂の記念と佛恩報謝の真心をもって清瀧権現社の四圍を結界する駒寄せ奉納を発願いたし聊か微志を募って造建することができました。この駒寄せ完成の時にあたり一同ここに名を連ねて永世の記録に留めさせて頂くものであります。昭和49年7月21日山内勤務者一同』、『清瀧権現は大唐・青龍寺の鎮守であり密教守護の霊神である。それは大同元年(西紀806年)弘法大師即ち空海上人が唐より帰国の折大師を衛護して大海三千里の波涛を凌ぎ我が国に渡って来られたのであった。当山のさきの清瀧権現社は昭和20年4月の戦禍を蒙って大本堂等とともに焼失したがその後大本堂をはじめ諸堂伽藍等復興の大事業が全く完成して浄域の輪奐は昔日のように整えることができた。昭和48年は弘法大師御誕生壱千二百年の佳年にあたった。小衲はこの勝縁を契機として当山鎮守・清瀧権現社の再建を発願した。そして当山と最もゆかりの深い京都・總本山醍醐寺より清瀧権現のご分躰を勧請申し上げて本年の大開帳奉修・吉祥を仰いで入佛開眼並に社殿の落成慶讃法要を奉修した。法悦・法幸至極であるこの清瀧権現社の落慶を記念して山内一同挙って芳志をよせこの社殿を結界する駒寄せを奉納されたことは誠に篤志のあらわれであり感銘に堪えない。即ち至心に祈願するところは国土安穏・山内安全・信徒安全・諸願成就・更には佛法興隆・人法繁栄に利生を垂れ給わることを。南無大師遍照金剛・昭和49年7月21日大本山金剛山平間寺第44世大僧正隆天和尚』
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聖徳太子堂(昭和41年)。
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聖徳太子講並びに諸職人により聖徳太子像奉納。平成26年改修工事。毎年2月22日に聖徳太子年祭。
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海苔養殖紀功之碑(大正9年9月)。
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纏魂碑(昭和48年)。
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お水屋(昭和40年)。
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26.5
浄水を湛える金剛水器は昭和33年御本尊御遷座記念に奉納。
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献香所。
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石灯篭一対(明治33年9月)。
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29.5
厄除弘法大師略縁起…『平安時代、第75代崇徳天皇の御代(1123-1141)、平間兼豊・平間兼乗という武士の親子が無実の罪により生国尾張(現在の名古屋地域)を追われ、諸国を流浪したあげく、ようやくこの川崎の地に住みつき、漁師を仕事として、貧しい暮らしを立てていました。兼乗は深く仏法に帰依し、特に弘法大師を崇信していました。当時42歳の厄年に当りましたので、日夜厄除けの祈願を続けていました。ある夜、ひとりの高僧が、兼乗の夢まくらに立ち、「我むかし唐に在りしころ、わが像を刻み、海上に放ちしことあり。以来未だ有縁の人を得ず。いま、汝速やかに網し、これを供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり、所願もまた満足すべし。」と告げられました。兼乗は翌朝直ちに海に出て、光り輝いている場所に網を投じますと一躰の木像が引き揚げられました。それは大師の尊いお像でした。この地は「夜光町」と名づけられ大師の浜の古い歴史を今に伝えています。兼乗は随喜してこのお像を浄め、ささやかな草庵をむすんで、朝夕に香花を捧げ、供養を怠りませんでした。その頃、高野山の尊賢上人が諸国遊化の途中ここ兼乗のもとに立ち寄られ、尊いお像と、これにまつわる霊験奇瑞に感泣し、兼乗と力をあわせ、大治3年(1128)一寺を建立しました。そして兼乗の姓・平間をもって平間寺と号し、御本尊を厄除弘法大師と称し奉りました。これが今日の大本山川崎大師平間寺の由来であります。兼乗は、この信仰のおかげで、晴天白日の身となり晴れてふたたび尾張の国に帰任しました。平間寺の開基である尊賢上人は、保延2年(1136)弘法大師を篤く信仰されておられた鳥羽上皇のお后・美福門院に平間寺開山の縁起を申し上げ、災厄消除と皇子降誕の祈祷を修行されました。その霊験たちまちに現れ、まもなく皇子(のちの第76代・近衛天皇)がお生まれになりました。これ、まったく厄除弘法大師のご霊徳と美福門院も殊のほかお喜びになりました。このことを上皇にご奉告申し上げ、永治元年(1141)近衛天皇のお名によって、平間寺に、勅願寺のご宣旨が下されました。爾来、皇室のご尊信も深く、以降、徳川将軍家の帰依も篤く厄除弘法大師のご霊徳は、いよいよ天下にあまねく関東厄除・第一霊場として善男善女の参詣、相ついで跡をたたず、現在に至っております。大本山川崎大師平間寺』
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霊木「奇跡の銀杏」…『この銀杏は、第二次世界大戦の大空襲により幹の大半を焼失。今でもその痕跡を樹木の根元に見ることができます。戦後、川崎大師はご信徒のご信援により大本堂をはじめ七堂伽藍を復興。同様にこの銀杏も奇跡的に蘇生、灰燼に帰した川崎大師の歴史を今に伝える古木であります。「奇跡の銀杏」の樹勢にあやかり、健康長寿、心願成就を祈念ください。平間寺』
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経蔵。平成16年に大開帳奉修記念事業として落慶。
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中国最後の木版大蔵経「乾隆版大蔵経」7240巻が収蔵。御本尊・説法釈迦如来の前に置かれた五鈷杵には、金箔の奉納をすることができ、この奉納によって仏様との強いご縁を結ぶことができます。
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弘法大師一千御忌供養塔(文政3年)・石灯篭一対。
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34.2
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34.6
横には梵字が彫られていました。
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天水桶一対。
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36.5
六字名号塔。
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37.5
六字名号塔…『阿弥陀如来への信仰をあらわす「南無阿弥陀仏」の六文字を、名号とか六字名号と呼んでいます。この名号を石などに刻んだものが六字名号塔(名号塔)で、功徳の祈念や所願が成就した時の記念碑などとして建てられました。川崎大師・平間寺にある六字名号塔は、江戸時代の寛永5年(1628)に建てられたものです。その由来について、江戸時代の仮名草子の作者・浅井了意は、「東海道名所記」(万冶元年・1658刊)で次のように書いています。川崎大師に信仰厚かった江戸・京橋の商人・紀国屋作内が、川崎大師への参詣の帰りに六郷大橋で一対の筆を拾い、家へ持ち帰りました。すると、字の書けなかった彼が、その筆で、にわかに六字の名号をすらすらと書けるようになりました。喜んだ彼は、これを石塔に彫り、大師河原に建てました。このように川崎大師への信仰は、江戸時代初期から広く定着していたことがわかります。その後この六字名号塔は、江戸の文人が書いた「十万庵遊歴雑記」(文化11年・1814刊)や「調布日記」(文化6年・1809刊)などにも登場しており、庶民信仰の歴史を知るうえで貴重な価値をもっております。川崎市教育委員会は、昭和63年11月29日、本六字名号塔を川崎市重要郷土資料に指定しました。平成元年3月川崎市教育委員会』
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中書院(昭和41年5月)。
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2つの茶室を備えています。光聚庵の庵名は三笠宮妃殿下より賜りました。光聚庵の南側に面した庭には清冽な水を湛えた「月の井」があり、石と緑の美しい調和がみられます。心月庵(小間)は第15世裏千家々元千宗室の命名で、千家の又隠(本茶屋)をうつしたものです。
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茶筅塚。
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茶筅塚…『「主が客をもてなす、まことの心は、また、主が道具をいたわる心に通ずる」この精神をいかし、多くの茶を点て、人々を楽しませて永く使用した茶筅に感謝を捧げ供養のまことを表わす「茶筅供養」が毎年10月第1日曜日に修行される。この碑は、千利休居士400年遠忌記念(平成3年)に建碑され、碑面の文字「茶筅塚」は、茶道裏千家第15世鵬雲斉千宗室師のご揮毫である。当山』
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弘法大師道標。
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弘法大師道標…『厄除け大師として知られている川崎大師・平間寺は、大ぜいの参詣者でたいへんな賑わいをみせることで有名です。信仰と行楽をかねた川崎大師への参詣は、江戸時代初期からたいへん盛んになりました。そこで江戸からの参詣者のために、寛文3年(1663)に本道標が建てられました。道標は、高さが171センチメートルと大形で、しかも力強い書体で「従是弘法大師江之道」(これより弘法大師への道)と刻まれております。現在は境内に建っていますが、当初は、川崎宿下手の土居(川崎宿の多摩川寄り入口)付近にありました。江戸からの参詣者は、六郷川(多摩川)を渡って船場町(現在は多摩川の河床)にいたり、本道標の指示にしたがって左折し、大師道へと歩んでいきました。本道標は、菱川師宣の「東海道分間絵図」(元禄3年・1690刊)や、川崎宿船場町絵図(明和2年・1765作図)、さらに享和年間(1801-1804)に道中奉行所が作成した「東海道分間延絵図」の中にも描かれており、歴史的にも川崎宿を代表する貴重な石造の記念物です。川崎市教育委員会では、昭和63年11月29日、本道標を川崎市重要歴史記念物に指定しました。平成元年3月川崎市教育委員会』
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道標…『寛文3年(1663年)川崎宿の渡し場(現在の六郷橋のたもと)近く、大師へ至る道の入口に建てられたもので、この碑には、「こうぼう大し江のみち」と刻まれている。この碑は、第二次大戦後六郷橋附近の道路拡張工事にともなって、当山の境内に移管されたものである。』
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弘法大師一千百五十年御遠忌供養塔。
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入江相政氏歌碑「弘法大師千百五十年遠忌にあたり平間寺にてよめる、わがこころすはるるごとしいつの日も風信帖の一字一字に、侍従長入江相政」。歌碑建立に寄せて…『入江相政氏は天皇陛下の側近に侍従長として永年つとめられ、その間、皇室と当山の格別なる法縁の故に、毎年大師参詣をつづけられた。すぐれた稟性に恵まれ文学をはじめ各般にわたって造詣深く、ことに、「風信帖」など大師の御作をこよなく敬愛された氏は、昭和59年の弘法大師一千五百年御遠忌にあたり、堪能なる和歌の道に託して、感動的な心情を発露され、当山に献歌なされた。氏の一周忌に因み、その徳を讃え追慕の念を深め、恩情のまことを捧げてここに建碑し、永く記念するものである。昭和61年9月29日忌辰建立。大本山川崎大師平間寺貫首第44世・中興第1世大僧正高橋隆天』
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祈りと平和の像(昭和59年)。
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「祈りと平和」像讃歌(貫主高橋隆夫)…『いまここに仰がん祈りの像 いまここに讃えん平和の像 みほとけは女神とともに神鹿のあそぶ苑に 平和を奏でて人びとを見まもり 慈悲のまなざしを示し給う 祈りの声は宇宙に広がる朋友よ幸せに朋友よ豊かに 平和のハトは蒼天に翔ぶ朋友よ明るく朋友よ健やかに昭和60年10月7日「祈りと平和」の像建立1周年に寄せて』
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「祈りと平和」の像に寄す…『本道裏千家家元勤任による当山ご供茶式と茶道裏千家淡交会川崎支部、川崎青年会議所、川崎大師平間寺共催の大茶会は、三者の協調と献身的な努力のもとに、大いに、地域社会の文化向上に寄与し、ここに、心新たに意義ある20周年を迎えた。本年、宗祖弘法大師壱千百五十年御遠忌並びに当山吉例十年目ごと大開帳奉修の法縁にあたり、大師の鴻恩に報謝の誠を捧げ、三者の目的達成、発展を期するとともに、更に祈りに徹してやすらぎに住し、永遠の平和を願う真心を伝承せんがためにここにこの像を建立する。作者は、霊峰富士の頂上に来迎された観世音菩薩(女神)の天にひろがる大慈悲心と釈尊の初転法輪の聖地・鹿野苑にみなぎる世界永遠の平和の祈りを象徴されている。因みに、彫刻家である、文化功労者・日本芸術院会員・圓鍔勝三先生にこの制作を依頼した。昭和59年10月7日大本山平間寺貫首第44世・中興第1世大僧正隆天』
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