くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ: 寺・神社 (八戸市)

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青森県八戸市白銀町三島上。
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JR八戸線の白銀駅の近くで、目の前に線路があります。
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ちょうど電車が通過していきました。
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社号標(平成元年7月7日)。
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表参道の階段と二之鳥居。
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狛犬一対(昭和5年旧6月7日)。
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手水舎。
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手水鉢。
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手水舎横に福徳ふくろう(平成21年12月吉日・三嶋神社総代会)。
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苦労(クロウ)を水で流して福(フク)を呼びこむ!
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このフクロウに水をかければいいのかな。
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福徳ふくろうの裏に誰かがいます。
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二宮尊徳像。たった今クロウを水で流したばかりですが…クロウも大事ですよね笑
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社殿と参集殿。
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こんな高台に駐車場があるんですね。徒歩なので関係ありませんがちょっと見てみます。
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賽乃神。
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「伝説」源義経北方コース「源治囲内」案内板…『悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は兄の頼朝に追われ文治5年(1189年)4月平泉の高館において31歳の若さで自害したといわれている。短く華麗だったその生涯を想い、後世の人々は「義経はその前年にひそかに平泉を脱出し、北をめざして旅にでた」という伝説を作りあげたのである。世に言う「判官びいき」であろう。海路を舟でやってきた義経一行は、八戸の浦へ上陸し、白銀の村に一時仮住居を定めることにした。この白銀あたりに残る「源治囲内」という地名は「源氏の屋敷」との意味だったといわれ義経一行が館越に居を移す前に法官氏の世話で住んでいたところであるという。法官という姓は、義経が一行に世話を焼いてくれた者に「今後、判官と名乗るがよい」と申し渡したが、判官と名乗るのは差し障りがあるというので、法官と改姓したといわれている。公益社団法人八戸観光コンベンション協会』
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駐車場からの眺望。
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福昌寺が見えました。
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駐車場の片隅に錆びた錨がありました。
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八戸港船舶給水の地…『ここは、昭和23年、八戸港船舶給水のため三島神社境内の一部を譲り受け、山上配水池を建設した場所で、標高は17,305mです。昭和38年には、浜通り高台地区への給水を目的に三島上ポンプ場が建設され、地下に52メートルの井戸を掘削し、標高85mの鉄砲平配水池に送水しました。階上岳に源を発する「三島の湧水」は上水道水源として、浜通りの「水くみ作業」を解消し、そして、八戸港の船舶給水として、八戸市民の生活と産業、経済の発展を担ってきました。昭和41年3月三島上ポンプ場は、三島下ポンプ場の整備に伴いその役割を譲り、取水停止後は、水道メータの検査室や東部応急給水資材センターとしても運用され水道事業を支えて来ました。今、それらの役目を終えた三島上ポンプの足跡を思うとともに、今後の水道事業の発展を期し、記念碑を建立して後世に永く伝えるものです。平成25年7月八戸圏域水道企業団企業長小林眞』
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社殿前に戻ります。
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御祭神は市杵島姫命・多岐理毘売命・多岐都比売命の宗像三女神です。例祭日は7月7日。旧郷社。
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嘉永2年の神職宅の火災により資料等焼失し創立年代不詳。口伝によりますと、大同2年(807)南都中納言藤原諸江卿故あって奥州に配せられ、転一転当地にとどまり名を五郎兵衛と改め漁師となりました。出漁の際に海中より三面の神鏡を獲、これを祀りしより漁に恵まれ、住民共々一小宇を建立。
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24.5
後に、根城南部五世政長を招きます。出陣にあたり三嶋明神に戦勝を祈願。祈願成就により代々南部家の御信仰篤く、八世政光公、南北朝合体の際、足利氏に属するを潔とせず国替えとなり、元中9年(1391)、一門新田左馬助政持と共に糠部へ下向の節、本国甲州の城中に祀りし大山津見命を勧請合祀し、以来毎年正月25日に御参拝。八戸南部家に於ても尊崇篤く、二代直政公が漁神として崇敬し延宝7年(1679)(※天和元年とも)御本殿建立。三代通信公が元禄年間に鞘殿兼拝殿を建立。明治17年鞘殿及び拝殿を氏子にて造営。現社殿(鞘殿・幣殿・祝詞殿・拝殿)は氏子により昭和16年7月8日起工、昭和17年7月7日落成。延宝7年の御本殿は現存。昭和34年皇太子殿下の御成婚を祝し、更に漁業八戸の隆盛を祈念し、氏子崇敬者一同神輿奉納をはかり昭和35年7月7日奉納。昭和36年の白銀大火の火災復興事業により車道建設。
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三間社。
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拝殿前石灯籠二対。
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27.5
内古い方の灯籠一対は昭和14年7月7日支那事變二週年記念日建立。
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28.5
殉國碑(日本郷友連盟会長後宮淳謹書)。
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裏面碑文…『人類の福祉と世界平和確立のため日清日露の両戦役、満州支那の両事変及び大東亜戦に、国の礎となられた戦友の御霊を慰め殉国の精神を、永久に伝えんとして、之を建立す。昭和38年8月15日白銀郷友会』
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三峰館寛兆句碑「夜網引く浦より出たり夏の月」寛兆(宮司島浦千晴書)。
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句碑建立者は俳人田名部清一(柊一)。平成15年7月1日建立。
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社殿横の末社。小祠は子藥師神社で神鏡や石が祀られているのが見えました。
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子藥師神社の横に稲荷大明神。紀年銘は注連縄で見えませんが、昭和年間の旧3月6日建立です。南山書。
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その横に金毘羅大権現。紀年銘は読み取れそうで読み取れず。
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更に出羽三山。紀年銘は文久3癸亥年3月8日
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巳神もしくは巳ノ神。
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金毘羅宮。
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稲荷宮。
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こちらは…
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八大龍王かな。自信ありません。
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その他稲荷の狐様等。
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神楽石。
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神楽石について…『まず御神前にて祈願をします。次に両手で神楽石を持ち、自分が予想していたよりも軽く感ずれば願いが叶い、重ければ叶わないとする試し石です。一般には、「おもかる石」といわれています。※あぶないので、小さいお子さんは持ってはいけません。』
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神楽殿。
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三嶋神社沿革碑(沿革の内容は上記と同じであるため省略。神輿奉納時の記念碑で裏面は神輿奉納奉讃者芳名。昭和35年10月吉日)。
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三嶋七福神石像。平成16年8月完成。
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大黒天・毘沙門天・辨財天・恵比寿・福禄壽・壽老人・布袋。
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参集殿。203坪。平成11年3月建立。大きいです。
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参集殿建設資金境内整備資金寄付者御芳名碑(平成14年7月7日)。
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車祓所。
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おみくじ舎。
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七福ロウ。
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御朱印もありました。
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青森県八戸市小中野。旧国鉄湊駅跡地に建立…何となく境内や隣接する緑地・遊歩道に違和感を感じたのはそのせいですね。当時の枕木が現在も境内の片隅に残されているそうです。参詣した時点では知らなかったので写真はありません。下の写真は八戸市鳥瞰図(昭和8年)。
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社号標(平成8年正月吉日・豊島鐘城書)。
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御前神社大鳥居奉納者名碑(平成8年5月)・御前神社遷座造営事業奉賽者名碑(平成8年5月)。
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御前神社…『【祭神】底筒男命・中筒男命・上筒男命・息長帯姫命(神功皇后)・武内宿禰命【由緒・沿革】当社の主神三坐は別に住吉の大神とも称され、古来、その縁起から航海安全・和歌・農業・漁業に関わる神として信仰崇敬されてきました。そして、神功皇后の由緒から安産の神としても信仰されました。さらに、古事記・日本書記の記すところの伊邪那岐命が、黄泉の国の汚れを受け、禊祓をされた時に海中から生まれなさった故事により身の汚れ心の汚れを祓清める神としても古来篤く信仰されてきました。社伝によると住吉三神の教えを受けた息長帯姫命(神功皇后)が従者の武内宿禰を陸奥に下向させます。そして、新井田川の川口小浜に安着した折り、住吉三神の神霊を受け小祠を造営したことが、当社の誕生であったと伝えられています。宿禰は住吉三神を三崎御前と仰ぎ、息長帯姫命(神功皇后)をも合わせてお祀りすることになります。その後、坂上田村麿が、当社に武運長久を願って参籠したという言い伝えも残っています。古くは雷林の地名で呼ばれていた湊館鼻の地から、平成7年の秋、小中野・江陽地区の産土神であることと、櫛引八幡宮の「お浜入り」にもゆかりのある現在地に当社は遷座造営されました。平成12年12月』※すべての漢字にフリガナがあるとても丁寧な案内板でした。
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手水舎。
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波にうさぎ(波兎)。
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石灯篭一対(はちのへ温泉横田與一郎・横田ヤヱ奉納・平成8年4月吉日)。十五夜の竹遊びではろうそくが置かれ、幻想的な雰囲気を醸し出します。
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玉梅。
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玉梅…『下町の玉三郎こと梅沢富美男氏はさらなる芸能向上と今後の舞台成功を願って御前神社の御神前に祈願しました。そしてその参拝記念にこの梅を下町の玉三郎の名に因んで玉梅と名付けました。平成10年8月』
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奉祝天皇陛下御即位10年植樹。
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狛犬一対(昭和5年10月30日)。
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大絵馬(縦2.4m・横3.6m)。桃太郎!
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八戸市小中野・江陽両地区の氏神様として地域を見守り続けた御前(みさき)神社は厄払い・安産・海の神様として崇敬され、主祭神は住吉大神(表筒男命、中筒男命、底筒男命)、他に息長帯姫命、武内宿禰命を祀ります。
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社伝によりますと、住吉三神の教えを受けた息長帯姫命(神功皇后)が従者の武内宿禰命を陸奥に下向させ、新井田川の川口小浜に安着した折、住吉三神の神霊を受け小祠を造営したことに始まると伝えます(今から約1800年前創建)。宿禰は住吉三神を三崎御前と仰ぎ、息長帯姫命(神功皇后)をも合わせてお祠りすることになります。その後、坂上田村麻呂が当社に武運長久を願って参籠したという言い伝えも残します。古くは雷林の地名で呼ばれていた湊館鼻の地から、平成7年秋に小中野・江陽地区の産土神であることと、櫛引八幡宮の「お浜入り」にもゆかりのある現在地に遷座造営されました。地域住民からは漁業・航海安全・安産等に関わる神として崇められています。年中行事…初詣(元旦祭・午前0時)、厄払(2月)、お浜入り(5月14日午後2時。神功皇后のもとに御子である櫛引八幡宮の御祭神応神天皇が1年に1度いらっしゃる行事。親子再開後に海浜にて禊祓いをすることからお浜入りと言われています。)、例祭(5月15日午後2時)、夏まつり・奉納盆踊り(8月第1又は第2土曜日。浦安の舞・神楽・さびしろ虎舞の奉納などが彩りを添え夜店も出店。)、十五夜の竹あそび(旧暦8月15日。竹筒に灯る数百個(約700個)の明かりが境内に広がる幻想的な行事。)、七五三参り(10月中旬から11月)、新嘗祭(11月23日午前11時)。神社庁HPによりますと、『当社の主神三坐は別に住吉の大神とも称され、古来、航海安全・和歌・農業・漁業に関わる神として信仰崇敬されてきた。さらに古事記・日本書紀の記するところの伊邪那岐命が、黄泉の国の汚れを受け、禊祓をされた時に海中より生まれなさった故事から、身の汚れ心の汚れを祓清める神としても信仰されてきた。社伝によると住吉三神の教えを受けた息長帯姫命(神功皇后)が新羅遠征の後に従者の武内宿禰を陸奥に下向させ、新井田川の川口小浜に安着した折り、住吉三神の神霊を受け小祠を造営したことが、当社の誕生であったと伝えられている。宿禰は住吉三神を三崎御前と仰ぎ、神功皇后をもお祠りすることになる。その後、坂上田村磨が当社に参籠したという言い伝えもある。古くは雷林の地名で呼ばれていた湊館鼻の地から、平成七年秋に小中野・江陽の産土神であることとお浜入りにもゆかりある現在地に遷座造営された。』とあります。
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『水神竜神 十和田信仰』(小館衷三)に、「湊の三崎神社の祭神は底筒男命・中筒男命・表筒男命の住吉三神で海上安全、祈雨、祈晴の神で港八戸にふさわしい古社で、社伝に当社の眷属の八大竜王も祀っているという。このため、法領様と混同視されたこともある。」とあります。
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拝殿蟇股・木鼻等。
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拝殿海老虹梁・神額等。
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拝殿内。大漁祈願掛図(嘉永2年)などがあります。
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両脇に神功皇后像と応神天皇像。
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神功皇后像前に獅子頭(権現様)。
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奉祝天皇陛下御即位10年植樹。
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幣殿・本殿覆屋。
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こんぴらさま。
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こんぴらさま…『「金比羅船々 追風に帆かけて シュラ シュシュシュ」の民謡で唄われる讃岐(香川県)の金比羅さん。金毘羅参りは江戸中期以降盛んとなり、お伊勢(伊勢神宮)参りとともに一生に一度の信仰の旅でした。金毘羅神は航海安全守護の神さまとして崇拝され、他にも五穀豊穣・家内安全・商売繁盛・病疫退散などにも御利益があると信じられ全国に広まりました。この石殿の側面には「嘉永四年亥四月十日」、台座正面には「亀甲丸久次郎 小宝丸万吉」と刻まれています。久次郎と万吉が嘉永4年(1851)航海安全を金毘羅さんに祈願して湊館鼻の日和山に奉納したものでした。御前神社が館鼻の地から現在地に遷座され、この石殿も隣りの船魂碑とともに移されました。亀甲丸は、八戸藩の御用船で、久次郎はその船頭でした。「八戸藩日記」(嘉永元年5月4日付)によると「亀甲丸…此石八五二石五斗九升七合」と記され、かなり大型船であったことがわかります。亀甲丸や小宝丸は遠く上方まで商いに出かけ、四国の金刀比羅宮にも参詣し、ここに分霊して祀ったのでした。久次郎と万吉の祈りが伝わってくるような気がします。』
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ふなだまさま。
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ふなだまさま…『海とともに拓けてきた八戸にあって、航海安全守護を祈願する漁民信仰の代表は「ふなだまさま」といえます。「ふなだまさま」は、航海安全の守り神のことで「船霊さま」「船玉さま」「船魂さま」とも書かれ、通常は帆柱を立てる下の部分や、舳先に祀られ、御神体は女性の毛髪や人形、硬貨などを入れました。船を新しく造った時は親類や村人を集めて酒宴を催し、完成すると、「ふなだまさまのタマス(魂)入れ」がはじまります。この石碑は「船魂神 施主吉田亀次郎」と刻まれており、建立年代は分かりませんが、奉納者の生存時代からして幕末ごろと思われます。御前神社の祭神が住吉大神・神功皇后を祀っているため「ふなだまさま」の御利益と合致します。当地方で、船魂碑を奉祭しているのはここ御前神社だけです。今日では、御神体を納める「切り込み」が船についていないため、御前神社のお札を祀るなど、信仰の形態が変化してきているといえるでしょう。「板子一枚下は地獄」といわれるように海で生計を立てる漁師にとって「ふなだまさま」を崇敬することは大切なことでした。』
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門付近にあった金毘羅大権現、二十三夜・湯殿山塔、卯辰供養塔など。
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是川の清水寺観音堂。清水寺(せいすいじ)と読みます。真宗大谷派。御本尊阿弥陀如来。八戸市内では八戸藩成立以前からあった古寺で糠部郡三十三観音霊場二番札所として広く信仰を集めています。
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住所は青森県八戸市是川中居。「国指定史跡 是川遺跡」「是川縄文館・八戸市縄文学習館」の近くです。かつての是川村で、寺は真宗大谷派の楞巌山清水寺と真言宗豊山派の八鳩山福善寺があります。清水寺本堂の西には清水寺観音堂があり、天正9年および慶長18年の棟礼を所有。糠部三十三観音の第2番札所とされ、間口3間・奥行3間からなる単層・宝形造の同堂は室町時代後期に建てられた東北地方北部の中世式仏堂として貴重な事から棟札(天正5年・慶長18年・貞享3年)と共に昭和55年1月26日に国指定重要文化財になっています。館前には新山神社があります。
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山門。
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手水舎。
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よく見えませんが阿弥陀三尊かな。
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敷石以報謝禮(大正13年5月)紀年碑。
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鐘楼堂。
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梵鐘。
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石灯籠一対(明治42年)。
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京都東本願寺を本山とし、山号は楞厳山。境内には清水寺観音堂が本堂の奥の杉木立の中に鎮座。
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草創は平安時代に天台宗の高僧慈覚大師(円仁。第3代天台座主、入唐八家。)によるとの伝説はありますが定かではなく不詳。開山は月秀という名僧とされます。
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開山当初は天台宗に属していましたが、藩政時代には真言宗へ改宗、その後天台宗に復帰。明治2年に真宗大谷派となり現在に至ります。
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清水寺は元来、観音堂を守るために建てられた別当寺でした。別当は代々世襲とされています。
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境内背後にある清水寺観音堂は県内最古の木造建築で、鎌倉時代に中国から伝わった禅宗様式を主に用いて造られています。現存する棟札から新田城主十代新田左馬政盛が天正9年(1581)に造営したとされます。一方、宝暦4年の清水寺境内書上申渡帳には熊野信仰に関わる諸堂が見えるため、熊野修験による建立とする考えもあります。
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本尊はかつて千手観音(伝慈覚大師円仁作。※盗難により現在不在)としていましたが、現在は救世観音菩薩を安置。他に木造天部立像や馬鳴(めみょう)菩薩を祀ります。木造天部立像は四天王の一つ多聞天あるいは単独で毘沙門天の可能性が指摘され、県内最古となる平安時代後期の彫像と判明。馬鳴菩薩は菩薩が馬に跨る形像。中国の民間信仰に由来し、貧窮の人々に衣服を与えたり、養蚕機織の菩薩として祀られるといいます。また、産馬育成祈願などの絵馬(51枚(寛文8年-明治初期)・市指定文化財)も奉納されています。
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本堂の脇を通り…
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清水寺観音堂へ。
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本堂裏手。
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巨木に囲まれていました。
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手水石。
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墓地前手水石。
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参道。
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石灯籠(文政元年7月17日)。
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池。
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観音堂前石灯籠一対。
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清水寺観音堂。
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観音堂内。
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上記の説明では救世観音菩薩と説明しましたが、千手観音菩薩立像が見えます。比較的新しいもののように見えますね。横に見えるのが救世観音菩薩でしょうね。
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両脇の菩薩像など。
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清水寺観音堂(重要文化財・昭和55年1月26日指定。附棟札三枚(造栄天正九年辛己五月吉日の記があるもの1枚、再興慶長十八暦癸丑仲冬吉辰の記があるもの1枚、貞享三丙寅天潤三月拾五日の記があるもの1枚))…『清水寺は、平安時代の天台宗の僧慈覚大師草創の由来を伝えているが定かではない。しかし、この観音堂が天正9年(1581)に建立された県内最古の木造建築であることや八戸藩成立以前の古文書を伝える市内でも古い寺のひとつであり、また、糠部三十三観音信仰第二番札所として多くの信仰を集めてきた寺である。古くは天台宗であったが、明治時代になってから浄土真宗に改宗した。この観音堂の構造は、三間四方の宝形造で、茅葺芝棟の独特の屋根を持ち、軒は二軒繁垂木である。柱は全て丸柱で上部をすぼめる粽という加工が施されている。各柱の上部は、頭貫、台輪でつながれ、その上に平三斗を柱上だけでなく柱間にも並べる詰組の手法を用いている。また、正面三間の桟唐戸は藁座で取付けられている。これらの技法は、鎌倉時代に中国から伝わった禅宗様と呼ばれる建築様式であり、内部もこの様式で作られている。この観音堂は、禅宗様の細部をもった正統的な中世式仏堂として東北地方北部の貴重な建造物である。建立以来何度も繰返された修理のため改変された箇所もあったが、昭和57、8年の解体工事により創建当初の姿に復原された。また、消火栓設備なども設置され、保存管理に万全を期されている。昭和59年10月八戸市教育委員会』
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