くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ: 寺・神社 (八戸市)

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長者山新羅神社(八戸市)』からの続きです。
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境内案内板より…『【御由緒】新年の元朝詣でに始まり、春のえんぶり(木+八)・花見、夏のお盛り・森のお伽会、八戸三社大祭・騎馬打毬、秋の奉納相撲、冬の七五三詣でなど人々は、季節の区切を長者山新羅神社の行事を通じて知る事ができる。当社は、延宝6年八戸南部二代藩主直政公が、藩主の守護と領内の五穀豊穣・万民安穏・無病息災の祈願所として、長者山の山頂に神社を創建、社号を三社堂又は虚空蔵堂と称し、歴代藩主の崇敬最も篤い藩直営の神社で、領内の一の宮であり又総鎮守であった。元禄7年三社堂を改築更に文政10年、八代藩主信真公が再改築(現社殿)、同時に桜の馬場も開設して打毬の奉納も創設され、爾来1年も欠かさず、大祭日には加賀美流附伝騎馬打毬は、今日迄奉納され、明治14年には、畏くも天皇御巡幸の砌、天覧の栄に浴している。又、毎年2月17日にえんぶり行列である当社の、稲荷大神の御輿渡御式が、執行されて耒たが、これは明治30年以耒のもので、現行の2月17日になったのは、明治42年旧暦廃止に当り、伊勢神宮の祈念祭の奉幣日に合わせたものである。明治2年神社制度の確立により、社号を新羅神社と改め、更に昭和51年に、長者山新羅神社と改称して、現在に至る。【主祭神】素戔嗚尊・新羅三郎源義光命。【相殿神】倉稲魂命(稲荷神社)・大物主命(金刀比羅神社)・素戔嗚命(八坂神社)・天照坐皇大御神・豊受姫命・誉田別命(應神天皇)。【大祭】8月2日【創建】延宝6年【神紋】源氏菱【本殿】流造6坪【幣殿】入母屋造8坪【拝殿】入母屋造18坪【境内】4898坪【社宝】采配二振・長刀(友成銘)【旧社格】県社【境内社】・高おがみ神社-御祭神高おがみ神、例祭9月19日、創建承和3丙辰年。・桜山招魂社-御祭神護国の英霊、例祭5月3日、創建昭和28年』
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境内案内板「主な祭りと行事」より。
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境内案内板「主な昇殿祈願(安産祈願・初宮詣・厄年祓・交通安全・宮形祓)」「家庭の祭り」「主な出張祭典」の内容は一般的な説明だったので省略。
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手水舎。
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古札納所。
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古札納所横にあった稲荷の小祠。
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御祭神は素佐鳴尊・新羅三郎源義光命。新羅神社の創建は不詳ですが、古くから信仰の山として神聖視され、祈祷などが行われていたとされます。江戸時代初期の寛文5年に八戸藩が立藩すると、初代藩主南部直房は長者山山頂に一宇を設けて素佐嗚尊と虚空蔵菩薩を勧請。祇園堂・虚空蔵堂と呼ばれました。延宝6年に2代藩主南部直政は藩内の五穀豊穰、万民安穏、無病息災を祈願するために、南部家の祖神である新羅三郎義光の御霊を勧請。素佐嗚尊、新羅三郎義光、虚空蔵菩薩の三神が祀られたことから三社堂と呼ばれるようになります。以後、長者山新羅神社は八戸南部家歴代の祈願所、八戸藩の総鎮守、一之宮として崇敬庇護され、社領の寄進や社殿の社殿の改修、再建は藩費で賄われ、社運も隆盛。古くから神仏習合の形態をとっていましたが明治の神仏分離令により仏式が廃され、明治2年に郷社に列して新羅神社と社号を改め、更に昭和51年に長者山新羅神社に改称。
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拝殿は桁行5間、梁間3間平入の入母屋造に1間の向拝を付けていますが、梁間が3間の拝殿は珍しく、市内では櫛引八幡宮と当神社に見るのみ。本殿、拝殿ともに細部の彫刻等に江戸時代の神社後期建築の特徴がよく残される事から平成3年3月13日に青森県の重宝に指定されています。
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八戸藩8代藩主南部信真の命により、文政9年から同10年にかけて建立されたもので、家老野村軍記の藩政改革の一環として社殿造営が執り行われたものであり、建築にあたっては都から宮大工を招き、毎日500人から1000人もの人夫を駆り出し、作業に景気をつけるため、鮫と港のオシャラグ(遊女)たちに太鼓を打たせ、拍子をとらせるという大規模な事業であったと伝えます。その際、境内の整備と馬場の整地も行われており、桜をはじめ、梅や松も植えられました。長者山新羅神社の例祭である八戸三社大祭では、紅白に分かれて8人の騎馬武者が毬杖で毬をすくい上げて得点を競い合う「加賀美流騎馬打毬」が奉納され、古式を伝える行事として貴重なことから昭和47年に青森県指定無形民俗文化財に指定されています。
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拝殿蟇股・木鼻・手鋏・その他彫刻。
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向拝神額「新羅神社」「長者山」等。
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拝殿脇障子。
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拝殿内。
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拝殿内神額は「新羅神社」「八坂神社」「金刀毘羅」。
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八戸打毬会。
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五梅庵畔李公「国光の発句」献額。社宝である五梅庵畔李(7代藩主南部信房)公「国光の発句」献額は文政10年に奉納された俳諧献額であり、八戸市指定有形文化財に指定されています。
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右大臣左大臣。
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本殿。
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本殿は三間社入母屋造、金属板葺き、平入、桁行3間、梁間2間、3間向拝付き、向背柱廻りや正面扉などに華麗な彩色模様が施されています。正面から両側面に縁が回り、脇障子が立ち、高欄が付き、向拝部分から木階で登る形。
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青森県神社庁HPより…『御祭神:新羅三郎義光。慶長年間後陽成天皇治世12年(1607)甲斐の国より小宮山内善故有りて、此地に趨向小祠を草創神霊を奉祀せるに起因する。延宝10辛酉年府君奥瀬治大夫善定再興。明和8年奥瀬定職公の命を拝し遷座導師現大僧都尚純稲荷大明神を合祀。文化5戊辰年奥瀬内藏崇儀公武運長久諸願成就の為本社及御内社を建立、毎歳五石を賜る。嘉永年中山火に遇し災焼。嘉永6癸丑年再築成る。昭和25年3月31日国有境内地の譲与許可される。』
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『水神竜神 十和田信仰』(小館衷三)には「長者山神社は高おがみ神を祀るが、承和3年(836)の大ひでりに雨をふらせたので草創され、長者山権現と称したというが疑わしい。水神であることはまちがいない」とあります。
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『青森の伝説(森山泰太郎・北彰介)』に次のようにあります…「八戸市の繁華街からすぐ南に、杉木立ちにかこまれた長者山があり、南部家の祖新羅三郎義光を祭る新羅神社や、近くに八戸南部家墓所のある南宗寺に出る。伝説では、八太郎沼の主に石臼をもらった人が、長苗代(地名)を開いて長者になり、今の長者山に住んだ。長苗代からとれたモミを、沼の主からもらった石臼でひき、そのモミヌカを積んだところが、長者山の背後の地名糠塚になったという。」。確かに糠塚という地名が近くに残っていますね。
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上の写真は社殿付近にある神楽殿のような建物。その他、社殿の周囲にある境内社などを紹介します。細かい説明は省略致します。
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参剣白龍神。
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高龗(おかみ)神社。こちらは鳥居と狛犬付です。
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狛犬一対。
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社殿。
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横にある小祠や庚申塔。棟札等は見ていません。
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その他にもたくさんの石祠や庚申塔などがあります。狐もたくさん。
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こちらの石は不思議な形ですね。
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蛇もいました。
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十和田山神社(明治16年11月15日)。
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天照皇大神、十和田山など。
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包丁塚
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八戸調理師研究会。
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以下、長者山新羅神社HPより一部抜粋。
『青森県八戸市の長者山山上に鎮座する神社。重要無形民俗文化財の八戸三社大祭や八戸のえんぶりで著名です。社格は旧県社。八戸市内では櫛引八幡宮と並び篤く崇敬を集める神社です。江戸時代、延宝6年(西暦1678年)八戸南部2代目藩主直政公が、藩主の守護と領内の五穀豊穣・万民安穏・無病息災の祈願所として長者山の山上に神社を創建、社号を三社堂または虚空蔵堂と称し、歴代藩主の崇敬最も篤い藩直轄の総鎮守である。元禄7年(1694)三社堂を改築、更に文政10年(1827)8代藩主信真公が再改築して現社殿と同時に「桜の馬場」を開設、打毬の奉納も創設され、例祭日には「加賀美流附伝騎馬打毬」を今日まで奉納されている。明治14年(1880)には、天皇御巡幸の砌、天覧の栄に浴している。また、明治14年より「えんぶり」行列である当社相殿神稲荷大神の神輿渡御式が執行されてきた。 現行の2月17日になったのは、明治42年(1908)旧暦廃止に当たり、伊勢神宮の祈念祭の奉弊日に合わせた。明治2年(1868)神社制度確立により、社号を新羅神社と改め、更に昭和51年に長者山新羅神社と改称した。』
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「加賀美流附伝・八戸騎馬打毬の由来」…『八戸騎馬打毬は、八戸南部藩の遠祖新羅三郎源義光公4代孫の加賀美次郎遠光公から始まり、八戸南部藩に伝承された。この騎馬打毬は、「加賀美流附伝八戸騎馬打毬」として、180年ほど前に8代藩主信直公の、八戸南部藩に伝わる御家流馬術の「加賀美流馬術」の中の騎射八道(流鏑馬、笠懸、犬追者、草鹿、八的、手拭など)の一種目として武芸奨励の目的で藩士に奨めた。文政10年(1827)7月21日信直公は長者山新羅神社を大改築され、「桜の馬場」も開設された。その落成を祝って騎馬打毬が奉納された。八戸騎馬打毬は、騎馬武者八人が紅白に分かれ、馬を巧みに操りながら毬杖で毬をすくい上げ、紅白の的に入れ競い合うもので、現在は「八戸・山形県豊烈神社・宮内庁」に保存されている。一番古典的な打毬は、八戸(長者山新羅神社)と聞いている。八戸騎馬打毬は、昭和46年八戸市の無形文化財の指定、八戸文化賞受賞。昭和47年青森県無形文化財、青森県技芸の指定を受けている。』
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「三社大祭」…『毎年8月1日から8月3日までの間、おがみ神社を起源とする大祭式例祭「八戸三社大祭」が開催されます。三社とは、おがみ神社、長者山新羅神社、神明宮の3社を指しており、それぞれの神社行列に御供する形で附祭(山車)が巡行します。また、7月31日は前夜祭、8月4日には後夜祭が開催され、ライトアップされた幻想的な山車の合同運行も見物です。享保6年(1721)の始まりから比較的は長く続いている御神事で、2004年、国の重要無形民俗文化財の指定を受けました。八戸三社大祭の始まりは、享保6年(1721)法霊大明神(おがみ神社)が神輿行列を仕立て長者山三社堂(新羅神社)に渡御し「五穀豊穣」を祈願したことに始まった。そして、明治17年(1884)から、おがみ神社と新羅神社の祭礼に変わり、その5年後に神明宮(廿六日町)が参加して「八戸三社大祭」と三社合同の祭礼と発展した。』
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「豊年祈願祭・えんぶりの由来」…『平安時代、建久2年(1191)南部藩始祖南部光行公が源頼朝公より糠部五郡を賜り、家臣73人を6隻の船にて鎌倉由比ヶ浜を出発、海路北上12月28日、八戸浦に上陸、民情視察のため藩内の豪族を訪問した。正月15日或る家の宴会で光行公の家臣たちが酒に乗じて抜刀、乱舞の大騒ぎとなったこの時、藤九郎という主人おもいの気転者が家人を集め、鳴り物入りで光行公の御前に進み、抜刀酒乱の侍たちの気勢を殺ぎ、「只今より百姓の芸をご覧にいれます」と家人に田植え唄など歌わせ、その中の2、3人の道化者に農具「エンブリ」を持たせ酒乱侍の中に出させ、藤九郎自身も鳴子板を持って拍子をとり、身振りおかしく踊り廻ったので殺気をはらんだ宴会が喜々とした楽しいものとなった。藤九郎は、この時とばかり南部家の千秋万歳を唱えたので、光行公は上下和楽の大吉例とし、毎年この日に、藤九郎を召し踊らせたのが「えんぶり」の起因といわれている。また、馬産地南部の農民と共に育った「えんぶり」も、組同士の喧嘩が絶えず喧騒しい理由で、明治2年県令により禁止されたが、新羅神社の宮司、八戸藩の大沢多門氏らが、明治14年新羅神社の稲荷大神の豊年祭に神輿渡御式を斎行し、其の附社では此の神輿渡御式が、喧騒にならないように、数組の「取締えんぶり」また、「御前えんぶり」「御供えんぶり」など、「長者山稲荷大神神輿渡御式」に、えんぶり組が附祭りとして神輿に御供している。神社は古来古儀を尊び、常にえんぶり組と一体となって伝統を尊重し、民族農民芸能として、「えんぶり」が国からの指定も受けている。各えんぶり組は、午前零時に仮受付をし、7時に祭事委員から番号木札を受付順に拝受し、幟旗の先端に附け、神社に奉納えんぶりをする。そして、2月17日長者山新羅神社より神輿渡御式と共にえんぶり組も行列し、三八城神社に参拝、奉納する。昭和27年青森県無形文化財の指定、同54年2月3日、国指定重要無形民俗文化財に指定され現在に至っている。』
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八戸市長者1丁目。地内には藩政時代からの神社仏閣が多くあり、長者山を中心に長者山新羅神社、大慈寺、光龍寺、南宗寺、弾源寺、八坂神社などが鎮座しています。長者山新羅神社は、青森県八戸市の長者山山上に鎮座する神社であり、重要無形民俗文化財の八戸三社大祭やえんぶりで有名です。八戸市内では櫛引八幡宮と並び篤く崇敬を集める神社。
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男坂。まさに石段。モーグルに最適です。長者山坂の石段が天保4年に完成との記録がありますが、長者山坂石段とはこの男坂のことでしょうね。
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すぐ横に女坂。こちらは普通の石段。
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ちなみにこの北側の参道の他、穴守神社を通る東側の正面参道(浄土宗天聖寺山寺霊園向かい)と、車で行くことが可能な南側の参道(八坂神社横)もあります。
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「伝説」源義経北方コース「長者山」…『悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は兄の頼朝に追われ文治5年(1189年)4月平泉の高館において31歳の若さで自害したといわれている。短く華麗だったその生涯を想い、後世の人々は「義経はその前年にひそかに平泉を脱出し、北をめざして旅に出た」という伝説を作りあげたのである。世に言う「判官びいき」であろう。当地方に伝えられている伝説によれば、平泉にいた義経に命令された板橋長治と喜三太が義経の居所をこしらえようと柴を回し、木を植えみだりに人が入らないようにした地と伝えられており、昔は長治山と呼ばれていたといわれている。それを今では長者山と呼んでいる。社団法人八戸観光コンベンション協会』
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長者村は糠塚・類家・田向・中居林・石手洗の5ヶ所村が合併して成立。かつての糠塚村。近世初期は根城南部氏の知行地で、元和4年の南部利直知行宛行目録(南部家文書)に「糠塚」「板はし」とあります。北は八戸城下に隣接し西端を登り街道が南北に走ります。地内の北に小丘の長者山があり、その麓には寺院が集中ていますが、これは八戸城下南方の防衛拠点としての役割を担っていたものとみられます。天保7年には大慈寺の住職が恤救方取扱を命じられ、裏門向かいに置かれた救助小屋に飢民を収容。長者山は寛文5年9月の八戸藩日記に「長者林」とあり、延宝7年御家中のキジ狩りが禁止されました。同書元文4年7月には「長者山境聢と相知不申、糠塚村御百姓共境御立被成下度段御代官迄願出候付、古来之儀常泉院并糠塚村古人御尋之上常泉院より茂古来之儀以書付申上候」とも見え境界が定められた。文政9年には長者山からの船材運搬で、糠塚・板橋の28軒だけでは負担できかねるとし、当村給所及び石手洗村からの加勢を願い出ています。天保4年長者山坂の石段工事が完成。長者山頂上には三社堂(現長者山新羅神社)があり、別当の常泉院は寛文7年領内修験の惣録となっており、領内10か寺の1つともなっていました。なお、現在八戸三社大祭の中日に長者山新羅神社の旧馬場で行われる加賀美流騎馬打毬は県指定の無形民俗文化財。享保6年に法霊社(現おがみ神社)の神輿渡御が始まり、同12年以降は祭礼時に歌舞伎芝居の興行もかかるようになりました。明和4年からは商宮律(しやぎり)の練習所として天王堂の拝殿が充てられたといい、文政10年には境内に馬場が新設されて流鏑馬と騎馬打毬も実施されるようになりました。寺は八戸藩主の菩提所で領内10か寺の筆頭とされる臨済宗月渓山南宗寺、元禄5年の建立という曹洞宗石田山光竜寺、元和4年の南部利直和行宛行目録(南部家文書)に禅源院とあり、当初根城にあったとされる領内10か寺の1つで内5か寺の臨済宗臥竜山禅源寺、延宝元年の建立と伝え糠部三十三観音の第9番札所とされる曹洞宗福聚山大慈寺があります。また、江戸期には延宝元年八戸藩初代藩主南部直房の母仙寿尼を荼毘に付した地に小庵を開いたのが始まりという仙寿寺もありましたが、明治初年南宗寺に合併するとともに廃寺となります。南糠塚には糠塚不動堂があり、明和8年の造立と伝えます。なお、八戸城下の南西部に当たる荒町・新荒町・稲荷町・町組町・上組町・上徒士町・常番町はいずれも当村が割かれて成立したものとみられます。明治初年の国誌によりますと、家数は本村106、支村の板橋18・平中8・鍛冶丁6・下屋敷5。地内の状況を「水田少く土地は下之下。畑に蕎麦を植、瓜柿また宜しと云」と記し、また平中は「八戸町常番町の裡に散居す」、鍛冶丁は「長者山の麓にして八戸町の鍛冶丁に継き、片側に住し、傭役して世を渉る者多し」、下屋敷は「八戸町の荒町の北裡にありて稲荷丁の西に続き、売市村の東、新荒町の西土手下より稲荷丁の南北の方、堤の鰭飛地にあり」と記されます。
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鳥居と栖原屋久次郎の寄進の狛犬一対(文政11年6月吉日)。台座には「海上安全」。
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江戸霊岸島・石工本宮勘兵衛、願主当所廿八日町石橋徳右衛門、江戸小綱町三丁目湯浅屋興右衛門、同鉄砲洲栖原久治郎、同大傳馬町田端屋治郎左エ門、同室町美濃屋宗三郎。
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9.5
小蓑塚(向って右)…『初しぐれ猿も小蓑をほしげなり 芭蕉』(発起人神山瓢・白梅舎家文)。※寛政3年に南部信房は星霜庵白頭(熊谷有益)から二世星霜庵を継承しましたが、同4年に江戸で文台作りを生業とする檜物師の秋杵に星霜庵三世を継がせています。同5年10月、信房の弟百丈軒互連は宗匠互来を招待して、芭蕉の百回忌を催しました。この時、八戸藩士の神山瓢馬と町人の白梅舎家文(上野伊右衛門)は信房の命を受けて、長者山に芭蕉の「初しぐれ猿も小蓑をほしげなり」の句碑を建立。信房は、松永貞徳を祖とする貞門俳諧の人々とも交わり、文化6年には、芦丸屋花下七世貞居から「花下伝書」を伝授され、「花咲亭畔李」を称した時期がありました。しかし文化12年以降、信房は「五梅庵畔李」と名乗り、貞門俳諧に別れを告げ、蕉風俳諧への道を進むことになりました。畔李の「五梅庵」の号は、五柳先生と称した陶淵明と、梅を愛した菅原道真に因むといいます。信房は寛政8年に隠居し、文化8年には剃髪して「伊勢入道」と称しました。
国光の碑(向って左)…『国の光皆此の山の春風ぞ 五梅庵畔李』(旧八戸藩主大沢多門建立)。※文政10年(1827)、長者山三社堂(現長者山新羅神社)社殿及び桜の馬場が完成したのを記念して南部信房は「国の光り皆此山の春風ぞ」(国光の発句)の献額(八戸市指定文化財)を神前に奉納しています。
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招魂碑(三條實美書)。
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雪蕉先生之碑(向って右)…明治41年。橋本雪蕉(日本画家)。発起人菊池黙堂。南部芸能協会創立拾周年記念之碑(向って左)…昭和33年4月18日。音喜多富寿書。
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頌徳碑。昭和2年。大沢多門(根井沢定右衛門)。
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八戸地方相撲紀年碑。昭和31年9月吉日。武守勘太夫書。
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天覧打毬碑。明治14年11月。同年の明治天皇東北御巡幸の際、長者山で騎馬打毬を御覧になられた時の記念碑。
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逸見兵庫源直矩碑(明治17年3月)。
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16.5
南宗寺への下り坂前に設置。わかりにくい場所です。
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17.5
順不同でいくつか紹介しましたがこの他にも色々石碑がありました。苫米地収蔵隊下美濃屋宗三郎碑(明治元年9月23日の野辺地戦争にて23歳で戦死)、野村軍記表彰慰霊碑(明治16年。文政13年に軍記が八戸藩8代藩主南部信真より賜った感章を刻む碑)、庚申塔などなど。
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全体的に状態はいいです。興味のある方は現地にてご覧になってください。
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19.5
マンサク(八戸市保存樹木・平成27年3月30日指定)。
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アカマツ。
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他にも境内には立派な御神木がありますが…
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22.4
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神社前庭中央にあるエドヒガンザクラが一際存在感を放っています。
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八戸市保存樹木(平成21年2月19日指定)。
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おとぎの桜とあります。
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大正13年の八戸大火を機に始められ、今では夏の風物詩となっている「森のおとぎ会」が行われる場所に立っているので「おとぎの桜」と名付けられているそうです。
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26.5
長くなりましたので『長者山新羅神社~其之弐』へ続く。
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八戸市長者1丁目。地内には藩政時代からの神社仏閣が多くあり、長者山を中心に長者山新羅神社大慈寺、光龍寺、南宗寺、弾源寺、八坂神社などが鎮座しています。長者山桜山招魂社は長者山新羅神社境内にあります。
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御由緒…『日露の黒溝台戦闘に、中尉として、戦死者収容隊の従軍体験も持つ、柳川保蔵新羅神社元宮司は、第二次世界大戦の、特に第八師団従軍将兵の、力尽きて次々に倒れ逝く同胞の悲惨な姿をみて、この長者山上に招魂社を建立して慰霊したい、というのが予ての念願であった。昭和27年4月に日本が独立したのを機に、南部勤皇五世公を始め、日清日露戦没、満州支那事変、第二次世界大戦の戦没者英霊3026柱を奉斎して、御遺族と愛国の有志の賛助で建立され、昭和28年5月3日、第1回慰霊祭が盛大に斎行されて以来、毎年5月3日を祭日として慰霊祭が執り行われている。往古は、長者山を桜山と称したので、大和心を象徴する桜をとり桜山神社としたが、此の度、祭神の周知化を期し、長者山桜山招魂社と改名した。昭和62年5月3日。長者山桜山招魂社・八戸市英霊にこたえる会』
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狛犬一対(昭和28年5月3日)。
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4.5
御水鉢。
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石造唐獅子燈篭各一対御水鉢一基・櫻山神社御堂一宇寄進碑(昭和28年5月3日)。
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拝殿蟇股・木鼻。
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7.5
庚申塔。
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八戸市長者1丁目。地内には藩政時代からの神社仏閣が多くあり、長者山を中心に長者山新羅神社大慈寺、光龍寺、南宗寺、弾源寺、八坂神社などが鎮座しています。
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長者山東側の鳥居・石段から長者山新羅神社に向かうと右手に穴守神社が鎮座しております。長者まつりんぐ広場から向かいました。
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穴守神社。
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社殿。由緒等は調べておりません。東京の穴守稲荷神社と似たような由緒を持つのかな。拝殿神額の奉納者は千葉県の方でした。
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狐三対、石祠があります。
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7.5
穴守神社の裏手の方に犬がおりました。近寄ろうとしたら激しく吠えられたので写真はありません。たぶん阿形です。そして、こちらは長者山新羅神社社務所前にいた犬です。近寄ってもピクリとも動きません。よって恐らく吽形です。
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八戸市長者1丁目。地内には藩政時代からの神社仏閣が多くあり、長者山を中心に長者山新羅神社大慈寺、光龍寺、南宗寺、弾源寺、八坂神社などが鎮座しています。
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社号標・神額には「祇園宮八坂神社」。文献等にも「祇園宮八坂神社」と紹介されているものが多いです。
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狛犬一対(昭和46年10月15日)。
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4.5
燈籠一対。
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5.5
長者山の八坂神社(長者山牛頭天王・天王堂)は享保2年6月14日、長者山元神明宮の古社跡地に牛頭天王を勧請(願主自在山豊山寺当時は永久寺支配)したもので、後に(神仏分離令の時)新羅神社に合祀されています。社日は旧2月15日で、昔は学校の生徒等は皆紙旗に奉納八坂神社と書いて社前に納め、其の数千以上に及んだ由ですが今もなおその余習があるそうです。
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※神明宮は昔金浜村にあり新井田村に移り、更に中居林に移るも寛文9年10月朔日に中居林から長者山の東北隅へ遷座し、正殿拝殿鳥居等を藩で建設。寛永6年9月16日長者山より二十六日町に移転。現在の二十六日町の神明宮。
※長者山牛頭天王が享保2年に勧請された理由は、その年に領内に悪疫が流行したため。
※願主となって造営した豊山寺は廃寺(内丸二丁目・八戸南部家の祈願寺)。
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享保12年以降には、新羅神社祭礼時に歌舞伎芝居の興行が行われ、明和4年からは商宮律の練習所として天王堂の拝殿があてられたりしました。
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手水石。
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小祠3基。
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八坂神社御由緒…『【社名】祇園宮・八坂神社【祭神】素盞嗚命【例祭日】6月15日【宮司】柳川浩志【八坂神社敬神会長】北村新三郎【御由緒】八戸南部藩主廣信公の享保元年頃、当地に悪疫流行し病没者が続出した。藩主は心配し、内丸に在った祈祷寺の豊山寺に「此の悪疫より領民を救うには何神を祀ったら良いか?」と御下問された。住職は「豊葦原の瑞穂の国をしろし召し給う天津日継の御位に坐す天子様は万民を病難から救う思召しを以て京都に祇園宮八坂神社の牛頭天王を御奉斎しておられます」と御応答、皇室の御仁政を言上した。「良い事を教えて呉れた」と藩主は使者を遣わして京都の名工に牛頭天王の御神像を刻ませた。牛の頭を頭に乗せ右手に斧左手に縄を持って岩上に座す印度人風の木像で素盞嗚命の神像である。祇園宮で分霊を頂く開眼式を挙げさせ享保2年6月朔日に長者山上の新社殿に勧請し、神主を豊山寺末寺の楊柳山永久寺住職の柳川家先祖の観了宥為に五十石を給してお命じになった。宥為宮司は全精力を注いで祈祷に励んだ所、悪疫流行は不思議にも漸次衰え病気は無くなったと云う。明治2年の廃仏令に因り廃社になり御神体を柳川家に遣わされたので、山伏小路の柳川家旧邸内に新社殿を建立して奉安したが、其の後現在地に遷座して今に至っている。当社は牛頭天王略して「天王様」又は「熊野宮」とも「新羅様」とも申し上げ、御神徳は文学・農業・武徳・海・山・川・健康の守護神として広大無辺であり、長い伝統を守り伝えて、今でも病気消除の神社として旧市内の住民から広く崇敬を集めている。平成8年6月15日』
その他資料より…『社伝によれば、八戸藩主四代広信の享保元年(1716)頃、当地に悪疫が流行し死者が続出した。藩主は内丸にあった祈願寺の豊山寺に、「この悪疫より領民を救うには何神を祀ったらよかろう」と尋ね、祇園宮八坂神社から牛頭天王をご奉斎された。翌二年六月一日に長者山に新社殿を勧請し、豊山末寺楊柳山永久寺に五十石を給し建立された。明治二年に神仏分離令により、鍛治町に新社殿を建立し、奉安した。その後、旧市民病院の拡張のために、社殿を現在地(長者一丁目)に遷座した。牛頭天王を略して「天王さま」または「祇園宮」ともいい、学問、文学、武徳の守護神として親しまれている。祭神は素戔嗚命で六月十五日が祭礼日である。十四日は宵宮、子供たちは書き方が上手くなるようにと、「奉納 八坂神社」としたためた筆字を奉納する。神楽の奉納があり、亀子焼、綿菓子、金魚釣りなどの露店が並んだが、今は見られなくなった。』
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