くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ: 寺・神社 (深浦町)

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吾妻沢。
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かなりわかりにくい場所にあります。
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少なくとも私は近くで農作業されている方にお聞きしてようやく辿り着きました。親切にありがとうございます。ちなみに個人の敷地になります。
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最初は歩けど歩けど場所がわからず…途方に暮れて…ふとしゃがみ込んだら、周囲は四つ葉だらけでした。四つ葉の方が簡単に見つかるって…。
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吾妻川沿い吾妻館と接近し、藩命を受けて当地の開墾に当たった北村平右衛門、久左衛門の徳をたたえ、久左衛門を祀り、また、五穀豊穣祈願のために祀った六所宮があったとされるところで、康永4年(1345)の碑を含む3基の板碑が置かれています。なお、元禄年中に既に建物を失っており、その後の沿革は不詳。明治初年にも小森の上に何かの小祠があったと伝えます。森付近からは康永年中の碑も発見されており、森の北側から古い懸佛、唐銭などが発掘されています。
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六所神社(六所宮)の御祭神は不詳。享保6年(1721)村民が北村平右衛門を讃え、五穀豊穣祈願のため建立。なお、吾妻川の対岸には吾妻館跡があります。また、同地(吾妻沢)には白山神社があるようですがこちらも場所がわかりませんでした。白山神社の御祭神は白山比咩命、大山祇命、保食神命。寛文10年(1670、村民が五穀豊穣祈願のために吾妻沢に建立。以後、白山様として農家や杣夫たちに信仰されてきたそうです。
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六所神社(六所宮)跡。
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板碑。
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向って左の板碑。高さ約124cm。流紋岩。金剛界大日如来(荘厳体)。
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「右塔婆造立 者悲母幽聖御五七日-也乃至法界平等利-益故是我-」※(-以下破損)。
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真ん中の板碑。高さ約110cm。凝灰岩。阿弥陀三尊種子。
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「奉造立石卒都婆為 慈父以餘薫無差平等」
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向って右の板碑。高さ約98.5cm。凝灰岩。阿弥陀三尊種子。
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「右意趣者為於悲母 康永四年乙酉二月二十九日孝子等敬白 幽儀七七伯法界平等」
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案内板「町指定史跡六所の森(昭和49年8月16日指定)」…『元和年中(1615-1623)に北村平右衛門が藩命によって、吾妻沢及びこの地域一帯の開発にあたった。しかし、その完了をみずに病に倒れたので、その子久左衛門が親の志を継いで開発に献身して寛永年中(1624-1643)に開発の事業を完成させたという。ともに開発の鍬をふるった村民は、平右衛門・久左衛門の苦難の功をたたえ、また五穀豊穣祈願のため、この地に六所宮を建立したものと言われている。元禄年中(1688-1702)に建物は失われ、その後の沿革は明らかではないが、明治初期にはこの丘の林に小祠があったと伝えられている。深浦町教育委員会』
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千畳敷海岸。青森県西津軽郡深浦町にある海岸。津軽国定公園。地名をとって深浦千畳敷ともいいます。
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昭和49年に深浦町指定記念物(名勝)に指定。昭和50年に津軽国定公園(東津軽郡外ヶ浜町から西津軽郡深浦町まで約180km、25966㌶)、平成10年に環境省による「日本の水浴場55選」、「日本の夕陽100選」に選定。
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寛政4年(1792)の地震で隆起したと伝えられる約12kmにわたる海岸段丘面です。深浦町は、幾度となく隆起を繰り返しており、海岸線を走る鉄道や車道から、綺麗な海岸段丘の階段が観察できます。
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千畳敷もこの段丘面の一つであり、大潮の日など引き潮が激しい時には広く千畳敷を観察されます。波の強い日には浅瀬の淵に波が立ち、高い段丘面上から観察すれば、千畳敷のような地形が幾つもあることに気付きます。段丘面の1段上には遊歩道(階段)で行くことができます。登って日本海を見下ろせば海岸段丘が観察できます。展望台・灯台がありますよ。
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千畳敷はその昔、物珍しがった津軽藩の殿様が領内巡幸の折、そこに千の畳を敷かせ、200間の幕を張って大宴会を開いたとされることから命名。藩政時代には殿様専用の避暑地であり、庶民は近付けなかったといいます。
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幕末には松浦武四郎が訪れて「その風景実に目ざましい」と絶賛。
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また、千畳敷周辺には奇岩奇石が多く、千畳敷駅の手前にある大きな岩は大仏岩(大戸瀬岩)と呼ばれ、東側から見たシルエットが、丁度大仏が座っている格好に見えます。それよりやや東側の駐車場が整備されている場所には、兜岩と呼ばれる岩があります。兜と言っても西洋甲冑の兜の形をしており、岩の一部がざっくりと切り取られた形をしています。地元では、昔なにがしというサムライが刀で切り落としたという伝説が伝わります。その他、ライオン岩、鷲岩、鎧岩、大黒岩、小戸瀬岩、恵比寿岩、盃乃潤、潮吹岩などを見ることができます。
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千畳敷駅から山側を見上げると段丘の断層面が露わになっており、地下水が染み出ています。
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冬になると、この地下水が凍り付き、幻想的な氷の滝(氷のカーテン)となることで有名です。
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千畳敷の岩々は信仰の対象にもなっていたようで、大仏岩、大黒岩、恵比寿岩などの名前が付けられています。
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岩には大戸瀬観音や数多くの石仏が建立されています。
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大戸瀬観音。
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御利益は海上安全・交通安全。
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小祠です。
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祠には「魚籃観音堂」とあります。
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大森初五郎參拝記念碑。碑文…「東津軽郡油川町・昭和4年ヨリ觀音祭ニ廿々年参列・昭和22年旧6月18日堀江たか建立」。
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故山本藤吉之碑。「西澤電燈會社起業工事・大正15年8月24日旧暦7月17日殉職・大正15年11月15日山本良一郎立之」
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山下良子歌碑(柾五郎書)。1つは達筆にて私には一部読めず…「釣りありし烏賊きらめきて■くといふ漁火見つゝ夫は語れり」。1つは「時間忘れ観音堂に打ちこめる夫は職人の貎を持ちたり」。
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こちらも山下良子歌碑。詠:山下良子(号春華)…木造短歌会、中部短歌会、書の会玉華。書:花田柾五郎(号光洲)…金木短歌会会長、津軽アスナロ、日本習字連盟教授。
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「ゆらゆらと夢から醒めし朝まだき 夢なりし事知らしむ白光」
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大町桂月文学碑…『「千畳敷」大正11年11月7日桂月。北金沢も過ぐれば、山脚直に海に接するやうになりて、嬉しや、目ざしたる大戸瀬に達せり。幅の七八十間は海に突出したる方面の長さ也。長さの五六町は海に横はりて、陸に接する方面の長さ也。唯これ一個の盤石、数万人を立たしむるに足れり。二つ三つ幅一間ばかりの割れ目ありて深く入り、怒濤白竜となつて躍り込む。一体に平らかにして、海面よりほんの二三尺も高し、世にも斯ばかり偉大なる盤石あるかと驚く。この大盤石の中に、杯池とて二三尺四方の水溜りあるかと思へば、兜岩、鎧岩、恵比須岩など、小岩峰も屹立す。少し離れて、海中に獅子岩立てり。後の草の平丘に巌角露はれて、菌岩人を見下す。さても造化は大戸瀬に奇工を尽しけるもの哉。前は渺々たる日本海、怒濤怒濤を追ふ。後は唯一面の草の平丘、東西南北どちら向いても山を見ず。背景が物足りぬやうなれども、それが却つて大戸瀬の偉大を擅にする所以也。我れ巌を叩いて、天地の間唯汝と我とあるのみと云へば、怒濤脚下に押寄せて、我狂笑うに似たり。※紀行文-「陸奥の海岸線 五 大戸瀬の奇岩」より抜粋』
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文学碑建立に寄せて…『明治・大正期の文人、大町桂月は大正11年11月7日、西海岸探勝の途上この地を訪れ、千畳敷海岸の奇岩怪石を賞讃、表刻の紀行文により紹介している。桂月の没後75周年にあたり、深浦来町と青森県文化・観光立県宣言を記念し、景勝地・千畳敷海岸の更なる観光振興を願いこの碑を建立する。平成12年7月吉日深浦町桂月文学碑建立協賛会』
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千畳敷海岸隆起生誕200年記念タイムカプセル(深浦町)碑。
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千畳敷海岸隆起生誕200年記念碑…『太宰治小説「津軽」・・・・・・木造から、五能線に依って約三十分くらゐで鳴澤、鰺ヶ澤を過ぎ、その邊で津軽平野もおしまひになって、それから列車は日本海岸に沿うて走り、右に海を眺め左にすぐ出羽丘陵北端の餘波の山々を見ながら一時間ほど経つと、右の窓に大戸瀬の奇勝が展開する。この邊の岩石は、すべて角稜質凝灰岩とかいふものださうで、その海蝕を受けて平坦になった斑緑色の岩盤が江戸時代の末期にお化けみたいに海上に露出して、數百人の宴会を海濱に於いて催す事が出来るほどのお座敷になったので、これを千畳敷と名附け、またその岩盤のところどころが丸く窪んで海水を湛へ、あたかもお酒をなみなみと注いだ大盃みたいな形なので、これを盃沼と稱するのださうだけれど、直径一尺から二尺くらゐのたくさんの大穴をことごとく盃と見たてるなど、よっぽどの大酒飲みが名附けたものに違ひない。この邊の海岸には奇岩削立し、怒濤にその脚を絶えず洗はれてゐる、と、まあ・・・・・。』平成5年7月30日深浦町長平沢敬義建立。
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大物有名人が多数訪れている「食堂・民宿 田中」さんへ。
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明るく元気な女将さんと色々お話しながらウニ丼を頂きました。ごちそうさまでした!
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それにしても今年の夏は嫌になるほどウニ丼を頂きました。たぶん「あるでぃ~ば」の反動です笑
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坂上田村麻呂が安置したと伝えられる御本尊御開帳に行ってきました。立石寺(山寺)の御開帳以来です。
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山寺は50年に1度でしたが円覚寺は33年に1度です。期間は平成30年7月17日-31日。
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なんでも今回で3回目という方がいらしたみたいです。何歳なんでしょう!?
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ちなみに今年は羽黒山五重塔の内部特別拝観・羽黒三所大権現秘仏初公開が行われています。機会のある方は是非!
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澗口観音円覚寺。津軽観音霊場第十番札所・津軽弘法大師霊場第十二番札所・北国八十八ヶ所霊場第六十番札所・津軽観音霊場第九番朱印所。大同2年(807年)征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷東征の際に、厩戸皇子作の十一面観世音菩薩を安置して観音堂を建立したと伝える県内屈指の古刹。坂上田村麻呂が兜の中に納めていたと伝えられている影顕石守仏も今なお円覚寺に保存されています。
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その後、清和天皇の貞観十戊子年(868年)に、泰澄大徳の弟子で浄定行者の末弟の円覚法印が、修験道を奉じて諸国の霊山を遍歴、この地に来て観音堂を再興。この円覚法印が大和の国の人で当寺の開基。寺号は開基に由来。
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江戸時代までは、当山派修験宗の寺として加持祈祷を行う山伏寺。津軽三十三ヶ所観音霊場第九番札所の見入山観音堂は当寺の修行道場。明治5年に修験宗廃宗に伴い古義真言宗醍醐派となり現在に至ります。このような歴史的な背景から、円覚寺は祈祷寺なのでお葬式をせず、檀家は一軒もありません。江戸時代以前は各時代時代の豪族の帰依を受け、江戸時代には津軽藩主の庇護によって続いてきました。
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深浦は、上方(京大阪)と蝦夷地(北海道)を結ぶ経済文化の大動脈北前航路の蝦夷地へ渡る最重要港であったため、ここの観音様は澗口観音と称されて信仰されました。澗口観音と云うのは、澗(港)入口にあって、海上安全・商売繁盛の御利益のある観音様という意味です。古来から澗口観音として信仰を集めた祈願寺で、嵐の中から生還した船乗りのチョンマゲが多数奉納されていることからも船乗りの信仰の厚さを感じられます。
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本尊御開帳パンフレット。
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境内マップ(①拝観券売場②お守り売場・ご朱印授与所③圓覚寺三不思議(金運)の鍾石(黄金の音の石)④圓覚寺三不思議の龍灯九字の網(坂上田村麻呂お手植の神木。国重文・日本遺産「ちょん髷絵馬」いわれの杉。天空の桜、観音様の宿る杉。)⑤地蔵堂(子供を守る仏様)⑥庚申堂(旅人を守る仏様)⑦開帳記念事業海難者供養碑⑧県重宝・日本遺産宝篋印塔⑨圓覚寺三不思議(健康)の薬師堂内厨子(総桧造))。
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御開帳マップ。
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本尊拝観の為、割符の左半分を係に渡します。
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円覚寺に伝わる坂上田村麻呂が安置した厩戸皇子作の観音像(御本尊・秘仏)は大きさは1丈5寸(3m18cm)、木造総金箔塗の立像。古文書に「遥かに年を経て、本尊の御台座後光等も古へ破損、尊像のみにましましけるを、寛永元年当国大主信牧公御参勤の御渡海安穏御道中安全の御心願に依て御本尊御彩色、後光御台座新に御作御寄進あらせらる」とあり、また、「寛文七年四代藩主信政公、尊像の朽ち毀れたるを御覧ぜられ、漆にて尊像を固め、箔仏に荘厳す」とあります。本当に間近(目の前)で見ることができます。少し離れた場所から拝むものかと思っていたので驚きました。撮影禁止。
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本堂裏の寺宝館(篤学館)も観ることができます。国指定の文化財「船絵馬」、「髷額」や県指定の文化財、全国男女84,000人の毛髪で刺繍した「八相釈尊涅槃図」、当寺26世義観僧正の仏道修業の遺品の数々、坂上田村麻呂が陣中で信仰していた観音懸仏5体、兜の中に納めた影顕石守仏、古い狛犬など色々展示されていました。寺宝館はかなり見応えありますよ。撮影禁止。※写真はパンフレットより。是非現地で見てください。
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毛髪刺繍八相釈尊涅槃図(部分・パンフレットより)。日露戦役両国殉難者怨親平等仏果菩提のため、8万4千人の毛髪で、一針一真言、5か年を経て作成。東宮殿下(大正天皇)の御台覧に供し、御感賞の光栄を賜った天下一品の霊宝。
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髷額は荒天のため遭難の危機に瀕した船乗りたちがちょんまげを切り落とし、ざんばら頭になって一心不乱に祈り生還した後、そのお礼に奉納したもの。明治になって北海道へ向かう北陸や能登の船は深浦に入港するとまず、円覚寺に参拝してから、自宅に無事を知らせる電報を打ったそうです。
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さて、境内に戻ります。
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本堂。3世大善法印代から当山派修験宗となり、醍醐三宝院に属し、代々の法印が実修実証の修法を行じて来ましたが、その間、嘉応年中鎮守府将軍藤原基衡公、永正年中葛西木庭袋伊予守頼清公堂宇を再建したことが、古文書・棟札等で知ることができます。寛永2年越中守信牧公堂宇再建。明暦元年土佐守信義公堂宇修理。元禄13年越中守信政公堂宇再建。享保13年土佐守信寿公堂宇修営。現在の本堂は大正5年再建されたもので、玄関角柱・虹梁・蟇股・木鼻は寛永期のもの、正面扉・内陣外陣の丸柱は元禄期のものです。
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案内板「円覚寺(真言宗醍醐派)」より…『本寺は大同2年(807)に坂上田村麻呂が聖徳太子作十一面観音像を安置し、創建したと伝えられる。貞観10年(868)に円覚法印により再興され、その後、豪族や弘前歴代藩主の厚い庇護を受けていたことが文献等に記されている。海上交易が盛んになると海上の安全を祈願する船乗りが数多く参詣し、船絵馬や髷額を奉納して澗口観音として信仰を集めた。これらは室町時代初期の作と言われる薬師堂内厨子とともに国の文化財に指定されている。』
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案内板「澗口観音円覚寺略記」より…『「津軽一統志」に、次のように書かれています。「大同二年(807)、征夷大将軍・坂上田村麿、観音堂をこの地に建立し、厩戸皇子の妙巧なる十一面観音像を安置す。今の本尊これなり。」と、その後、貞観10年(868)、泰澄大徳の弟子・浄定行者の末弟の円覚法印が、修験道(山伏)を奉じ、諸国の霊山を遍歴して、この地に来て「観音堂」を再興しました。円覚法印は、大和国(奈良県)の人で、寺号の「円覚寺」は開山の「円覚法印」の名から付けられたのです。当寺は、当山派修験(真言系の山伏)の寺院で、「お葬式」をする寺ではありませんでしたので、江戸時代、幕府の「檀家制度」の発布後も、「檀家」はありませんでした。それで、江戸時代以前は、各時代々々の豪族の帰依をうけ、江戸時代には、津軽藩主の庇護によって続いていたのです。「深浦」は、上方(京大阪)と蝦夷地(北海道)を結ぶ経済文化の大動脈「北前航路」の蝦夷地へ渡る最重要港でした。そのため、ここの「観音様」は「澗口観音」と称されて信仰されました。「澗口観音」と云うのは、澗(港)の入口にあって、海上安全・商売繁盛の御利益のある観音様と云うことです。事実、数々の「船絵馬」「髷額」(国重要有形民俗文化財)や「奉納品」がその事柄を物語っています。明治5年(1872)新政府による「修験道禁止令」の法難の嵐によって、全国の多くの修験寺院は消えて行きましたが、当寺は生き残り、真言宗醍醐派末寺の「祈祷寺」として現在に至って居ります。本堂の後ろに、「寺宝館」(篤学館)があります。国指定の文化財「船絵馬」「髷額」(106点)や県指定の文化財、また当寺26世・義観僧正の仏道修業の遺品の数々が展示されて居ります。中でも圧巻は、僧正が日露戦役の両国殉難者供養のために、五ヵ年を費やして、全国有信男女8万4千人の毛髪を以て刺繍した「八相釈尊涅槃図」でしょう。』
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海難者供養碑・華表・石灯籠・石段。
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華表(鳥居)・石灯籠・石段・宝篋印塔・敷石・土台石…『寺院では「鳥居」を「華表」と云い、明治以前には「寺」に「鳥居」があっても、何も不思議ではなかったのです。また、「鳥居」は日本固有のものではありません。「インド」の「ストウーパ」(仏塔)の四方にも立っています。華表・石灯籠は破損していますが、江戸時代「北前船」によって上方・北陸地方から運ばれて奉納されたものです。華表の竿に「奉寄進大坂境屋」「寛政」の刻字が判読できます。左の「石段」も同様に「北前船」で運ばれて、寄進されたもので「越後宮川信心中」「松前栖原榮徳丸幸吉積下」「安政六年」の刻字があります。※石段横の「宝篋印塔」(県重宝)や本堂前の「敷石」「土台石」も同じように運ばれ寄進されたものです。』。境内地の桜…『境内地いは、合計11本の桜の木があります。例年では、4月下旬から彼岸桜が咲き始め、その後、山桜、しだれ桜、八重桜が咲きます。そして5月中旬まで桜の花が楽しめます。』
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ここには華表の柱部分しかありません。特に説明はありませんでしたが、もしかして山門前にある石はこの華表の笠木・島木部分では?憶測ですが。
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県重宝・宝篋印塔(江戸時代初期・笏谷石製)。
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鐘石。
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鐘石…『叩くと「金」の音がする。昔「黄金持ち」になろうと盛んに叩かれたそうです。』
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ほほえみ観音。
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円覚寺の竜灯杉。
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円覚寺の竜灯杉(町指定天然記念物)…『平成5年12月24日指定。江戸時代、西廻り航路(北前船)の海の男たちが、この沖で暴風雨に見舞われ、髷を切って一心に祈ると、この杉の梢から一条の光が放たれたそうです。九死に一生を得て辿り着いた船乗り達は、常日頃篤く信じていた澗口観音円覚寺にその髷を納めました(重要有形民族文化財髷額)。このような伝説がいつごろからか、北前船の船乗り達に「竜灯杉(竜神が宿って船乗りに助けを与える神木)といわれるようになりました。深浦町教育委員会』
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龍燈杉九字之綱。
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龍燈杉九字之綱…『千古の風雨霜雪に耐え、偉大なるパワーを秘めている御霊木です。紅白の綱を額に当て、願いをこめて「九字」を唱え、千古の偉大なるパワーを頂いてください。九字「臨兵闘者皆陳裂在前」』
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薬師堂。
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薬師堂厨子(総桧造)。国重文。600年前の桧の香が残る厨子。香堂とも。室町初期の建造物で、県内最古のもの。「工匠堂」と称され、飛騨の工匠の作。唐様式入母屋造の白木のままの大変珍しいもので、内殿には木仏薬師如来像と十二神将像を安置。更に至徳2年(1385)銘の鰐口(県重宝)が残されており、豪族の庇護の顕れを見ることができます。なお、太宰治が小説「津軽」執筆のために深浦を訪れて、円覚寺の薬師堂に参拝し、深浦を「完成されている町」と表現しています。
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薬師堂前。
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修行弘法大師石像・開基圓覚法印供養塔。
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案内板より…『およそ「弘法大師」の名を知らないという人は居らないでしょう。それはお大師様の御徳が広大無辺なるためです。昔から、お大師様には五つの尊像があります。これは、衆生済度のために旅から旅へと御巡錫なされた「修行大師」のお姿です。お大師様は、このようなお姿で野を過ぎ、山を越え、海辺を辿り、一歩に一人を済度し、一日に一郷を教化なされたばかりでなく、道なき所に道をつけ、橋を架け、農業はもちろん医療・土木・建築・産業・美術・文学等、あらゆる面にわたりその功績をたてられました。さて、お大師様は承和二年(835)三月二十一日、六十二歳で高野山奥ノ院に御入定なされましたが…「身は高野にあるとも、魂は処々に日々影向を欠かさない」…との御誓願により、日々夜々に影向あそばされ、その御利益は今も昔も変わらないのです。それ故に、「南無大師遍照金剛」の声々は全国津々浦々に普く、その信仰、その礼賛の声は天地に満ち、広大無辺なる御徳は永遠に燦として闇の世を照らし、三界人天の大導師として、真言宗の高祖として、また、日本文化の大恩人として忘れてはならないのです。あゝありがたや南無遍照金剛。合掌』
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不動明王。
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薬師堂横の板碑。安山岩。
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板碑(三基・年代不詳)…『鎌倉時代から室町時代(1186-1614)にかけての石の供養碑を板碑といいます。』
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稲荷堂・金毘羅堂・弁財天堂。寛永4年、深浦は四浦の1つとなり、奉行所が置かれ、北前船貿易華やかな江戸中期から明治中期にかけては、大阪はじめ日本海の港々からの船の出入りが多く、澗口観音と呼ばれるようになり、各港々の船主・船頭の施資によって天保7年に金毘羅堂が建立されました。
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北国船(重要有形民俗文化財)。
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地蔵堂・庚申堂。
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境内ステージ。
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菅江真澄の道(春光山圓覚寺)標柱…『春光山圓覚寺(「深浦の観音様」「澗口の観音」)寛政8年(1796)7月16日、椿山見物に出立する真澄は、「飛騨の工が建て」たお堂を拝観する(「外ヶ浜奇勝」)。これが現在国重文指定「薬師堂内厨子」。寛政9年(1797)2月10日(「つがるのおち」)、この寺で語り暮らした真澄は、「春雪にふり埋れたる雪の梢」を眺めて次の一首を詠む「木々の芽も春の光のやまのはは花とみゆきの霧も長閑かさ」』
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寺宝案内…『国・重要文化財「薬師堂内厨子(県内最古の建造物・室町時代初期)」。国・重要有形民俗文化財「海上信仰資料(国内最古唯一の船絵馬(北国船)及び北前型弁財船船絵馬・髷額等百六点)」。県重宝「鰐口(県内最古(南北朝時代)・至徳二年の銘あり)」「絹本著色聖宝僧正像(鎌倉時代)」「宝篋印塔(江戸時代初期)」。北前船時代の豪商:高田屋金兵衛祈願依頼状。高田屋嘉兵衛帰国御礼奉納品(ギャマン飾玉・シャンデリア)。当寺高僧義観阿闍梨の道業:毛髪刺繍・八相釈尊涅槃絵図。毛髪刺繍・三十三観音尊影。光明真言一万遍写経五輪宝塔。金胎両界大曼荼羅。その他古仏像等々』
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パンフレットより。
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平成30年本尊御開帳日程一覧。
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味のロード会場マップ。
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記念品を頂きました。
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御本尊十一面観音散華。十一面観世音菩薩の御影を当代28世住職が謹写。お部屋の壁の上部に掲げるといいそうです。
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裏面。
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御本尊開帳記念カード型お守り。
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円覚寺付近散策。
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すぐ近くにある風待ち舘前。「北前船」を復元して展示(※写真は館外にある実物大北前船)。深浦町は北前船の寄港地。江戸時代から明治にかけて、北前船の寄港地として栄えた青森県鰺ケ沢町など全国7道県11市町の「北前船寄港地・船主集落」は日本遺産の認定を受けています。
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深浦は津軽で一番の風待ち港として栄えた港でした。行合崎は細長く突き出た岬で、その沖で北前船が行き交うことからこの名が付けられています。行合岬と入前崎に囲まれた深浦の歴史を紹介しているのが風待ち館です。北前船の模型や船絵馬、古い海路図などが展示されています。
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風合瀬いか焼き村(道の駅ふかうら)の場所にあります。
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案内板…鳥居崎(昭和49年8月16日町指定名勝)『弁天島、大島など幾つかの岩礁から形成されており、弁天島には弁財天をまつる祠が建立されています。この鳥居崎という地名は、弁天島に鳥が休んでいるような形状の島があることに由来しており、千畳敷とならぶ景勝地として人々に親しまれてきました。明治時代初期の文献にはここに一軒の茶屋があったと記されています。また、この岬は風合瀬という地名のとおり、男鹿半島方面から吹く風と渡島方面から吹く風が衝突する場所であり、気象や潮流が変化しやすいことから古来より航海の難所とされてきました。』
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それでは向かいましょう。
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一応参道。
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船を見ながら島まで歩いて行きました。
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途中からは海の上を歩きます。
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高さは全然ありませんが、柵が片方にしか設置されていないので足元には注意してください。
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海風が気持ちいいです。
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近くまで来たら思っていたより大きい岩です。
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更に進んで…
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灯台が近づいてきました。
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向こうの岩の上部の穴に鳥居みたいのが見えました。
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どうやってあんな場所に設置したのだろう。
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高所恐怖症なのであまり上る気になりませんが…上ります。
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凄く急な階段。
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鳥居崎灯台(初点昭和41年)。
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激しく変化する強風…そして柵が無い岩山…怖い怖い!!小さなお子様連れは絶対に行かない方がいいです。
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そして弁天様はというと…
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あそこかよー!!高所恐怖症の限界画角写真です。
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船から参拝するか、下記写真の岩山の間からすぐに行くことができそうですが、一応柵があるので立入禁止ってことでお願いします。なにせ弁天島には個人的に苦い思い出がございますので。
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胸肩神社(鳥居崎の弁天様)の御祭神は市杵嶋姫命(弁天様)。勧請年月日不詳。
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鳥居崎の弁天様として、風合瀬、晴山、貝良木の漁師たちから篤く崇敬されてきました。
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先ほどの小さな鳥居みたいなやつ…上からの図。
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通ってきた道…上からの図。
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さて、景色はいいけど怖いのでさっさとイカ焼き村に戻ります(笑)
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北金ヶ沢村は海岸沿いに形成された深浦台地上に発達し、南は白神山地に続き、北は日本海に面しています。
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胸肩神社のすぐ先は海(弁天崎)です。
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御祭神は市杵島姫命(弁天様)。
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創建は不詳ですが、金ヶ沢の弁天様として漁師から崇敬されてきました。
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平行して隣の鳥居の中央には遮迦羅龍王神(昭和26年8月28日)と刻まれた石がありました。
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その裏手には馬頭観音の石碑が安置されています。
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こちらの2つの小祠には仏像・神像・鏡・オシラ様・大黒天&恵比寿天・不動明王などなど…色々と祀られています。
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稲荷御堂。
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馬頭観音の裏にあるこちらの小祠には木彫りの神像一体が祀られていました。
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幸神・庚申塔(安政2年、嘉永7年、弘化3年、天保3年)。
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青面金剛塔(寛政12年)。
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弁天宮横にいくつかの碑が建っていました。
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一際大きな碑は吉川芳雄氏顕彰之碑。吉川芳雄氏畧歴…『一.初代大戸瀬漁業協同組合長。一.青森県信用漁業協同組合連合会長。一.青森県議会議員。一.西部海区漁業調整委員会長。一.青森県漁業共済組合長。一.其の他漁業関係団体の要職を歴任。一.昭和46年11月3日勲五等を授与さる。』
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魚介藻の供養塔。
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奉齋海童三社大神・金比羅大権現。
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