くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ: 寺・神社 (宮城県)

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宮城県石巻市北上町十三浜字菖蒲田。石巻市の北東部、新北上川の河口付近の北側。東日本大震災ではこの辺り一帯は津波に襲われ、社務所や石鳥居、神輿堂(神輿)、末社などが流されています。神社一帯も沼地のようになり、境内の杉の木も赤く立ち枯れたそうです。
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このように祈祷殿や社務所等は綺麗に再建されましたが、周囲には何も残されておらず、未だに重機等が数多く行き来して、工事現場のようになっており、土地勘の無い私でもこの付近の津波による被害がいかに凄かったのかを伺い知ることができます。
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御祭神は天児屋根命。例祭日旧9月9日。御神徳は合格祈願、家内安全、身体健康、夫婦円満、子授け、長寿、交通安全。旧村社。
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当追波地区は元来舘ヶ崎と称され、その奥地の国有林鷹ノ巣山のうち産土沢と称する山上に祀られていましたが、里人の便宜よく北上川沿いへの移動により、元和4年(1618)に現在地に遷宮したと伝えます。明和9年(1772)に仙台藩の地誌「封内風土記」に取り上げられています。明治初期、崖の中腹から突き出た周囲14mもの巨石があったから「釣山」から「釣石」(釣石大明神)に改称。舘ヶ崎は北上川門口のため、伊達藩領地の重要な要塞として伊達藩主が度々巡視。その際に社側の丘に登って四方を眺望し、波の追い来たりをご覧になられ、「舘崎に登りて見れば朝日差し綾に寄せ来る追ひ波の浜」と詠みました。昭和53年の宮城県沖地震にも耐えたことから「落ちそうで落ちない受験の神」として人気を博し、平成23年の東日本大震災にも耐えたことから更に人気が上がり、全国から合格祈願者が参拝するようになりました。また、釣の一字から大漁祈願、石が亀の頭によく似ていることから萬年長寿の祈願に参拝者が訪れます。平成10年頃から、氏子の奉仕活動として、毎年12月第2日曜日に北上川に自生しているヨシを刈り、「ヨシ合格」の巨大ヨシ輪が製作されます。「ヨシで輪を作り腰に付けておけば災難を免れるだろう」との蘇民将来の古事に倣い、この輪をくぐり抜けることで「身が清まり罪穢れは払われ、心願成就する」との思いが込められています。
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稲荷社。
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「落ちそうで落ちない受験の神」と称される巨石の釣石。
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釣石が男神で周囲約14m。
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下の巨石が女神で約8m×4m。
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御神体の巨石をしめ縄で釣りあげており、今にも落ちてきそうに見えます。
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10.4
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穐葉山(寛政9丁巳年7月28日)。
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庚申塔(寛政12庚申年)。
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南無阿彌陀(佛)。秋葉山と同じく寛政9丁巳年7月28日。
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山神宮。こちらも同じく寛政9巳年2月12日。
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こちらはう~ん…御﨑宮・竹駒宮かな…微妙に読み取れず。天保十己亥年。
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こちらもわからず。
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釣石神社由来…『一、北上町十三浜追波鎮座。一、旧村社釣石神社。一、祭神天児屋根命。一、祭日九月九日。一、由来…本追波地区は元来「館ヶ崎」と称されていた。その奥地の国有林鷹ノ巣山のうち産土沢と称する山上に祀られ崇拝されていたが、時代の流れ行くまま便宜よく山間より北上川筋に移転したるを以て、古代人が元和四年(江戸時代初期)現在地に遷宮したと伝えられている。その当時、館ヶ崎は北上川海門口のため、藩祖伊達政宗公が当地方巡視された際、社側の丘に登って四方を眺望し波の追い来たりを御覧になって「追波」と改称したという。「館崎に登りて見れば朝日さし綾に寄せ来る追ひ波の浜」。「境内地には大石四つあり、その一は長さ二丈五尺ばかり、横一丈二、三尺ばかり。その二は形は円く、周囲四丈六、七尺ばかり。その三は形は少し円くて長さ七尺ばかり、横六尺ばかり。その四は長さ五尺ばかり、横三尺ばかり、厚さ二尺五寸ばかり東西を囲みて地に入るはいささか少ない。あたかもこれを釣り揚げるが如し、上に大石ありてこれを蓋し、その形窟の如し、故に土人はこれを号して釣石大明神という。」。右は「封内風土記」より索引したものであるが、現在は「釣石」と称する周囲約十四米の球状の巨石が断崖に釣り上げられたようになっている石、またその下方に長さ約八米、横約四米半の巨石が釣石と対応している石を陰陽神(道祖神などに見られる男女の性器を模した石)のご神体として崇拝されている。昭和五十三年の宮城県沖地震にも耐え、落ちそうで落ちないことから受験、釣りの一字から大漁、そして陰陽神から夫婦円満、縁結び、子宝、また階段中腹より釣り上げられた石を見れば亀の頭に良く似ていることから、背に乗り追いくる波を眺めれば満年長寿など厚く信仰されている。北上町観光協会』
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狛犬一対。
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中々個性的。
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紀年銘は明治30年。
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参道石段。
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2011・3・11東日本大震災津波浸水深ここまで。
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なぜ逆さま!?
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案内板に「階段中腹より釣り上げられた石を見れば亀の頭に良く似ている」とありましたが…どう見ていいかちょっとわかりませんでした。
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っていうかここから見れば落ちそうにない石ですね。
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古峰神社ともう1つの石段が見えます。
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上で繋がっています。
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石段を見下ろす。結構急ですね。
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釣石の上へ。
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石祠がありました。
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釣石から見下ろした祈祷殿。
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館ヶ崎公園から眺める風景。当追波地区は元来「舘ヶ崎」と称されていました。山頂の釣石神社御社殿近く「舘ヶ崎公園」にその名が残っています。この地に腰掛けて北上川河口をご覧になり、「舘崎に登りて見れば朝日差し綾に寄せ来る追ひ波の浜」と詠んだ伊達藩主の気分になって、太平洋に悠々と流れこむ風景に心を落ち着かせてみてください。きっと何かが拓けることでしょう。
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174段の石段を登りきると社殿があります。
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奥の院は大正3年新築。
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狛犬一対。
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こちらも中々個性的でございます。
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角。
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向拝。
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神額「釣石宮」。
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社殿の正面には武運長久を祈願して奉納された剣が掛けられています。現在は諸祈願成就に奉納されています。
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拝殿内正面懸額(大正3年)。
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奉納絵馬(大正11年3月・古峯原講、伊勢参宮紀念)。那須与一かな。
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奉納絵馬(昭和33年旧9月9日、社殿屋根改装記念)。
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「運と努力、運は努力の賜物である。」盧優仁(平成19年5月7日)。
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幣殿・本殿覆屋。
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石祠。
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眺望。うまいことやればハート型にできそう。
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古峰神社に向かいます。
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釣石。
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古峰神社。札には「平成14年奉納・古峰講中一同」とありました。
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古峰神社前の石段。
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宮城県石巻市日和が丘2丁目。石巻日和山鎮座、鹿島御児神社。旧社格は県社。延喜式内社の陸奥国百座のうちの一座。
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門脇小学校(旧門脇小学校跡)から東(旧北上川方面)に向かうと西光寺がありますが、その手前の細い道が参道入口のようです。神社の南方です。鳥居はありません。津波襲来の地という標柱があります。日和山へ登る石段の上に鳥居があります。また、日和山公園の上、神社から見て西方の入口付近には石巻城跡の案内板があります。この日和山は高さ56mの北上川河口に位置する洪積段丘の孤立丘で、武神を祭る牡鹿十座の一つ鹿嶋御児神社(窪木家・旧県社)がその頂上に建立され、元来は5月15日が祭礼の日となっています。社伝によれば、宝亀11年(780)12月陸奥鎮守副将軍・百王俊哲の奏上が鎮座の起源と伝えられ、中世には奥州総奉行葛西氏の城「石巻城」があったと考えられています。文禄2年(1593)政宗朝鮮出兵の際、水軍指揮の功績のあった阿部十郎兵衛土佐の奉納した軍配団扇が現在でも同社に残されています。
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3.5
日和山…『日和山は標高60.4メートル。山上に延喜式内社である鹿島御児神社が鎮座し、中世には葛西氏が城館を構えていたと伝えられ、平成9・10年の発掘調査では、拝殿の北側から空堀の跡などが見つかりました。眼下に見える北上川の河口は、江戸時代には仙台藩の買米制度によって集められた米の積出し港として、千石船の出入でにぎわいました。日和山は出航に都合のよい風向きや潮の流れなど、「日和」を見る場所であることから、その名が付いたと考えられています。元禄2年(1689年)、松尾芭蕉と曽良が石巻を訪れた時の「曽良旅日記」には「日和山と云へ上ル 石ノ巻中不残見ゆル奥ノ海(今ワタノハト云)遠嶋尾駮ノ牧山眼前也 真野萱原も少見ゆル」と日和山からの眺望が記されています。また、「奥の細道」には「…石の巻といふ湊に出ス こかね花咲とよみて奉りたる金花山海上に見渡シ 数百の廻船入江につとひ 人家地をあらそひて竈のけふり立つゝけたり」と表現されています。「こかね花咲」とは、万葉集巻第十八にある大伴家持の「天皇の御代栄えむと東なる 陸奥山に金花咲く」の歌をふまえています。天平産金地は、涌谷町の式内社黄金山神社の御神体として崇められた、黄金山を中心とした地域であったのですが、芭蕉の頃には金華山が産金地であると考えられていました。鹿島御児神社の鳥居をくぐり、拝殿に向かう階段を上った右側に、延享5年(1748年)に雲裡房の門人である棠雨を中心として建立された「雲折ゝ人を休める月見かな」という芭蕉の句碑があります。また、日和山には石川啄木、宮沢賢治、志賀直哉、斎藤茂吉、種田山頭火、釈迢空(折口信夫)などの文人が訪れており、日和山公園には多くの歌碑や句碑などが建立されています。』
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参道石段。
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鳥居。
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東北大震災の際にこの鳥居からの光景をテレビ等でよく見たという人は多いかも知れません。
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御祭神は武甕槌命、鹿島天足別命。御利益は職業繁栄、安産、悪疫除け、鬼門除け、海上安全守護、交通安全。
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車祓所。
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創建については不詳。鹿島御児神社は『三代実録』に記載されている「鹿島大神苗裔を祀る陸奥国の三十八の神社のうちの一社」であり、延喜式神名帳にもその名が記載されています。御祭神の武甕槌命と鹿島天足別命は親子神であり、武甕槌命は香取神宮の御祭神である経津主神とともに、鹽竈神社の御祭神である塩土老翁神の先導のもと、東北地方の平定を行ったとされています。御子神の鹿島天足別命は、経津主神の御子神である阿佐比古命と共に東夷征伐と辺土開拓の命令を受け、海路を下向して奥州へとやってきたといいます。天足別命と阿佐比古命の乗った船が現在の石巻の沿岸へ到着し停泊した時、錨が石を巻き上げたことから「石巻」とこの地を呼ぶようになったという伝承が残されています。鹿島天足別命は奥州における大和民族の開拓事業の先駆者・地方開発の祖神として崇敬されており、古くから鹿島御児神社は仙台藩主などの権力者から社領・宝物の寄進や社殿の修築が行われてきました。明治7年(1874)には村社に列し、大正10年(1921)には郷社、昭和10年(1935)には県社に列しました。鹿島御児神社は武神である武甕槌命と天足別命を祀るため、勝利の神として職業繁栄・悪疫除け・鬼門除け・安産の神・海上安全・交通安全祈願の守護神として信仰されています。
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東宮殿下御慶事奉祝紀念碑。
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手水舎。
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灯籠一対(平成22年5月15日)。
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狛犬一対。阿形の口内の玉は動くタイプ(平成22年5月15日)。
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14.5
社殿(拝殿・幣殿・三間社入母屋造の本殿)。拝殿は昭和45年に増改築された鉄骨コンクリート製・銅板板葺き入母屋造。
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本殿は東北地方太平洋沖地震により基礎や瑞垣に甚大な被害を受けました。
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神社庁より…『鹿島御児神社の御由緒は古く、その創建の由来縁起についてはこれを明らかにする史料はありませんが、平安時代の『延喜式神名帳』には既にその名が見られ、国史見在社として最も由緒深い神社です。御祭神は、武甕槌命・鹿島天足別命の親子二神で、武甕槌命は天孫降臨に際し、葦原中つ國の平定に御功績を挙げられた神であり、また、その御子神である鹿島天足別命は香取神宮祖神の御子神と共に命を受けて海路奥州へ下向し、東夷の征伐と辺土開拓の経営にあたることとなりました。その乗船がたまたま石巻の沿岸に到着碇泊して錨を操作した際、石を巻き上げたことから、石巻という地名の発祥をみたのだとの言い伝えがあります。石巻に上陸された両御子は先住蛮族地帯であった奥州に於ける最初の史跡を印した大和民族の大先達であり、開拓の先駆者として偉大な勲績を残された地方開発の祖神です。古くより代々の使臣藩主等の崇敬も厚く、社領・宝物の寄進、社殿の修築等がなされてきました。明治7年には旧村社に列し、大正10年には旧郷社に列格。昭和10年には旧県社に列格しました。勝利の神として職業繁栄を守り、悪疫除けの神、海上安全の守護神として民人の信仰篤く、また交通安全の霊験著しく、其の信仰は益々盛んとなっています。』
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公式HPより…『当神社は延喜式神名帳所載の式内社で国史現在社として最も由緒深い神社であります。当神社創建の由来縁起についてこれを明かにする史料がありませんが、従前の調査及史蹟、口碑、伝説、社蔵文書の調べによりますと、往古関東の鹿島、香取の両神宮祖神の御子が共に命をうけて海路奥州へ下向し東夷の征伐と辺土開拓の経営に当たることになりその乗船がたまたま石巻の沿岸に到着碇舶して錨を操作した際、石を巻きあげたことから、石巻という地名の発祥をみたのだとの言い伝えがあります。石巻に上陸された両御子は先住蛮族地帯であった奥州に於ける最初の史跡を印した大和民族の大先達であり開拓の先駆者として偉大な勲績を残された地方開発の祖神であります。当神社は代々の使臣藩主等の尊崇厚く社領を寄進し、幣物を奉り又社殿を修築し、宝物の寄進などもあります。明治7年旧村社に列し、大正10年旧郷社に列格。昭和10年には旧県社に列格しました。当神社は、勝利の神として職業繁栄を守り、悪疫除けの神、安産の神。鬼門除けの神、海上安全の守護神や、交通安全祈願の霊験著しく、その信仰益々盛んです。』
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【略記】
天平9年(737)牡鹿柵成り本社地内及附近の地、其域内なりしかば代々の使臣、尊崇厚かりしという。
宝亀11年(780)鎮守府副将軍百済俊哲の奏上に依り準幣社となる。
延暦元年(782)勲五等に叙せらる。
貞観8年(866)鹿島神、陸奥国に鎮祭せらるるもの貞観8年に於て38社あり。本社は実に其の一なり。
延喜2年(902)全国神社調査、世に延喜式神明帳といわれ、本社も記載されている。
元暦元年(1184)藤原秀衡、泰衡、社領寄進、社殿修築す。
文治2年(1186)葛西三郎清重奥州奉行兼平泉検非違使となり、当地方を領し、本社を崇敬し、宝物を寄進す。
永仁2年(1294)清重五代の孫伊豆守清宗鎌倉より下向し、石巻日和山に築城するや、本社を其南麓に移転し清宗亦本社を崇敬し社領を寄進し、社殿を造営す。
興国2年(1341)興国年中鎮守府将軍左中将北畠顕信、日和山城に在りて葛西氏と共に四隣の賊軍と戦い多賀の国府を占拠せる石堂秀慶父子を撃破し、遂に三迫に追へり。 興国4年11月宇津峯落城後守永親王を奉じ、出羽を経て日和山城に来れる社伝あり。南朝の将軍より幣物を奉りしことの口碑蓋し此事なるべし。
天文5年(1536)葛西家十三代武蔵守宗清、登米郡寺池に移城し日和山廃墟となる。
天正18年(1590)葛西家17代左京太夫晴信、豊太閤の為に社領を没収せられ、加賀に流謫せらる。仍て再び社領を失う。
延宝2年(1674)山崩の為社務所潰倒埋没し、宝物旧記等を失う。
元禄16年(1703)御検地高畑代215文の地を本社供料として門脇村より寄進せらるるも明治初年上地せしめらる。
享保20年(1735)享保19年2月別当嘉宝院元獄本社を旧社地に移転の儀仙台藩庁の許可を得て同20年現境内地に移転遷座東西35間南北54間除地となる。
明和9年(1772)仙台藩庁の命に依り海上安隠の祈祷を執行示後恒例となる。
寛政6年(1794)本殿並に拝殿、玉垣等の修繕をなすに際し、国主より以下の寄進あり。一、御初穂米弐拾石並に普請中の諸人夫、牡鹿郡中より御屋形様御役所(伊達家)。一、銭八拾貫文並に檜角百本、奥州南部慶治郎御役所(南部家)一、米拾石一、一ノ関様御役所(田村家)
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拝殿向拝。
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神額。
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幣殿・本殿。
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社務所。
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社殿改増築記念碑。碑文省略。
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日和山天満宮。
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御祭神菅原道真。安永年中、村民がこれを勧請と伝えます。
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かつて鹿島御児神社社殿前にあった旧狛犬(大正3年)。
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台座奉納者名。
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菅公一千年祭祀紀念碑。
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稲荷社。
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八幡神社・稲荷神社。
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八幡神社の御祭神は誉田別命。安永年中、村民がこれを勧請と伝えます。稲荷神社の御祭神は倉稲魂命。昭和10年京都伏見神社より勧請。
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愛宕神社。
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手水舎(明和3年10月)。
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御祭神迦具土神。嘉禄年中の勧請にして其後荒廃に属せしを文禄年中伊達政宗朝鮮国へ渡海の際、本村船人阿部土佐なるもの此神を祈って難風をまぬかるる事を得たり故に帰国の後ち之を再建せり。昭和41年鹿島御児神社に吸収合併。
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神額「愛宕神社」(大正12年)。
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狛犬一対。
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井内石。頭部の角は修復されています。
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紀年銘は明和9年5月15日。
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39.5
門之脇、清水川屋佐太夫、清水川屋勘之丞。
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善海田稲荷神社。元の社殿は石巻市南浜地区にあり、震災後も同地に石祠が鎮座。
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狐一対。
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42.5
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栗原市栗駒稲屋敷後原。国道457号線沿い。道路を挟んで公園のほぼ向かい雄鋭神社(栗原郡延喜式内社七座)の社号標(交差点角)があります。九ノ戸神社も近くです。公園内の一画は大鳥中集会所です。
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大鳥公園(九ノ戸公園)の看板。
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供養椿の由来(看板より)…『天正18年、南部の九戸城主九戸左近将監政実は豊臣秀吉の小田原征伐に参戦しなかったことから、豊臣秀次を総大将とする六万五千の大軍に猛攻を受ける。迎えうつ政実は、五千の軍勢だが難攻不落の九戸城は一ケ月の激戦にも微動だにしなかった。秀次の率いる討手の大将蒲生氏郷は謀略をもって、政実主従八名を捕りおさえ、囚人扱いにして、三迫上品寺(岩ケ崎高校東南端)にて八名は惨殺され埋められた。反骨の武将政実に対する同情と、惨虐な氏郷の仕打ちに、邑人達の涙をさそった。せめて、霊魂を慰めようと心やさしい邑人達は遺体の側に一本の椿を植えた。春が来る毎に、邑人達の心情を知ってか椿の花は、真赤な色も鮮かに咲きほこる。椿の花のみが知る悲しい物語であるが、地域こぞって、椿の花共々政実主従に永遠の供養を続けたいものである。平成7年10月栗駒町史談会撰文』
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4.5
鳥居横の石碑。1基は読み取りにくかったです。もう1基は「謡曲大藏流、渋谷十左衛門先生・渋谷重太郎先生之碑」とありました。九戸城(政実)とは無関係のようです。
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5.5
その先に並んでいる石碑は庚申塔や馬頭観世音。
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南無阿弥陀佛などと彫られている石碑。こちらも詳細は読み取りにくかったです。
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石灯篭や手水石。
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8.5
政実公及び共に散った七武将を弔うための石碑でしょうか。地元の方々によって丁寧に祀られております。
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墓碑といった感じではなく、神仏を拝む感じです。
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周囲には田神、不動明王、大黒様・恵比寿様など。
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11.5
こちらには嘉永4年9月22日の紀年銘が見えます。上部の梵字はバイに見えますね…薬師如来っぽくはないですけど。
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九戸城主左近将監政実主従慰霊之碑…『豊臣秀吉の軍勢蒲生氏郷以下六万五千をもって九戸城を囲む。城主政実五千の寡兵勇戦奮斗遂に攻めあぐみ氏郷謀略を以て政実主從八名を捕え三迫上品寺まで連行寺の東南の丘に於て処刑天正十八年九月二十日であった。邑人これを哀れみ椿を植えて墓標とした。爾来数百年の星霜を経るこの地に椿を移植するに当り無念の涙をのんで逝った昔を偲び慰霊の碑を建つ。九戸城主左近将監政実、七戸彦三郎家国、円子右馬助光種、櫛引河内守清長、一戸彦次郎実富、大場四郎左衛門昌次、大里修理大夫親基、久慈備前守直治。平成元年十二月栗駒町教育委員会・宮城県文化財保護協会。石材寄贈元栗駒町史談会長伊藤廣人殿』
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稲屋敷村。字高松には式内社栗原七座の1つと伝える雄鋭神社があり、奥の院は天王山林に鎮座、往古松の大木があり高松八社権現、高松権現とも称され、春日山大勝院高松寺という寺があったと伝えます。寺として真言宗愛宕山法蔵寺、曹洞宗奇雲山竜昌寺、そして九ノ戸という小字には南部氏の九ノ戸城主九戸左近将監政実の首を葬った九ノ戸塚と、それにまつわる九戸神社があります。九戸政実は天正19年、豊臣秀吉の太閤仕置に反抗し、豊臣秀吉に従った三戸南部信直と争い、謀略により捕らえられ、護送される途中、豊臣秀次の本陣のあった三迫で処刑されました。また近くの大鳥と称する所は岩ケ崎邑主中村日向の足軽が居住した足軽町であったと伝えられます。
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九ノ戸神社の鎮座地は栗原市栗駒稲屋敷九ノ戸。近くには大鳥公園(九ノ戸公園)九戸政實首級清めの池もあります。九ノ戸という地名を残しているのが凄いですね。
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3.5
豊臣秀吉天下統一最後の戦いの相手こそ九戸政実(1536-1591)です。九戸政実の乱は天正19年(1591)南部氏一族の有力者である九戸政実が、南部家当主の南部信直及び奥州仕置を行う豊臣政権に対して起こした反乱。九戸城の正面南側には蒲生氏郷と堀尾吉晴、猫淵川を挟んだ東側に浅野長政と井伊直政、白鳥川を挟んだ北側に南部信直と松前慶広、馬淵川を挟んだ西側に津軽為信、秋田実季、小野寺義道、由利十二頭らが布陣。その数6万5千。九戸政実はこれらの包囲攻撃に少数(5千)の兵で健闘。そこへ浅野長政が九戸氏の菩提寺である鳳朝山長興寺の薩天和尚を使者にたて「開城すれば残らず助命する」と九戸政実に城を明け渡すよう説得。謀略とも思われましたが一人でも多くの一族郎党を救おうと、九戸政実はこれを受け入れ、弟九戸実親に後を託し、七戸家国、櫛引清長、久慈直治、円子光種、大里親基、大湯昌次、一戸実富らと揃って白装束姿に身を変えて出家姿で降伏。しかし助命の約束は反故にされ、九戸実親はじめ城内に居た者は全て二の丸に押し込められ惨殺、撫で斬りにされ火をかけられます。九戸城の二ノ丸跡からは、当時のものと思われる斬首された女の人骨などが発掘されています。政実は他の首謀者達と共に連行され、豊臣秀次の指示により栗原郡三迫(宮城県栗原市)にて処刑されました。この乱以後は、豊臣政権に対し組織的反抗をする者はなく、秀吉の天下統一が完成するのです。なお、言い伝えでは斬首された政実の首は家臣が密かに地元まで持ち帰り、九戸神社(岩手県九戸郡九戸村長興寺)近くの山中(九戸政実首塚)に埋めたと云われているそうです。
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明治初期、遠田郡のある行者が政実の姿を夢に見て、その宣託に従って近くの草むらを探したところ、遺骸を埋めた塚を見つかったので、供養のために奉ったのが神社の由来。特に頭部(目・鼻・耳・口)の疾病に霊験あり、地域住民の深い信仰を受けているそうです。
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5.5
社殿神額(昭和2年3月17日奉納)。
6
こちらには中央に政実の絵、8名(九戸左近将監政実、櫛引河内守清長、櫛引左馬助清政、七戸彦三郎家国、久慈備前守直治、久慈中務輔政則、大湯四郎左衛門昌次、大里修理亮親基)の名と処刑日(天正19年9月20日)があります(「祈大願成就」昭和62年9月20日岩手県二戸市※願主省略)。
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7.5
木製の五輪塔など。
8
8.5
九戸城戦闘要図(天正19年9月4日落城・昭和62年9月20日奉納)。
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九ノ戸神社裏手の建物も…
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落城しそうですが大丈夫ですかね。
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宮城県宮城郡松島町磯崎浜。
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2.5
松島には何度か来ておりますが宿泊は初めてです。館内は広くて方向音痴の私はちょっぴり戸惑う造りでした。
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ってことで無駄に遠回りして夕食会場へ笑
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4.4
4.8
バイキング形式で料理はたくさんあったのですが写真はあまり撮っていません。なぜなら盛り付けのセンスに欠けるので。そしてバイキング形式とはいえ、飲み物(お酒)を自分で取りに行くのはかなり面倒ですね。
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ステーキとか牛たんとか牡蠣とか食べまくりました。
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牡蠣の殻だけ載せておきます笑
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お部屋にあったお菓子「絹のしらべ」。どこのお菓子なのかな?と思い、検索したら色々な地域が出てきました。ちなみに食べていません。
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庭園。近くに海があるのかと思ったら、海との間に巨大な庭園(巨大なプールもありました)があったので引き返しました。
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中庭へ。
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日本庭園。
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池があります。
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神社。
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社号標「松島若草弁財天」。
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本殿。
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『その裾が松島タワーの定礎となった弁天島には、鎌倉時代以前から若草神社が祀られてあったが伊達17代貞山公政宗が現在のヘルスセンター敷地を中心とした約三十町歩(約30ヘクタール)にお塩場(髙城塩田)を経営するにあたって、新に弁財天を合祀して磯崎弁天と称し、紫神社とともに髙城塩田東西の守り尊として崇めたものといわれている。昭和10年春、宮城県が松島の公園計画を進めたとき、瑞巌寺百二十六世盤龍和尚の手によって、磯崎弁財天は福浦島に舟積み移管されて今日に至っている。昭和32年、髙城塩田は埋立てを終え、松島温泉ヘルスセンターをはじめとして、皆さんのレクリエーション設備が整えられようとしているとき、松島を訪れる内外の観光客に金運と子宝、世間衆生の喜悦と妙音。即ち経済と平和、子孫繁栄をもたらすものとして、このたび松島若草弁財天が鎮座されたのである。』
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