くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ:寺・神社 (つがる市) > 寺・神社 (旧森田村)

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かつての大館村。
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寛文12年(1672)に狄ヶ館溜池の池堤工事が行われており、この頃に当地の開田が進められたと思われますが、開村時期は不詳。
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由緒は不明。
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狛犬等もなくコンクリートブロック造の社殿があるのみです。
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かろうじてこの石碑で稲荷神社だとわかります。
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漆館村は岩木山北麓寄りにあります。
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安政2年神社書上帳によりますと、地内に八幡宮と正一位稲荷宮があり、いずれも天和3年3月15日漆館村中により建立と伝えます。
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なお、漆館跡は当八幡宮付近にあったと考えられています。
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御祭神は誉田別尊・倉稲魂命。
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森田村々会議員副議長外崎氏金婚記念馬。
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元文元年検地帳によりますと、小野井伊賀抱えの稲荷社地の下々畑16歩とあり、また「稲荷社地 八間八間弐畝四歩 宮建有之小野井伊賀抱 右之内八幡社地壱間弐間」とあり、八幡宮と稲荷宮が同地内にあったことがわかります。両宮は相殿で社司は宮本日向。
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明治6年4月、下相野八幡宮へ合祀し、明治8年2月復社。明治9年村社。
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甲子塔と祠。
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かつてこの祠には水虎大明神がいたようです。今はいないみたい。
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ちなみに『水虎様への旅~農業土木文化の時空』においても存在していないように見受けられ、木製お札とのみ記されています。
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社殿内にも由緒がありましたので以下に記しておきます。
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『森田村 漆館 八幡宮(平成8年現在)』
・316年前(延宝8年記録なし)堂社帳又は山伏 成田七郎右衛門・岡文左衛門。
・294年前(元禄15年記録なし)大行院。堂社縁起修験道由緒 大行院大先達法印 慶長。
・292年前(宝永元年記録なし)社堂境内記。
・285年前(正徳元年記録なし)寺社領分限帳。
・265年前(享保16年記録なし)津軽一統志。
・265年前(享保16年)陸奥国津軽郡御検地水帳。
漆館村(稲荷社地)8間 8間 2畝 4歩。
・259年前(元文2年記録なし)陸奥国津軽郡御検地水帳。
・259年前(元文2年)三新田村日記。
漆館村(稲荷社地)小野井伊賀太夫抱。
・246年前(寛延3年記録なし)弘前並在々浦々建立社堂帳面 長利薩摩。
・237年前(宝暦9年記録なし)神社書上帳 小野若狭・長利薩摩。
・141年前(安政2年)神社書上帳
漆館村(八幡宮)相殿 森田村 社司 宮本日向。
正一位稲荷宮(天和3年(313年前))同村中為安全五穀成就守護同村中にて建立仕候。
其後 堂社破損之節は同村中にて再建到候。
尤 稲荷宮 正一位之御神号之儀者 安政2年より差下申候。
本社 板葺 2尺四面。
雨覆 萱葺 東西2間半 南北9尺。
御供米 1斗2升 年々村中より寄付仕来候。
棟札 宝暦8年10月 寛政9年閏7月 文政3年9月 弘化2年6月 安政2年6月(稲荷宮)
社地 東西2間 南北3間。
境内 東西8間 南北10間 御除地 社司抱。
右間数 御本帳表不当之旨にて御点羽に御座候得共 村方元帳並私所持之旧記表に前々より御除地と御座候 当時有坪 前書之通に御座候。
・126年前(明治3年記録なし)神仏混淆神社調帳 小野磐根・長利薩摩。
・120年前(明治9年記録なし)新撰陸奥国誌。
・104年前(明治25年記録なし)弘藩明治一統誌 内藤官八郎。
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※その他、神仏混淆と神仏分離の説明、加藤慶司プロフィール、用字・用語の解説などがあり、神仏分離令にて仏像を分離した神社(高城八幡宮11社連合総代会の内3社)の処置について書かれていました。※A社:最勝院に納めた、B社:薬師堂を天村雲神社に改めて仏体上納、C社は仏像をこのままにして飛竜宮に置いてもらいたい旨願い出ますが叶わず、仏体は除かれ社号は天村雲神社へ改称。
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六沢溜池の畔にひっそりとあります。元は田吉村と称していましたが、慶長9年に山崎金三郎が広須(柏村)から移住開拓して山崎村と称し、享保12年に田吉村などを合わせて山崎・田吉の両村名から山田村と称しました。
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六沢溜池の西北岸には縄文晩期の山田遺跡があり、多くの土器などが出土しています。
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入口には不思議な鳥居…がありますが何となく民家の入口みたい。地図上には稲荷神社とも書いてましたけど…う~ん…何とも不思議。とても気になったのですがリサーチは避けました。
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『水虎様への旅~農業土木文化の時空』にて紹介されています。
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しかし亀にも乗っておらず、手も合わせておらず、どう見ても女神型の水虎様とも一線を画するものでした。
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近くには堤防改築記念碑があり、水神との深い関りは感じます。
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寛政8年(1796)7月に菅江真澄が訪れています。
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『外浜奇勝』には「森田の村ざかいにきて、石をならべて坂をつくってあるところをはるばるとのぼって、薬師仏をまつった堂に行った。むかし、探題某という人が大きな石を背負ってきて、仏として崇めたのがはじめであろうという。のぼりつめて、むらだつ木々の間から遠近の眺めがよいので、あたりをまわってみた。堂のうしろの方に鳥居があり、ここから十腰内の観音菩薩へ詣でる道があるので鳥居がたっているのだという。」とあります。
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現在の参道の東側の杉は文化9年(1812)に9代藩主寧親が木造御仮屋より参詣祈願の際、下賜された杉苗を同14年に植えたものと伝えます。
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御祭神は大己貴命、少彦名命。
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慶長3年(1598)、丹代森右衛門がこの地に薬師様を勧請。
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正保2年(1645)、薬師如来を祀って薬師堂に。
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元文元年(1736)検地帳に「薬師堂地 六間四間弐拾四歩 堂建有之 同人抱」とあり、他に宮本左近の社司屋敷10歩、同人抱えの下々畑1畝26歩がありました。
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明治初年には相殿として稲荷神・武甕槌神・八幡宮があり、明治4年に神仏分離によって久須志神社と改称。
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明治6年4月、村社。
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本殿。
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社殿にあった由緒(薬師様の縁起)。
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『(祭神)大己貴尊敬・少彦名命。現在の地に崇敬するように成たの慶長15年からです。春祭4月8日例大祭7月8日秋祭11月8日。この地に崇敬された時は右の通りですが或夜枕神が立って赤わらびの奥山より持って来てくれと依頼を受けたので朝早く行って見ましたら山の中に大石が立っていたのです。その石を背負って薬師流まで来たので一休みしようと思って休んだところその石が動かなくなったのでその地に祭ったそうです。枕神に命ぜられ人 丹代盛右エ門 時慶長3年 35人力あったと称される。平成元年12月吉日15代目丹代盛作、16代目丹代彦男、17代目丹代幸寿、盛作次男丹代秀太郎、秀太郎妻丹代タマキ、盛作娘山谷春江。』
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菅江真澄は、堂のうしろの方に鳥居があり巌鬼山神社へ詣でる道があると記しています。堂の後ろには確かに鳥居がありましたが大石神社の鳥居。かつてはこの付近に参道もあったのでしょう。
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屋根から色々生えちゃってる。
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神額には昭和11年旧7月10日と見えます。
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大石神社社殿内。
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末社の稲荷神社。
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かなり荒廃しています。
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こちらの祠には…
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石と大蛇。竜神様です。
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コンクリの祠。
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馬頭観音堂でした。
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丹代彦男氏が旧鎮座地の山(袖流の山)より、昭和43年9月14日に遷座させ、同22日に新鎮座地にて祭事。
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周囲には馬頭観音石碑等。
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こちらの祠は…
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何だろうね。
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猿田彦大神。
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稲荷の末社群。
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荒れています。
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保食神。
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石碑も色々ありました。
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幸神や月夜見尊など。
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古くは床舞村、床前村、徳舞村などと呼ばれ、慶長年間(1596-1615)、弘前市禅林街の石神山勝岳院(天正14年(1586)創立)が床舞村より移されたことを考えますと、古くから開村されていたことが伺えます。ちなみに石神山の山号は寺の鎮守である八幡宮の御神体が石であったことに由来。
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また、すぐ近くにある狄ケ館(えぞがたて)溜池の中央部へ舌状に突出した海抜10~15mの低台地先端には、石神遺跡(縄文前期-晩期に移住されていたと推測)があり、歴史的にも相当古い地区と言えます。
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菅江真澄が天明5年(1785)8月に「床前といふ村のこみちわけ来れば、雪のむら消え残りたるやうに、草むらに人のしら骨あまたみだれちり……こはみな、うへ死にたるものヽかばね也」と記しています。所謂天明の飢饉の惨状を記したもので、その生々しい表現が非常に印象的な一節です。また、外浜奇勝にて、寛政8年(1796)7月6日に床前近郊における虫送りの様子を描写しています。
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森田村誌によりますと、八幡宮は延宝2年(1674)8月床舞大館再建とありますが創建不詳。※宝永年間に宮司宅の類焼により記録等を失っています。御祭神は誉田別尊。
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貞享4年検地水帳によりますと「八幡社地拾間九間 三畝歩 宮建有之 住泉坊」とあり、明和8年・寛政7年・天保2年・弘化4年の棟札があり、明治5年に現在地へ移転しました。
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神社庁によりますと慶長年中の中頃より社司。
延宝2年(1674)8月床舞大舘之内へ再建。
貞享4年(1687)5月八幡地住泉坊抱。
延享4年(1719)6月2日平間大和守藤原森貞に風折鳥帽子狩衣許可。
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宝暦2年(1752)社地住泉坊を社司に。
明和4年(1767)平間河内守藤原盛為に風折鳥帽子狩衣許可。
安政4(1857)年2月と5月平間社司による「御関所通行手形」。
明治5年用水池の増水により社地が水で浸されるため現在地に移転。
宮司、 中興の泉大夫より名が見え、中興の祖初代平間泉大夫から現在15代目。
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本殿前には木々が植えられています。
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摂社猿賀大神。
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庚申塔など。
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庚申ではなく幸神と記しているものが多いです。
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紀年銘「天保三年壬辰七月十六日」。
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紀年銘「大正三年四月四日」。
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「天保七丙申年三月」紀年銘の牛頭天皇。
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「大正15年5月14日八坂神社 床舞村」など。
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馬頭観音。
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保食神。
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水虎様。
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末社稲荷宮。
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馬頭観世音。
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緑の中を走り抜けてく真っ赤な…
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