くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ: 寺・神社 (山形県)

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大聖寺~其之弐(高畠町)』からの続きです。
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観音堂(縁結び観音)。観音堂は入母屋、銅板葺、平入、桁行3間、正面3間軒唐破風向拝付。向拝木鼻に獅子・象、欄間には中国故事(七福神)。
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七福神は大変ユニークな造りでした。
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向拝。
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海老虹梁。
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鰐口と御詠歌「よをてらす ほとけのちかいありければ まだともしびも きえぬなりけり」。
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堂内には観音堂と同時期に造立されたと考えられる木造阿弥陀如来立像、西国三十三観音像、木造弘法大師座像などが安置されています。
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観音堂には様々な絵馬などが掲げられていました。
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軒下4隅に力士像。
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表情が怖いです。
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観音堂…『鐘楼堂と共にこの境内で即身佛になった待定坊が諸国を行脚し4万数千人の浄財を得て享保16年(約280年前)建立されたものである。堂内の中央に阿弥陀如来、脇士に正観音、十一面、如意輪、馬頭等、三十三体の観音像が安置せられ縁結び観音として信仰されている。御縁日:毎月17日』
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観音堂から見た亀岡文殊本堂。
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寺務所。
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宝篋印塔。
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狛犬一対。
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亀岡文殊本堂。
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大正3年に伊東忠太が設計。入母屋、銅板葺、平入、正面千鳥破風、正面3間軒唐破風向拝付。外壁は真壁造、板張、弁柄色塗り。堂内には本尊である文殊菩薩騎獅子像(秘仏)を安置。
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ここで一気に由緒に触れておきたいと思います。
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大同2年(807)、東北地方布教のため、当地を訪れた徳一上人(奈良東大寺住職)が、平城天皇の勅命を受けて、中国五台山より伝来した文殊菩薩を勧請し堂宇を建立。古くは文殊寺と号していました。
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戦国時代にこの地方を領した伊達政宗の崇敬を受けており、政宗の生母である義姫(山形城の城主最上義光の妹)が懐妊祈願に訪れた場所としても有名であり、天正19年(1591)、政宗がこの地を去る時に古鐘を納めています。伝承によりますと、義姫は永禄8年(1565)に伊達輝宗の正室に迎え入れられ、その後、亀岡文殊堂の長海上人に懐妊祈願の依頼を行いました。長海上人が湯殿山で懐妊祈願を行い幣束を御神体(湯殿山の御神体から湧き出る温泉)浸し義姫に届けると、湯殿大神の化身と思われる老僧が義姫の霊夢に出現し「義姫の胎内に宿を借りたい」との御告げを受けました。輝宗と相談の上その願いを受け入れると、不思議と懐妊したことから「幣束」に因み「梵天丸(政宗幼名)」と名付けたそうです。古鐘は鎌倉時代後期の永仁4年(1296)に藤原正頼が鋳造したものであり、伊達家の菩提寺であった資福寺にありましたが、天正19年(1591)に政宗が米沢城から岩出山城(宮城県大崎市岩出山町)に移封になった際、資福寺も随行した為、亀岡文殊堂に奉納されたと伝えられています。
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関ヶ原の戦い直後の慶長7年(1602)旧2月27日、直江兼続が詠会を主催して雅友27名(前田慶次利貞・実弟大国実頼らを含む)が集まり、漢詩や和歌あわせて100首を奉納。直筆短冊のほとんどが当寺に残されています(亀岡文殊堂奉納詩歌百首(縦41.5cm、横29.5cm、冊子装、短冊、紙本着色))。
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亀岡文殊堂の別当だった大聖寺は天皇の祈願所でもあり5代将軍徳川綱吉から14代将軍徳川家茂まで10代に渡り100石の朱印状を受けるなどの名刹でした。
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明治の神仏分離令と廃仏毀釈運動により、仏教色を廃した町内に鎮座する安久津八幡神社から一部の仏像が遷されています。文殊堂は大正3年の再建で伊東忠太の設計。境内には老杉の大木が繁り、歴史の重みと厳かな雰囲気が漂います。
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亀岡文殊畧縁起…『大聖文殊師利菩薩は、人皇28代宣化天皇の2年正月(約1400余年前)震旦国(中国)五台山より伝来、伊勢国、神路山に安置されてあったが、51代平城天皇の大同2年勅命により奈良、東大寺住持、徳一上人がここにお移しになされたものである。爾来、日本三文殊の随一として(日本三文殊とは出羽の亀岡・大和の安倍・丹後の切戸)中納言格の待遇を受け、畏くも勅願所として皇室の崇敬厚く、国家安穏の御加持を命ぜられ、又、徳川時代には5代将軍綱吉は深く帰依され御朱印百石を賜わり、14代将軍家茂のときまでつづきました。現今の文殊堂は、大正3年の改築にして工学博士伊東忠太氏の設計によるものである。御縁日:毎月廿五日』
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文殊堂正面の大黒天様。
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大黒天…『当山開基徳一上人の作で生き大黒、走り大黒ともいわれ、軽くなり給え、と念ずれば次第に軽くなり、重くなり給え、と念ずれば重くなり、願望達成のときは軽く持ちあげられるという霊験あらたかなることで有名である。祭礼:12月9日』
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賓頭盧尊者(おびんづるさん)。
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文殊堂背面へ。
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大日如来、普賢菩薩、虚空蔵菩薩が祀られていました。面白い造りですね。
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文殊堂裏の蔵王大士。
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蔵王権現かな。
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残念ながら鳥居の先は立入禁止のようです。
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文殊堂裏右奥にある利根水。
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知恵の水。一口飲めば文殊さまの知恵が授かります。
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水でよく見えませんでしたが、水受けに梵字のようなものが彫られていました。この中央からすくって飲んだ方が御利益ありそうですね。
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文殊堂横にある子育地蔵菩薩。
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文殊堂正面から見た観音堂。
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心做しか頭が良くなったのでそろそろ帰ります。
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亀岡文殊堂(大聖寺)』からの続きです。参道に戻ってきました。
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大聖寺本坊。護摩堂(本坊から渡し廊下。平安期の不動明王坐像他諸佛あり)や宝物館(諸仏、御朱印状、曼陀羅図、獅子頭、鎌倉期の木造狛犬などなど)もあります
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大聖寺本坊山門。
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大聖寺本坊には、大日如来を御本尊として祀り、他に桧の寄木造漆箔像の木造聖観世音菩薩立像と阿弥陀、薬師像の2体があり、いずれも鎌倉時代の作と考えられています。他にも銅造歓喜天像、仏画なども祀られています。また、寺宝の「大永の制札」(宝物館安置)は板本墨書、箱上には大永2年7月19日の日付が記されており、箱は縦46.5cm、横36.7cm、高さ4.5cm。
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山形県指定有形文化財、木造聖観音立像碑(昭和37年4月6日指定・平成27年3月31日建立高畠町教育委員会)。
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鐘楼。
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永仁の古鐘…『天正19年(約420年前)伊達政宗公が寄進された資福寺にあった鐘で永仁4年(約710年前)右馬二郎藤原正頼の鋳した名鐘であった。破損はなはだしく昭和26年鋳造し復元する。』
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大聖寺本坊を出て亀岡文殊堂を目指します。ここから約120mの参道。
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薬師瑠璃光如來塔(昭和8年8月)と石灯篭。
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参道両脇にはたくさんの石灯篭、石碑、石塔、石仏、十六羅漢像があります。全部は紹介できません。
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学僧独国和尚。宮城県女川生れ。福島を拠点とし、米沢など各地で修行を積み重ね、旱魃や病苦災禍などから庶民を救った名僧として知られているそうです。隣には開基徳一上人碑もあります。
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義民、高梨利右衛門供養碑。正面には朱塗りで「南無阿彌陀佛」とあります。
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横には朱塗りで梵字(キリーク)と「極重惡人無他方便無他方便唯稱彌陀得生極楽」とありました。※往生要集「極重悪人无他方便唯称念仏得生極楽」(極重悪人他の方便なし、唯弥陀を稱じて極楽に生ずることを得)。念心寺(青森市)の延文2年銘の板碑にも同じ文がありました。
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出羽国置賜郡屋代郷二井宿村(高畠町)は米沢藩の預かり地となっていたところ、年貢の取り立てが厳しく百姓の煩いとなっていたため、寛文6年、二井宿の肝煎であった高梨利右衛門が幕府に直訴し、元禄元年12月に越訴の罪で磔の刑にされたと伝えます。罪人である高梨利右衛門を供養するには憚りがあるため、死後「極重悪人」と刻んだ念仏供養塔が建てられたそうです。
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手水舎前。
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筏舟和尚。説明がなかったのでその場でネット検索したら、新潟県の観音寺34世煩海筏舟和尚がヒット。幕末の名僧で卓越した禅者であり、生き葬式を終え行脚の人となり、山形立石寺において即身佛となったそう。しかし宗派も違うし無関係かも。
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手水舎。
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ちょっと混んでたので周囲の石碑等を見学。
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参道。
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手水舎空いてきました。
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手水石と「嗽場」の扁額。
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手水舎から参道を振り返るの図。
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再出発!
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十六羅漢像(1)と石灯篭。
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十六羅漢像(2)(3)(4)。
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宝篋印塔。
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十六羅漢像(5)(6)。
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石段と石灯篭。
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十六羅漢像(7)(8)。
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中里盛行君生碑。
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松尾芭蕉句碑「春の夜は桜に明けてしまひけり」と石灯篭。
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鐘楼堂。
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鐘楼堂前にも十六羅漢像。
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十六羅漢像(9)(10)(11)(12)(13)。
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十六羅漢像(14)(15)。
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鐘楼堂脇にある宝篋印塔、石灯篭、大乗妙典石経塔など。
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立派な鐘楼堂です。享保15年に待定坊が建立した古建築で、入母屋、銅板葺、袴腰付、組物や彫刻など見所が多く、梵鐘と共に内部には待定坊尊像、観音像、十王像、大黒天像などが安置されています。
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鐘楼堂…『享保15年(約280年前)この境内で即身佛になった待定坊が諸国を行脚し沢山の浄財を得て建立された豪壮でこの地方では稀に見る建造物です。楼上に天正19年(約420年前)伊達政宗が奉納した永仁4年(約720年前)鋳造した資福寺の古鐘があったが破損したので原型通り鋳直し本坊大門傍にある鐘楼堂に祀ってあります。』
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参道に戻ります。
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鐘楼堂前から参道を振り返るの図。
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大師堂。
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大師堂内(厄除弘法大師)。
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十六羅漢像(16)と「總門ヨリ石段下マデ敷石供養」碑(大正4乙卯年6月吉日)。
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ってことで、長くなったので『亀岡文殊 ~ 其之参(山形県高畠町)』へ続く…
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大聖寺は山形県東置賜郡高畠町亀岡にある真言宗智山派の寺院。亀岡文殊の通称で知られています。山号は松高山。本尊は大日如来。丹後(京都府宮津市)の切戸文殊、大和(奈良県桜井市)の安倍文殊院とともに日本三文殊の1つ。
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参道入口の仁王門。
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仁王門前にはいくつかの石塔がありました。
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狛犬一対。
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石灯篭は仁王門前に3対と1基(1基崩壊し台座のみ・道路を挟んで3基)。上水道布設紀年碑(昭和32年)あり。
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更に仁王門裏に2基。
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手水舎。
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仁王門。
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金剛力士像(木造仁王像・寄木造・阿形215cm、吽形213.5cm)。
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仁王門から続く参道。
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参道途中にもいくつか石灯篭や墓碑などが置かれていました。
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参道両脇には塔頭もしくは墓所でもあったのでしょうか。どことなく門の構えをしています。
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門の構えの先は荒れていてよくわかりません。中には深い池となっている場所もあるようで立入禁止となっていました。
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参道を振り返る。
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この付近、左手には大聖寺、右には売店が立ち並んでいます。
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ってことで一服。
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売店前の看板より…『亀岡百首(町指定文化財)…関ケ原の戦いの後、上杉家は危機存亡の瀬戸際に立ったが、ようやく徳川体制の中で米沢30万石の大名として生きる道を得る。会津から大勢の家臣団を引き連れ、米沢への移転がひとまず終えたばかりの慶長7年(1602)2月に亀岡文殊堂で詩歌の会が行なわれた。主催者である上杉家執政直江兼続が風雅の友(上杉家家臣等)20余人を伴い、文殊堂に参詣し、詩歌の席を設けたものである。文人としても名高い直江兼続の漢詩はじめ前田慶次利貞・実弟大国実頼ら有名な武将の詩歌があり、歴史資料・文化資料として高い価値を有する。平成20年高畠町観光協会』
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亀岡文殊駐車場の片隅に青麻神社の社号標と由緒案内板がありました。
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参道の荒れていたので行きませんでした。絵地図を見る限りでは西来院入口の方に一の宮大鳥居があり、こちらは裏参道のように見えます。
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東北本宮青麻神社中風除由緒…『御祭神:青幡佐草比古大神。大祭日:4月17日。當青麻神社は天正年間伊達家の臣、亀岡の郷士、飯坂左衛門尉茂広の創立にして始め西館の邸内に氏神として奉齋したりしが母堂の中風に罹りたるを歎き、医薬禁厭等百方手を尽したるも快方の兆見えず。茲に大神の御前に21日間の願を掛け朝夕平癒を祈りたるに満願の夜、大神夢枕に起ち給いて御託宣あり。神徳灼にて日毎快癒に向い日ならずして全快したと云う。其の後、慶長の初年、伊達政宗仙台に居城を定むるや左衛門尉亦之れに從い青麻神社の御分霊を奉持して仙台に移住し社殿を建立してある現在の青麻神社は即ち亀岡の御分社なり。今より約400有余年の星霜を経て神徳の有難きを喜び尊み現在地の小館山に遷座致し里人等や本県人等はもとより遠く他県よりの団体参詣者も年々多く盛大な中風除祈祷を齋行致して居ります。此れより社殿まで南へ歩行3分。社務所:東置賜郡高畠町大字元和田。宮司:八巻喜教』
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ちなみに散策路の一部(いにしえの散策路)となっており、今回紹介はしませんが文殊堂奥の院ほか、山の神、獅子岩、胎内潜り岩跡、羽山権現、お愛宕様など色々と見所があるようです。絵地図を見る限りは一部文殊山登山道のような感じだったので時間の都合もあり行ってません。
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とりあえず登山口の薬師堂までは行ってみますか。
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麦つき地蔵。麦つき(麦打ち)とは刈り取った穂を打って脱粒させる作業とのこと。
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麦は大好きなので拝んでおきました。
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麦つき地蔵の隣りには、眼病癒の石灯篭一基と大師堂、そして四国八十八ヶ所霊場分霊。
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大師堂内。
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忠魂碑(安正書)。※福島安正
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薬師堂。絵地図で見た感覚よりもかなり近く感じました。あの地図じゃ距離感がわかりませんね。
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登山道以外は余裕で回れそう。
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青麻神社も行っておけばよかったかな。
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ってことで、長くなったので『大聖寺(高畠町)~其之弐』へ続く…
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