くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ: 寺・神社 (五所川原市)

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嘉瀬観音山(嘉瀬スキー場:昭和6年)です。嘉瀬駅の東約700m、標高約50mの松林の丘陵。地元では憩いと信仰の場となっております。疎開中の太宰治が地元の青年たちに招かれて、ここで発表前の「トカトントン」や「春の枯葉」「冬の花火」を朗読したという逸話を残しています。
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鳥居が2基ありますが、どちらを進んでも上で繋がっています。左の鳥居へ。
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左の鳥居を進んだ先にある山の神。
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扁額には松川林業とありました。
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右の鳥居へ。
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山を登ります。
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眺望。
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薬師神社。かつての薬師堂です。
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向拝下扁額。
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かつての小栗崎村で、貞享4年検地水帳には薬師堂地が見えます。観音堂地とともに「堂建無之」とあり、薬師堂地は薬師長根と呼ばれる野原の中にあります。嘉瀬は四代信政公の頃から栄えました。明治40年頃に旧金木競馬の出現に伴い、嘉瀬観音は廃れたために、古川勇之助が三十三観音とお堂を建てた記録があります。
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狛犬一対(大正6年旧■月8日※破損して読み取れず。小栗崎村百万遍連中・発起人15名)。
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薬師神社の真裏にも建物があります。
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太子堂(平成16年9月19日拝殿新築)でした。
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太子堂本殿。
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嘉瀬観音公園のきぬたの小道句碑群。
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一部紹介。
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『藁燃えて津軽野の秋昏れ急ぐ』篁村
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『花ごもり熱のこる児のつめを切る』喜美枝
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『菊のかおり心のかおり豊かなり』天小人
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『観音堂郷は夕霞薄墨絵』山灯子
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『石仏に触れつはなれつ夏の蝶』青炎
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『鳩翔びて日の出の夏を切り開く』私月
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『人声に人影見えず夏木立』岩田重美
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『松籟や並びて在す観音像』白泉
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『青田梅縞たてて風泳ぎゆく』一歩
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嘉瀬観音山には嘉瀬三十三観音巡りの道が開かれ、建立者302名によって昭和8年に三十三観音像が建立されました。
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嘉瀬三十三観音。
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メインの観音堂へ。
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観音堂内。
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観音堂内に嘉瀬の桃(黒川桃太郎)を模したとされる桃地蔵が安置されています。※黒川桃太郎(明治19-昭和6)は嘉瀬村出身の津軽三味線奏者。津軽民謡中興の祖。
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七面大天女(日天先生遺筆・昭和62年9月吉日再建立)。
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観音堂からの眺望。
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小祠(昭和62年8月26日)。
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石や木などが奉納されています。
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招魂堂へ。
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招魂堂。
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忠魂碑などいくつかの石碑がありました。忠魂碑はかつて嘉瀬中学校東にあったものを移したもののようです。
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忠魂碑(陸軍大将一戸兵衛書)。
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殉難警察官吏之碑(大正13年9月5日建立)。
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在郷軍人會の碑(大正9年5月)。
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有志人名碑。
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塗り直された鬼コを拝みに行ってきました。
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以前はなかった由緒案内板。
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再々訪なので、由緒等は過去の記事をご覧ください。今回は修復された鬼コ目的で参拝。
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過去の記事
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鳩一対(昭和6年)。
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石灯篭一対(明治15年)。
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奉納馬一対(昭和11年)。
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狛犬一対(明治23年)。
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手水石。
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拝殿向拝。
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鬼コ。
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青鬼です。
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随分と印象が変わりました。
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拝殿廻縁。
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本殿。
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本殿前狛犬一対(明治44年)。
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百万遍、八幡宮、保食神、猿田彦大神、月読尊の石碑。
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飯詰字影日沢。飯詰本村の長坂集落から北方の沢目にあった村。飯詰の観光マップにも紹介されています。ちなみに飯詰地区の朝日沢(朝日館城跡にできた村)は影日沢に対する地名として名付けられたと伝えます。味噌ヶ沢は飯詰の支村で明暦元年(1655)に開村された村。味噌を盛り上げたような土盛遺構を古墳とみなして味噌ヶ盛と呼び、そこから味噌ヶ沢と呼ぶようになったそうです。また、十七軒伝説なるものがあり、集落世帯が17戸を上回っても下回っても災いが起きると言い伝えられてきました。どれが味噌ヶ盛なのかはわかりませんでした。
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味噌ヶ沢にある萢ノ沢溜池は、飯詰ほか松島・中川・嘉瀬の旧村地区にも及ぶ水田524町歩を灌漑する重要な用水池でした。明治44年(1911)4月5日に萢ノ沢溜池の堤防が決壊して死者4名、流失家屋15戸、浸水家屋50戸、埋没田及び耕作不能田500町歩の大参事となりました。その後も13戸が集落を維持するも昭和49年に下岩崎地区に集団移転し、廃村となりました。当時の建物は残っていません。
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こちらの建物だけが唯一古い感じがしました。
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味噌ヶ沢の集落跡付近では田畑が営まれていたり、また採石場などがあるため現在も道がしっかりとしています。自然が気持ちいい場所です。
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萢ヶ沢橋。
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萢ノ沢溜池へ。
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萢ノ沢溜池の堤上から見た萢ヶ沢橋。
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萢ノ沢溜池。
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1周1時間半ほどの観察道路コースがあります。約20種類の野鳥や400種類ほどの野草の観察ができるそうです。特に雪解け後の水芭蕉は奥行100mに及び圧巻らしいです。雪解け後じゃないし、野草にも詳しくないのでやめておきました。
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明治の山津波で亡くなった方々の供養碑です。
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表面は例の如く達筆過ぎるため読めません。
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裏面には堤防決壊日、被害状況、亡くなった方の名前などが刻まれています。紀年銘は明治44年7月。
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味噌ヶ沢の大山祇神社。
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一の鳥居前の風景。
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小さい社号標。
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社号標の紀年銘は明治44年12月です。萢ノ沢溜池の堤防が決壊した日の数ヶ月後ですね。
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その他、村長の奥田順藏氏をはじめ、数名の名前が彫られています。
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大山祇神社は標高103mの山の中腹に鎮座しています。
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途中倒木で遮られている場所が2ヶ所ありましたが、意外にも参道はしっかりしていました。
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今も参詣している方々がいるのでしょう。
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見通しもいいし、きっと熊もいないでしょう。但し参道右側は谷になっています。
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見えてきました。
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かつての水害地域ということもあり、鳥居の鬼コがいる可能性も考えましたがおりませんでした。社殿も施錠されており、確認もできませんでした。賽銭箱もなかったので手だけ合わせて帰りました。
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なお、神社の建立年月日及び由緒等は不明です。
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社殿の裏側は崖になっているので気を付けましょう。
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周囲は巨木に囲まれています。
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狛犬一対。
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狛犬と並んで狐も3体。
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萢ノ沢溜池の堤上から見た大山祇神社が鎮座する山。
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大山祇神社から少しだけ離れた場所にも道がありました。
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10mほど歩くと巨木が現れます。
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その近くには地蔵尊の建物がありました。
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こちらも地蔵尊。
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隣には百万遍。紀年銘は大正15年です。
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小祠。比較的新しい感じがします。何が祀られているかはわかりませんでした。
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飯詰浄水場。飯詰の周辺散策マップや観光マップにて紹介されているのに閉まっています!仕方がないので、観光マップの説明だけ掲載しておきます。
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『いずみ小学校の東5百メートル、小高い丘を登ったところに浄水場があり、洋館風のステキな建物で、まさに大正モダンの建造物です。大正13年(1924)に建設の許可が出て、昭和2年(1927)に竣工と同時に深沢(現在の飯詰ダム)から引いた水を浄水しました。青森市に続いて県内2例目、五所川原としては初めての水道事業になりました。市の人口の増加につれて第1次から第4次まで改変が行われ、取水も現在浅瀬石ダムを加えています。浄水場を衛生的に管理するために張られている柵の周りは芝生も広く、紅葉もきれいです。昭和43年取水施設及び浄化設備の更新をしました。平成5年浄化設備の更新、薬注設備の充実及び汚泥処理設備を新設しました。現在も管理し市民の「生命の水」を確保しています。』
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飯詰集落から4kmほど東に進むと天池に着きます。所々に天池の案内看板があります。
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飯詰の村では昔から雨乞いをする神社です。『水神竜神 十和田信仰』(小館衷三)にも掲載されています。『天池は魔神山の麓にあって雨乞の霊地とされている。平尾魯仙の「谷の響」に、「飯詰村の山中に雨池といふがありて旱天の年は里人どもこの池の辺に葬送の道具及産室の不浄物を運び、あるいは牛馬の骸骨などを投げ入れ、早々けがらわしき業をなすに、忽ち大いに雨あることは往古よりしかりといふて雨池とよべりとなり。かかるからに往ぬる嘉永四の亥の年(1851)も又旱魃の災あるから村里の農夫共、此池の辺にむれつどひ種々のけがらはしきものを持ちくばりて雨乞の業を営みける……。汚穢不浄の物をもて雨乞することは何れの国にもまま有ることながら極めてなすべき業にあらざる事なり……。」とあって昔から雨乞が行われていた。』
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「わが街いいづめ冊子」より…『昔、山子(杣夫)達が寝泊まりしながら山仕事をしていました。ある日、沢の方から鉦の音が聞こえてきました。「誰がならしているのだろう。なぜだろう」と不思議に思いながら、仕事が終わってから鉦の音を頼りに探していきました。するとどうでしょう。大樹の根元に座して鉦を打ち鳴らしながら、ひとり一心不乱に祈りを献げている尼僧の姿がありました。その鬼気迫る様子に怖れをなして慌てて小屋に帰り、着物も脱がず敷きっぱなしの布団に潜り込んで夜の明けるのを待ちました。やがて21日ほど経ち気がついて見ると、鉦の音がハタと止まっていました。尼僧の様子が気になってあの大木へかけつけました。すると木の根元から広がる沼が目に飛び込んできましたが、あの尼僧の姿はどこにもありませんでした。山子達は村に飛んで帰って事の次第を村の長老に伝えました。すると長老は、きっとその尼様が雨乞いの末亡くなったに違いないと沼の辺に祠を建て懇ろにまつりました。以来日照りの時は雨乞いを行うようになりました。不思議なことに雨乞いをすると必ず雨が降るということでした。天が答えてくれる池で「天池」。雨を降らせる沼で「雨池」。尼様が力をくれる池で「尼池」ともいわれています。』
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天池神社社殿に貼ってあったもの(ほぼ読めず)…『火の用心?人の世は荒き船路も道ふなよ皆さん(不明)此の神島に勝る地ぞなし(不明)休み(不明)堂主(不明)』
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社殿上部には天池神社覚書(古文書所蔵高楯城史跡保護会)があります…独特な字体…『天池神社とは東日流奥法郡飯積村魔神山の麓深澤に在り千古萬年留なる湖に不思議な浮嶋を有する處に古から一宇の草堂が建られ是を天池神社と稱したり祀神は神佛双道にして天之雷電命を以て神道と爲し龍樹菩薩を以て佛道と奉祀す是の社の宮司は飯積大光院の別当にして飯積髙楯城領下の民百姓が雨乞の祈祷靈場とし大光院総代の法印是を修す右覚書如件。文政五年六月十六日庄屋和田長三郎』。
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天池神社由来書…設置場所も微妙な上に字も読みにくい!背が高くて視力のいい方…是非訪れて私に教えてください(笑)
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ってことで間違っているかも知れませんが一応…「天池神社由来書。大光院天池縁起。文治二年七月羽黒山法印辰眼坊が大光院修行の砌り村民の願ひに依り雨乞の祈祷を天池にて修法しその夜半に不可思議なる夢を觀ぜり湖中に青龍権現が現れその背に美しき人魚乗りて法眼坊を招くと觀て夢覚めたり法眼坊是に霊感を覚え更に三七二十一日の行願を修しければ満願達成の朝に美しき女性彼の堂を訊ねたり辰眼坊夢に現れたる人魚に似たるこの美めに佛道修業の誓を忘れ美女を求めたり二人の悦楽は月日の過ぎ逝を忘却せるめく心身心を求め相いど秋更けるに及びて彼の女憂いて泣けるを辰眼坊不審に想いその■を審せば彼の美女曰く妾は龍の化身にて候も■を愛しきに天戒を脱がれて来たるも帰天せずば主の一命にかゝはるあり依て哀しき別れを偲びて候と言けるに辰眼坊蔦を不動呪縛の■を誦ければ美女化身の術■れ龍となり龍巻を起し雷雨を呼びて昇天せり亦辰眼坊も大魚と変化して池の浮島底に隠住せり依て島動くは彼の主なり以上如件」
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由来書に纏わる絵も描かれています。辰眼坊と龍に乗った美女。
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絵の横には「明治維新の砌り神仏改めの令に依て故和田丑之助依霊験雨池神社水■明治43年4月19日神社再興す充満其願如清涼池之力標及■昭和45年旧6月15日新築■天池神社講中其他■堂主代和田ゆ■■■■」とあります。こちらは字体はいいのですが、高い所にあって下の部分が見えません。もっと離れて撮れば読めたかも知れませんが、私のボロデジカメでは望遠側が限界(笑)
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社殿内中央上部にも由緒らしきものが見えましたが、社殿内はサウナのように暑かったので入りませんでした。しかも虻が凄くてゆっくりお詣りしていられません。虻がいない季節をおすすめします!
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社殿横の窓木&三頭木。
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水神と彫られた石碑(雨池講中)。
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天池。
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浮島。
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天池にある浮島は風に流されて移動するらしいです。
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由緒では羽黒山法印辰眼坊が大魚となり浮島の底に住み島を動かしているということですが。
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池の脇に道があり近くまで行けます。
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裏に回ってみたのですが…これは島なのかな…草木しか見えず…島だとしたら上がれるのかな…いや、こういうのはあまり追究しないようにしましょう(笑)
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浮島の裏にある祠。
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中央には蛇の絵が見えます。龍神の祠かな。
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平成15年7月5日建立とあるので比較的新しいものでした。再建かもかも知れませんが。
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藻川保育園と沼の間の小高い松林の中に鎮座。
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明治18年2月に雪どけのため岩木川堤防が決壊。これまでの小さな沼が大沼となりました。治水神として祀ったものと考えられていますが、以下のような由来が残っています。
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藻川の一戸勘七氏の夢枕に現れた神のお告げにより、ここに社を建て十和田大神を祀りました。神主、山伏を頼んでの台神楽を近村はもちろん、外ヶ浜まで回した宣伝が効き、広く参詣者が集まるようになります。
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旧4月19日の例祭日には参詣者が沼にサンゴ(米と銭を入れた紙色)を投じて豊凶や身の上を占います。
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『水神竜神 十和田信仰』(小館衷三)には社号標の写真と共に次のような記述があります。「五所川原の川港の鎮守である湊の胸肩神社-弁天様があり、藻川の弁天宮は大沼の岸にあって堂内に十和田神社の小幕が奉納され、村の人は沼の主を祀るというが水神であることにまちがいない。」
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社号標紀年銘(大正6年4月19日建立)。
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社殿内。
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絵馬など。
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十和田神社50年紀年社殿改築の紀年銘が昭和9年戌旧正月拾貮日。
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昭和9年奉納の神額。
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本殿。
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