くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ: 寺・神社 (板柳町)

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青森県北津軽郡板柳町大字板柳土井。
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由緒等は前回の記事も参照ください。
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鐘楼等。
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板柳町役場付近の散歩していた際に立ち寄りました。
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本堂。安田次郎兵衛菩提寺。
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中央アップルモールにあった案内板より…『【宗派】真宗大谷派(東本願寺)【本尊】阿弥陀如来【所在地】板柳町板柳土井二四一(博労町)【住職】高澤彰玄(第十六世)【什物】●五劫思惟如来像●梵鐘(昭和30年鋳造)●本尊阿弥陀木像。●縁起…弘治2年(1556)水戸の国、鷲子(とりのこ)の照願寺の順義上人が本願念佛の教法宣布のために陸奥国に下向され、波岳(現浪岡町)の松枝山中に念佛道場の大道精舎(大道寺)を建立して開基となる。元亀元年(1570)堀越城下に移転し、さらに真教寺(弘前市新寺町)構内に偶処したが、正保3年(1647)板屋野木村に引越し、万治2年(1659)板屋山正休寺と号す。明治初年に山号を五雲山と改めた。本堂は明治27年類焼により再建。現庫裏は平成11年12月落慶。山門は昭和61年3月20日に板柳町文化財第2号に指定された。』・『【五雲山正休寺山門(板柳町指定文化財)】正休寺は万治2年に開基された。山門は建築学上の鑑定により、寛政年間(1751-)の建物と推定され、切妻造、四脚門、組物平三斗、中備蟇股、笈形付大瓶束など、大胆な構成が特徴である。当時の宮大工の気概と技量が遺憾なく発揮された貴重な建造物で、昭和61年(1986)3月20日、板柳町文化財第2号に指定された。』
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五劫思惟如来像(鎌倉時代の作、作者不詳)。板柳開拓の草分けといわれる会津八十右衛門が自家の内仏であった如来像を、万治2年(1659)正休寺に寄進した。身丈六寸。
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板柳町には深味八幡宮や杉山屋敷跡のほか、御成座敷、石田路、杉山渡などの縁の場所があります。
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詳細は以前の記事も参照ください。
前回の記事と関連記事
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杉山屋敷の入口左手に樹齢約400年の赤松とオンコ(イチイ)の木が根をからませて聳え立ちます。その盛りあがった根の上に高さ約70cmの石塔があり、南無観世音菩薩と刻みます。これは杉山家二代吉成が、杉山源吾の供養塔として建てたものと推定。弘前城へ出仕してから三上家が管理。跡継ぎは代々喜平と名乗り「鍵持ち喜平」(鍵持ちの喜兵衛)と呼ばれました。
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杉山源吾は慶長15年4月に津軽家が関ヶ原の戦いの功績で得た上州大舘(群馬県太田市)の地に移されます。嫡男吉成が生まれた年が慶長12年頃で、次男も翌年生まれましたが、この二人の生母朽木某女は、次男誕生後間もなく亡くなっています。よって二人の世話をしていた拓殖某女を随伴しての移転でした。移ったのその年、三成三女が津軽二代信枚に嫁いで、その嫁ぎ先がこの大舘なので、源吾は妹辰姫の世話役に任ぜられました。辰姫はその後大舘御前と呼ばれます。慶長18年に家康が姪の満天姫を養女とし、嫁がせたため辰姫は側室に降格。しかし辰姫は元和5年に三代目となる信義を生んだことで、津軽家と杉山家の縁を強く結ぶことになります。源吾の嫡男吉成は元和7年15歳となり元服し、信枚の招きで津軽家へ出仕し、300石を拝領、後には1300石の家老となって杉山家の基となりました。辰姫は、元和9年7月、我が子の藩主姿を見ることなく、32歳で生涯を閉じます。源吾はこの後、後妻となった拓殖某女との間に生まれた三男成保とともに江戸早稲田に移り住み、津軽家から400石の合力米を支給され、寛永18年に53歳で亡くなりました(※諸説あり。慶長15年4月28日に若死したという説等)。
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ちなみに2代吉成は寛文9年に蝦夷地で起こったアイヌの蜂起シャクシャインの戦いで、弘前藩侍大将として総勢700名で蝦夷地に渡海して幕府から褒賞を授与されています。この2代吉成を含め、家老職となったのは4代成武、6代成縯■(糸+演)、9代成章(家老格)、12代龍江(成知)の5人。家老にはなりませんでしたが11代成範(源吾)は、東奥義塾高校の前身である稽古館の11代総司に任じられています。明治には孫の13代燾之進が東奥義塾の七代塾長を受け継いでいます。12代龍江の時、津軽に豊国神社を再建して弘前城に隠されていた太閤秀吉像を祀りたいと、祖先石田治部少輔の名と由来をもって塩谷青森県参事に明治9年3月に公に願い出ていますが実現されず。しかしながら、維新後に豊臣石田三成の末孫を表明してはいたものの、この願い出によって杉山家が石田三成の子孫であることが公となりました。
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※杉山源吾(石田隼人正重成)…『天正17年-寛永18年(1589-1641)石田三成の次男。大坂では太閤秀吉公へ勤仕、五千石を領します。関ヶ原の戦い当時は12歳で大坂城にいて、父三成が敗れたことを知り、津軽信建の手引きで津軽深味の里に落ち隠棲し杉山源吾と名乗ります。津軽二代藩主信枚の側室大舘御前は妹』
※杉山吉成…『慶長12年-寛文12年(1607-1672)杉山源吾の長子、石田三成の孫。元和7年(1621)深味村より、二代藩主信枚に召し出され、はじめ三百石、後に累進して千三百石。寛文9年、松前の蝦夷反乱に幕命により侍大将として渡ります。』
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※三上家(源吾の家)…『三上家は神傅家同様の旧家にして代々喜兵衛と称し八幡宮の鍵を預り居るをもって鍵持ちの喜兵衛と呼ぶ。同人の屋敷は杉山祖先の屋敷にして「杉山屋敷」と称し東南隅に小高き社あり。天に聳ゆる老松二株及古桜一株あり、往時の面影を残せり。』
※深味杉山屋敷跡…『慶長5年、関ヶ原の戦いで敗れた石田三成の二男隼人正源吾が徳川方の追及を逃れ、海路津軽西浜に上陸。深味の地に亡命し、はじめ神家に身を寄せた。このとき源吾12歳。その後、杉山に姓を変え、守護神を祀りながら秘かにこの地で隠棲。源吾は一児をもうけ、慶長15年4月28日23歳でこの地で没した。2代目八兵衛は寛永10年、3代信義に召出されて1300石の本侍となり、この地一帯が杉山の知行所となった。弘前城下に移住するまでこの地で生活。今でも古老たちはこの地を杉山屋敷と呼ぶ。』※記載年は最近の考証と異なります。
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深味村について…『江戸期-明治22年の村名。津軽郡田舎庄のうち。弘前藩領。村高は「貞享郷村帳」2,407石余、「貞享4年検地水帳」760石余(田709石余・畑屋敷50石余)、「寛保高辻帳」2,407石余、「天保郷帳」607石余、「旧高旧領」806石余。石田三成の次男隼人正源吾は関ケ原の戦後当村に逃げ、杉山と姓を変えて隠棲。その子八兵衛吉成は寛永10年弘前3代藩主信義に召し出され、その後当村は杉山氏の知行所となった。また杉山氏は寛文9年松前出陣の際、武運長久を祈って八幡宮を建立したといい、御神体は豊臣秀吉の守神と伝える。「貞享4年検地水帳」によれば、小字に「村本・西田・岸田・岡部」があり、反別は出65町余・畑6町余・屋敷散2町余(うち郷蔵屋敷1畝余)、ほかに勝太夫抱えの八幡社地がある。元禄3年には藤崎組に属し村位は中。当村の開発の中心を担ったのは神氏で、7代伝四郎は大田村・長野村と3か村の庄屋を勤め、元禄7年には小阿弥堰役として水下百姓662人を取り扱った(神家由緒書)。10代伝右衛門は3か村の庄屋を勤めたほか開発下取扱・小阿弥堰役を兼ね、郷士に取り立てられている。寺院は浄土宗浄業庵があり、安政5年の再建といわれる。明治4年弘前県を経て、青森県に所属。同11年南津軽部に属する。明治3年知藩事津軽承昭が10町歩以上の耕地所有者に耕地献田買上を論し、これをもとに翌4年には士族の帰農在宅が行われたが、同年当村に帰農を割り当てられた在宅士族は俵子80俵5人、60俵4人、21俵1人、20俵4人、15俵1人の計15人であった。明治初年の戸数53。同12年の「共武政表」によれば、戸数51、人口320(男169・女151)、馬23、物産は米・糯米・大豆。同22年畑岡村の大字となる。』。深味の名称について…『始め草分けの弥四郎なるもの聞きしが、杉山氏の知行所なりてより深味と命名せり。草深き意にて深美と古書に見ゆ、神社のある所を深宮と称せるにて、考えれば深味は深宮の短縮せるものなるべきか。』
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先祖代々武運長久の守護神として祭り、杉山八幡宮と称しました。御神体は三寸三分金無垢の像、石田家紋章、三成の陣羽織、籠目風車の幔幕。寛文9年に新たに建立し村社、八幡宮として称されます。例大祭は6月15日。現在の八幡宮は昭和37年に建立され、同年8月14日に落慶式が行われています。翌15日の大祭について「前夜祭ならびに大祭に際し善男善女合わせて数千人を超え、近年稀に見る大賑ひを呈せり」と伝えます。
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慶長5年9月15日、関ヶ原における西軍の敗報は、その日の中に大坂城へもたらされたと推定。17日の夜に石田三成の次男重成は城内から脱出して密かに奥州へ逃げ延びたと伝えます。脱出の際には津軽家当主為信の嫡男信建が家臣を警護につけ、日本海を船にて、若狭小浜から津軽へと落ち延びたといいます(※津軽に逃れたのは年を越して半年後だったともいいます。波の荒い季節を避けるため敦賀の津軽屋敷に逗留したため。)。このことは三成が信建の元服時の烏帽子親を務めたことが関係しています。重成は杉山源吾と名を改め、板柳町深味に隠棲。寛永18年4月8日53歳で卒去。その嫡男杉山八兵衛吉成が弘前藩に重臣として出仕。なお、重成が大阪城から携えてきた家宝の記録があり、「甲冑(一領)、薙刀(銘関住兼宣一口)、刀(銘以南蛮鉄越前康継作之 為石田治部少輔一口)、豊太閤坐像(一躰)、杉山八幡宮神像(一躰)、御先祖肖像(一幅)」。甲冑は兜が明珍信家の製作で、胴は鐶之鎧で同じく明珍信家作。面頬が明珍宗時の作で、臑当が明珍高義の作と伝えます。薙刀は、美濃国関に居住した徳永派の鍛冶で、加茂郡平賀郷(関市平賀町)に居住した室町時代の刀工。刀の康継は下坂市左衛門のことで、長浜城時代の秀吉とその家臣の抱鍛冶だった下坂鍛冶の棟梁。御先祖肖像は「絹本著色石田三成像」のことで桃山時代末期-江戸時代初期に描かれた現存唯一の三成肖像画(但し、大坂城から携えてきたものではないと推量)。
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板柳町史によりますと、深味村には慶長5年に大坂城にいた三成の次男重成が、佐和山城陥落の報を聞き、家臣とともに津軽家に頼んで奥州に落ち、姓を杉山と変えてこの地に隠棲したとあります。更に源吾の子八兵衛吉成は、寛永10年、津軽三代信義に召し出され、その後深味は杉山氏の知行所となりました。現在の深味八幡宮も先祖代々の武運長久のため建立したものと伝え、杉山氏は家臣とともにこの地に隠棲しながら開墾に当たったといいます。
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信建の命をうけ先導したのは為信の功臣神丹波ではないかといわれており、重成が津軽に入って、丹波の一族神家がある深味深宮に隠れ住みました。随行者は総勢21名(男18名、女3名)で、このうち多くの人は深味、神家の世話にて深味周辺に土着して開拓に従事。なぜ杉山を名乗ったのかについてですが、「杉山に関する取調帳によりますと「八幡宮の神体は太閤秀吉が護身即ち肌着の守り神とせるものなるを石田三成の偉功を賞せられて近江国杉山と称する所に於いて親しく賜りたるものなり。故に右名誉の地名を以て苗字を杉山と改称したるものなり」とあり、また重成は幼少ながら江州杉山の郷(滋賀県甲賀市信楽市杉山)に五千石を拝領しており、その所領であった江州杉山に由来するのではないかとの説があります。深味字深宮の深味八幡宮は最初杉山八幡宮と呼ばれていました。
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百万遍。
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馬頭観世音。
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庚申塔前の鳥居。
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庚申塔。猿田彦大神は文政、庚申塔は明治35年、二十三夜塔は昭和20年。その他不明。
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鳩一対(平成8年8月15日)。
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御神馬。
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石灯籠一対(蔓延元歳庚申6月吉日・神定久敬建)。
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山の神っぽい神像(昭和35年旧12月12日、三上金九郎、宮田武雄建立、撫牛子桜庭石材店)。
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手水石(昭和18年旧6月15日、三上忠太郎敬白)。
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狛犬一対。
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神社の鍵は境内の隣の家に住む神家で預かられています。また、杉山家当主が代々詣でるための座敷が神傅家にあり、御成屋敷(かつては大銀杏がありましたが台風で倒木し、昭和32年伐採。現存せず。)といわれていました。
※神傅家…「深み味名称の下に記載せる、草分の弥四郎は代々其村の庄屋を務めるものなるが、苗字を神と称し、名の頭文字に傅字を冠する人数代主人たるを以て、単に神傅と称する。杉山家より紋所ある衣装を贈らるる深き関係。其家に特別座敷ともいうべき平素使用せざる座敷あり。杉山主人春秋八幡宮祈願の折に休憩すべき場所にして村民御成屋敷と称すという。」
※銀杏…「幹の二間ばかり上より、8、9本ばかり大枝生えし居り。鬱蒼天を覆い、その下昼なお闇き有様なり。たしかに250、260年以上を経由したるものと思はるる。先年1本の枝折れたるが、人々其枝を用いて二斗入臼数個を作りたるを以て其大を知るべし。この銀杏樹は杉山源吾八兵衛が所有地の無事永久を祈る紀念として其鞭を地上に押立たるが、漸次成長して大きくなりたるものなり。果実の普通のものと殊にして量なく、円形なりと、村翁たち口々に之を説けり。」
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拝殿内には寛文9年に吉成が蝦夷地出陣の際に使用したと考えられる陣幕があり、その前のケースには杉山家12代目龍江が寄進した帷が納められています。
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拝殿向拝にあった資料(※長いので一部抜粋・文:本田伸氏、転載禁止)より…『(前略)関ヶ原敗走後の三成は近江国伊香郡古橋の山中で捕らえられ、京四条川原で処刑されたが、子供たちは助命された。「石田の謀反のお蔭で徳川の天下になったのだから、息子の一人や二人助けてやっても良い」という本多正信の物言いこそ小僧らしいが(「東照宮御実紀」)、戦争犯罪人には厳しく対処する当時の常識に照らした場合、まずは徳川方が寛容を示したと言えよう。三成には二男三女があったが、五千石で秀吉に出仕していた次男源吾(隼人正)は縁故を頼って津軽に入り、津軽家の客分となった。やがて杉山姓に改めたが、慶長十五年(1610)に25歳で病死している。許されたと言っても他に対してはなお憚りがあったが、その後も子孫が家系について語ることはほとんどなかったようで、天保4年(1833)に藩へ提出した系譜書上(「杉山貞五郎由緒書」)の冒頭にも「先祖、豊臣姓杉山源吾、実名不伝承候」と記すなど、秘密主義の一端がうかがえる。「杉山の家、凡て秘せる事多き故」(「津軽藩旧記伝類」)という評も、このあたりを指してのことだろう。源吾の姉辰子(曾野。源吾の妹とも、子ともいう)は太閤秀吉の養女となっていたが、関ヶ原戦後は上野国大館に移り、源吾の津軽入りが縁で二代弘前藩主津軽信枚の側室となった。三代藩主の信義(初め信吉)を生んだ「大館御前」その人である。元和9年(1623)に32歳で亡くなったといい(諡号は荘厳院)、とすれば信義は、母親とわずか5年ほどしか過ごさなかったことになる。そのこともあってか、寛永10年(1633)、信義は深味村(現板柳町)に隠棲していた源吾の長子吉成を召し出している。同じ三成の孫、従兄弟としての気易さが働いたのであろう。この吉成は、続く四代信政の時に起きた寛文蝦夷蜂起(シャクシャインの乱)の際、一番大将を命じられて松前に渡り、その功により1300石・家老職へと進んだ。以後、杉山家は代々「八兵衛」を名のり、重臣の列に加わって、藩政を内から支える存在となる。幕末には杉山上総(龍江)が出て弘前藩の権大参事(副知事にあたる)となり、政府との関係調整に奔走した。龍江は政治力を買われて中・北・南津軽の郡長を歴任し、維新の浸透と庶民の啓蒙に努めた。その子燾之進は明治30年(1897)に東奥義塾の教頭に招かれ、翌年には塾長となって経営にも参画している。(以下省略)』。拝殿向拝にあった資料(※一部抜粋・文:神慶三氏、転載禁止)より…『(前略)町内の銀杏の巨木。その木立の間には「入ってはいけない」場所があった。じつは神さんの住む深味地区は、石田三成の子、杉山源吾が隠棲した場所。立ち入り禁止のその場所は、後の杉山家が当地を訪れたときの休憩所「御成屋敷」跡だった。神さんの家の隣には杉山家に縁のある深味八幡宮がある。(中略)今ある神社は昭和37年に建てられたもので、そのときに植えられた杉が高くそびえている。(後略)』。拝殿向拝にあった資料(※一部抜粋・文:編集部、転載禁止)より…『(前略)案内したのが津軽家に長く仕える板柳の神傳家。板柳町は岩木川の川港として賑わったところであり、密かに逃れ来た石田の子孫が人目に付かずに隠れて上陸するには最適の地だったのではないだろうか。板柳の伝承では、逃れ来た時、ここで篭が急に重くなって動かなくなり、持ってきた鞭をそこに刺すと、根を張り巨木となったと言い伝えられている。(中略)源吾はしばらく板柳の地に隠れ住み、ここで杉山姓を名乗る。津軽藩に召し出されたのは、その子とも言われている。杉山家は徳川政権の中で、プライドを失わずに生き延びるために、家系図をそれとなく工夫し、杉山家には秘したることを多しと言われている。しかし、墓所には豊臣という文字が多く刻まれているのも不思議なことだ。(後略)』
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