くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ: 寺・神社 (山形県)

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春日山林泉寺(米沢市)』からの続き。
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神刺原築城奉行、鐵孫左衛門泰忠の墓。黒金家の大先祖にして謙信公譜代の臣。本姓島倉、通称孫左工門。後に鉄上野景信の遺跡を継ぎ、鉄と称しました。慶長3年禄6200石を領し、同4年3月神刺原築城の折、泰忠総奉行を命ぜられました。同9年10月大阪役に出陣し、11月26日田島野表の合戦において、大和川堤の敵を撃破して功がありました。役後、将軍秀志より感状及時服を拝領。寛永12年1月21日72才で逝去。
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甘糟備後守景継の墓。清和源氏甘糟野次広忠より15代の末孫。越後上田長尾譜代の臣、登坂加賀守清高の嫡男で、初め藤右衛門清長といいましたが、上杉謙信公の命によって甘糟氏を相続。幼少より剛勇無双にして鎗と長刀の名手。はじめ越後五泉の城主、文禄2年には庄内酒田の城主となり、1万1千石を領し、慶長3年には奥州刈田郡白石の城主に転じました(2万石)。同5年の関ヶ原の時、伊達政宗が景継の不在に乗じ白石城を襲い取ったので、景継憤懣やる方なく安田能元、島津下々斉等と共に硬論を持ち、徳川との和戦を好みませんでした。気骨稜々たる侍大将でしたが、慶長16年5月12日62才にて逝去。法名大応寺殿本休徹無大居士。
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甘糟備後守景継の墓…『甘糟景継は、上杉謙信・景勝に仕えた剛勇名高き武将。越後上田長尾の家臣登坂清高の嫡男であるが、謙信の命により甘糟家を相続した。景勝の重臣として、越後の護摩堂城・五泉城、庄内酒田城の城主となり、慶長3年(1598)には白石城(宮城県)の城主に任じられる。気骨稜々たる武将であったが、慶長16年(1611)逝去、享年62。米沢市』
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新津城主、新津左近の墓。新津城は天正元年に14代新津勝資が築城(※金津信資が建武3年築城とも)。勝資は武勇に優れた上杉謙信の重臣の一人。慶長3年に上杉景勝は会津への移封を命じられ、新津秀祐は奥州二本松城代安田能元の同心衆として配備され二千石を知行されます。景勝の米沢移封に従い、改めて七百石を賜ります。子孫は米沢上杉氏の家臣として代々続きました。  
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富所五代伯耆守の墓。
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富所五代伯耆守の墓…『清和天皇の後胤高松左エ門尉是重の弟勝重は、長尾家に仕え軍功あり富所の地を賜ふ。勝重から五代定重迄伯耆守となる。俗に五代伯耆と云う。』
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侍大将、長尾権四郎家之墓。長尾景広は天正元年(1573)長尾憲景の子として誕生。
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天正10年、兄の長尾輝景の命によって後北条氏の人質として小田原城に入ります。最初は北条氏政の偏諱を受けて政景と名乗りました。3年後に帰国するも重臣である牧氏の居城田留城を所望。輝景と牧氏はこれを拒みますが、政景は親北条派の重臣達の支持を受けて独断で牧氏一族を滅ぼして田留城を奪取、天正17年(1589)には兄を隠居させて家督を奪ったとされます。天正18年、豊臣秀吉の小田原征伐の後に白井長尾家は没落。一時期は加賀国前田氏に預けられるも、その後すぐに兄と共に同族である上田長尾家出身の上杉景勝に仕えました。大坂冬の陣にも参戦し前備を勤めました。元和元年(1615)には侍頭となり1000石加増。出羽国山形藩の最上氏改易の際には山形城の接取と警護を担当。寛永3年(1626)に辞職し、同7年逝去。
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武田大膳大夫信清の墓。初名三郎、武田信玄の六男。
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信玄はその臨終に際して、嗣子勝頼に対し、「…兵を構えて己が国を亡ぼすこと勿れ、我れの死後天下に頼るべき者は独り謙信あるばかり宜しく援を請い求め国をば彼に托せよ」と残しました。天正10年3月武田勝頼父子は天目山の戦に破れて自害、勝頼兄弟のうち、武田太郎義信(長男)、同次郎隆宝(二男)、仁科五郎信盛(四男)、暮山十郎言責(五男)も戦死あるいは自害します。これにより信清一人が残り武田の正流となりました。甲州没国の節、紀州高野山無量光院に隠まわれ、同年越後の景勝公に嫁いでいた姉菊姫を頼って来ました。上杉氏では高家衆の筆頭として優遇(諸役御免)し、3300石を陽わります。寛永19年3月21日83才にて逝去。法名虎山玄龍居士。信清以来、子孫連綿として米沢に居住しました。
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武田大膳大夫信清の墓(山形県指定文化財:昭和28年2月20日指定)…『武田信清の墓は、高さ2.3m、地輪の一辺77cmの大きな五輪塔で、各輪に一字ずつ「祖師西来意」の文字が刻まれている。武田信清(1563-1642)は武田信玄の六男で、上杉景勝に嫁いだ菊姫の弟である。天正10年(1582)、甲斐国天目山の戦いで武田家は滅亡するが、信清は逃れて景勝のもとへと身を寄せた。以後、上杉家の家臣となり、代々高家衆筆頭として明治維新を迎えた。川中島合戦で激戦を交えた武田家の子孫が、上杉家の重臣として存続したのである。姉の菊姫の墓も隣接する上杉家墓所に建てられている。』
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杉原常陸介親憲公之墓域。
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墓誌…『水原城主水原常陸介親憲公は、上杉麾下十三人衆中の勇将であった。慶長3年景勝公に随って会津次いで米沢に移る。大坂冬の陣で武功あり、将軍家より感状をうけこれに因って杉原と書き「すいばら」と読む。元和2年5月、景勝公駿府城に家康公を病気見舞の帰途、板谷峠で奉迎中親憲公急逝される。行年71歳。景勝公これを悼み謙信公の命日5月13日を忌辰と定め、上杉家墓所に近い此処に葬祭された。以来372年の星霜を経、故里の有志墓域を修復する。昭和62年新潟県水原町』
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北越戦争忠士墓(戊辰戦争合同碑)。北越戦争に殉じた米沢藩総督であった色部長門をはじめ、280余名の遺髪を埋めた合同墓碑。
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ふれあし観音。観音さまの足に触れてその功徳をいただきます。車社会や便利な生活で弱りがちな足腰を丈夫にし、そして体も心も健康にという願いを込めての「ふれあし観音」。
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17.5
ふれあし観音勧請の由来…『お檀家の皆さまはじめ、諸方から林泉寺にお参りいただいた方々に、「あなたにとって、一番身近な仏さまはどなたですか」とお尋ねしますと、多くの方々が、「観音さまですね」とお答えになります。 それほど多くの方々が親しく思っておいでの観音さまを、ぜひ当山にもお迎えしたいものと、かねてから念じておりましたが、このたび、すばらしい勝縁にめぐまれ、ついに石仏「聖観世音菩薩」を勧請できましたことは、法幸この上ないことであります。申すまでもなく、観音さまは広大無辺のお慈悲をもって、だれかれの分けへだてをせず、人々に救いの手をさしのべ、その苦しみ悩み、あるいは恐怖や災厄を取り除いてくださる菩薩さま、救世と済民の仏さまです。間もなく激動・激変の二十世紀が終ろうとしています。今世紀は、人間のわがままと自我主張の暴走が、幾多の争乱や戦争をひき起こしたり、驚異的な科学・物質文明の進展が、かえって、すべてのいのちを傷つけ、地球環境を次々汚染・破壊してきました。物の繁栄のみを追い求めた結果の所産と言えないでしょうか。 ここに、観音さまをお迎えするに当って、来るべき新世紀には、誰でもが本具の仏心と少欲知足の暮らしにめざめ、普く一切が身心共に健全であれかしと念ずるものであります。伏して冀くは先亡の水子・孩嬰の幼霊、薄幸・遊魂の諸霊、水辺・懸崖の各霊、各種戦没・殉難の精霊、有縁・無縁三界万霊等ひとしく観世音菩薩の慈愍力を蒙り、永遠無窮の覚路に登らんことを。平成10年11月3日建立。春日山林泉寺55世大綱伸之謹誌。(永代供養諸精霊省略)』
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小さな鐘を鳴らして拝みました。
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上杉家廟所。
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20.5
歴代藩公の尊崇が厚く、上杉家の墓所には、奥方・子女26基、支侯16基のお墓があります。また、米沢城下町創設の恩人、直江山城守兼続の御廟所として、その霊牌を奉安しています。
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21.5
鍋島夫人市姫。徳川家康の養女(肥前佐賀35万石松平信濃守勝茂の長女)。元和9年7月19日3代定勝公と縁組。寛永元年1月21日入輿。寛永12年6月3日42歳で江府にて逝去。同25日当寺に葬送。法名伝高院殿洞胤栄仙大姉。
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会津夫人媛姫。保科正之長女。承応3年4代綱勝公と縁組。万治元年19歳にて逝去。媛姫毒殺事件として有名ですが諸説あるので触れません。事件後に上杉家菩提所であるここ林泉寺に葬られました。法名清光院殿月汀正心大姉。
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仙洞院。長尾為景の娘、長尾政景の正室、上杉景勝の母。林泉寺の建立に尽力したことから林泉寺中興開基と称されています。慶長14年2月15日米沢城二の丸において82歳にて逝去。法名仙洞院殿知三道早首座。
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お豊の方。
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鷹山側室お豊の方の墓…『お豊の方は、寛保元年(1741)1月17日、4代藩主綱憲の六男勝延を父として米沢で生まれました。明和7年(1770)6月14日、30歳で、10歳若い鷹山の側室となり直丸(顕孝)・寛之助の二子をもうけますが、いずれも19歳、2歳と早世しています。鷹山には、江戸に正室(8代藩主重定の子幸姫)がいましたが、お豊の方は鷹山のこよなき理解者であり、その改革を支える内助の功(養蚕の奨励など)が今日なお語り継がれています。また、お豊の方は詩歌に通じ、麗之の名で歌を残しています。「年ごとに栄えますらん国民もにぎはふ今日の君のめぐみに」。鷹山とともに領民に敬愛されたお豊の方は、文政4年(1821)12月17日、81歳で逝去しました。法名、浄鏡院殿真影不空大姉。鷹山は次のような悼歌を手向けています。「老いぬればおくれ先だつ世の中に心なおきそ死出の山みち」米沢市』
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甲州夫人菊姫。慶長9年2月16日伏見邸にて47歳で逝去。始め京都妙心寺中亀仙庵に葬られ、後に林泉寺に改葬。法名大儀院殿梅岩周香大姉。
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甲州夫人菊姫の墓…『菊姫は米沢藩初代藩主上杉景勝の正室で、父は武田信玄である。信玄の死後、嫡子勝頼は上杉景勝と和を結び、天正7年(1579)に妹菊姫を越後春日山城の景勝に嫁がせた。菊姫は甲州夫人と呼ばれ敬愛されたが、慶長9年(1604)京都で逝去。享年47。川中島で激戦を交えた信玄と謙信の子が結婚する数奇な運命は、歌舞伎の本朝二十四孝の中の「八重垣姫」のモデルと称される。米沢市』
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上杉駿河守勝周。元禄9年9月10日生。童名は千之助。五代綱憲公の子で支侯の先祖。元禄9年、米沢藩4代藩主上杉綱憲の四男として誕生。享保4年、兄吉憲から1万石を分与されて米沢新田藩を立藩。米沢新田藩の上藩邸が麻布にあったので麻布様と称しています。延享4年7月2日52歳にて逝去。法名瑞光院殿天容祥雲大居士。
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他に上杉式部勝延(元禄11年2月24日米沢城生。童名源之助。5代綱憲公の子(五男勝周の弟)で、9代重定公の叔父、10代鷹山公の側室お豊の方の実父。安永元年6月1日75歳にて逝去。法名法性院殿海岸恵月大居士)の墓などがありますが、案内板が設置されていない墓もたくさんあり、どれがどれなのかわからず。
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30.1
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こちらは万年塔(万年堂)と違って中の様子がはっきり見えますね。
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31.2
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小さな墓もたくさん。
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上杉家廟所として囲まれた区画内にある上杉家墓所。
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上杉家廟所として囲まれた区画外にも。
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畠山氏累代之墓。
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35.5
松木魯堂(1785-1838)の墓・松木彦右衛門累代之墓。
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通称彦右衛門、初め徳之助といい、魯堂と号しました。その人となりは温順雅量、幼くして興譲館に学び敏達精研群を技きました。文化14年、友子堂助続となり、後神保蘭室の門に入って江戸在府中請儒学者と交って漢学を好みました。また、藩学に対し私学の勃興をはかり、赤湯島帽千山に臨雲堂を開き子弟を養育しました。天保9年10月24日54才にて逝去。法名松峯院殿雲外文秀居士。
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謙信公股肱の臣、秋山源蔵の墓。
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直江公に招かれた鉄砲鍛造師、吉川惣兵エの墓。直江兼続は慶長9年9月、近江国住友村より招き、高湯にて鉄砲火薬軍器を作らせました。非常に良い鉄砲を作るので鉄砲塁町に屋敷を与え、録100石を給しました。
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明治4年洋学舎の英学教師、滝川喜六の墓。明治4年1月、興譲館内に洋学舎を創設した折、米沢藩の招きにより木頓道之助・宮内赫介と共に来藩した静岡藩士の英学教師。1年間の手当が金10円と高給でしたが、不幸にも来藩間もない明治4年4月4目に逝去。法名積善院賢徳秀才居士。ちなみに同年10月英人ダラスが招きに応じ来県(同年7月廃藩置県)し、米沢における洋学の隆盛を見るに至りました。
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画と造園の名手、小田切寒松軒(1690-1774)の墓。元禄3年5月13日生。名は継親、通称弥惣。淵竜と号し享保19年に隠居し、後に寒松軒と号しました。初めは五代綱憲公の近習となりましたが、故あって改易を命じられ塾居14年に及びました。9才の時、目賀多守息(南目賀多派の祖-雲川と号す)に画を学び、長じて九代重定公の寵が深かったと云われています。その画くところは細密磁潤、鳥獣花木に妙を極め、また槍術に達し、好んで山水樹芸草木等を築作。造園の名手としての名が高く、餐霞館(十代鷹山公の隠居所)の築庭、その他を作ったといわれています。 安永3年1月14目85才にて逝去。門人に香坂松洲左近司惟春等がいます。
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明治維新当時の興譲館漢学者、坂蘭渓の墓。米沢中学校時代(現在の米沢興譲館高等学校)の教師。名は敬次、殊に長篇を能くし月山の詩の如き傑作があります。その著に蘭渓詩集があります。法名幽哉院俊翁蘭渓居士。
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歴代住持の無縫塔。越後十三代合祀。
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43.5
「開山勅特賜宗猷大光禅師、外」
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「六世勅賜心月圓明禅師微笑珍慶大和尚・七世天室光育大和尚、謙信公幼少の師・八世益翁宗謙大和尚、謙信公青壮期の師・十世勅賜佛智大通禅師月松宗鶴大和尚」
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枝垂れ桜。樹齢約200年。
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米沢藩中興の祖と仰がれる10代鷹山公御手植えの桜と伝えます。
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春日大明神。
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上杉家の氏神にして当山鎮守の社。上杉鷹山公(治憲)が御節倹の折(17歳)、立志の誓詞を捧げられた由緒深いものです。また、当時寄進された雨乞の大般若経等は現存。
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社号標「郷社春日神社・山形縣米澤市南堀端町」
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「まんさくに 風めざめけり 雑木山」行方虎次郎。
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山形県米沢市林泉寺1丁目。長尾家、上杉家の菩提寺(直江兼続・武田信清菩提所)。ふれあし観音霊場。拝観料金は堂内300円ですが、この日は丁度法要が行われており、境内拝観(100円)のみとなりました。堂内撮影禁止。
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山門前の石塔。読み取れず。
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現在の山門は門東町にあった竹俣家(今の九里学園高等学校所住地)の門を明治35年に移転したもの。
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家老竹俣当綱当時、藩主上杉鷹山公がくぐられた門。
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元家老竹俣当綱家の門…『この門は、上杉氏10代鷹山公時代の名家老竹俣当綱(1729-1793)家のものであったが、その跡地を受けた売間信任氏の特志により、明治41(1908)年8月、林泉寺に寄進されたものである。もと萱ぶき屋根であったが、損傷と老朽化がはげしいため、平成5年(1993)9月大改修により面目一新した。山主謹白』
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明応5年(1496)に越後国高田(新潟県上越市)の蜂ヶ峯の麓に一宇が建立されます。開山は曹洞宗開祖道元禅師から下って11代にあたる勅特賜宗猷大光禅師、曇英慧應大和尚が、本師である一州正伊大和尚を勧請し開山。開基は越後守護代であった長尾能景公(上杉謙信祖父)が、その父である重景公の勲業を子孫万歳の福基に残そうとの御志願から建立。寺号は長尾重景公の法名である「林泉寺殿實渓正眞大居士」から定められました。山号は長尾景虎公(後の上杉謙信公)が上杉氏を相続された時に、上杉家の氏神である奈良の春日明神を勧請し春日山としました。2代景勝公の折に上杉氏は会津を経て米沢移封(慶長6年)となり、その後、元和3年に萬安大悦大和尚の時に米沢の現在地に移ります。舞鶴城(米沢城)の南現在の地域を選び、高田林泉寺の古規にならって堂塔伽藍を建立。なお、現在の伽藍は享保17年9月に火災に遇った後に建てられたものです。
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春日山林泉寺…『上杉家(長尾家)の菩提寺で、上杉家と共に越後から米沢に移る。境内には、直江兼続・お船夫婦の墓が建あり、直江兼続逝去時の位牌も祀っている。また、藩主妻子や一族の墓所でもあり、重臣たちの墓が並ぶ。』
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春日山林泉寺…『上杉謙信の祖父長尾能景が、父重景の菩提を弔うため、明応5年(1496)に春日山城(新潟県上越市)の麓に開基した曹洞宗寺院。その後、上杉氏と共に会津、米沢に移る。上杉家の菩提寺であり、藩主奥方や子女、上杉支侯家(米沢新田藩主)の廟所の外、直江山城守兼続夫妻の墓や武田信玄の六男信清の墓(共に県指定の史跡)、長尾家・杉原家・吉江家・甘粕家など上杉家重臣の墓が数多くある。斜平山を借景とした庭園は、米沢三名園の一つに数えられている。』
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曹洞宗春日山林泉寺…『この寺は明應5年(1496)に上杉謙信公の祖父長尾能景によって越後・高田(新潟県)に創建され、100年後上杉景勝(2代藩主)の時代に米沢に移りました。旧藩時代、領内曹洞宗寺院の総支配をしていた面影が偲ばれ堂内の諸資料に重厚な歴史がうかがわれます。代々長尾、上杉家の菩提寺ですので、今日でも両家の立派な霊牌が数多く安置され境内には上杉家歴代正室の廟所をはじめ上杉家家臣の墓がたくさんあります。名将直江山城守兼続及び武田信清(武田信玄の六男)の墓は山形県指定史蹟になっております。【拝観の要点】1.釈迦三尊及毘沙門天などのお仏像 2.御開山及天室禅師真筆の巻物 3.上杉家霊牌所と直江兼続真牌 4.鷹山公御書等宝物十数点 5.上杉家祖神春日大明神及山門 6.ふれあし観音さま 7.上杉家廟所並武田信清の墓 8.直江山城守瑩域及万年塔群 9.庭園(米沢三名園の一つ)【行事】●毎週日曜参禅会●随時錬成坐禅会』
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禅定石。
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禅定石…『禅定とは、坐禅によって、きまるところにきまっていることです。人も石も坐禅すればそのまゝ佛なのです。山主』
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境内案内図。
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本堂。
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順路に従ってまわります。
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吉江常陸介宗信の墓。吉江家は桓武天皇より出て平姓・村岡姓・三浦姓・大川戸姓を経て、21代に至って吉江姓を名乗りました。天正10年6月3日、23代吉江宗信が越中魚津城を守り織田信長の大軍と戦い、宗信以下一族5名壮烈な戦死を遂げました。法名永輝院殿顕宗義忠居士。上杉家譜代の重臣として37代連綿として現在に至ります。
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吉江常陸介宗信の墓…『吉江宗信は上杉謙信・景勝に仕えた勇将。子の景資や孫の景泰も謙信の旗本として活躍した。天正10年(1582)6月3日、宗信らは魚津城(富山県)を守り、織田信長の大軍と戦い、宗信以下一族5名が壮烈な戦死を遂げた。信長が本能寺で自害した1日後であった。吉江家は景資の三男長忠が継ぎ、以後上杉家譜代の重臣として仕えた。米沢市』
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万年塔(万年堂)がたくさんあります。万年塔は兼続公によって考案された墓石であり、四角柱の形をした外側の覆いとその中に納められた五輪塔の二重構造で造られているものです。戦時には積み重ねてバリケード(穴は銃眼)となり、洪水の際には土を詰めて土嚢になるようにと考えられたものらしく、米沢市のお寺の至るところで見られます。
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3代定勝公に殉死した三股隼人吉親の墓。九兵衛吉次の二男で、3代上杉定勝公の小姓頭。正保2年9月10日に領主定勝公が42才を以て逝去された折、岩井久親、香坂弥五右衛門と共に追腹殉死。法名正忠院殿傑山勝英居士。
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本堂裏の林泉寺庭園へ。
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林泉寺庭園(米沢三名園の1つ・廻遊式)。西方の斜平山を借景とした雄大なつくりの禅庭。
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本堂裏。
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庭園内の石祠。
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直江墓所(向って左が直江兼続・右がお船の方)。山形県指定史蹟。当時の墓としては珍しく、夫と妻が同じ大きさの墓となっています。
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直江山城守兼続(1560-1619)は初め樋口与六、永禄3年越後魚沼郡上田庄坂戸城に生まれました。父は同城主長尾政景の長臣樋口惣右エ門兼豊、母は山東郡与板の城主、直江大和守親綱の娘。天正9年(1581)に直江家を継いで山城守兼続と称しました。兼続は幼少より才気群を抜き、上杉謙信・景勝の信任厚く、数十年の間藩政を一身に統括し、慶長3年に主君景勝が会津120万石を領した時には、兼続は米沢6万石(一説に、秀吉特命の30万石説あるも、根拠資料未発見)を領し、移封後の領内掌握と、新機軸打出のために敏腕を振るいました。慶長5年、世に天下分け目と云われる関ヶ原の役で石田軍が敗れ、天下の大権は自ら徳川家康に帰しましたが、同6年主君景勝は120万石から米沢30万石に減封となりました。兼続はそのうち5万石を与えられましたが、自分はただ5千石を受けただけで、余りは悉く家中の諸士に分け与えました。兼続は風采堂々、躯幹長大、弁舌爽やか、かつ博学多識であり、殊に文を好んで詩歌をよくし、天文地理・軍学・経済学等…皆達しないものはなく、米沢に於ける学問は兼続に発したと云われる程です。しかも、その居常は極めて簡粗で、身を保つことも謹厳でした。又、その才略は実に雄大であり、米沢城市の建設、荒蕪地の開拓、更には水利の疎通、産業の開発、学問の興隆等…まさに直江侯は米沢開拓の大恩人です。元和5年12月19日、江戸鱗屋敷に於いて病歿。行年60才「達三全智居士」。時の将軍秀忠より香奠として銀70枚を賜りました。享保4年、百回忌に当って、英貔院殿と追謚されました。一方、お船の方は、越後与板の城主、直江大和守景綱の娘で、初め与兵衛信綱に嫁して信綱の歿後、兼続に再嫁しました。その人と為りは、賢明にして胆力がありました。年63才の時、夫と死別し薙髪して貞心尼と号しました。以後禄3千石を受け、寛永14年正月4日江戸鱗屋敷に於て歿しました。行年81才。法名は宝林院殿月桂貞心大姉。
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境内案内図では近くに新貝弥七の墓がありますが撮り忘れたようです。万年塔(万年堂)がどれもこれも似ているのでわかりにくいのです。新貝弥七は喜兵衛安親の二男で始め大蔵。無給にて元禄3年1月31日、吉良左兵衛君(綱憲公の二男で吉良家を嗣いだ)小姓を命ぜられ、江戸へ勤めました。元禄15年12月14日吉良一件(赤穂浪士打入)の際、堀部弥兵衛その他と渡り合い玄関先において討死。腹中に槍の穂先が残っていたと記録にあります。法名刀山宗剣居士。
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直江兼続夫妻の墓(昭和28年2月20日指定)…『米沢藩の基礎を築いた直江兼続とお船の方夫妻の墓で、向かって左が兼続、右が夫人の墓である。墓は「万年堂」と称される家型塔婆で、中には五輪塔がある。正面の3つの穴は、直江家の家紋「三盛亀甲花菱紋」を象ったといわれている。直江兼続(1560-1619)は、上杉景勝の側近として活躍し、上杉家の米沢移封後は、米沢城下の整備を指揮し、禅林文庫を創設するなど米沢藩の基礎を築いた。お船の方(1557-1637)は賢夫人として知られ、兼続の死後も三千石の知行を受け上杉家に尽くした。』
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流鏑馬の馬場。
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康平年間、源義家が奥州下向の際に武運長久・国土安全・五穀能成を祈願し、流鏑馬を奉納したことに始まるそうです。昭和14年を最後に途絶えていましたが、昭和62年に高畠町青年会議所の有志により再開。養蚕が盛んな頃、的に「あたる」にあやかろうと的板の取り合い、矢を苗代に立てると苗が倒れないとして矢を取り合ったそう。現在は12枚の的を全て的中させるまで続けられており、あたり的が頒布されています。
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手水舎。
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手水石。
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舞楽殿。室町末期のものといわれており、1間4方の宝形造、茅葺き。茅葺きの頂上に石造露盤・宝珠が置かれ簡素雄健。
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毎年5月3日には春の例大祭として倭舞を奉納、9月15日の秋の例大祭には延年の舞が奉納されます。
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県指定有形文化財碑「舞楽殿・昭和30年8月1日指定・昭和62年3月31日建立・高畠町教育委員会」。
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舞楽殿と安久津延年…『石畳の参道をふさぐように阿弥陀堂(跡)に向かい東向きに建つ建物が舞楽殿です。舞楽殿は、方一間の宝形造、茅葺きで、西側に小さなおろし下げがあり、屋頂には石造の露盤と宝珠が置かれます。舞楽殿では、安久津八幡神社春の例大祭で田植舞が、秋の例大祭で延年がそれぞれ舞われます。建物は、室町末期のものと考えられています。本来延年は、平安時代の終わり頃より寺院の法会・法要などに舞われたといわれています。安久津では9月15日の秋の例大祭で、神社に奉納されます。それ故地元では長い間「神楽舞」として継承され、舞楽殿も神楽殿の名で呼ばれていました。舞は、「振鉾式(燕舞式)」「拝舞」「三躰舞」「太平楽」「眺望楽」「蛇取舞」「姥舞」の7曲が伝えられ、「振鉾式」と「姥舞」の2曲を舞師が、他の5曲を稚児(男児)が舞います。そのため一般には「稚児舞」とも呼ばれます。舞は、舞師である大地権太夫家に、一子相伝の世襲制のもと、44代にわたり代々受け継がれてきました。かつては、奥州名取郡熊野社や宮内熊野大社に舞師として招かれ、舞を指導していました。安久津延年は、比較的古式をとどめている舞として、昭和63年に町指定無形民俗文化財として指定され、平成5年には国の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選択されています。山形県指定有形文化財「八幡神社舞楽殿」昭和30年8月1日指定、高畠町指定無形民俗文化財「安久津延年」昭和63年3月18日指定。高畑町教育委員会』
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子育地蔵尊前の石灯篭一対。
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11.5
子育地蔵尊。
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子育地蔵尊内…真っ暗ですが。
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日露戦役紀年碑。
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14.5
山中神明宰。
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山中神明宰…『当地屋代郷一帯は宝暦、明和、年間水害旱害、冷害で大不作でした。それに天明3年の大凶作で餓死者も出る程の不況でした。この民苦と窮状を察して、当地代官、山中太郎右衛門が独断で上米蔵を開き施米として郷土の村民を救いました。代官幕府へ上申のため、江戸に旅立つ時一切の責任は我にあり我もし帰らずば、念佛一遍も唱えてほしいと申された。山中代官の民情対する至誠は幕府当局を動かして免祖の恩命さえ下りました。その恩を称して、安久津村、新宿村、竹森村、深沼村の村民が感激を後世に遺すべくの報恩碑です。』
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参道。社殿が見えてきました。
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大乗妙典石経塔。
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耳の神様。
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社殿前石段と石灯篭二対。暗くなってきました…っていうか社殿修理中っぽい…屋根の葺き替えかな。
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参道を振り返る…奥に見えるのは舞楽殿。
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狛犬一対(紀年銘なし)。
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22.4
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御神木。
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ブルーシートに覆われて向拝下も真っ暗。
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社殿内。旧郷社。御祭神は誉田別命ほか、伊邪那岐命、伊邪那美命、稲倉魂命、水波女命、天照大神、素盞鳴命、大山咋命、若山咋命、天彦火瓊々杵命、神倭磐礼彦命、別雷命の12柱。
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拝殿前の狛犬一対(明治25年)。致し方なくフラッシュ!
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26.4
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拝殿及び本殿(横から)。
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27.2
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27.8
細かいところも見せたかったのですが、暗いせいで写真がブレブレで残念。是非現地へ参拝して見て下さい。
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28.5
安久津八幡神社本殿…『安久津八幡神社は、その長い歴史の中で、幾度となく火災に見舞われています。度重なる火災により宝物や記録は失われましたが、わずかに残る神社縁起書や棟札などの記録から、明応9年(1500)伊達尚宗により社殿が再建された記録を最古として、7度焼失し、その度ごとに再建されてきました。現在の本殿は、寛保3年(1743)に焼失した社殿を、米沢藩上杉氏9代重定の代、宝暦5年(1755)に再建されたものです。三間社流造、茅葺き、軒組は和様平三斗といいます。棟の両端には鬼板があげられ、屋根が半円形に張り出す特異な形状をしています。本殿は、近世建築ながらその手法が優れ、江戸時代を代表する建物として、昭和30年県指定有形文化財に指定されました。もともと本殿は、現在地の北、八幡山の中腹に近いところにあり、現本殿の背後に参道やその両脇の堀、旧本殿などの跡を見ることができます。また、八幡山の中腹や山麓には、神社を囲むように十数基の古墳が点在しています。この古墳群は、鳥居町古墳群と呼ばれるもので、いずれも横穴式石室を有する7世紀後半から8世紀にかけての円墳です。本殿左手裏に見ることができる古墳は、鳥居町3号墳、4号墳です。山形県指定有形文化財「八幡神社本殿」昭和30年8月1日。高畠町教育委員会』
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県指定有形文化財碑「本殿・昭和30年8月1日指定・昭和62年3月31日建立・高畠町教育委員会」。
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社殿前石灯篭一対。
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31.5
裏山一帯には安久津古墳群(鳥居町支郡)十数基が点在。
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その他、奥の院などがあります。
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33.5
奥の院を目指して少しだけ登ったのですが、思っていた以上に山道な上、暗くなってきたので途中であきらめました。
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ってことで本殿へ戻ってきました。
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末社の石祠。
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三重塔へ。
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神社の入口付近、周囲に清水を巡らせた敷地にあります。
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境内三島池の三重塔は寛永2年に建立され、寛政2年に烈風で倒壊、同5年に着工し寛政9年に竣工したもので、三間塔婆、宝形屋根、銅板葺、高さ17m、総高さ20.5m、棟梁は伊達郡出身の山口右源次義高。
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神仏分離令以降は御祭神として大山祇神を祀っています。置賜地方唯一の層塔建築の遺構として貴重であることから昭和30年に山形県指定重要文化財に指定。
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三重塔にあった三頭木っぽい木、石仏、石祠。
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41.4
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安久津八幡神社と三重塔…『安久津八幡神社の成り立ちは、貞観2年(860)に慈覚大師の発願により阿弥陀堂が建立され、その後、前九年の役の際、源義家が安倍一族を平らげ、鎌倉の鶴岡八幡をこの地に勧請したとされていますが、定かではありません。当時盛んに行われた神仏習合の考えから、阿弥陀信仰が八幡信仰に変わっていったとも考えられます。神社は、置賜地方を支配した長井氏、伊達氏の時代には「東八幡宮」とも呼ばれ、最も栄えた時期でした。広大な境内には、別当神宮寺、学頭金蔵院、衆徒頭千殊院をはじめ12坊がありました。鎌倉時代最古の民間文庫として知られている金沢文庫(神奈川県)には、弘長3年(1263)「出羽国屋代庄八幡宮」で修行する能海、湛忍という2人の若い僧が、それぞれ仏書を書写して入庫したものが今でも残されており、当社の古さを物語っております。三重塔は、本来寺院伽藍の1つですが、明治の神仏分離令によって、本社内の寺院が廃絶し、その後の火災などにより寺院が失われたため、三重塔のみが残りました。方三間、銅板葺(当初柿葺、後瓦葺)で、三島池の中島に建つ、置賜地方唯一の層塔です。三重塔は最初、寛永2年(1625)に米沢の鈴木十左衛門、高畠の鈴木平右衛門を施主として建てられましたが、寛政2年(1790)に烈風により倒れたため、寛政5年(1793)から伊達郡鳥取村山口右源次義高を棟梁として再建に着手し、同9年(1797)に完成したものです。当時の祝宴の盛大さは、小郡山武田家文書などからうかがい知ることができます。山形県指定有形文化財「八幡神社三重塔」昭和30年8月1日。高畠町教育委員会』
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