くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ: 寺・神社 (新郷村)

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青森県三戸郡新郷村戸来金ケ沢。かつての戸来村。村内には戸来氏創建の曹洞宗金沢山長泉寺がみえ、もとは獅子咬山朝仙庵と称したといいます。
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東道参道竣工記念碑。
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仁王門前地蔵菩薩像。
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仁王門。
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仁王門の彫刻。
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十二支の彫刻です。
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仁王像。
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鐘楼堂(昭和39年6月吉日竣工・彫刻川村宗次郎・石工舘定次郎)。
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鐘楼の彫刻。九曜紋や獅子が彫られています。
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梵鐘。
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堂宇横には石灯篭がたくさん並んでいました。
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本堂。
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御本尊釈迦牟尼は天平期の春日仏師の作と明応7年の資料に示されています。藩政期末の南部領寺社鑑写によりますと一同(無禄)同寺末寺五戸戸来村(八戸法光寺)の草創で、開基は戸来又左衛門、開山は法光寺二世安葩昌舜。安葩昌舜は浅水宝福寺の創始者でもあります。中興開基は戸来又左衛門国秀とされていますが、国秀は寛永6年に家督を継いでいることから、この頃の中興であると思われます。金沢山長泉寺本尊縁起によりますと、もと戸来村支村の松木田にあり、獅子咬山朝仙庵と称していましたが、明応5年に現在地に移って長泉寺と改称。文政8年に新築。獅子咬山に朝仙庵を開いたのは遍照院僧正。遍照院僧正の後、松木田重右エ門は遺品を受け継ぎ、安葩昌舜和尚に引き渡します。松木田重右エ門は獅子咬山の草庵をはじめて朝仙庵と名付け、長慶天皇の長を戴き、後に長泉寺と改称(※金ヶ沢の地は誠に霊地で溪水湛々として湧出流れ滔々として増減なし実に名水上は鬱森嶮々として寺中に指しかかり、段は平にして寺中は洞なり。西は高く東早きは金龍の地なり。故に直に金澤山と号す。溪水長くつきざるが故、朝仙庵の字を取り改め長慶天皇の長を戴き長泉寺と号す。)。法光寺二世安葩昌舜が現在地に長泉寺を開山するまでの51年間を守り続けました。安葩昌舜和尚は「ここには火盗の憂いあり」と現在地の金沢山に寺を移転。現在寺の下にあるイチョウの木は現在地に移転した際に記念として植えられたものであり、500年近くの歳月を経ているようです。高さ40m、周囲約10mで上部は幾年か前に切断されています。長泉寺が現在地に建立されてから154年後、戸来又左衛門国秀が慶安2年に来て、その地方を管理する立場となり、中興の大旦那となります。安葩昌舜和尚から12世の随峯禅喜和尚の代のことです。
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承元2年(1208)鎌倉時代の書付によりますと、鎌倉期の運慶の作の資料が残されており、釈迦牟尼・文殊・普賢は木像(門外不出の秘宝)であり、大日如来は書かれていませんが、大日如来は戸来又左衛門が後に金沢山長泉寺に寄贈してある事から資料にはありません。長泉寺第22代中村冏定和尚の代に長慶天皇の御陵が三波羅塚である事を申請し、当時長泉寺に残されていた金銀の御物を4-5点出して申請しましたが、既に相馬村の御陵を認可した後のことであり、また、昭和9年の頃でもあり、「歴史を変える事相成らん」とお叱りを受け、資料も御物も没収されてしまいました(申請の根拠については「新郷村史」を参照ください)。また、中村冏定和尚は、本尊の仏像等も長慶天皇御物の中のものである事を確信し、再び昭和10年に仏像の国宝指定を受けるべく申請書を提出しましたが、同じ轍を踏んではならぬと証拠物件は出さず、当時の文部大臣松田源治に届く事なく、申請のみで終わりました。この申請書についても「新郷村史」に詳しく載っていますのでそちらを参照ください。また、金沢山長泉寺本尊縁起についても長文のため割愛しますが、興味のある方は同じく「新郷村史」を参照ください。長慶天皇の伝説についても同書P511に掲載されています。非常に古寺であり、多くの資料があるはずですが、隠れ身で御忍びで来られた遍照院僧正の守り続けた長慶天皇の御宝物も今となってはそれを強く語るべく力説すべく資料も乏しく、ひっそりと時の流れを見るだけに過ぎなくなっています。
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金ヶ沢鶏舞(県無形民俗文化財)は、毎年盆の期間に墓地で供養の墓念仏を踊り、その後各家を回って先祖供養をするものです。8月20日の三嶽神社、9月1日の五戸町稲荷神社の例祭にも踊りを奉納します。鶏舞・七つ道具・さんさの3演目があります。タイシカという太夫とその相手のシケンバイが、鍬形のかぶとをかぶり、トリという踊り手は鶏形のえぼしをつけてはねます。ハナと呼ぶ六角灯籠を中心に、笛・太鼓・手平鉦・ささらのはやしで庭入りし、三国という供養の歌に合わせて一本扇・サンパ・高太刀など10種目があります。七つ道具では太鼓・杵・太刀・棒・長刀・手平鉦・ささら・笛が庭入りし、太鼓の拍子の変化に応じて5種目を踊ります。八幡太郎義家が三嶽神社で戦勝を祈願したのに始まると伝えられていますが、文政8年に新郷村の長泉寺の新築落成で、岩手ニ戸郡から指導者を招いて踊ったともいわれています。
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力士紀念碑・征清招魂碑。
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力士名。
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陸軍上等兵佐佐木君墓誌。※内容省略(君名弥一郎佐佐木氏市太郎君…)。
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「曹洞宗管長 勅賜慈光円海禅師 大本山永平寺貫首 丹羽廉芳猊下御親修 開山500年大法会記念碑(昭和60年10月20日・当山22世書)。
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こちらは供養塔かと思いますが、下部が破損しているのか、もしくは埋まっているのか…。
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青森県三戸郡新郷村戸来長峯。
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タイトルは「大山祇大神・合祀社(新郷村)」としましたが、神社名ではありません。
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建物内に小祠が並んでおります。この小祠に一貫性がなかったので合祀社としました。
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向って右から地蔵菩薩像。
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こちらは棟札が見えますが…「■■八幡大神」。紀年銘は昭和27年。
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こちらは「■■石上大神」と読めます。紀年銘は昭和27年1月10日。
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ちなみに■■の部分にはこう書かれています。奉納なのかな、長峯なのかな。読めなくてすいません。
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こちらは石が祀られています。
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こちらは石祠の中に石。
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こちらも石。
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こちらは石棒に見えますがよくわからず。
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こちらには手を合わせた木像が一体。
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外にある小祠。こちらは大山祇大神です。
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入口の鳥居付近にあった庚申塔。
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紀年銘は天明8年旧11月26日。
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三嶽神社(新郷村西越)』からの続きです。
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拝殿前石灯籠一対(明治27年8月16日)。私の下調べでは社殿前の石灯籠は明治26年8月に拝殿改築を機に田島勘七氏奉納。
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手水石一対。
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宝暦14年かな。古いですね。
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狛犬一対(大正14年旧8月)。
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その他手水石。
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西越三嶽神社由緒…『豊前の国塩田村の郷土にして大廡を構い家族召仕いに至る百余名あるを扶助する大家なるに男子なく女子一名あるのみ此娘美麗にして男子に劣らぬ器量ありという婿養子するといえども不会にして連續する者なし其の内に何方の若人なるや人品骨格相応なる者日々出入りするあり家主夫婦思考娘が氣に応ずる者あるときは婿にとるべし迚て不知顔して日月をへるに娘妊娠なりとふ説あり彼の男父母の名を語らずその外にもあやしむことありにより娘針数本を男の裾のあたりにぬいこむなり男暫く間おき隔月あり来りいわく其の身の妊娠は男子にして必ず後栄える者生るべしいたわり養育せよ我は姥ヶ岳大蛇の化身なりといふ娘なげき父母へ閉にするといふども如何ともする不能迚月の経る待つのみといふが如男子出生し産れながら肩背のあたり蛇尾の形顕然たり是が為めに成人の後尾形と改姓するといふ家富み栄い数代の後弘治永禄の項男子四人の兄弟あり成人に及び協議して日今乱国の世といふに塩田田舎に身を捨てるは男子の望む処にあらず身を立て道を行ひ名を後世に挙ぐるは此の時なりと決心家許にも老父母と妹女を残し都をさして登るや藷將を尋ぬるといえども後栄を究むると見得る大將なく無據江劦の浅井家に附属戦場に望む事数度あり長政不運にして織田信長の為に亡なり家臣散々なるとき兄弟又協議して曰く此後將を尋ね附属すると雖長政の如くなるときは身の固る所なく路頭に迷う事あるべし今の内に武を捨て農商に帰し命を全とふして時節を待つに不如と四人一処にあるよりは望む方へ趣き事有時は旧国に集会すべし迚長男は能登国に二男は出羽の国三男は奥羽四男は松前を心さし下るといふ三男尾形大三郎は南部三戸郡西越村へ居信す開墾の望みあり同村の支村豆田(間明田)は同人の開き地なり西越村へ神社を建立祖先姥ヶ岳大蛇を祀り氏神と崇めたりといふ二代目尾形大次郎といふ此代に至り西越村本支南部家臣の給所となる国主の命令不待との一事にて同村を立退き三戸郡田子村字清水頭に居住外平という支村は同氏の開墾地なり家屋敷續きに堂宇を建立姥ヶ岳蛇身を祀り氏神と崇めたりその姥ヶ岳神社の後地に西越三嶽神社は建立なされ御祭神倉稲魂命豊受大神祀られております西越のお祭りには尾形家より清酒一駄馬にて奉納された由であります 奉納昭和62年4月16日谷地村廣』
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本殿覆屋。
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社殿向かって右側。色々あります。
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長床。
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長床。
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長床。
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忠魂碑(陸軍大将一戸兵衛書)。
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三嶽神社碑。
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裏面碑文…『祭神:倉稲魂命、例祭:八月十六日。創建年月日は明詳な資料が紛失し不明瞭であるが清和天皇貞観年間の頃萬民豊楽の祈願所として倉稲魂命勧請し社殿を建立鎮斎したと伝えられる。約1100有余年経る古社である。厄払い奉納者氏名(中鶴間操・坂本操・佐藤正一・東秋男・石森照治・佐々木義信・前山活・田島里美・中村英太郎・田島国聖・林鉄男・沢口好美・佐藤繁・佐藤正男・岩崎未吉)。昭和51年8月建立』
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弁天宮。
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辯財天大神尊。
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本物の着物のせいか…
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中々リアルです。
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石段ではない方の参道。
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つまり来ようと思えばここまで車で来れます。
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社殿向かって左側へ。
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故青森縣巡査川口金吾之碑。
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明治參拾九年壹月參日殉職・大正拾參年六月建立。
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気比神社。
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拝殿神額。
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社殿内。
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馬を祀る神社です。鈴緒には駒形神社とも見えます。
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祀られている像の中には馬以外に牛もおります。
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狐もいます。
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うん?
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鎌と稲を持っているっぽいので、稲荷神像かと思われますが…ちょっと怖いですね。
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牛頭汝是畜生發菩提心塔。馬の供養塔でしょうか。
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紀年銘は明治33年1月。三戸郡野澤村字西越の田嶋勘七・勘次郎・又次郎建立。
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こちらは馬頭汝是畜生發菩提心塔。建立年及び建立者名は上に同じ。
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よく見ると正面に小さな文字がびっしりと刻まれています。
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内容を見るとやはり馬の供養塔のようです。『鹿毛牝慶應三年生身丈四尺五寸行年廿九歳ニシテ終ル 仝栗毛牡明治十一年生四歳ニシテ身丈四尺七寸同十四年陛下東北御巡行ノ際献納金貳百五拾圓ニ白羽二重一疋ヲ賜ヱ名ノ花之戸號ス同十六年十二歳迄東京競馬會ニ於テ一等賞ヲ得流星栗毛後二白牡明治十一年生五歳ニテ身丈四尺九寸廿七年三月八日 両陛下銀婚式ノ御祝献納ス名ヲ藤之戸ト號ス』※自信はありません。
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こちらは「淨運院嶺譽昌繁徳翁居士・清雲院蓮譽池月妙安大姉」とあります。お墓でした。当神社との関連はわかりません。
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