くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ:寺・神社 (岩手県) > 寺・神社 (盛岡市)

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上米内村。字名乗沢の七滝神社は米内村の村社。米内村は米内川流域の谷間に位置。地名の由来としてアイヌ語で「そこに熊が出る沢」という意味があるらしいです(諸説あり)。
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2.5
御祭神は七瀧大神。例祭日8月7日。例大祭では庄ヶ畑さんさ踊り(市指定文化財)が奉納されます。明治3年(1870)6月村社列格。
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社殿。
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扁額「湯殿山」。
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かつては湯殿山神社。
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明治初年に旧上米内村内5社(天王社・八幡神社・山神社・熊野神社・諏訪神社)を合祀し、境内岩山7ヶ所より清水が湧出することから七瀧神社に改称。
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扁額「七瀧湯殿山」・「七瀧神社」。
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8.5
七瀧神社由緒…『当七瀧神社は、慶応年間に西海枝五郎他7名が出羽国湯殿山神社(現在出羽三神社)より御分霊を御勧請したのが創祀の始まりである。この境内地の岩肌より、数箇所の岩清水が湧き出し、寒暖、豪雨などにも水量の差はなく、百日咳きなど良薬として知られ、藩政時代には南部家に飲料として献上申上げた。明治39年には、勅令によって神社統廃合(一村一社)により上米内村内五社を湯殿山神社(現在の七瀧神社)に合祀し、岩清水湧き出る主なる七箇所を以って、七瀧神社と名称を改め、上米内一圓の氏神として斎祀った。祭礼日は、毎年8月8日にして多くの限りないご参拝者の崇敬を集めている。更には七瀧神水として、お水取り、お水汲みに毎日人々が訪れ氏子の手によって清水を守り続けて現在に至る。【祭神名と御神徳】大穴牟遅神・少名彦那神(病気平癒・身体健康・薬の神)。素盞嗚神(五穀豊穣・疫病封じ・海上安全)。品陀和気尊・人皇第15代応神天皇(家内安全・商売繁昌・交通安全)。大山祇神(五穀豊穣・鉱山)。速玉之男神・伊弉那美神(農林・漁業・安産)。建御名方神(開拓)。』
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大山蓮華。
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大山蓮華案内板。
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水汲み場。
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石碑は苔生しており読み取れず。
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岩山から流れ落ちてくる清水。
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大変人気のようで、私が訪れた際にも2組ほどの方が大量に水を汲んでおりました。
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岩手県盛岡市内丸。
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一之鳥居・二之鳥居は下曲輪にあります。
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神門から見た鳥居。
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4.5
ズーム。盛岡じゃじゃ麺の元祖「白龍」もあります。
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5.4
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神門。
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御祭神は南部光行公(南部家初代・開祖)・南部信直公(盛岡藩初代・南部家26世)・南部利直公(盛岡藩3代・南部家27世)・南部利敬公(盛岡藩11代・南部家36世)。
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櫻山神社は、寛延2年(1749)、盛岡藩8代(南部家33世)利視公により盛岡藩初代(南部家26世)信直公の御遺徳を偲び、城内淡路丸(本丸東側)に神殿を建立、9月26日、その御神霊を勧請して淡路丸大明神と尊崇し奉ったのに始まります。盛岡藩11代(南部家36世)利敬公は文化9年(1812)8月13日に櫻山大明神と改称。この名称は淡路丸が櫻山と称されていたことに因みます。また、利敬公は同15年(1818)4月に南部家初代(開祖)光行公を合祀。
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盛岡城が明治政府に接収された後、明治4年9月、御神体を盛岡市茄賀野村妙泉寺山に仮遷座、同10年5月20日に盛岡・下北山の聖寿禅寺跡に新社殿を造営し再遷座。この地域を今でも旧櫻山と称されるのはこのことに由来。明治14年1月、県社に列格。明治23年、旧盛岡城地が南部家に特別縁故によって払い下げられたことを契機に、旧盛岡藩士族また旧盛岡藩領民より、旧城地への遷座の機運が盛り上がり、盛岡城旧三の丸鳩森下曲輪跡(御蔵跡・勘定所跡)に明治32年神社敷地を造成。今日に見られる本殿、拝殿、神門を建立し、明治33年10月26日奉遷鎮座。
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大正元年10月に盛岡藩3代(南部家27世)利直公、盛岡藩11代(南部家36世)利敬公の御尊霊を合祀して永く郷土守護の神と崇め奉りました。利直公は信直公の長子で盛岡城の完成と盛岡の町割りを成し遂げ、盛岡市の基礎を築いた英主であり、利敬公は朝命を奉じて北海道室蘭海域の警備に従われ、その功によって明治41年従三位追贈の恩命に浴された名君です。終戦後、神社前には県道が通り新しく商店街がつくられるなど景観は変わりましたが、盛岡城の往時を偲ばせる雄大な石垣と本殿後方の烏帽子岩は盛岡城築城時と変わることなく悠然と聳え立ち、今でも櫻山さんと親しまれています。
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Wikipediaより抜粋…『●創建から江戸時代後期…江戸時代中期の寛延2年(1749年)、盛岡藩第八代・南部利視により盛岡藩初代・信直の遺徳を偲び、盛岡城内淡路丸に神殿を建立、同年9月26日、その神霊を勧請して「淡路丸大明神」と奉ったのに始まる。盛岡藩第十一代・利敬が文化9年(1812年)8月13日に「櫻山大明神」と改称。その後、利敬は同15年(1818年)4月に南部家初代・光行を合祀した。●明治時代…盛岡城が明治政府に接収された後、明治4年(1871年)9月、御神体を岩手郡加賀野村妙泉寺山(現・盛岡市)に仮遷座、同10年(1877年)5月20日に盛岡・下北山の聖寿禅寺跡に新社殿を造営し再遷座した。明治14年(1881年)1月、県社に列格。明治23年(1890年)、旧盛岡城地が南部家に特別縁故によって払い下げられたことを契機に、旧盛岡藩士族また旧盛岡藩領民より、旧城地への遷座の機運が盛り上がり、盛岡城旧三の丸・鳩森下曲輪跡に明治32年(1899年)神社敷地を造成、今日にみられる本殿、拝殿、神門が建てられた。●大正時代から現在…大正元年(1912年)10月に盛岡藩第三代・利直、十一代・利敬の霊を合祀して永く郷土守護の神と崇め奉った。計4柱の南部家の神霊を合祀して現在に至る。』
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狛犬一対(昭和12年5月25日)
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12.8
「旧藩御雇鳶元一番組盛岡消防組馬町第二部」・「旧藩御雇鳶元二番組・盛岡消防組油町第六部」。
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石灯篭一対。
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手水舎(向鶴)とおもかげ地蔵尊。『おもかげ地蔵尊はその昔南部家の江戸屋敷にまつられ、藩主を始め庶民にも崇敬を受けておりました。今はゆかり深い当社境内に移されております。皆様方には心願成就の祈りをこめて、ご清水をかけ親しくご参拝戴きましてご神縁益々ふかまりますようご祈念申し上げます。』・『7000人以上の犠牲者を出した安政の江戸大地震の時、盛岡藩江戸屋敷が全壊したにもかかわらず、地蔵さまのおかげで死者・けが人も少なく、特に子ども達を守り災難から逃れたと云われ大切になされてきました。いつの頃からか不明ですが、盛岡市北山の南部家菩提所聖寿禅寺の境内に移され、本堂の入り口に静かに祀られてきました。』
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15.5
長寿院亀之助。甲羅をタワシでこすって健康と長寿をお祈りします。「ひとこすり3年、ふたこすり6年、みこすり10年延命」。
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亀の子束子が60個奉納!…『平成26年10月23日東京都北区滝野川の㈱亀の子束子西尾商店様より束子60個が奉納されました。明治40年に初代社長である西尾正左衛門が亀の子束子を発明してから創業106年を迎えた㈱亀の子束子西尾商店様。お手紙によれば、先般、社員の方が盛岡出張の折当社を参拝し「長寿院亀之助」に出会い、とても感動したとのこと。これも何かのご縁と、亀之助の甲羅をこすって健康と長寿を祈る皆様方のお役にたてますようにと、そんな思いを込めて亀の子束子を御奉納下さったそうです。』
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石灯篭一対(昭和12年)。
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18.4
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社務所。
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19.4
19.8
戊辰戦役殉難者慰霊之碑(南部利美書)・手水石。
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拝殿前石段。
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拝殿。
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22.8
拝殿向拝、海老虹梁・手挟等。
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社殿前狛犬一対(大正2年8月)。
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24.5
その他石灯篭等。
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社殿横にも鳥居。
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石灯篭一対(大正6年)。
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石垣の上に烏帽子岩が見えます。
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御神輿庫の横に烏帽子岩への階段があります。
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御神輿庫。
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宝大石烏帽子岩(兜岩)…『盛岡城築城時この地を掘り下げたときに大石が出てきました。この場所が城内の祖神さまの神域にあったため宝大石とされ、以後、吉兆のシンボルとして広く信仰されてきました。現在でも、櫻山神社境内に悠然として大地に根をおろしそそり立っています。』
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烏帽子岩に向かいます。
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烏帽子岩手前に本殿。幣殿にも狛犬一対あります。本殿前には鶴の彫刻。
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石灯篭一対・手水石。
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34.4
34.8
『踏まれても根強く生きる道草のやがて来る春花も咲くらん』樋下正光
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南部稲荷神社。
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36.5
南部稲荷神社の横にも巨石。
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37.4
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石祠。
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南部稲荷神社付近から見た社殿。
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烏帽子岩。盛岡城三ノ丸に位置します。
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高さ約6.6m、周囲約20m。
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烏帽子岩(兜岩)のいわれ…『盛岡城築城時、この地を掘り下げたときに、大きさ2丈ばかり突出した大石が出てきました。この場所が、城内の祖神さまの神域にあったため、宝大石とされ、以後吉兆のシンボルとして広く信仰され、災害・疫病があった時など、この岩の前で平安祈願の神事が行われ、南部盛岡藩の「お守り岩」として今日まで崇拝されています。』
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烏帽子岩と社殿。
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烏帽子岩に触れてパワーを貰います…個人的にはあっちの方がパワー貰えそう…
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神社の向かいにある日乃屋カレー。ライス大盛り無料です。
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以下、神社境内案内板より。
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櫻山神社御由緒…『【御祭神】源性大明神南部光行公、信受霊神南部利直公、信徳大明神南部信直公、神功霊神南部利敬公。當神社は南部藩第33代利視公の寛延2年9月第26代の藩主信直公の御神霊を勧請して淡路丸大明神と尊崇し奉ったのに始まる。次いで文化15年4月藩祖光行公を、また大正元年10月には27代利直公、36代利敬公の御尊霊を合祀して永く郷土守護の神と崇め奉った。利直公は信直公の長子で父君の遺志を継いで盛岡城の完成と盛岡市の町造りを成し遂げ盛岡市今日の基礎を築いた英主であり利敬公は朝命を奉じて北海道の警備に従われ且つ朝廷を尊び給ひ敬神崇祖の念篤くその功によって明治41年從三位追贈の恩命に浴された名君である。文化9年8月旧地の名に因んで櫻山神社と改称した。明治14年1月に県社に列格し次いで明治33年10月現在地に奉遷鎮座された。昭和40年11月御造営竣工し藩祖光行公750年式年臨時大祭を齋行した。尚境内に榊山稲荷三社が鎮齋され賽者が頗る多い。例祭日5月25日、26日、27日。月次祭毎月26日。』
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盛岡城跡公園(岩手公園)開園百年。※こちらの内容は『盛岡城跡 ~其之参』の記事を参照下さい。
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櫻山神社の御祭神…『(※御祭神省略・以下参照)。宝大石・烏帽子岩…現在の櫻山神社の場所には、もと八幡社が鎮座しておりその傍らに三角状の岩がありました。この場所の高さが二ノ丸とほぼ同じであったので、利直公は地形を削るよう命じられ三角岩の周囲も削られました。しかし、岩の根は深くやがて烏帽子に似た巨大な岩石が出現しました。古代以来、人々は岩石に神が宿ると信じ崇敬していましたから、利直公はこれを瑞兆と慶び「八幡社の重宝」として崇められたのです。』
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御祭神…『当社は江戸時代中期の寛延2年(1749)盛岡八代藩主南部利視公が初代信直公のご遺徳を偲び奉るため、神殿を建立した事に始まります。さらに盛岡藩11代利敬公は「櫻山大明神」と尊称し、文化15年(1818)には南部家初代光行公を、大正元年(1912)には利直公、利敬公を合祀致しました。』
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南部光行公(永続神)。800年を超える南部家を興し、北東北の平安に努めた。
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南部信直公(開拓神)。戦国を英知・勇気・決断をもって駆け抜け、盛岡に藩を拓いた。
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南部利直公(安泰神)。城を築き、町を整え、農産業の振興と五穀豊穣、領地安堵を図った。
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南部利敬公(学問神)。法律と消防組を整え、学問を奨励し、藩校教育を推進した。
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御祈祷の御案内。
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神事次第。
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櫻山神社のご祭神-四柱の神々-より。
南部光行公(南部家初代)…『光行公は源義光を祖とする甲斐源氏の一族で甲斐国巨摩郡に生まれ、父である加賀美次郎遠光より同郡の南部郷を与えられて移り住み、氏を「南部」と称えました。それからは、南部郷の地頭職として馬産に励んでいたと思われますが、父遠光が頼朝の旗揚げに加わってからは光行公もまた頼朝に仕えるようになりました。文治5年(1184)には源頼朝の奥州征伐に父と共に従軍したことが「吾妻鏡」に見え、その功により甲斐国南部郷に加えて新たに糠部五郡を拝領したと言われています。南部家の伝承によれば、建久2年(1191)光行公と家臣たちが八戸浦に着き、それから現在の南部町相内の観音堂に到着。やがて三戸まで進み館を構えました。その際に、新年の準備が間に合わず正月元旦を大晦日とし、2日を元日とした(いわゆる「南部の私大」)と言われています。光行公は牧監(馬産の管理)としての実績を見込まれて糠部の地が与えられ、南部家が北奥羽に拠点を築く端緒を開いたと言えます。』
南部信直公(盛岡藩初代・南部家26代)…『南部家一族の石川高信の子として天文15年(1546)岩手郡の一方井館にて誕生、後に三戸の田子城に移り田子九郎晴直と称しました。やがて南部宗家に家督をめぐる争いが起きましたが、北信愛の協力によって信直公が家督を相続することができました。その後、小田原に参陣を果たし、豊臣秀吉から南部七郡を安堵されました。ちなみに南部七郡とは糠部、鹿角、岩手、閉伊、紫波、稗貫、和賀であると考えられています。かねてより対立が続いていた九戸政実の征伐に成功した後、信直公は浅野長政や蒲生氏郷から「不来方(現在の盛岡)に本城を置くよう」に勧められたと言われます。慶長4年(1599)に三戸城で没しました。行年55歳、波乱に明け暮れた生涯を閉じました。信直公は、豊臣秀吉から南部七郡の安堵状(「南部七郡事大膳大夫可任覚悟事」)を受け、本拠とした盛岡に築城を開始するなど盛岡藩の基礎を固め、南部家を近世大名に押し上げた南部家中興の祖であります。』
南部利直公(盛岡藩2代・南部家27代)…『信直公の長子として天正4年(1576)三戸の田子館で誕生。天正18年(1590)には、父信直と小田原参陣を果たし、その陣中で元服を済ませました。この時に烏帽子親となった前田利家より「利」の一字を拝領して利直と名乗りました。利直公は九戸政実の乱平定後、信直公より盛岡城の築城を託されます。慶長2年(1597)3月に盛岡城の鎌始め(起工式)を行い、「不来方」という地名を盛る岡の意味を込めて「盛岡」と改称しました。公自ら現場で工事の指揮を執ったとも言われており、慶長4年(1599)に本丸などが完成したようです。利直公は関ヶ原の戦に乗じた和賀忠親の旧領回復の一揆を鎮圧することに成功すると共に、思い切った家臣団の再編成に取り組み、さらには検地を実施して家臣団はすべて城下に住み、石高に応じた知行地を与えられるようになりました。寛永9年(1632)8月、江戸の桜田邸にて57歳の生涯を終えました。利直公は、鋭敏かつ機略をもって盛岡城の築城と城下町の建設、領内の経営に力量を発揮し、英知に優れて信望も厚かったと伝えられます。』
南部利敬公(盛岡藩11代・南部家36代)…『天明2年(1782)9代藩主・南部利正公の次男として出生、3歳で家督を相続しました。利敬公が幼年の藩主であった時期は、天明の大飢饉の揺り返しで不作が続いて、藩財政は極度に窮迫しました。利敬公は入部後に倹約令を発し、家老政治を排して自ら政務を執られました。利敬公の任期を通じて最大の課題になったのは、北地警衛と沿岸の防備でした。盛岡藩も幕府からの要請によって出兵し警備に当たりました。蝦夷地の警備が評価されて文化5年(1808)に盛岡藩は10万石から20万石へと昇格を果たし、利敬公は侍従となられました。利敬公は、上衆小路にお稽古場(学校)を設け藩学の基礎を作りました。また町火消しを創設し、城下の要所に火の見梯子を立て、半鐘を付けたことも特筆されます。さらに訴訟判例「文化律」を制定すると共に民事裁判所に相当する公事方評定所を設置しました。文政3年(1820)盛岡城で没し、享年は39歳。治国は歴代藩主最長となる37年に及びました。利敬公は親裁によって藩役人の腐敗を一掃して藩財政を立て直し、盛岡藩の安定に尽力しました。明治41年には北地警衛の功績により従三位を追賜されています。』
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盛岡三十三観音第五番。山号は妙法山。本尊千手観音。
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通称寺の下のおかんのんさん。
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山門には大きな提灯があります。
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屋根には南部家の家紋と黄金の鯱鉾。
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開山は円秀和尚で延宝年間頃と考えれています。
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阿弥陀如来石像延宝5年円秀建立銘。
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盛岡砂子・秘仏観音菩薩縁起によりますと、元禄年間盛岡藩4代藩主南部行信により堂宇建立。天明元年(1781)9代藩主南部利正から寺領12石を与えられています。
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旧本寺愛宕山法輪院広福寺(明治維新により廃寺)より移された歴代藩主の一代守本尊八体仏や旧愛宕山太郎坊堂の太郎坊像、旧山岸阿弥陀堂の阿弥陀如来坐像などがあります。
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千手観世音の額は明治35年に12代鈴木盛久氏が奉納したもので南部鉄器です。
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御香台。
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護摩堂。
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厄よけ観音千手院畧縁起。
『本尊千手観音(右:不動明王、左:毘沙門天)。右三尊は寺伝によると春日の作にして当院開山寛智円秀法印元禄年中念願により王城清水の尊体を遷座され、南部三十代藩主行信公の信仰厚く元禄十年堂宇を建立され、その後歴代藩主を初め四民の尊信厚く至心信仰の人々に幾多の不思議な霊験を与え今日に至っている。
当院安置の尊像
本尊千手観音、両脇侍。祭礼7月16日、12月16日 縁日毎月16日・17日。
南部歴代藩主一代守本尊八体仏。虚空蔵菩薩、八幡大菩薩、不動明王、文珠菩薩、大日如来、勢至菩薩、普賢菩薩、太郎坊坐像、盛岡火防神。祭礼4月24日。
弁才天、商売繁昌に霊験あり。毎月1日、15日。
阿弥陀如来座像。市指定文化財。祭礼旧12月14日。
聖徳太子立像。南北朝時代作。
撫牛。交通安全。』
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木造阿弥陀如来坐像は市内山岸にあった阿弥陀堂と称される天台宗護念山西光院は慈覚大師開基と伝えられますが、その阿弥陀堂から本寺に伝えられた古仏像2体のうちの1体。像高79cm、寄木造りの漆箔像。室町時代の地方作といわれており、盛岡城築城以前から天台宗がこの地に深く根付いていたことをうかがい知ることができる貴重な仏尊です。西光院は昭和47年に廃寺となり、本像は千手院に移され、水子供養の本尊として安置されています。
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野田塩ベコの道史跡。江戸時代に古来より塩の産地である野田村の海岸で作られた塩は野田ベコと呼ばれる牛で盛岡方面に運ばれたそうです。200年程前、清右ェ門という牛方が7頭の牛を連れて盛岡へと向かいましたが、暑さのために牛たちが中津川に入ってしまい、運んだ塩は台無しになったそう。それに怒った清右ェ門が牛を叩いてこらしめましたが、牛は千手院に逃げ込みます。千手院五代寓円和尚は、牛には何の罪もないと清右ェ門を説教。清右ェ門は泣きながら弱った牛を撫でましたが、祈りも虚しく牛はそこで亡くなったそうです。悲しんだ清右ェ門は、牛の姿を当時の名工藤田善九郎に頼み、尺五寸、重量十二貫の南蛮鉄の撫牛を千手院に寄進したそう。撫牛は本堂内にあります。
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大慈寺町の由来は寛文13年創建の黄檗宗福聚山大慈寺にちなみます。
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この地は江戸期から寺の下寺院群と称されていました。
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天正年間の創建、あるいは中興と伝えます。
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盛岡三十三観音第7番札所。
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本尊は釈迦如来。天正3年(1575)尽室長呑が中野村新山館(現在の高崩)に一宇を建立。
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源勝寺(当時は紫波郡土館村にあり)9世天室清耽を招請して開山とし、いつの頃か現在地に移転したと伝えます。
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盛岡藩主南部利視の実母浄智院の帰依により、享保14年(1729)に伽藍を造営、寺領10石を賜り、八幡片原町に隠居所を寄進。
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しばしば火災に遭い、明治6年(1873)にも類焼しましたが、同15年に現本堂を竣工。
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寺宝として左甚五郎(江戸時代初期に活躍した伝説的彫刻職人)作と伝える木造七福神があるそう。また盛岡市指定文化財として「十六羅漢図」16幅及び「所記次第」1幅があります。
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今回は笠森稲荷ゾーンです。御祭神は岩手県ゆかりの殉国の御英霊およそ3万5800柱。
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岩手護國神社は明治天皇の畏き思し召しにより、明治新政の夜明け勤王の大義を固守し国事に殉ぜられた郷土の勤王の志士目時隆之進命・中島源蔵命の二柱の御霊を祀るため、明治2年11月2日、岩手郡東中野村茶畑の地に、時の盛岡藩知事南部利恭により創建されました。
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その後、西南戦争、日清日露の両戦役、そして大東亜戦争等幾多の事変戦役で、我が国の平和と繁栄を念じつつ、尊い生命を御国に捧げられた、岩手県ゆかりの御英霊35,700余柱がお祀りされています。
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明治14年、当時の内丸公園地に遷座されましたが、明治39年にはその社地を県社八幡宮の境内に求め遷座されました。
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更に、昭和14年には境内地を拡張して、神明造様式による新たな大社殿が造営され、現在に至っています。
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天皇皇后両陛下(昭和天皇)は、昭和45年10月13日、本県で開催された国民体育大会御臨場の行幸啓の御砌り、畏くも当神社に幣饌料を御奉納の上、御親拝あらせられました。
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招魂斎庭。
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社務所。
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岩手県戦没者遺品館。開館時間は10~16時。御遺族約500名の奉納により、岩手県出身の戦没者の遺品8000余点を展示・保存。昭和60年4月25日、ご遺族をはじめ多くの県民からの寄付によって、平和を祈って建設されたそうです。
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歩兵第三十一連隊戦没者将兵一同之霊。
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ビアク支隊戦没者顕彰碑。
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平和の塔。
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戦没者遺骨奉安殿。
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大東亜戦争無縁遺骨奉安殿とありました。
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ここには身寄りのない戦没者の遺骨を安置しています。
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霊璽簿奉安殿。岩手護国神社に祀られている戦没者と遺族の名前を記した名簿を保管している場所。
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岩手県神社庁より。
『畏くも明治天皇には、維新の大業に際し、殉難死節の士の功勲をご嘉尚せられ、祠宇を設け、厚く祭祀を行うべき旨仰出される。明治2年(1869)11月、藩知事南部利恭は、その聖旨を体し、目時隆之進政明命、中島源蔵常明命二柱を盛岡市東中野茶畑に奉祀したのが本社の創祀である。のちに、官祭招魂社となり戊辰の役、西南の役、日清・日露の戦役、満州事変、支那事変、大東亜戦争に至るまでの殉難の士35000余柱の神霊を祀る。この間にこのお社を、茶畑より盛岡市内丸公園地内に奉遷したが、明治39年(1906)八幡宮境内に、昭和14年(1939)現在地に社殿を造営して岩手護國神社と改称、昭和24年(1949)岩手神社、更に講和条約締結に伴ない昭和28年(1953)岩手護國神社と復称し、現在に至る。』
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神楽殿。
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岩手護國神社入口付近にあった草木之碑。造園のために断ち切られた草木に宿る御霊の慰霊と、草木に関わる神々に感謝を申し上げる祭儀が行われています。
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