くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ: 寺・神社 (岩手県)

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岩手県盛岡市内丸。
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一之鳥居・二之鳥居は下曲輪にあります。
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3.5
神門から見た鳥居。
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4.5
ズーム。盛岡じゃじゃ麺の元祖「白龍」もあります。
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5.4
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神門。
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御祭神は南部光行公(南部家初代・開祖)・南部信直公(盛岡藩初代・南部家26世)・南部利直公(盛岡藩3代・南部家27世)・南部利敬公(盛岡藩11代・南部家36世)。
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櫻山神社は、寛延2年(1749)、盛岡藩8代(南部家33世)利視公により盛岡藩初代(南部家26世)信直公の御遺徳を偲び、城内淡路丸(本丸東側)に神殿を建立、9月26日、その御神霊を勧請して淡路丸大明神と尊崇し奉ったのに始まります。盛岡藩11代(南部家36世)利敬公は文化9年(1812)8月13日に櫻山大明神と改称。この名称は淡路丸が櫻山と称されていたことに因みます。また、利敬公は同15年(1818)4月に南部家初代(開祖)光行公を合祀。
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盛岡城が明治政府に接収された後、明治4年9月、御神体を盛岡市茄賀野村妙泉寺山に仮遷座、同10年5月20日に盛岡・下北山の聖寿禅寺跡に新社殿を造営し再遷座。この地域を今でも旧櫻山と称されるのはこのことに由来。明治14年1月、県社に列格。明治23年、旧盛岡城地が南部家に特別縁故によって払い下げられたことを契機に、旧盛岡藩士族また旧盛岡藩領民より、旧城地への遷座の機運が盛り上がり、盛岡城旧三の丸鳩森下曲輪跡(御蔵跡・勘定所跡)に明治32年神社敷地を造成。今日に見られる本殿、拝殿、神門を建立し、明治33年10月26日奉遷鎮座。
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大正元年10月に盛岡藩3代(南部家27世)利直公、盛岡藩11代(南部家36世)利敬公の御尊霊を合祀して永く郷土守護の神と崇め奉りました。利直公は信直公の長子で盛岡城の完成と盛岡の町割りを成し遂げ、盛岡市の基礎を築いた英主であり、利敬公は朝命を奉じて北海道室蘭海域の警備に従われ、その功によって明治41年従三位追贈の恩命に浴された名君です。終戦後、神社前には県道が通り新しく商店街がつくられるなど景観は変わりましたが、盛岡城の往時を偲ばせる雄大な石垣と本殿後方の烏帽子岩は盛岡城築城時と変わることなく悠然と聳え立ち、今でも櫻山さんと親しまれています。
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Wikipediaより抜粋…『●創建から江戸時代後期…江戸時代中期の寛延2年(1749年)、盛岡藩第八代・南部利視により盛岡藩初代・信直の遺徳を偲び、盛岡城内淡路丸に神殿を建立、同年9月26日、その神霊を勧請して「淡路丸大明神」と奉ったのに始まる。盛岡藩第十一代・利敬が文化9年(1812年)8月13日に「櫻山大明神」と改称。その後、利敬は同15年(1818年)4月に南部家初代・光行を合祀した。●明治時代…盛岡城が明治政府に接収された後、明治4年(1871年)9月、御神体を岩手郡加賀野村妙泉寺山(現・盛岡市)に仮遷座、同10年(1877年)5月20日に盛岡・下北山の聖寿禅寺跡に新社殿を造営し再遷座した。明治14年(1881年)1月、県社に列格。明治23年(1890年)、旧盛岡城地が南部家に特別縁故によって払い下げられたことを契機に、旧盛岡藩士族また旧盛岡藩領民より、旧城地への遷座の機運が盛り上がり、盛岡城旧三の丸・鳩森下曲輪跡に明治32年(1899年)神社敷地を造成、今日にみられる本殿、拝殿、神門が建てられた。●大正時代から現在…大正元年(1912年)10月に盛岡藩第三代・利直、十一代・利敬の霊を合祀して永く郷土守護の神と崇め奉った。計4柱の南部家の神霊を合祀して現在に至る。』
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狛犬一対(昭和12年5月25日)
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「旧藩御雇鳶元一番組盛岡消防組馬町第二部」・「旧藩御雇鳶元二番組・盛岡消防組油町第六部」。
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石灯篭一対。
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手水舎(向鶴)とおもかげ地蔵尊。『おもかげ地蔵尊はその昔南部家の江戸屋敷にまつられ、藩主を始め庶民にも崇敬を受けておりました。今はゆかり深い当社境内に移されております。皆様方には心願成就の祈りをこめて、ご清水をかけ親しくご参拝戴きましてご神縁益々ふかまりますようご祈念申し上げます。』・『7000人以上の犠牲者を出した安政の江戸大地震の時、盛岡藩江戸屋敷が全壊したにもかかわらず、地蔵さまのおかげで死者・けが人も少なく、特に子ども達を守り災難から逃れたと云われ大切になされてきました。いつの頃からか不明ですが、盛岡市北山の南部家菩提所聖寿禅寺の境内に移され、本堂の入り口に静かに祀られてきました。』
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15.5
長寿院亀之助。甲羅をタワシでこすって健康と長寿をお祈りします。「ひとこすり3年、ふたこすり6年、みこすり10年延命」。
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亀の子束子が60個奉納!…『平成26年10月23日東京都北区滝野川の㈱亀の子束子西尾商店様より束子60個が奉納されました。明治40年に初代社長である西尾正左衛門が亀の子束子を発明してから創業106年を迎えた㈱亀の子束子西尾商店様。お手紙によれば、先般、社員の方が盛岡出張の折当社を参拝し「長寿院亀之助」に出会い、とても感動したとのこと。これも何かのご縁と、亀之助の甲羅をこすって健康と長寿を祈る皆様方のお役にたてますようにと、そんな思いを込めて亀の子束子を御奉納下さったそうです。』
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石灯篭一対(昭和12年)。
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社務所。
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戊辰戦役殉難者慰霊之碑(南部利美書)・手水石。
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拝殿前石段。
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拝殿。
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22.8
拝殿向拝、海老虹梁・手挟等。
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社殿前狛犬一対(大正2年8月)。
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その他石灯篭等。
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社殿横にも鳥居。
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石灯篭一対(大正6年)。
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27.5
石垣の上に烏帽子岩が見えます。
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御神輿庫の横に烏帽子岩への階段があります。
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御神輿庫。
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宝大石烏帽子岩(兜岩)…『盛岡城築城時この地を掘り下げたときに大石が出てきました。この場所が城内の祖神さまの神域にあったため宝大石とされ、以後、吉兆のシンボルとして広く信仰されてきました。現在でも、櫻山神社境内に悠然として大地に根をおろしそそり立っています。』
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烏帽子岩に向かいます。
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烏帽子岩手前に本殿。幣殿にも狛犬一対あります。本殿前には鶴の彫刻。
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石灯篭一対・手水石。
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34.4
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『踏まれても根強く生きる道草のやがて来る春花も咲くらん』樋下正光
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南部稲荷神社。
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36.5
南部稲荷神社の横にも巨石。
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石祠。
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南部稲荷神社付近から見た社殿。
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烏帽子岩。盛岡城三ノ丸に位置します。
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高さ約6.6m、周囲約20m。
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烏帽子岩(兜岩)のいわれ…『盛岡城築城時、この地を掘り下げたときに、大きさ2丈ばかり突出した大石が出てきました。この場所が、城内の祖神さまの神域にあったため、宝大石とされ、以後吉兆のシンボルとして広く信仰され、災害・疫病があった時など、この岩の前で平安祈願の神事が行われ、南部盛岡藩の「お守り岩」として今日まで崇拝されています。』
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烏帽子岩と社殿。
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烏帽子岩に触れてパワーを貰います…個人的にはあっちの方がパワー貰えそう…
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神社の向かいにある日乃屋カレー。ライス大盛り無料です。
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以下、神社境内案内板より。
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櫻山神社御由緒…『【御祭神】源性大明神南部光行公、信受霊神南部利直公、信徳大明神南部信直公、神功霊神南部利敬公。當神社は南部藩第33代利視公の寛延2年9月第26代の藩主信直公の御神霊を勧請して淡路丸大明神と尊崇し奉ったのに始まる。次いで文化15年4月藩祖光行公を、また大正元年10月には27代利直公、36代利敬公の御尊霊を合祀して永く郷土守護の神と崇め奉った。利直公は信直公の長子で父君の遺志を継いで盛岡城の完成と盛岡市の町造りを成し遂げ盛岡市今日の基礎を築いた英主であり利敬公は朝命を奉じて北海道の警備に従われ且つ朝廷を尊び給ひ敬神崇祖の念篤くその功によって明治41年從三位追贈の恩命に浴された名君である。文化9年8月旧地の名に因んで櫻山神社と改称した。明治14年1月に県社に列格し次いで明治33年10月現在地に奉遷鎮座された。昭和40年11月御造営竣工し藩祖光行公750年式年臨時大祭を齋行した。尚境内に榊山稲荷三社が鎮齋され賽者が頗る多い。例祭日5月25日、26日、27日。月次祭毎月26日。』
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盛岡城跡公園(岩手公園)開園百年。※こちらの内容は『盛岡城跡 ~其之参』の記事を参照下さい。
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櫻山神社の御祭神…『(※御祭神省略・以下参照)。宝大石・烏帽子岩…現在の櫻山神社の場所には、もと八幡社が鎮座しておりその傍らに三角状の岩がありました。この場所の高さが二ノ丸とほぼ同じであったので、利直公は地形を削るよう命じられ三角岩の周囲も削られました。しかし、岩の根は深くやがて烏帽子に似た巨大な岩石が出現しました。古代以来、人々は岩石に神が宿ると信じ崇敬していましたから、利直公はこれを瑞兆と慶び「八幡社の重宝」として崇められたのです。』
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御祭神…『当社は江戸時代中期の寛延2年(1749)盛岡八代藩主南部利視公が初代信直公のご遺徳を偲び奉るため、神殿を建立した事に始まります。さらに盛岡藩11代利敬公は「櫻山大明神」と尊称し、文化15年(1818)には南部家初代光行公を、大正元年(1912)には利直公、利敬公を合祀致しました。』
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南部光行公(永続神)。800年を超える南部家を興し、北東北の平安に努めた。
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南部信直公(開拓神)。戦国を英知・勇気・決断をもって駆け抜け、盛岡に藩を拓いた。
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南部利直公(安泰神)。城を築き、町を整え、農産業の振興と五穀豊穣、領地安堵を図った。
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南部利敬公(学問神)。法律と消防組を整え、学問を奨励し、藩校教育を推進した。
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御祈祷の御案内。
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神事次第。
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櫻山神社のご祭神-四柱の神々-より。
南部光行公(南部家初代)…『光行公は源義光を祖とする甲斐源氏の一族で甲斐国巨摩郡に生まれ、父である加賀美次郎遠光より同郡の南部郷を与えられて移り住み、氏を「南部」と称えました。それからは、南部郷の地頭職として馬産に励んでいたと思われますが、父遠光が頼朝の旗揚げに加わってからは光行公もまた頼朝に仕えるようになりました。文治5年(1184)には源頼朝の奥州征伐に父と共に従軍したことが「吾妻鏡」に見え、その功により甲斐国南部郷に加えて新たに糠部五郡を拝領したと言われています。南部家の伝承によれば、建久2年(1191)光行公と家臣たちが八戸浦に着き、それから現在の南部町相内の観音堂に到着。やがて三戸まで進み館を構えました。その際に、新年の準備が間に合わず正月元旦を大晦日とし、2日を元日とした(いわゆる「南部の私大」)と言われています。光行公は牧監(馬産の管理)としての実績を見込まれて糠部の地が与えられ、南部家が北奥羽に拠点を築く端緒を開いたと言えます。』
南部信直公(盛岡藩初代・南部家26代)…『南部家一族の石川高信の子として天文15年(1546)岩手郡の一方井館にて誕生、後に三戸の田子城に移り田子九郎晴直と称しました。やがて南部宗家に家督をめぐる争いが起きましたが、北信愛の協力によって信直公が家督を相続することができました。その後、小田原に参陣を果たし、豊臣秀吉から南部七郡を安堵されました。ちなみに南部七郡とは糠部、鹿角、岩手、閉伊、紫波、稗貫、和賀であると考えられています。かねてより対立が続いていた九戸政実の征伐に成功した後、信直公は浅野長政や蒲生氏郷から「不来方(現在の盛岡)に本城を置くよう」に勧められたと言われます。慶長4年(1599)に三戸城で没しました。行年55歳、波乱に明け暮れた生涯を閉じました。信直公は、豊臣秀吉から南部七郡の安堵状(「南部七郡事大膳大夫可任覚悟事」)を受け、本拠とした盛岡に築城を開始するなど盛岡藩の基礎を固め、南部家を近世大名に押し上げた南部家中興の祖であります。』
南部利直公(盛岡藩2代・南部家27代)…『信直公の長子として天正4年(1576)三戸の田子館で誕生。天正18年(1590)には、父信直と小田原参陣を果たし、その陣中で元服を済ませました。この時に烏帽子親となった前田利家より「利」の一字を拝領して利直と名乗りました。利直公は九戸政実の乱平定後、信直公より盛岡城の築城を託されます。慶長2年(1597)3月に盛岡城の鎌始め(起工式)を行い、「不来方」という地名を盛る岡の意味を込めて「盛岡」と改称しました。公自ら現場で工事の指揮を執ったとも言われており、慶長4年(1599)に本丸などが完成したようです。利直公は関ヶ原の戦に乗じた和賀忠親の旧領回復の一揆を鎮圧することに成功すると共に、思い切った家臣団の再編成に取り組み、さらには検地を実施して家臣団はすべて城下に住み、石高に応じた知行地を与えられるようになりました。寛永9年(1632)8月、江戸の桜田邸にて57歳の生涯を終えました。利直公は、鋭敏かつ機略をもって盛岡城の築城と城下町の建設、領内の経営に力量を発揮し、英知に優れて信望も厚かったと伝えられます。』
南部利敬公(盛岡藩11代・南部家36代)…『天明2年(1782)9代藩主・南部利正公の次男として出生、3歳で家督を相続しました。利敬公が幼年の藩主であった時期は、天明の大飢饉の揺り返しで不作が続いて、藩財政は極度に窮迫しました。利敬公は入部後に倹約令を発し、家老政治を排して自ら政務を執られました。利敬公の任期を通じて最大の課題になったのは、北地警衛と沿岸の防備でした。盛岡藩も幕府からの要請によって出兵し警備に当たりました。蝦夷地の警備が評価されて文化5年(1808)に盛岡藩は10万石から20万石へと昇格を果たし、利敬公は侍従となられました。利敬公は、上衆小路にお稽古場(学校)を設け藩学の基礎を作りました。また町火消しを創設し、城下の要所に火の見梯子を立て、半鐘を付けたことも特筆されます。さらに訴訟判例「文化律」を制定すると共に民事裁判所に相当する公事方評定所を設置しました。文政3年(1820)盛岡城で没し、享年は39歳。治国は歴代藩主最長となる37年に及びました。利敬公は親裁によって藩役人の腐敗を一掃して藩財政を立て直し、盛岡藩の安定に尽力しました。明治41年には北地警衛の功績により従三位を追賜されています。』
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岩手県二戸市白鳥。七滝大明神(七滝神社)。鳥居は見えませんが県道24号線沿いに「七瀧大明神入口」という標柱があります。その横の小道を50mばかり下ると庚申塔などの石碑が何基かあり、赤い鳥居が目に入ります。徒歩なら県道沿いからも赤い鳥居が見えます。
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庚申・廿三夜塔2基。
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3.5
巖鷲山・牛頭天王・十和田山。
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金毘羅大権現。
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七滝神社鳥居。
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七滝神社。
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案内板「白鳥七滝 Siratori-Nanataki いわれ」より…『神社の裏に7つの滝があり、滝の名称は上流から次のとおりとなっている。1.舟滝2.駒形滝3.夫婦(めおと)滝4.河童(めどつ)滝5.樽(こが)滝6.根っこ滝7.風呂(ゆっこ)滝』
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顕彰碑「神社用地百三十二坪寄贈・寄贈者四戸龍治郎殿」(七滝神社総代会建立・平成13年9月吉日)。
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七滝神社路肩竣工記念碑(工事施行:岩手県。工費:五百萬圓也。申請者:代表中奥喜代志。竣工:昭和54年11月吉日)。
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狛犬一対(昭和49年11月吉日・盛岡市菜園、古舘ミツ建立)。
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11.5
石灯籠一対(平成5年12月吉日・中奥喜代志建立)。
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12.5
拝殿。
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拝殿神額「七瀧大明神」(田村熊五郎)。
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拝殿向拝神額「七滝大明神」。
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拝殿内。
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御神木。
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本殿覆屋。
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本殿裏手へ。
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神社の下流に七つの滝があり、滝壺の形によってそれぞれ名前がついています。上流から「舟滝」「駒形滝」「夫婦滝」「河童滝」「樽滝」「根っ子滝」「風呂滝」。
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20.5
草木がひどくて川まで辿り着けない感じ。
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よって、それぞれの滝や全貌はよくわかりませんでした。
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22.4
22.8
再び境内へ。奇岩。
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岩の上の石塔には「山之神」とありました。
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読み取れなかった石碑。
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八幡神社。
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木の根元に大黒様と恵比寿様。
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聖徳太子碑。
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28.5
金比羅神社。
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駒形神社(大正2年旧8月17日)。
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小祠。
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何かはわかりませんが、棟札には昭和31年11月吉日建築と見えました。
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一之鳥居横の普通の民家のお庭が駐車場になっています。ちゃんと「白鳥観音堂駐車場」という看板がありますが、本当にここに停めていいものかちょっとためらいます。
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岩手県二戸市白鳥滝向。県道24号線沿い。浄福寺七滝大明神(七滝神社)付近です。
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かつての白鳥村で寺院として曹洞宗浄福寺、神社として明神社が見えます。
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二之鳥居「平成13年11月吉日細田敏知」。
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観音橋(平成10年8月吉日竣工)を渡ります。
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観音橋を渡ると正面に白鳥観音堂。
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堂宇。
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扁額「七滝山」(平成13年11月)。
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扁額「白鳥観音」(平成4年6月)。
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祀られている観音様は聖観世音菩薩のようです。
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私が見逃していなければ、灯籠と狛犬はそれぞれ一基ずつ。
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狛犬(田村喜代隆建立)の紀年銘は平成元年5月吉日なので、恐らく洪水の影響かも知れませんね。
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境内案内板より…『【白鳥観世音菩薩】九戸城の北側を流れる白鳥川は折爪岳に源を発し、長年の浸食で切り立った断崖絶壁を形成し、福岡落久保で馬渕川と合流する。今は静かに流れるこの川が言い伝えによると4、500年前大洪水となって人家や田畑を押し流した。その時白鳥村の白鳥観音も流され合流直前の岩谷橋下の藤の木のつるにからまっているのを地元の人に拾い上げられた。そして、その場の岩穴にお堂を造って祭られたのが糠部三十三観音の一つである岩谷観音として現在に至っている。伝えによれば、白鳥観音は今から950-960年前、安部氏がこの地を治めていた頃、安部一族の手により住民の無病息災家内安全豊作を祈願する為祭られたものであるといわれている。この度、代々の祖父より語り継がれてきた。白鳥観音堂の故地を整備し、新たに観音菩薩を安置して堂宇を再建し、地域住民の拠所として、永く子々孫々に伝えようと発願するものである。平成2年10月吉日。建立者:田村喜代隆。縁日:毎月旧暦17日。【白鳥観音堂再建の由来】500年もの昔、洪水により流失したという白鳥観音。以来ここ白鳥には、観音像を失ったほこらと伝承だけが残されていたが、平成2年10月、新たな観音像とともに観音堂を再建。多くの参拝者を迎えることができるようになった。しかし平成11年10月28日の大豪雨により白鳥川が氾濫、観音像は残ったものの前年に架け替えた御堂へと通じる太鼓橋もろとも、観音堂は濁流に呑まれてしまった。被災から3年、国の災害復旧護岸工事の開始を契機に再び観音堂の修復に着手することとなった。平成13年の春、地区民から寄せられた建設資金と労力奉仕により始められた再建工事も秋には完成。11月11日、落慶の日を迎えるとともに白鳥観音は地域の信仰の拠り所としてよみがえった。平成13年11月吉日白鳥観音堂保存会』
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堂宇横の不自然な穴。
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かつてはここに何かが祀られていたのでしょう。もしくはかつての御本尊が祀られていた場所かも知れませんね。特に説明はありませんでした。
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さて、観音橋を戻ります。
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こちらの建物はバッタリー小屋。
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バッタリー。現在は使われていません。
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19.5
復元した「バッタリー」について…『一.「バッタリー」は、先人達の知恵から生まれたもので、水車ができる以前から使用されて当時の暮らしには欠かすことの出来なかったものでした。「バッタリー」は渓流の水を利用し水車と共に雑穀の精穀等に用いられ、戦前の生活にはなくてはならない重要な役割を担っていました。二.かつては山間の集落であればどこにでもありましたが、昭和23年のアイオン台風、24年のカザリン台風、この2つの大型台風のためにその殆どが流失してしまいました。流失前は、白鳥地区には個人所有のものが24基あったようです。その内訳は次のとおりです。石倉4基、小峠5基、馬飼沢2基、松倉2基、小祝9基、高田1基、西ノ沢1基。三.この「バッタリー」を戦後生れの人たち、そして現在の子供達に知っていただけるようにと、多くの方々の協力を得て復元したものです。この復元された「バッタリー」が末永く愛され先人達の知恵と生活を知る一助になれば幸いです。調査・文…田村喜代隆。平成16年5月吉日。建立…白鳥観音堂保存会。施工協力…㈱北岩手開発・㈲陳場工務店』※カザリン(カスリーン)台風は昭和22年、アイオン台風は昭和23年です。
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岩手県二戸市白鳥。県道24号線。本堂の背後のイチョウの巨木(幹周り3.52m)が目立ちます。
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山門。
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山門横から。
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4.5
山門をくぐります。
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5.5
曹洞宗清高山浄福寺。
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かつての白鳥村で寺院として曹洞宗浄福寺、神社として明神社が見えます。
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浄福寺は三戸郡名久井の白華山法光寺(南部家菩提寺)3世象室順香和尚を開山とします。
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永正年間の開創の古刹。本堂の16弁の菊花紋章には種々の伝説を残します。
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境内の石碑や石像が昔を伝えます。
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10.5
三界萬靈等。
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百万辺供養塔。
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改築記念碑…碑文『当浄福寺は昭和二十一年不慮の火災により全焼し本尊釈迦如来及び重要佛像等焼失され開山創立以来約五百年の歴史を誇る当寺も全く灰燼と歸したのであります同二十四年檀家あげての発願により二十五年春再建に着工し十月待望の完成に至りました当時は大東亜戰争終戰直後の物資欠乏の時代に相遭し建築資金難と資材の確保等にて檀家の皆さんには大変ご苦労をかけたのでありますこのように努力された先輩諸氏に対しましては心から敬意の誠を捧げております然し乍ら時代の進展と共に各位の経済力も徐々に向上して参りました今日檀家各位の意を尊重し委員一同微力を盡し先輩諸氏が築いて以來二十六年目にして本堂庫裡位牌堂等を改築に至らしめ本年三月着工し同七月無事落成致しましたこれ偏に檀信徒各位の佛法僧の三宝に歸依せし信心の表れと深く感謝申上げます私達委員はこの改築を有意義に記念すると共に益々信仰を篤くし宗門護持のため永く後世に傳ふべく銘記せし以所であります願くは山門の興隆と檀信徒各家の繁栄を祈念して碑文とします』
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遺芳観世音(昭和46年12月吉日・遺芳観世音建設委員会建立)。
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14.5
遺芳観世音前狛犬一対。
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15.5
遺芳観世音台座碑文(財団法人岩手県遺族連合會長内村一三謹書)…『此ノ遺芳観世音ニ祀ル英霊ハ遠クハ日清日露ノ両戰役又近クハ満州支那ノ両事変並ニ大東亜戰役ニ於テ大命ノ下ニ軍務ニ服シ極寒ノ大陸ニ又ハ炎熱ノ南方諸地域ニ於テ陸海空ノ各部隊ニ所属シ砲煙彈雨ノ下勇猛果敢忠烈無比ノ奮戰ヲ續ケテ祖國守護ノ大任ノ為ニ忠誠ヲ捧ゲ遂ニ散共病歿セル郷土出身將士ノ英霊ヲ祀ルベク明治改元百年ヲ記念シテ郷党ノ有志並ニ遺族ト共ニ相謀リ以テ其ノ遺芳ヲ萬世ニ傳フ可ク此處ニ遺芳観世音ヲ建立セシ所以亦是ナリ 顧レハ諸英霊ハ特ニ大東亜戰役ニ於テハ世界戰史上稀ニ見ル廣域ニ及ブ北瞑ノ孤島ニ或ハ波濤無限ノ南方諸島ノ大激戰ニ空ニ海ニ陸ニ戰史ヲ飾ル赤誠殉國ノ誠ヲ捧ケテ大和魂ノ真髄ヲ貫キ祖國ノ大義ニ徹セル其ノ精神ヲ永ク後世ニ傳ヘ以テ世界平和招來ニ資センコトヲ銘記スルニアリ 英霊來ツテ観音ノ精神ト共ニ祖國ノ為ニ守護アランコトヲ希フヤ切ナリ』
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浄福寺本堂を見つめる狛犬。
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白鳥観音堂鳥居向かいほどにあった巨木と祠。ちなみにすぐ近くには七滝大明神(七滝神社)白鳥観音堂があります。
18
18.5
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岩手県二戸市福岡松ノ丸。
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浄土宗成田山安養寺。隣りに成田山福安講社本部(成田山護国殿)がありますが、どうやら繋がっているようで、2つの本堂がある感じです。入口は異なります。山号はいずれも成田山。
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今回紹介するのは成田山安養寺の方です。
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入口付近の石碑「南無阿弥陀佛(大僧正祐天)」…『このいしだんをたあがりの方はどなたもかならずナムアミダブツと一ぺんも多くた念佛をとなへてのぼりくだくださいともうすことは帰命無量壽覺と申すことでこの丗も後の丗もいのちにかぎりのない長い壽命の佛さまに親しむと云ふめでたい意味であります』
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昭和35年4月15日、石段寄進者木村啓一郎、為祖先追善。
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石段設置工事竣工記念碑(平成16年4月吉日・安養寺護持会)、五重塔、石仏等。
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7.5
本堂。
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天保3年の福岡通御代官所御郡分書上帳によりますと、五日町に浄土宗得生山安養寺と呑香稲荷社が見えます。山号が得生山になってますね。
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ちなみに県外なので由緒等は調べていません。パンフレットか何か貰ってくればよかったですね。『成田山福安講社』の記事も参照くださればある程度わかります。なお、二戸市に諏訪前遺跡(居館跡)に嘉暦碑(嘉暦3年の石塔婆・板碑)がありますが(現在二戸駅近くに嘉暦の碑保存施設があります。)、建っていた場所は寺久保と呼ばれ、九戸政実の戦の時に、九戸側に加担したため廃寺となった慈眼院の跡で、これが安養寺の前身と云われているそうです。
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本堂には「得生山」とありました。
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こちらの建物には「浄土宗吉水流安養寺講」「成田山福安講社本部」とありました。やはり繋がっています。
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境内。
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成田山開創・安養寺中興・正僧正順冏大和尚。順冏僧正についても『成田山福安講社』(十三重塔台座碑文)の記事を参照ください。
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地蔵堂。
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廃仏毀釈の絡みでしょうか…
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顔と体が合っていません。
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松の丸墓苑。
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一部古い墓石が並んでおり、歴史を感じます。
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