くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ: 寺・神社 (山形県)

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観音堂前石灯篭一対(明治44年5月・丸喜)。
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3.5
観音堂前青銅灯篭一基(昭和51年11月3日)。台座「献燈の趣意(清昭代)」は省略。
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笹野観音堂…大きいです。
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向拝彫刻。
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唐破風懸魚・中央蟇股。
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蟇股(前面3間)・木鼻。
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8.5
虹梁・手鋏等。彫刻については笹野観音堂のHPに詳細(写真)が載っています。
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9.4
9.6
9.8
鰐口・御詠歌「まいりきて いまはのぞみの ささのやま にわのきぐさも るりのひかりぞ」。
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扁額「施無畏」。
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内陣。
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外観とギャップがあって煌びやかです。
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向って左には不動明王、獅子頭、狐などが見えます。
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向って右には弘法大師像、出世大黒天、獅子頭などが見えます。
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笹野観音堂本堂人物比較。
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境内案内板における由緒については既に掲載済ですが、改めてここで笹野観音堂の由緒について一気に述べます。内容は被ります。
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坂上田村麿呂が国家鎮護を願って観音菩薩を勧請し、また、旅の僧が霊木を刻み鎮守として村人に祀らしめ、背後の笹野山(斜平山)の中腹に観音堂と羽黒権現の社があったと伝えられています。弘仁元年(810)7月、現在地に観音堂が落成し、観音菩薩と羽黒権現をお祀りし、会津の高僧徳一上人により入仏供養が行われました。永享年中、長井の高僧宥日上人が観音と羽黒の両尊を秘仏とし、新たに刻んだ千手千眼観世音菩薩を御本尊としてお祀りしました。
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上杉家が越後を統一し、庄内の羽黒山(山形県鶴岡市)も支配地となった際に、直江兼続は祈祷師の養蔵坊清順に庄内羽黒山より勧請させたと伝える羽黒大権現を後神としてお祀りしました。以後、歴代藩主により5度の修理が行われています。安永8年に上杉鷹山公が観音堂を再建。天保4年に観音堂炎上し、秘仏を除いて焼失。天保14年に上杉13代斉憲公が観音堂を再建され、藩内各宗の寺院によって7日間に亘り落慶法要が行われました。現在の堂はその当時のもので、大きな茅葺の屋根や精巧な彫刻などが特徴の壮大な建物となっています。なお、竜や鳳凰の彫物は庄内地方の彫物師後藤藤吉・政吉の作と伝えます。再建当時は凶作の続いた時期(天保の飢饉)でした。藩では倹約令を出し、伊勢・柳津・湯殿山などへの参詣や神社・仏閣への寄付の停止令を出す状況で、観音堂の再建はすぐには許可されず、天保11年にようやく寄付集めが許され、米沢城下の商人を中心に領内一円から寄付を集め、その総計は約1150両にのぼったそうです。大工4500人・人足2800人・屋根葺300人や石工・彫物師数名で、延べ7100人余の労働力を要した大工事でした。藩主は月に3度、御本尊の千手千眼観世音菩薩を祈願され、また庶民に至るまで広く信仰され、当地随一の観音霊場とされ、民芸品の笹野彫は観音様参拝の縁起物として今に伝えられたものです。
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本山は総本山を奈良の長谷寺に、大本山を東京音羽の護国寺に仰いで、真言宗豊山派に所属して現在に至っています。古くは旧12月17日に後には新暦1月17日に行われる「十七堂祭(年越祭)」という護摩壇の行事があり、信者や行者によって火渡りの荒行が行われます。この祭には「花市」と称して笹野一刀彫の市が立ちます。
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正面鬼瓦(水神)。懸魚の彫刻も細かいです。
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近くてで大きくて見たら迫力がありそうですね。
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両側面鬼瓦(阿吽)。
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23.5
本堂裏側。直江兼続公は藩主景勝公の祈祷師であった養蔵坊清順に、庄内羽黒山よりの勧請を命じ、観音堂の後神として再び羽黒権現を祀りました。慶長6年(1601)に上杉景勝公が米沢入部され、観音堂を修理。この前年は関ヶ原の西軍敗退により直江公は長谷堂の戦いから撤退し、それまで上杉領であった羽黒山を差配していた養蔵坊清順は、最上勢の攻撃を恐れて米沢に逃れてきます。この時に御神体を持ち帰り笹野羽黒の別当を務め、毎年人日の1月7日に柴燈護摩を厳修します。時の住職は、これ以前より正月7日間の精進別火が行われ、毎年蘇民将来を刻していると笹野観音縁起に記しています。「米沢地名選」には、直江兼続公が明鏡院と称した清順に羽黒の本体を取来ることが出来るかと問い、清順は左程難しくは無い、もし取来れば我を侍に成し賜えと云い、直江公はその望みに任すと答え、清順は悦んで七日間潔斎して羽黒に籠もり、ついに取り来たって直江公に差し出せば、直江公は悦び清順を武士に取り立て、今はその孫が藩の与板組にいる、と述べています。
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直江兼続公に由来する羽黒権現は、明治の神仏分離令まで、笹野村の鎮守神で、観音堂後ろの丸い格子の上には「羽黒大権現」の額が掲げられ、参道には近年まで石の鳥居が有ったそうです。
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本堂裏手の林の中にいくつかの石塔・石仏が見えます。
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「天照皇太神宮」「當国三十三所供養塔」「南無阿弥陀仏百万遍」など。
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ちなみに上杉家が米沢移封された後も直江兼続公は徳川の攻撃に備え、慶長9年白布温泉で密かに鉄砲を造り、城下に至る各所に鉄砲を配備し、笹野観音境内の林には60挺が配備されていました。
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厳清龍王。この池は天保14年の観音堂再建時に笹野村中の寄付で造られたものです。厳清龍王は厳島神社の孫にあたる分霊の神様。東京中野の中山辰子女史が厳清龍王と名付け、観音堂南の放生池の中に勧請。放生池は魚などの捕らえられた生き物を逃がして、その善い行いの功徳で願い事の成就や罪を滅するための池。昔は目が良くなるようにとドジョウを放すために、門前でドジョウを売る人がいたそうです。
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大宮子易明神。嘉永6年に建立され、後に明治36年に門前の講中により再建。安産や子育てに御利益があるそうです。以前のお宮も再建のお宮も石工は門前の原田五郎左衛門家。
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弘法大師堂。
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弘法大師の御生誕1200年記念として昭和59年建立。
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弘法大師の霊場である高野山や四国霊場をお参りする機会に恵まれない方の為に、前住職清昭和上が高野山と四国八十八カ所を巡拝して持ち帰った聖地の石を堂内のご宝前に巡らしております。
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四国八十八ヶ所・髙野山奥之院霊場お石踏み巡拝…『今日なお弘法大師の恩恵を受ける私達はお大師様ゆかりの地四国八十八ヶ所霊場並に、御入定された高野山奥之院の霊地を直にお参りすることが出来れば幸でありますが、今その機会に恵まれない方の為にそれぞれの霊場の石を安置して、一人でも多くの人がお大師様の御徳に触れていただきたいと願うものであります。各霊場を訪れたこととして一つ一つの石を踏みしめ、手を合わせ一心に「南無大師遍照金剛」と繰り返し繰り返しお唱えすれば、かならずや心清らかなること疑いありません。〔同行二人〕…それは、我は大師と二人ずれとの深い信念をもって、常に心を強くして歩むことなのであります。南無大師遍照金剛。合掌』
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みちびき観音(平成23年)。
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不動明王。
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36.5
一切経堂へ。
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一切経堂。延享2年落成するも焼失し、天保14年に観音堂と共に再建。
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中央に祀る中国の道士の傳大士と、俗に笑仏と呼んでいる二人の子、普成、普建の親子三人像で、後に鉄眼版の一切経が和綴じ仕様で納められています。
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39.5
三重の塔へ。
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三重の塔前には宝篋印塔、庚申塔などの石碑や石祠がありました。
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41.5
三重の塔は杉林の中にたたずむ5mの石造りの塔です。宝暦7年建立。一番下の階には五輪塔が2基、中の階には大日如来と四仏、最上階には摩尼宝珠がそれぞれ安置されています。
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この塔を廻るとお産が軽くなるとの謂れもあるそうです。
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三重の塔から見た本堂。
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みんなの休憩所。
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全部は紹介できませんでしたが、以上、笹野観音堂でした。
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笹野観音堂(米沢市)』からの続き。
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漱口場。
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水は観音像の前で龍の口から注がれます。昔より笹野は神仏を畏れ敬って、正月の7日間(現在は3日間で別火も無し)を肉や魚等を食せず、他人と同じ火を使用しない精進別火で、穢れ無い清らかな身体で正月を迎えました。昔も守れない人が多く、罰が当たった人はこの水で口を漱げば罪は消え、もし本人が来れなければ代人がこれを謝し漱水を注ぎ浸せば治癒すと伝えられています。
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笹野観音堂(平成19年3月16日指定)…『天保14年(1843)に建設された社殿様式の観音堂で、桁行3間、梁間4間の四方に縁を巡らす。木造入母屋造で、正面に千鳥破風と軒唐破風を設け、屋根は素朴な茅葺で重厚さを保持している。前面3間分に向拝を設け、豪華に飾る龍・兎・鳳凰・象等の彫刻類には透かし彫り・篭彫といった巧緻な技法がみられる。一方、建造年代を示す棟札や建設に関わる記録書類及び建設図面が現存しているのも特徴である。笹野観音堂図は、当時の大工棟梁であった渋谷嘉蔵の子孫宅(長井市)に大切に伝えられている。このように笹野観音堂は、建築年代の明らかな建物として、江戸時代末期の建築技術を窺うことのできる貴重な建造物である。』※笹野観音堂HPに鮮明な資料写真が掲載されています。
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笹野観音堂正面立面図。
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笹野観音堂棟札。
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松尾芭蕉句碑(高さ145cm・幅68cm・奥行51cm)…『ものいへば唇寒し秋の風』。梅花堂稲丸社中として7人の名前が刻まれています。
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『「物いへは唇寒し秋の風」。この句碑は文化9年(1812)松尾芭蕉の120回忌を翌年に控え、父についで藩の医師で、また俳号を稲丸と稱していた山口彭寿が、社中の協賛を得、翁の追善のため建立寄進したものである。』
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山口立玄句碑(高さ95cm・幅44cm・奥行60cm)…『長閑さやうまれたまゝのひがし山』。文化12年に亡くなった米沢の藩医。如是坊は俳号で当地の俳諧が盛んな頃に活躍した人。命日等が刻まれることから、同じ藩医で俳句でも活躍した子、梅花堂稲丸こと山口彭寿玄吉か、その徳を慕う者達が建てたと考えられています。
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「笹野山を経て愛宕山に至る」という標柱があります。
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その先徒歩8分ほどの場所に巡礼場があるようです。残念ながら笹野西国三十三観音巡礼場(手引観音→三十三観音→善光寺)は時間の都合上回れませんでした。
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なお、今回紹介する場所以外に、雷神堂(北東へ100m程)、大日堂(東へ700m程)、子育地蔵堂(仁王門から100程下った参道の南側)がございますが、こちらも時間の都合上回れず今回は紹介いたしません。
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不動堂。
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三股不動と呼ばれる石のお不動様。元は境内を流れている小川の水上、門前の家々の水源である三股という所に祀られていたそうです。昔から門前若衆が祭りを担当し、境内に移った今も、門前若者会が毎年5月8日に祭礼を行っています。
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石灯篭一対と湯殿山碑。
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手水石ですかね。
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上部は面白い形をしています。
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延命地蔵菩薩。かなりの大きさです。天保3年に地蔵菩薩を信仰し御利益を頂いたと大地蔵尊建立を発願した父の意志を継ぎ、渡部伊右エ門広繁が建立。渡部伊右エ門は今の門東町(米沢税務署や米織会館の所)に屋敷を構え、絹糸等の原糸や古着を扱う問屋「大和屋」を営む豪商で、観音堂や仁王門再建の大施主を務める熱心な信者だったそうです。
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基礎及び台座は米沢の赤崩石、身体は上山の川流石で造られており、総高約5mの県南一の石像で、費用は450両と云われます。
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魔尼殿(幸徳院本坊)へ。平成3年再建。御本尊の大日如来は隣寺の長厳寺が廃寺となり一時諸仏の大日堂に移り、後に本坊の御本尊として祀られました。
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併設された位牌堂の御本尊、釈迦如来も長厳寺より移られた仏様で、藤原末期から鎌倉初期にかけて地方仏師により刻まれたとする木造一木造りで、幸徳院檀徒の御先祖様をお守りしています。
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魔尼殿から観音堂方面へ戻る途中に松尾芭蕉句碑(天保14年10月12日・高さ240cm・幅120cm・奥行90cm)がありました…『観音の甍みやりつ花の雲』
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芭蕉が病床の身で、江戸深川の芭蕉庵から深川の浅草の観音様越しに上野の桜を見て詠んだ句とされています。天保14年は俳諧の祖翁と仰がれた松尾芭蕉の150回忌にあたり、報恩感謝の供養のため建立されました。俳号、二妙庵晋ふ山の富豪高橋六左エ門を筆頭に、米沢俳諧に活躍した郁甫こと勝野半助が世話方として建立。
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本堂納繕千人講中碑。
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笹野観音堂縁起…『昔、征夷大将軍坂上田村麻呂が国家の乱れが鎮まって国が治まり、安らかな世に成ることを願って千手千眼観世音菩薩を迎えて祀り、また旅の僧が川をさかのぼる霊木を見つけて像を刻み、笹野村の鎮守、羽黒大権現として村人に祀らしめ、笹野山(裏の山)の中腹に観音様の御堂と羽黒大権現の御社が有ったと伝えられている。大同元年(806)4月、現在の地に新たに8間4面の本堂を建立。弘仁元年(810)7月、落成して入仏供養を行う。会津の名僧徳一上人を開山第一世とす。後、羽黒大権現も本堂の中に併せ祀るようになると、門前を騎馬にて往来するに必ず落馬し負傷する者も多く出て、長いの宥日上人を招いて並び祀る羽黒大権現を秘仏として薦包みにし、更に新刻の千手千眼観世音菩薩を安置し益々霊験あらたかをもって聞こえ名刹として広く信仰を集める。天正5年(1577)4月伊達政宗公開帳供養を行う。慶長6年(1601)上杉2代藩主景勝公本堂を修理される。景勝公の祈祷師、庄内の羽黒山別当の養蔵坊清順が羽黒山より御神体の分神を移し、本堂の裏に後神として羽黒大権現を再び祀る。寛永11年(1634)上杉3代藩主定勝公本堂を修理される。慶安5年(1652)上杉4代藩主綱勝公本堂を修理される。寛文6年(1666)上杉藩主喜平次公(後の綱憲公)本堂を修理される。元禄3年(1690)上杉5代藩主綱憲公本堂修理される。安永8年(1779)上杉10代藩主治憲公(鷹山公)本堂を再建される。天保4年(1833)正月、火災により秘仏は難を逃れるもその他焼失。天保14年(1843)上杉13代藩主斉憲公、領内隅々よりの喜捨によって本堂を再建、6月落慶し各宗派の寺院により7日間行事が行われた。古より霊験あらたかをもって、歴代の国主から民衆に至るまで広く信仰を集めて現在に至る。昔より毎年、蘇民将来(笹野彫の起源と思われる)という無病息災の御守りを彫刻するをもって、当地には流行りの病無く産婦に怪我無しという。里人は精進別火と称して鳥獣等の肉や魚を食さず、又他家の者と同じ火を使用した食物を口にせず、元旦より7日間を過す。もし過って食し禍あれば、代人参拝し謝して漱口場の水を持ち、当人に注ぎ浸せば禍消えるという。正月8日に柴燈護摩を行い精進別火が明けた。今は正月3が日を肉魚等を絶ちて精進として伝えられている。笹野の里に伝わる笹野彫は、観音様参拝の縁起物として農民の手によって伝承されてきた信仰の所産である。〇年中行事:正月3日大般若転読会。正月17日十七堂祭、柴燈大護摩供、火生三昧(火渡りの行事)。7月17日十七堂夏祭。長命山幸徳院笹野寺』
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笹野彫記念塔。
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笹野彫記念塔碑文…『笹野彫は遠く慶長の昔米沢中興の英主上杉鷹山公の産業奨励により笹野の里の人々の特技として起り鶏の如く早起し兔の餅つきの如く勤勉に簔笠つけて働けば鷹の如く禄高を増し恵比寿大黒にあやかり福徳圓満をむかえ蘇民将来の子孫の如く無病息災にして亀の如く長生きし鶺鴒の如く子孫繁栄することの縁起を有つ古い伝統の民芸玩具である。現代に於ては更に米沢が誇る特産品として笹野花と創作の数々を加え美しく巧妙なる郷土民芸品として内外に賞賛を博することとなったのである。昭和38年5月7日』
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真言宗豊山派長命山幸徳院笹野寺。山形県米沢市笹野本町。置賜三十三箇所観音霊場19番札所。御本尊は千手観音(千手千眼観世音菩薩・総高153cm)。脇士(総高91cm)には地蔵菩薩と毘沙門天が再建時に仏師横山権六昌興の手により刻まれました。紫陽花(約2000株)の名所として知られており、別名「あじさい寺」と呼ばれています。7月中旬頃が見頃のようです。観音堂の境内には文化財も数多く残されており、参道北側の石の地蔵菩薩像は、米沢城下の大商人渡部伊右衛門が450両余をかけて建てた延命地蔵菩薩で、蔵王山の麓から運ばれた約30個の石で組み立てられているそうです。また、本坊位牌堂には平安末期頃に作られた木造釈迦如来坐像が安置され、千体地蔵堂には相良人形による千体地蔵が安置されています。このほか、松尾芭蕉と地元俳人の句碑があり、堂内には置賜の俳人104名による俳句の懸額が納められています。
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仁王門。天保11年に民家からの出火で類焼。現在の仁王門は明治6年に米沢の豪商の渡部伊右エ門広繁と二代広豊親子が南原の常慶院より金10両で買い受けて移築して再建したもの。
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金剛力士阿形。
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金剛力士吽形。
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仁王門正面。
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扁額。
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笹野観音堂由緒…『本尊は千手観音を奉安し開基は田村将軍である。人皇50代桓武天皇の御宇に当り時の征夷大将軍坂上田村麻呂利仁国家鎮護の為め観世音を勧請せられたものと云ふ。大同元年4月新に本堂を建立し弘仁元年7月落成したので入仏供養を行った。当時別当長命山幸徳院徳一和尚を中興と称した。・永正年中宥日阿闍利を招請して新刻の千手観世音像を安置した。・天正5年4月伊達正宗公開帳供養せられた・慶長6年上杉景勝公堂宇修理せらる。・寛永11年8月上杉定勝公堂宇修理せらる。・元禄3年9月上杉綱勝公修理せらる。・天保4年正月火災に罹り本堂焼失す。・天保14年6月10日本堂再建落成し遷座供養修行した。幸徳院』
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仁王様の堅固な身体にあやかり、健康や足が丈夫になるよう願い、下駄や草鞋などの履き物が奉納されています。
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巨大草鞋。
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仁王門背面の算額(復元)…『奉納「今有如圖圓内畫同規之菱之上下菱尖外圓周三所接其左右罏容円不知其箇數仮畫菱七個初徑若干次徑若干問圓數幾何」答曰「術曰以初徑除次徑名定内減一個余自乗之加八個開平方以減三個余以除定加一個開平方乗圓周率乃用直載内減四個不畫捨之得圓個數合問」今井権之助忠明「今有如圖球覓責等三段截之中段以等圓環畫之乃隣円上下相接只言球徑若干鋸道至少問黒覓積幾何」答曰「術曰置五個開平方加一個名極自乗之内減一個餘開平方以減極餘五之以減一個餘以極除之乗球徑冪及圓周率乃用直載得黒覓積合問」山口源次郎徳政「今有如圖弧内容六圓只言甲圓徑若干乙圓徑若干問丙圓徑幾何」答曰「術曰以乙圓徑除甲圓徑開平方加一個以除甲圓半之得内圓徑合問」足立安次重朝「今有如圖圓璹減弧環内容十個球甲球徑至少璹徑若干問外積幾何」答曰「術曰置三個開平方名天以減二個余開平方百四十三之以十二除之名地置天加二個乗圓責率以減地余乗璹徑再乗冪及圓積率四除之得外積合問」齊藤新蔵智方「今有如圖方内側圓錯交而其内容圓方面若干側圓長徑若干短徑若干問圓徑幾何」答曰「術曰置長徑自乗之内減方面冪余名天加短徑冪開平方以減方面余自乗之以天除之以減一個余開平方乗短徑得圓徑合問」蓬日哲蔵友明「今有如圖圓内隔斜容累圓初圓徑若干終圓徑若干問累圓個數幾何」答曰「術曰以初圓徑除終圓徑得數自一位至尾位以位數為個數合問」髙橋秀四郎信義「今有如圖線上載六圓只云甲徑若干問乙徑幾何」答曰「術曰置三分六厘乗甲徑得乙徑合問」三上瀬兵衛近明「今有如圖圓内隔斜容六圓外圓徑若干問丙圓徑幾何」答曰「術曰置二百八十八個開平方加三十三個以除外徑八之得丙徑合問」樋口勝次郎兼俊「今有如圖盤上六圓錘内容大小球乃充内無動其麓以大小球各二個圓之乃大小球圓錘旁盤上面相接只云大球徑若干問小球徑幾何」答曰「術曰置三個開平方以除大球徑得小球徑合問」山吉清蔵義繁「今有如圖直内容四圓甲圓徑若干問乙圓徑幾何」答曰「術曰置一萬二千八百〇〇個開平方以減一百一十四個余乗圓甲徑得乙圓徑合問」山崎久太郎義俊「今有如圖圓内隔線容七圓乙圓徑若干丁圓徑若干問戊圓徑幾」答曰「術曰置丙徑乗丁徑以乙徑除之得戊徑合問」澤周吉秀邦「今有如圖以上下斜挾三角其傍容大小圓各二個大徑若干小徑若干問三角面幾何」答曰「術曰置三個開平方以除一個名東加一個名西加東乗大徑及小徑名南置大徑加小徑乗西半之名北乗之内減南余開平方加北得三角面合問」梅村常蔵行義「今有如圖圭内容等圓二個其上畫菱又容等圓子若干丑若干問い菱平幾何」答曰「術曰置子倍之加丑乗丑開平方加丑得菱比平合問」大橋熊次信泰「今有如圖帯直圓内容大圓一個小圓三個只云短徑若干小徑若干問長徑幾何」答曰「術曰置小徑以短徑除之名天自乗之以減一個余名地開平方名人置地内減天余開平方以減人余倍之乗小徑加短徑得長徑合問」後藤久米五郎義春「今有如圖圓内隔弧背容甲乙丙圓各二個乃弧背與外圓周同(矢+見)只云甲乙圓徑和若干丙圓徑若干問外圓徑幾何」答曰「術曰置只云數内減丙圓徑余倍之得外圓徑合問」多田進之助幸房』
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笹野観音堂(仁王門脇の案内板より)…『坂上田村麻呂の開基、奈良時代・大同元年(806)に法相宗の名僧・徳一上人によって中興されたと伝えられています。天正以来(1573年以来)、伊達氏・上杉氏の信仰篤く、現在の御堂は天保4年(1833)火災で焼失したものを天保14年(1843)に当時の藩主であった上杉斉憲公が再建したものです。総ケヤキ造り・彫刻の精巧さは、この地方では珍しい伽藍です。本尊は千手千眼観世音菩薩で置賜19番、米沢1番札所となっています。初夏には境内にあるアジサイが見事な花をつけるため、「アジサイ寺」の異名があります。』
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仁王門をくぐりすぐ右手の杉の古木の傍らにひっそりとたたずむ弁天堂。延享2年建立。
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紀年銘(昭和35年かな?)ははっきり見えませんでしたが「辨財天堂」の横に「子易明神」の文字も見えました。
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弁天堂内。暖簾で弁財天は拝めませんでした。
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石仏。馬頭観音かな…草で見えず。
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境内と参道。
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千体地蔵堂。
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千体地蔵堂前の石仏。
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千体地蔵堂は嘉永3年に隣の長厳寺より釈迦堂が移築され、焼失より28年後に再建。御本尊は「いびた地蔵」と呼ばれています。米沢で長患いして寝込むことを「いびた」と云い、中風除けの地蔵様として信仰され、その護符として中風除けのお箸(中風封じ白南天御箸)を授与されています。
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御本尊の周囲には米沢に伝えられている土人形の「相良人形」で造られた地蔵様が一面(796体・昭和38年調、他破損)に祀られています。
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山形県南陽市宮内。熊野大社の横の細い道(證誠殿前)から一本道ですが、車がすれ違うことのできない細い道な上に、特に道中には何も無い(※山王山神社への参道入口はあります)ので、双松公園の中を通って行くのがおすすめです。双松公園を通って行けば季節の植物はもちろん、山形県指定天然記念物「妹背の松」や琴平神社なども見ることができます。
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長谷観音堂(宝積坊)。真言宗。置賜三十三観音霊場第30番札所(御本尊:聖観世音菩薩。御詠歌:いつみても かわらぬものははせでらの こけもひかりて なほもますなり)。
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長谷観音…『貞観9年(西暦867)慈覚大師が当地にやってきたとき、自分で作った観世音菩薩の像をこの地に安置したといわれている。天正17年(西暦1589)に、宮沢城主である大津土佐守本次がこの寺を再興した。この寺は、飛騨の工人の作といわれ、「たくみどう」とよばれたが、文政年間に火災にあって全焼した。文政10年(西暦1827)10月に上杉家の鬼門守護祈願所として再建を許され、このとき上杉家では、秘蔵の観音像を長谷観音堂に安置した。』
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関連記事:『宝積坊(南陽市)
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寺号標・石灯篭一対。
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6.5
鳥居。
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山形県あるある?!
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参道石段。
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狛犬一対(昭和20年8月13日・佐藤とみ、須藤るい奉納)。
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10.2
10.4
10.8
達筆ゆえ読んでいない碑(昭和23年6月)。
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手摺りがついています。石段が滑るので注意してくださいとのこと。
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手水舎。
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石灯篭と仁王門。
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懸額には「二王門」。
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仁王像。
16
16.5
高浜虚子句碑(昭和28年)…「雪の暮 花の朝の 観世音」。裏面碑文「奉祈願国家安全中内平和 高浜先生に請うて」
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石灯篭。
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弁財天。
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弁天池に囲まれています。
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弁財天堂内石祠。
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石灯篭。
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須藤永次翁像。
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台座碑文…『須藤永次翁はわが郷土出身の実業家で、日本石膏業の開拓者である。今年5月3日翁はその永年に亘る功績により藍綬褒章を授けられた。是はわが業界最初の事で、獨り翁の名誉であるばかりでなく全國業界の光栄である。洵に同慶の至情に堪へない。私共兄弟は同郷の末学として又同業の後進として翁の恩顧を蒙むること最も厚く且久しい。茲に翁の壽像を建て聊か感謝を表し、翁の髙風を永遠にたゝへんとするものである。敷地を翁が信仰篤い長谷の観音の境内に選び、製作を郷土出身の美術家芳武茂介君に依頼したのは、一は翁の意に副い、一はわれらが望郷の至情によるものである。昭和30年秋、神戸市、伊藤長太郎。多治見市、伊藤惠助。』
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本堂。
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木造聖観音立像(市指定文化財・室町時代)は非公開。頭部には鎌倉時代の作風がありますが、胴部は江戸時代のものらしく、異なった作風が見られます。一説には戦利品として持ち帰ったといわれています。
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長谷観音堂の創建は貞観9年(867)当地に巡錫で訪れた慈覚大師円仁が霊地と悟り、自ら彫刻した聖観世音菩薩を安置したのが始まりとされます。また一説には円仁が荒廃していた観音堂を再興したとも伝えます。歴代領主の信仰対象となり、天正17年(1589)には当時の宮沢城城主大津土佐守本次が再興しており、その際に再建した観音堂は飛騨の匠による壮麗な御堂だった事から匠堂と呼ばれました。伝承によると棟梁で飛騨の匠である工左衛門が1人娘の梅と弟子を引き連れて御堂の再建を携わった際、御堂正面の彫刻の担当を弟子の竹蔵と松蔵が争い、竹蔵がその名誉を受けました。工左衛門もその技術に惚れ込んで自分の後継者として娘との婚儀を進めましたが、梅には既に将来を誓った人がいたことから口論となり、工左衛門は娘を切りつけ大蛇が住む谷に遺体を投げ捨てました。その夜、大蛇に姿を変えた梅が竹蔵の夢枕に立ち、父親の世話と私の今の姿を御堂の彫刻として彫り込んで欲しいと懇願。実は梅が将来を誓った人物が松蔵であり、事件を知った松蔵は師弟の仁義が立たず、あの世で梅と結ばれる為にも池に入水して自害。池から松蔵の死体が上がらず、幽霊になった梅と心中したとの噂が広がり、幽霊には尻が無いことからその池は尻無池(尻無沢)と呼ばれるようになり、畔には2人の供養のための遺品と2本の松を植えて地蔵尊を建立すると不思議なことに2本の松が交わって1本の松となり、「相生の松」「妹背の松」と呼ばれるようになり、恋愛成就に御利益があるとして信仰の対象になっています。この松は観音堂から少しだけ離れた双松公園にあります。話は戻り、文政年間の火災により多くの堂宇が焼失しますが、当地が米沢城の北東に位置することから、米沢城の鬼門鎮護の寺院として文政10年に11代藩主上杉斉定の許可を得て再建され、上杉家秘蔵の観音像が安置されました。(慶長5年の関ヶ原の戦いにて、上杉軍が東軍の最上領に侵攻し長谷堂城で激しい攻防戦が繰り広げられましたが、その際、城内に境内を構えていた長谷観音堂から行基菩薩が彫刻したと伝わる丈6尺の観音像を持ち去り、宮内の長谷観音堂に安置したとも伝えます)。
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向拝木鼻・欄間(龍・天女)の彫刻。
28
28.4
28.8
向拝鰐口・扁額「観世音」。
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29.5
虹梁・手鋏。
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30.5
本堂横。
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本堂裏。
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本堂内。
33
石仏。どちらも馬頭観音かな。
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ダルマ(寅)おった。
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御堂前石灯篭一対。
36
36.5
御堂前狛犬一対。
37
37.2
37.4
37.8
宮内戦歿者供養碑。
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その傍らに佐々木信綱歌碑。
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「国のため 玉とくたけし ますらをを とはに守りませ 長谷のみ佛」
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色々な仏像が彫られている面白い石。
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末社(昭和33年10月)。中に石板があり色々彫られていましたが反射して見えにくかったです。
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必殺!ネガポジ反転!…う~ん笑
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石祠。
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石祠。地蔵様がいました。
45
45.5
こちらの石碑は読みにくかったので読んでいません。
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末社。
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中には石仏が見えましたが、手前の金精様が立派過ぎてよく見えません。
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しかも台座が灰皿風。
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手前にあった石塔は風化が激しく読み取れず。
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俳想と彫られた碑。6首彫られていました。
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最初の3句は『織田信長、鳴かぬならころしてしまへ子規』『豊臣秀吉、なかぬならなかせてみせう杜鵑』『徳川家康、鳴かぬなら鳴くまで待たう杜宇』。
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後半の3句は須藤秋天居ほか2人の詠み人も彫られていますが誰かは知りません。いずれにせよホトトギスの俳句集みたいな感じでした。
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結城哀草果歌碑(昭和34年)…「置賜は くに乃まほろば 菜種咲き 若葉茂りて 雪山もみゆ」
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石段が本当に滑りやすいので、帰りは足元に気を付けて帰りましょう。
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寶積坊は山形県南陽市宮内にある真言宗醍醐派の寺院。
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宮内熊野大社の入口参道に位置し、置賜三十三観音札所30番となっています。なお、観音堂の長谷観音は熊野大社の後方の裏山の中腹にあります。
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山寺を開山した慈覚大師が貞観9年(867)に置賜地方を訪れた折、観世音像を自ら彫って安置したのが始まりといいます。天正17年(1589)に、宮沢城主大津土佐守本次がこの寺を再興。文政10年(1827)10月に上杉家の鬼門守護祈願所として再建を許され、この時上杉家では秘蔵の観音像を長谷観音堂に安置。明治24(1891)年に火災により焼失、後再建。
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由緒は長谷観音の記事も参照ください。
関連記事:『長谷観音(南陽市)
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宝物庫寄進記念碑と石灯篭。
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宝物庫。
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宝物庫内。
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馬頭観世音。
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こちらの石塔などは判断できず。
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大日如来堂。
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大日如来。
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六地蔵。
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地蔵堂。
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地蔵堂内。
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