くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ: 寺・神社 (七戸町)

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薬師信仰。平安時代末期の地方作と目される薬師如来像の優品を本尊としていることからかなり古いものと考えられます。南部地方では峯の薬師と当山屋薬師が有名で4月8日の縁日は多くの人々で賑わったといいます。縁日には2粒でも必ず雨が降ると言われ、昔から目くされ祭と呼ばれてきました。この雨は目くされ流しといって薬師様が降らせると信じられています。
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鳥居の額束。
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巨木に囲まれています。
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大杉。
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『青森の伝説(森山泰太郎・北彰介)』には次のような記述があります…「七戸町から西へ四キロほど、山屋という所に、ウドの嫌いな薬師様を祭っている。この薬師様があるとき出歩いて、野火にかこまれ、驚いて逃げようとしたら、トコロのつるにつまずいて倒れ、そのはずみにウドで目を傷つけてしまった。それで今でも山屋の薬師を信仰する人は、薬師様の嫌いなウドとトコロを食わない。」
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七戸町史によりますと、『山屋の薬師様は初め西野にいたということであるが、地域の人たちと折合が悪くそこを去って彷徨し、疲れて仮眠する間に野火にかこまれ危く難をのがれて現在地に鎮座したという伝承が語られている。驚いて逃げる拍子に野老の蔓に足をうばわれ、独活の茎で眼をついたという話も伝えられ、ここに詣でる人は絶対にそれを口にしてはならないといういましめが固く守られていた。眼の仏様として信心され、月の八日には篭り堂にこもって祈願する者がみちあふれるばかりで多い時は100人にも及んだという。道路をへだてた向かい側に井戸を設けて清水をひき、それで眼を洗ったといわれる。明治の初年山屋詣でをした東京の人の日記に次のような記事がある。当時の山屋の様子が偲ばれて面白い。「・扨、薬師堂ヘ参詣して、身のそくさゐを願ひ、御堂を見るに、大破ニ及び居りけれども、燈明かがやき、備ヘ物も沢山上り居る也。又、御堂の内ニ籠り居り候ものも在り。眼病之人ハ御籠りして心願こめるといふ。扨、見物する処もなけれパ、弁当をひらくべしと申ければ、盛田いふに、別当処の宅ニてひらく積りなりといふニ付、然らハ案内いたし呉と申て、弐丁余りも帰り来りて百姓家へ言入て、爰が別当なりといふ。(略)別当の老婆直々薄べりを敷、渋茶を入れて出し呉る。弁当をくひ、暫休足いたし居りけるニ、内義衆はめくり札を出して並べ、かけ勝負をいたす。女小供ハ表へ出て銭打ちを致すなり。依而森田に承るに何れも野掛けとて女房達はめくりを楽しみに出るといふ。(明治五年三月上己之節句)・朝、茶飯の馳走ニ成。けふハ山谷村の薬師群集するに寄、家内之衆参詣ニ参り度留守致し呉といふに付、承知して居りける(同年四月八日)云々」。この日は昔から必ず雨が降るといわれ、その日を「メクサレ八日」とか「メクサレ祭」といったり、雨のことを「メクサレナガシ」と呼んだりすることもあった。メクサレは重症トラコーマなどの症状またはその当事者のことであった。当地方にはヤグシコという方言があり、四月八日の薬師様の祭を意味したが、本来は薬師講の義でなければならなかった筈で、講中の人々が集って祭ったのがその本義であった。薬師様の年とりは一二月八日であったが、この日一年間の医療費を精算するならわしがあった。医者側ではこれらの人々を款待しご馳走を振舞った。納める側からこれをヤグシ礼と称した。』
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石灯篭一対(享和2年)。
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手水石と不明の石。
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狛犬一対(萬延2年4月8日)。
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吽型の狛犬…頭が割れています。割れた頭部は台座にありました。それにしても…こんな割れ方するかな!?
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社殿。
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向拝。
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社殿内。
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境内案内板より…『山屋の薬師様は、もとは七戸町の西野地区にあったが、その地の神仏と折り合いが悪く、そこを去る途中、草の上でうたた寝していたら野火に気づき、逃げようとして「ところ」のツルに足を取られて倒れ、「ウド」で目をついてけがをしました。そのため目の治療に願を掛ける人は今でも「ところ」「ウド」を禁食するといわれます。本尊の薬師如来像は、桂の木の一本造りのナタ彫りで平安時代末期の地方作として優れたものであるといわれています。霊験あらたかとされ、4月8日の縁日には多くの参拝者でにぎわいを見せました。』
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道路を隔てて向かい側にある井戸。
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井戸の横にある不明の碑。
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井戸の横にある子安地蔵菩薩堂。
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山屋の子安様は安産育児の神様として古くから信仰されていたそうですが、管理にあたってきた山谷宝家でも詳細はわからないそうです。
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70cm足らずのカベ製の本尊で子どもを抱いている男神像であるといいます。
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袂のついた着物を着て女の帽子をかぶっているといいますが、以前には旧の1月23日、村の女たちがオサゴを持って集まり、アソバセルといって祭を行ったそうです。オミキ・オシトギ・赤飯・果物などを供え、新しい着物なども着せたといいます。
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盛岡藩領(七戸藩領)、かつての天間林村の榎林村。
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村中繁栄のため祀った聖大明神。昭和58年6月15日御棟体改新。鳥居は平成になって再建立。
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仮名付帳には花松村の枝村として記されます。明和7年七戸御代官所惣高並村家数書上では、村高282石余、家数61うち本村28・中村27・貝塚6。邦内郷村志では家数32(うち貝塚2)、馬150。国誌では明治初年の戸数110、村況は「土地膏腴、然れとも田少し、農を専とし産に牛馬あり」とあります。
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社殿内のこちらの文章に聖大明神の由緒が僅かに書かれています。
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文書の日付は文久2年(1862)旧8月10日。内容からすると恐らく創建も文久2年と考えられます。
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狛犬一対。
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一番下の台座には後付けで昭和58年6月15日建立の紀年銘がありますが、1段目の台座、紀年銘の札、2段目の台座、そして狛犬のそれぞれの石の質感は異なります。
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NAMIKIのジェラートを食べながら向かった先は牧場内の馬頭観音堂。ちなみに以前の関連記事と同日ではなく、いずれも別の日に訪れてます。よって1日でたくさんジェラートを食べているわけではありません。
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三頭木。
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参道。
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盛田家が農場経営を開始した明治初期頃に建築。もと盛田家の稲荷大明神。戦後に現地に移築して馬頭観音を祀りました。
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盛田牧場馬頭観音堂拝殿(登録有形文化財)。建築年は明治40年頃。入母屋造・鉄板葺で正面向拝付の3間堂。盛田家の稲荷大明神を移築するまでは馬頭観音を祀っていました。
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向拝。
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拝殿の外壁に登録有形文化財のマークもありました。
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拝殿内。暗いけど。
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盛田牧場馬頭観音堂奥殿(登録有形文化財)。
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建築年は明治。木造平屋建、銅板葺、建築面積8.2㎡。盛喜神社とも呼ばれ、昭和48年の夏に、かなり離れた場所に建てられていた盛田牧場の神社である蒼前神社を移し、これを本殿の形として幣殿でつなぎ合わせたそう。
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屋敷神(盛田喜平治家)を祀る社としては規模の大きな正式の1間社流造であり、中備蟇股や虹梁等の絵様が流麗で、装飾彫物も質が高いことから登録有形文化財とされています。
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石灯篭一対(昭和4年5月/合名會社盛喜商店)。
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狐一対(昭和3年5月19日)。
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手水石。
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狛犬一対(昭和3年5月19日/盛田喜平治・盛田徳太郎)。
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御神木。
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ギリギリ三頭木です。
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こちらは庚申塔の類かと思いましたが、「馬■碑」みたいな感じに見えたので、馬頭観音に関するものかと思われます。注連縄でよく見えませんでしたが。
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