くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ: 寺・神社 (八戸市)

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曹洞宗魚籃山常現寺。八戸市小中野6丁目。御本尊は魚籃観音菩薩。近くには諏訪神社新むつ旅館があります。常現寺の詳細についてはHP(常現寺)を参照下さい。
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寛延元年、常現寺の前身である梅翁庵は、下北郡大畑村の曹洞宗円祥山大安寺三世寿仁州関大和尚により、宿庵として大畑村関根橋に開庵。当時の大畑村は長崎との交易やヒバ材に恵まれて大いに賑わっていましたが、明治初期には時世の推移とともに、梅翁庵は名号を残すのみとなって廃庵同様の状態となりました。明治26年頃、三戸郡小中野村(現八戸市小中野)には曹洞宗の寺院がなく、一方でお釈迦様の教化聴聞を願う心と寺院を求める声が高まっており、同村が経済の発展と共に曹洞宗信徒も増加していましたが、まだまだ新寺建立は困難な時代でした。そこで本寺大安寺と三戸郡大舘村(現八戸市新井田)の貴福山対泉院両寺互議の上、対泉院末庵として移転することになります。明治30年、寺院用地として現在地が寄進され、同12月に曹洞宗管長の認許を得ました。明治43年、寺籍移転の諸手続が完了し、八戸湊村出身の高僧西有穆山禅師(大本山總持寺独住三世直心浄国禅師)を開基とし、本寺貴福山対泉院18世上田(霊山)祖堂大和尚を開山とする新たな一宇が建立。こうして下北郡大畑村の梅翁庵は、開創より100年余の星霜を経て、新たに三戸郡小中野村に寺籍を移転し、交趾王山梅翁庵としてこの地で新しい歴史の一歩を踏み出すことになりました。
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青森県で初めて曹洞宗管長(最高位)に就いた八戸出身の名僧・西有穆山禅師は、文政4年、三戸郡湊村(現八戸市湊町)に誕生し幼名を万吉といいました。9歳の時に母方の菩提寺にて地獄極楽の掛図を見て発心、13歳で八戸長流寺金龍大和尚について得度し、僧名金英を授けられました。金龍和尚示寂後は仙台の古刹松音寺にて修行を続けながら漢籍仏書を読み尽くし、駒込の吉祥寺旃檀林門下生となります。愚禅和尚より「正法眼蔵」の提唱を受け、儒学者菊地竹庵に入門し研鑽に励みました。また、新宿宗参寺曹隆和尚を法幢師として立職し、浅草本然寺住職泰禅師に嗣法して大和尚の位に昇り、牛込の鳳林寺15世を嗣ぎました(23歳)。その後、住職の座を退きながらも修行を続け、小田原海蔵寺月潭老和尚のもと12年間宗乗を学び、更に「正法眼蔵」を参究。この時に金英から瑾英に改名。更に前橋市の竜海院の諸獄奕堂師(後に大本山總持寺独住1世)より印可証明を頂き、伊豆修禅寺梅苗門下に於いては公案中でも最も深遠な「劫下洞然」を参究会得するなど厳しい修行を続けました。その後、永平寺西堂、可睡斎住職、大本山總持寺独住3世、曹洞宗管長、明治天皇より勅特賜直心浄国禅師の号をいただく等々、数々の要職を務めてました。当寺が穆山禅師を開基とし魚籃山常現寺として開山した明治43年12月4日に従容として世寿90を以って示寂。横浜西有寺、八戸光龍寺等々を開山され、北海道中央寺と当寺常現寺二カ寺が禅師の開基となっています。
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大正4年、宮城県栗原郡宮野村にあり、法地格を持ちながら廃寺同様であった源昌山常現寺を、庵寺である梅翁庵を法地格にすべく、源昌山常現寺を再興する形で寺籍移転廃合の届出がされます。翌5年に山号も改められ、法地格を持つ寺として正式に魚籃山常現寺となりました。なお、梅翁庵の寺籍は岩手県宮古市鍬ケ崎に移り、挿鍬山梅翁寺として法灯が護られています。
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本堂寺号額「常現禅寺」(總持寺独住二十一世梅田信隆猊下揮毫)。
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常現寺魚籃観世音菩薩(パンフレットより)。西有穆山禅師は明治32年5月に故郷の小中野村に一寺が建立されると聞き及び、故郷の布教発展に資すべく、木彫「魚籃観世音菩薩」と鋳造「延命地蔵菩薩」と「秋葉三尺坊大士像(現在不詳)」を奉安。魚籃観世音は漁業繁栄や航海安全の信仰対象とされます。御本尊として民衆の信仰を集めたこの観音様は、その霊験著しさから「今あらた 新地をひらく 観世音現世安穏 後生極楽」(八戸城下三十三観音札所27番札所御詠歌)と詠まれたほどでした。毎年11月17日御開帳。また、延命地蔵尊は農業繁栄や先祖崇拝の信仰対象であり、享保5年の制作といわれ、静岡の修験秋葉山七世了運任宗上人によって開眼したと背部に刻書されています。明治の廃仏稀釈により秋葉寺が神社となり、この地蔵尊を安置していた源性庵(当時遠州)もその影響を受けて廃寺同様となってしまったことから売却・融解の運命にあったものを、西有穆山禅師が救って新たに入魂開眼されました。背面にはその由来・縁起が刻字されています。
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魚籃観音碑。
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上の篆書は幕末の書家・剣豪正四位山岡鐵太郎揮毫。本文文字は大本山永平寺62世鐵肝雪鴻禅師揮毫。魚籃観音についての由緒が刻まれています。西有穆山禅師の依頼により揮毫されたもの。明治17年刻書。
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わらべ地蔵尊。
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弘法大師御修行之尊像。
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南無阿弥陀仏供養碑。明治3年5月来迎寺19世燈誉上人が導師となり湊村念仏講中の人々によって建立。藩政時代に四ツ屋(谷)の仕置場(現小中野小学校)に首切地蔵(延命地蔵)と共にあったものを明治期に常現寺に移しました。首切地蔵は本堂入口の御堂に移安されています。なお、本堂入口左側の御堂には金精様が願いが叶う石と共に祀られています。この金精様はかつての遊女が小中野の一角にあったお堂(焼失)に奉納したものらしいです。
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和田清宣翁碑(大正9年5月)。明治5年から大正2年まで初代小中野村々長・村会議員・郡会議員を歴任した和田氏の徳望を顕彰したもの。
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八戸三社大祭(令和元年)』からの続きです。
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タピオカドリンクとチーズハットグを売っているお店がやたらとあります。
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ってことでブームは無視して、のび~るトルコアイスで一服。
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三社大祭の山車のように縦にのび~る。
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『八戸三社大祭(令和元年)』にて歴史等については色々書きましたので、この記事では写真のみで紹介。
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「ヤーレ、ヤーレ」
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沿道からクラッカーや紙テープが飛んできます(六日町附祭若者連)。
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ちなみにクラッカーは配られてもいました。場所が六日町だから?
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トランスフォーム準備!(十六日町山車組)
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トランスフォーム!!
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そして目の前を…
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通り過ぎていきます。
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トランスフォーム準備!(類家山車組)
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トランスフォーム準備!?
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トランスフォーム!!…しないまま…
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通り過ぎていきました。場所が六日町だから?
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虎舞。
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今度こそ…
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トランスフォーム準備!(八戸市職員互助会)
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トランスフォーム!!
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トランスフォーム…
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完了!更に煙ぷしゃー!!
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そして元に戻って…
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目の前を…
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通り過ぎていく…
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休む間もなくトランスフォーム準備!(糠塚附祭組)
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トランスフォーム!!
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時にはトランスフォーム後のまま現れて…
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そのまま私の目の前を通り過ぎて行く強者も!(長横町粋組)
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鬼!(八戸共進会山車組)
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鬼を見ると落ち着きます。
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吹上山車組。
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トランスフォーム開始!
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何やら…
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美味しそうなものが出てきました。
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そして矢の根の曾我五郎(市川海老蔵)。
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更に煙ぷしゃー!!
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そして元に戻って…
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目の前を…
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通り過ぎていく…ところでこんな楽しみ方でいいのでしょうか…楽しければいいよね笑
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猿田彦。
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そして現れたのは…
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江戸時代の屋台山車「太公望」。これ見たかったんです。
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普段はおがみ神社にて展示。
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ちなみに今回紹介している写真は祭りのほんの一部です。
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トランスフォームも動画にすれば伝わりやすいのでしょうけど…
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写真にこだわります。
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是非とも現地で臨場感を味わって欲しいからです。
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虎舞。
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城下附祭(立身出世金太郎~金太郎、改メ坂田金時~)。
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青山会山車組(令和元年山車絵巻「神代三剣」)。
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淀山車組(「夢・宝船」開運招福・祝いづくしの躰)。
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涼しくなってきたのでちょっと移動してみました。
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下組町山車組(海神新田義貞 鎌倉攻め)。
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じっくりと山車を見てきました。
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下大工町附祭若者連中(西遊記玉華城の戦い)。
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柏崎新町附祭(鬧天宮 孫悟空)。
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朔日町附祭(大江山 酒呑童子退治)。やっぱトランスフォーム後がいいですね。
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華屋台(泉流・花柳流・藤間流・水木流・若柳流)。その昔、華屋台は「芸者屋台」「芸妓屋台」などと呼ばれていました。明治時代に、当時の鮫や小中野の芸者衆が三社大祭へ唄や踊りを奉納したという心を受け入れ、土地の大商人「河内屋」が屋台を寄進し、法霊神社行列に参加したのがはじまりとの記録があります。その頃は屋台の戦闘を藤娘、三番叟などが歩き、屋台の上では三味線、太鼓、鼓を奏で、それにあわせて芸妓たちが唄をうたい、踊りを舞い、艶やかで華やかなもので、さながら動く歌舞伎座の様なものでした。昭和になり、戦後の混乱や社会経済の変遷などで中断されましたが、平成9年に昔を懐かしむ有志の情熱と日本舞踊各流派の方々、そして多くの市民のご協賛を頂いて25年ぶりに復活。
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八戸小唄。
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以上、令和元年度の八戸三社大祭(お還り)でした。
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毎年7月31日から8月4日に八戸市で行われる神社神道の祭礼。ユネスコ世界無形文化遺産、国指定無形文化遺産など様々な文化遺産に指定されており、東北地方最大級の神事。
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7月31日の前夜祭、1日のお通り(神幸祭)、2日の中日、3日のお還り(還幸祭)、4日の後夜祭という日程で行われます。
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「三社」とは八戸市内に鎮座する法霊山おがみ神社(法霊神社)・長者山新羅神社・神明宮。三社の神輿行列と市内各町を中心とした組の20数台の華麗な人形山車が神社の氏子として八戸市中心市街地を巡行。
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平成16年2月6日に「八戸三社大祭の山車行事」として重要無形民俗文化財に指定。平成28年11月30日に八戸三社大祭を含む全国33の「山・鉾・屋台祭り」がユネスコ無形文化遺産代表一覧表に記載が決定し指定。
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なお、ポスターなどに書いてある「300年の歴史と伝統」などというのは、あくまでも祭りの始まりである法霊社祭礼(おがみ神社例祭※2020年に300年目を迎える)のことであり、三社大祭としては平成28年に130年目を迎えたと考えられています(諸説あり)。
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江戸時代の享保5年(1720)、凶作に悩む八戸の有力者たちが、法霊大明神(現おがみ神社)に天候の回復と豊作を祈願した折、無事に秋の収穫を迎えることができました。翌年(1721)、陸奥國八戸藩総鎮守として、藩主をはじめ町民より厚く信仰されていた法霊社(現在のおがみ神社)に対し、日和乞並びに豊作感謝の意を込めて、神輿を長者山虚空蔵堂(明治になり神仏分離令により長者山新羅神社)に渡らせたのが三社大祭の始まりです。
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当時は法霊社の神輿行列は、市内を神幸渡御し長者山に到着後、中日には長者山で法霊社別当(現おがみ神社宮司)によって例祭が執り行われ、3日目に行列ともども法霊社に還御するという祭りでした。後にその神輿行列に対して踊りや屋台山車などを奉納する形で町民がついて回り現在の形へと繋がっていきました。
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江戸時代当時法霊社祭礼は藩による運営で、神輿行列許可、祭礼日程などは全て藩によって取り仕切られ、要職にあった家臣が徒目付や奉行として行列運行の役を担っていました。また、城内二ノ丸に鎮座していた法霊社は、すぐ近くに南部家の居城があった関係で一般の参拝が許されていませんでしたが、祭礼の時期だけは午前8時から午後4時までの間のみ、一般領民などの参拝が許されました。
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現在は、三社大祭を執り行う根拠となる法霊山おがみ神社の神社行列に加え、明治期になって衰退していた大祭の再興を目的とし、大澤多門の発案により参加した長者山新羅神社(明治17年)、神明宮の各神社行列(明治22年)、それに附祭として合計27台の豪華絢爛で巨大な山車が市内中心部を運行する形となっています。
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おがみ神社の例祭に新羅神社と神明宮が参加してからは、元々中日例大祭に長者山で執り行っていたおがみ神社宮司による例大祭や直会による振る舞いなどが長者山新羅神社の例大祭へと変化し、おがみ神社御神輿や神職が長者山へ逗留する事も廃止され、現在は各神社日帰りの祭りになっています。
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各神社への附祭となる山車の大きな特徴は人形がせり上がり、左右の大きく広がる仕掛けを持つ豪華な山車にあります。当初は1体の人形を乗せる程度だったものが、明治の中頃より物語を表現する山車に変化し、昭和50年代頃から徐々に仕掛けが施されるようになりました。山車は町内ごとに製作されますが、これも明治時代に大澤多門が発案したものと言われています。
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明治時代の中頃までは、江戸時代の影響を色濃く残した人形山車が使用されていました。明治20年頃から様々な飾りをつけた風流山車と呼ばれる山車が流行し、江戸時代からの伝統的な山車は衰退していきました。祭における当時の山車の位置づけは「附祭」とされましたが、明治30年代から「山車」との表記が定着するようになります。明治時代の山車の構造は、台車、岩や波などの飾り、人形の三層構造の山車となっています。
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大神楽。獅子舞が伊勢神宮や熱田神宮の信仰と結びついて芸能となったもの。お伊勢参りに行くことができない人のために地方を巡回していた神楽に始まり、やがて地方に定着したそうです。
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山伏による神楽の一つで、おがみ神社にて伝承されてきた法霊神楽。数人の舞手が獅子頭を一糸乱れずに打ち鳴らす「一斉歯打ち」が響きます。
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駒踊。
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馬産地である三八上北・岩手県北地域に分布する芸能で、馬の模型を胴に固定し、跳ねるように舞います。
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虎舞。東北の太平洋岸に多く分布し、火伏せや航海安全に関する信仰として伝承されてきました。八戸市内でも鮫・湊・小中野・新井田などいくつかの地域に虎舞が伝えられており、八戸三社大祭の行列の中で披露されます。
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地面を一斉に転がったり、肩車によって立ち上がったりするアクロバティックな演技を見せてくれます。また、虎に頭を噛まれることで無病息災のご利益が得られるとのことです。
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虎舞が一番盛り上がっている印象を受けました。
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山車はいつトランスフォームするかわからないので目が離せません。
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ほぼ一ヶ所に留まって見ていたのでわかりませんが、大体同じ場所でトランスフォームする印象でした。
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よって、そういった場所の数十メートル手前が見やすいかも知れません。
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目の前でトランスフォームされても大きくて全体像が見えないので。
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山車は横も後も見応えがあるので見る側も中々忙しいです。
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動画撮影をしようと構えていても、場所によっては下の写真のようにトランスフォームされないまま素通りされます笑
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ちなみに私はこの付近で見ていました。
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なぜならパチンコ屋内から冷風が流れてきて涼しかったからです笑
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はす向かいには八戸屋台村みろく横丁入口。裏は鷹匠小路。二万石八戸南部藩が創設された寛文の頃(1660-1673)藩主の近習で供廻りの、鷹匠と呼ばれた武士が住んで町内が形成されたことから鷹匠小路と名付けられました。鷹匠は後に移動しましたが、明治の初年までは藩主譜代の家臣が住む、武家屋敷街を構成していました。(陸奥國南部八戸藩御城下鷹匠小路略図より)
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馬に注意!かつて神輿台車を引いていた馬が暴走して骨折などの重軽傷者を出す事故が発生しているようです。
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以下、八戸三社大祭令和元年山車題名。
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〇神明宮
(1)廿六日町山車組(二番組 令和元年 寿ぐ)
(2)新荒町附祭若者連(源頼光と四天王大江山にて鬼を討つ)
(3)上組町若者連(浦島太郎を見送る乙姫)
(4)根城新組山車組(伝説海彦山彦「天女と平和を願う」)
(5)賣市附祭山車組(百合若伝説)
(6)吉田産業グループ山車組(「義経千本桜」妖狐 狐忠信)
(7)白山台山車組(新皇・平将門の乱~北辰妙見と七人影武者伝~)
〇おがみ神社
(8)柏崎新町附祭(鬧天宮 孫悟空)
(9)淀山車組(「夢・宝船」開運招福・祝いづくしの躰)
(10)城下附祭(立身出世金太郎~金太郎、改メ坂田金時~)
(11)新井田附祭振興会(平和祈念令和「即位の礼」)
(12)青山会山車組(令和元年山車絵巻「神代三剣」)
(13)朔日町附祭(大江山 酒呑童子退治)
(14)十一日町龍組(楊貴妃)
(15)塩町附祭組((新)娘道成寺)
(16)下大工町附祭若者連中(西遊記玉華城の戦い)
(17)下組町山車組(海神新田義貞 鎌倉攻め)
(18)内丸親睦会(湧昇水鯉滝 鯉つかみ)
〇新羅神社
(19)六日町附祭若者連(瀧夜叉姫)
(20)類家山車組(「三つ鱗」相州江ノ嶋鎮座辨財天と宗像三女神 北条紋由来)
(21)十六日町山車組(「西遊記」妖怪の女王 白骨夫人の戦い)
(22)鍛冶町附祭若者連(古代みちのく絵巻 坂上田村麻呂 奇譚)
(23)八戸市職員互助会(富士浅間 三國一夜物語)
(24)吹上山車組(壽 三升景清)
(25)八戸共進会山車組(新桃太郎)
(26)糠塚附祭組(彦火火出見「神武東征」)
(27)長横町粋組(吉祥七福神~其の壱~千寿・弁才天)
(28)華屋台  
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長くなりましたので、『八戸三社大祭(お還り)』へ続く。
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