くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ: 寺・神社 (岩手県)

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岩手県二戸郡一戸町姉帯字川久保・舘。九戸氏の一族である姉帯氏の居館を紹介。馬淵川北側の50m以上の断崖上に築かれた典型的な山城で、天正19年に九戸城攻略の前哨戦で落城。さて、上の写真(姉帯城跡案内標柱)から少し進んだところに神社がありました。
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鳥居。
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本殿覆屋。
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姉帯城跡と関係するものかはわかりませんでした。
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棟札には「奉再建立新手山雷神火結尊堂一宇」(昭和4年旧7月3日)と見えました。
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案内板通りに進むと車1台がやっと通れる幅になります。あまり人は来なそうですけど、もしも対向車が来たら地獄です。運転に自信のない方は歩くのがいいと思います。駐車場も2台分ほどありますが、やはり徒歩が無難かと。
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駐車場からはこのような歩道です。
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歩道から見た車道。
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歩道を上り終えると…
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このように急に開けていました。
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西の郭です。
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案内板「姉帯城跡(一戸町指定史跡)」より…『指定年月日:平成5年5月1日。所在地:一戸町姉帯字川久保・舘。所有者:逢坂藤市郎・中村安七郎・中村日出男・中村茂一・中村正直・昆久右エ門。姉帯城は中世南部氏の一族である姉帯氏の居館であったと言われています。姉帯氏は姉帯に五百石の他、飯岡に一千石(現盛岡市)の領域を持ち、九戸南部氏とのつながりが深かったため、戦国時代末期の南部家の領主をめぐる争いでは、九戸方の有力豪族として戦っています。天正19年(1591)、豊臣軍は九戸城攻略の前哨戦として姉帯城を攻撃しました。これに対し領主姉帯大学兼興・五郎兼信兄弟や大学の妻で長刀の名手小滝の前、棒術の名手である小屋野など、一族郎党が近隣の諸豪族とともに城に立てこもり応戦したものの、大半が討ち死にし落城してしまいました。城は馬渕川北側の50メートル以上もの断崖の上に築られた典型的な山城で、東西2つの郭から構成されています。西の郭は東西130メートル、南北60メートル、東の郭は東西120メートル、南北100メートルの規模で、東端には幅10メートルを越す堀が二重にめぐり、東の郭と西の郭の間にも幅20メートル以上の大きな堀があり、この堀にそって西の郭に高さ2.7メートルの土塁が残っています。平成8年度から3年間、一戸町教育委員会で学術調査をしたところ、特に西の郭で重複した建物跡や墓跡などが多数見つかりました。墓からは人骨や副葬された銅鏡・古銭、周辺からは鎧・槍先・刀・矢じりなどの武具が大量に出土しており、合戦の生々しさを伝えています。建物跡やその周辺からは、中国産や国産の陶磁器などの生活用具とともに、当時流行した茶の道具なども出土しており、豊かな戦国武将の生活の一端が明らかになっています。』
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案内板の写真によれば、特にこの付近(西の郭)から建物跡や墓跡などが多数見つかっています。
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案内板の写真。
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案内板の姉帯城跡全体図。
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四阿のような建物があります。
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色々貼ってありますね。
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案内板より…『平成8年度から10年度までの発掘調査で新しい資料が見つかり、姉帯城の様子を今までより詳しく垣間見ることができるようになりました。新しく見つかったものには火災にあったと思われる建物跡や鉄砲玉の鋳型、槍先などもあって、城中での攻防を生々しく今に伝えています。墓と思われる穴も十数基見つかっておりますが、一緒に埋葬された遺物(当時の銭など)から、「九戸の戦い」に伴う戦死者の墓と考えられます。穴はいずれも人をやっと埋められる位の浅さで、配置もばらばらであり、落城後まもなく、みかねた付近の住民が埋葬したものでしょう。墓の一つからは和鏡3枚が出土しています。これは身分の高い人のお墓だったのでしょうか。平成15年9月10日一戸町教育委員会』
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反射して見にくいかと思いますが…鉄砲玉の鋳型出土状況。
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槍先出土状況。
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和鏡出土状況。
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案内板(小林家古文書)…『平成11年4月、大館市在住の小林重治氏(当時83歳)が一戸町教育委員会を訪れました。その時小林家お土蔵からでてきた古文書を拝見させていただいたのですが、その内容は驚くべきものでした。天正19年(1591)年、九戸の戦で姉帯大学兼興、兼信兄弟他一族郎党が討ち死し、姉帯城は落城していますが、文書には兼信の子(当時2歳)が姉帯城落城の時、乳母に抱かれ金田一村(現二戸市)に逃げ、その後深山に隠れ成人し苗字を小林とし、慶長14年(1614)に秋田に移り住んだと記されていました。その日、小林さんは先祖の眠る地、姉帯城を訪れ感無量のご様子でした。』確かに驚くべき内容です。
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『承久二年 庚辰 二拾代也 御嫡男南部彦三郎晴継公 家来九戸之城主 九戸修理佐政實 其先祖尋るに多田満仲三男美女丸之御子撫子丸を多田満仲中務太夫源等公三十七代後胤也家臣恩田野大学兼興弟五郎兼信也右先祖尋るに古畠山重忠大郎等恩田六郎安時の嫡十九代也九戸政實ニ相随いて姉帯城を守天正十九年九月五日兄弟討死天正十九年卯年九月五日兄弟討死南部太膳太夫信直御子彦三郎利直と主人九戸修理佐政實合戦之時都勢堀尾帯刀伊部兵部少輔ために九月五日親父五郎兼信二十八歳にて討死此嫡子幼名市郎弐才なり候得とも親兼信討死之時乳母に抱かれ金田市村かくれ居候得共九戸天正十九年卯十一月三日九戸落城之後信直信利国中落人詮儀乳母に被深山にかくれ成人過迄農家いたし小林きり開住家とし依而小林を苗字にいたし農業或狩人なんとにて取暮候得共弥々国中吟味正敷故慶長十四年酉年秋田江参り申候』・『小林家之先祖を恩田六郎安時と云畠山重忠六郎等也安時十九世之孫恩田野大学益興其弟同苗五郎兼信兄と同南部九戸城主九戸修理佐政實ニ任天正十九年主人政實九戸城ニ據る南部大膳太夫信直兵を発して之を討つ克つ事能ハず之ニ因て応援として堀尾帯刀井伊兵部少輔大軍を率て之を囲む此時兼信姉帯城を守九月五日戦敗れ討死享年二十八歳其子纔に二歳幼名市郎と云乳母ニ抱かれ金田一村ニ匿る同年十一月三日九戸城陥る信直国中ニ会して大ニ九戸之党を索市郎乳母ニ養山深之間ニ匿れ成人之後農となり小林を切り開き住居す依而氏を小林と改む農或ハ狩を業とす其後捜索益厳之慶長十四年遂ニ秋田に来り秋田郡川口村ニ住す世ニ農を業とす』
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写真も色々ありました。
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八坂神社・稲荷神社・一戸まつり山車(平成17年8月ポスター)。
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「武運つたなく敗れはしたが智将兼興天を衝く」(見返し)「智男備えし小滝の前が二十一才の命露と消ゆ」。九戸の乱の緒戦、姉帯城に篭る若き猛将大学兼興は秀吉奥州仕置きの大軍を引き受けて獅子奮迅の働きの末、愛妻小滝とともに壮絶に散りました。
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西の郭にある鳥居。
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鳥居の脇。
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「恭惟為姉帯城主大學兼興公並一族累代諸精霊追善供養塔」。
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平成7年9月17日奉修。施主・発起人代表「逢坂藤市郎外有志一同」建立。
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こちらは読み取りにくのですが、建立賛助金名が書かれていました。平成7年9月吉日。
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鳥居をくぐります。
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巨木と小祠があります。
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棟札には「二勇大明神」とありました。紀年銘は平成3年7月吉日。願主は姉帯城跡所有者・供養塔施主と同じく逢坂藤市郎氏。
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岩手県二戸郡一戸町岩舘。「旧家レストランうらら亭」(築150年・大矢邸)付近から国道4号上を陸橋で渡って行きます。
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ちなみにうらら亭(18世紀後半より子守神社を代々管理)では、事前に祈祷予約をすると乳袋(新聞やラジオで報道された人気の乳袋)と子守神社の手ぬぐいを頂けます。乳袋の中身は子宝への願いを込めたお米で、日々のお食事に少しずつ混ぜることによって、神様の力を宿し子が授かり、手ぬぐいは女性が入浴の時に使用することで乳の出が良くなると伝えられているそうです。更にうらら亭敷地内には、樹齢300年の五葉松があり、隣の米栂の木と絡み合っているその姿から「夫婦松」と呼ばれ、夫婦円満の象徴として祀られています。子守神社の参拝と合わせ、夫婦で手を触れてみるとより一層の効果があると言われているそうです。子守神社に参詣する際はうらら亭に立ち寄ることをおすすめします。
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うらら亭が見えます。
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子守神社は日本各地に存在する神社で、一般的に子供の守護神としての「子守神」を祀る神社であり、氏神とされたり、氏神神社の境内に末社として祀られています。籠守、子護などとも書かれる場合があります。
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子守神社には2つの系統があり、1つは水分神、もう1つは熊野本宮大社第八殿子守宮の系統。水分神は本来水神ですが、「みくまり」が訛って「みこもり(御子守)」となり、子守神ともみなされるようになりました。総本社は吉野水分神社(奈良県吉野町)。熊野本宮大社第八殿子守宮は『梁塵秘抄』に「神の家の子公達(きうだち)は、八幡の若宮、熊野の若王子・子守御前」と詠まれた熊野権現の御子神。この系統の神社には、藤白神社(和歌山県海南市)末社の楠神社(通称子守社)などがあります。
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当子守神社は正徳6年(享保元年)に創建され、18世紀後半から大矢家が守り継いでいます。
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子授けや安産、縁結びの御利益があると伝わります。
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近年、メディア等に取り上げられ、また、参拝後に実際に子どもを授かった夫婦からの口コミも広がって、子宝祈願のパワースポットとして全国各地から参拝客が相次いでいるそうです。
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地元では昔からおっぱいの神様(胸の病気から守る)として親しまれていたそうで、東方には「おっぱい山」として信仰を集めている「二ツ森」という山もあり、神社付近一帯が女性のパワースポットとなっているそうです。
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拝殿内。
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境内石祠2基・石灯籠1基。
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もう1つ境内からの道がありました。行ってないのでわかりませんが、他にも参道があるのかな。
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境内案内板より…『子守神社は、江戸時代中ごろ、正徳6年(1716)に創建されました。18世紀後半より、大矢家初代大矢嘉兵衛が、別当として鎮座まします子守神社を守ってきました。その後現在まで、代々受け継がれています。創建以来、三百年もの永い間、地域の氏神様として、又、縁結び・子授かり・安産・お乳を守る(母乳がよく出る、乳ガンにかからない)・子どもを守る(災難、事故、病気など)・子育てにご利益のある霊験あらたかな神社として、地元はもちろん遠来からも篤く信仰されている神社です。現在のお社は、大矢家七代目大矢嘉平が昭和31年に再建したものです。例大祭は、毎年旧暦3月3日に執り行われています。平成26年5月吉日、子守神社を守る会』
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岩手県二戸郡一戸町。国道4号線沿い。COSMO石油向かいに駐車場。この付近は北館跡です。駐車場・一戸公園となっています。
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駐車場にこんなものが。子どもたちの遊びでしょうか。
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ここから下(左・南)に向かうと八幡館跡、神明館跡、常念館跡と順に下るような配置です。上(右)が北館。
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特に案内看板等があるわけではないので、素人にとってその遺構等を楽しむには、下調べ無しでは難しいかも知れません。
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石祠。何かはわからず。
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北館跡から八幡館跡へ少し下った場所には三神社が鎮座していました。
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八幡館、神明館などとあることから三社託宣の三社かと思ったのですが、合祀された三神かも知れませんし、いずれにせよ由緒等はわかりません(調べていません)。館神といった雰囲気ではありませんでした。県外の神社なのでこれ以上の追究はいたしません。
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社殿。
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向拝神額。
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拝殿内。中央に本殿。
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反射してよく見えませんでしたが、横にはやや大きめの静御前らしき人形が祀られていました。
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三神社の鳥居の脇に「史跡一戸城跡」の標柱があります。
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この標柱にも特に説明はありません。
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三神社脇にあった馬頭観世音の石塔。結構大き目の石塔です。
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紀年銘は慶應3年卯7月(1867)。
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高台にあるのはわかりますが、草木によって眺望はありません。季節によるかも知れませんが。
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北館へ。
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さて、一戸城は戦国期の平山城で糠部郡一戸に所在します。
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城跡は一戸町北部中央の馬淵川右岸、比高60mの台地上に位置します。国道4号線により分断されています。
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主要郭は南北に連続した段丘崖の高台部を利用した北館、八幡館、神明館、常念館の4つの郭で構成されていました。主郭は神明館であったと考えられているようです。
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一戸南部氏の居城であり、築城は室町期の建長年間(1249-1256)一戸南部氏の2代目南部義実によるものとみられています。天正9年(1581)城主一戸兵部大輔政連父子は実弟の平館政包により殺害されて一戸氏の嫡流が滅亡し、一戸城には九戸政実の腹心の一戸図書が入りましたが、南部信直は一戸城を攻め落とし、北主馬秀愛を城主とします。天正19年(1591)九戸政実の乱では籠城して九戸氏側の夜襲に耐え、乱の後は石井信助が城代となりましたが、天正20年(1592)「諸城破却書上」には「糠部郡之内 一戸 平城 破 信直抱 代官 石井新助」とあり破却されました。昭和54年以降、北館、八幡館、無名郭などが発掘調査されているそうです。昭和63年に出土した馬の焼印は、中世糠部の馬産を考える上で唯一の資料と言われています。
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ベンチがあります。
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座っても草木によって眺望はありません。
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中央にある松だけ周囲を柵で覆われていました。よく見えませんが、根元は塚のようになっています。特別な由緒でもあるのでしょうか。
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案内板等もありませんが、いずれにせよ綺麗な三頭木でした。
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四阿。
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赤松と石碑群。
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一戸城跡とは直接関係のないものでしたが紹介します。
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石灯籠一対(昭和45年5月吉日)。
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忠魂碑(明治40年6月)
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裏面に日露戦歿戦病死者。
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両脇に顕彰碑(陸軍・靖国神社創建百年記念事業として建立・昭和45年5月・一戸町遺族連合会)。地区別(一戸・鳥海・浪打・姉帯・奥中山)、戦争別(満州事変・支那事変・大東亜戦争)。
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平和之碑(岩手県知事中村直書)。
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裏面碑文…『昭和6年9月18日、満州事変勃発、支那事変から大東亜戦争へと長い戦争が続き、多くの戦友が祖国の安泰を希って戦場に斃れ、或は水漬屍となって散って逝った。僥倖にも私達は九死に一生を得て祖国に還って耒たが、戦傷をうけた私達にも長い苦難の生活が続いた。然しながら現在の日本の繁栄と、国運の隆盛を見るとき実に感慨無量である。私達は子孫のために悲惨な戦争のない真の世界平和を念願し、戦死された戦友達の為に心から冥福を祈り、傷痍軍人有志の賛同を得て、平和之碑を建立してその名を刻し、永久にその意を顕そうとするものである。昭和59年3月吉日岩手県傷痍軍人会一戸支会』※傷痍軍人名省略
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創立二周年記念植樹標柱(染井吉野桜・ロータリークラブ・昭和62年4月)。
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消防士義魂碑(昭和6年4月・一戸、鳥海、小鳥谷、姉帯、田部消防組)。
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日露戦争凱旋紀碑(明治40年6月建立)。
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碑文。
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