くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ:寺・神社 (宮城県) > 寺・神社 (仙台市)

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榴岡天満宮(仙台市)』からの続き。
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躑躅岡八幡神社。
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神額。
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躑躅岡八幡神社前石灯篭一対(文政10年6月吉日)。
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社殿内。
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隣りは庚申塔なのかな…
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足元に言わざる聞かざる…見ざるは!?
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建物の横に庚申塔2基。
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紀年銘は嘉永3年8月朔日と文化5年5月吉祥日。
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『「世に競べ身にくらべけり竹の露」禾月』
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『「五月雨やある夜ひそかに松の月」雪中庵蓼太嚢菴白麻建之』
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『「道ばかり歩いてもどる枯野かな」日人』
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萬句俳諧奉納記(享保8年(1723))。
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『「木をはなれ草を離れて秋の月」三江会南幽・嘉永4年(1851)辛亥7月3日門人建立』
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摂社妙見宮。
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妙見宮前石灯篭一対(文化4年6月25日)。
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妙見宮狛犬一対。台座は読み取れず。
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妙見宮本殿。
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本殿裏に石碑がありましたが片手に傘状態だったので読んでいません。
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妙見宮横の石碑。こちらは草木が邪魔だったので読んでいません。正直石碑疲れしてきました笑
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それでも続く石碑。こちらは佐藤助右衛門碑…読む?読まない?…適当に頑張ってみる!(※異体字使用も変換できなかった字あり)…『佐藤助右衛門救災碑 正四位伯爵伊達宗基篆額 今茲九月仙臺富豪相議将為故佐藤君助右衛門建一大碑紀其當年有大功徳干民者以使後人有所瞻仰焉乞文於余且謂日我佐藤氏之功徳膾炙人口雖然君子之澤五丗而斬不朽是擧今之時為然此所以煩税筆也余辞以非其人不可案状君諱季明世稱助五郎家■佐助君為其第四代住仙臺大町第二坊業綵緞舖為人豪爽而慈仁及承家蒙道日盛甞納■師中田三平之議旁賣故衣檠布於大甼第一坊支舗大得奇利同業相垢誣君曰故事賣故衣■布者必柞大町第一坊今助五郎肆滕而賣於第二坊此蔑藩制者敢効藩一諸理無幾情白事釋君奮日聞封内頻年不登藩帑告匱我公以為憂吾今速得免母望之禍者我公之恩也不可不報也乃献金二千兩以充救恤之資宮賞之収為卒賜禄十八口糧許妻孥服帛■異數也尋父献金五千六百両宮又賞之陞班大番隊士加禄二百五十石併前食三百三十石於是改今名君素有吏幹擢任勘定奉行有料量均平之稱尋遷郡奉行治績可觀天保丙申大餓茲土特甚道饉相望藩公軫念委以賑濟之事君慨然自任拮据周旋或弧人他封賤糴米粟以資其賑恤或和買手製物貨於城中給以米糧以濟其顛連更發私儲以繼之日吾平日勤儉蓄財者待今日之用耳百方周救資産為空蓄民頼以全活者幾千人感泣相語日願使佐助氏多子孫藩公嘉賞寵以章服一襲不幾商店大行資産復故今也茲土富豪輩出財累巨萬者不為少佐助氏猶厳然為市中之選者蓋君積善之餘慶也君弘化三年四月十一日病歿享年五十有六葬於城南昌傳庵其先塋也嗚呼君之所■設如此平生之■行可紀者不一而足今得於救災一事三致意者富豪諸氏之志也銘曰 積而能散 談何容易 彼頑無識 貪■之事 聞君風者 豈不内塊 信哉積善 天錫餘慶 家門緝揚 孫子蕃昌 欲知厥審 此碑是詳 明治三十三年十月 仙臺 木村敏撰 佐佐木舜永書』
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ってことで石碑解読疲れしたので…
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まずは榴岡公園へ。仙台駅から歩けなくもないのですが、雨だったので仙石線で向かいました。榴ヶ岡駅まで1駅です。駅にあった榴ヶ岡駅の駅名由来…『平安時代初期、坂上田村麻呂の軍勢は、この付近に立てこもっていた蝦夷の首領・悪路王との激戦の末、ようやく勝利して、この岡を占領しました。その時、田村麻呂は持っていた鞭を岡に突き立てて戦勝祝いを行ったといいます。そこで、この岡は「鞭建(むちたて)の塁」と呼ばれました。その後、岡にはツツジの花が咲き乱れ、花を摘み布に模様を付ける「ツツジ染め」の産地となりました。このツツジ染めは全国的に有名になり、特に都人に愛用されました。これが「榴ヶ岡」の名の由来とされています。榴は通常「ざくろ」と読みますが、「山榴」と書いて「ややつつじ」と読むこともあります。「躑躅(つつじ)」の字画が多いため、この字を用いたものと思われます。この地名の由来を受けて、大正14年(1925)6月5日、宮城電気鉄道(現在の仙石線)が当地に開通したとき、榴ヶ岡駅が開業いたしました。◆参考資料仙台鉄道管理局「駅名ものがたり」』
鹿島神社に伝わる藤崎町の町名由来のツツジヴァージョンですね。
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榴岡公園は、仙台藩4代藩主伊達綱村が榴岡天満宮の北東の宮城野撓曲上、現在は宮城県公文書館が建っている場所に躑躅岡釈迦堂を建立し、同堂の南側隣接地の宮城野撓曲上(榴岡天満宮の東側隣接地)に馬場・的場も設置して、京都から取り寄せたシダレザクラ・マツ・カエデなど1000本余を植栽し四民遊覧の地として開放。「桜の馬場」と称されて桜の名所となりました。桜は文化年間の大火により大半を焼失。明治8年に歩兵第4連隊が組織されて、榴岡公園の東側隣接地の宮城野撓曲上、即ち現榴岡公園において旧町名が二十人町通、現住所が五輪1丁目である区域に設置されました。明治35年に桜の馬場を県立公園「榴ヶ岡公園」として開園。大正13年には榴岡公園(榴ヶ岡)が名勝に指定され、記念として昭和3年に桜100本が植えられました。昭和43年「榴ヶ岡(桜)」の名勝指定解除。昭和46年に躑躅岡釈迦堂は孝勝寺に移転。平成元年日本の都市公園100選に選ばれています。なお、元禄年間に伊達綱村により植えられた白色や薄紅の一重咲きのシダレサクラは「仙台枝垂桜」とも呼ばれ、また、八重紅枝垂は仙台市長の遠藤庸治が普及に努めた品種であり、子孫樹が平安神宮などにあります。「伊達家の桜」とも言われており、園内に限らず仙台及びその周辺に多く見られるそうです。
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「少し遅めに花が咲くシダレザクラが多く、ソメイヨシノ、ヤエザクラ、ヒガンザクラ、薄い黄金色の花を咲かせるウコンザクラなど370本近くの桜があることから、長い期間花を楽しむことができます。」とのことで、桜まつり期間でもありましたが、既に桜はこのような状態でした。雨が降っていたので人もいません。
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ってことで、こちらの案内板でお楽しみください。シダレザクラ、ヤエベニシダレ、イチョウ、ギョウイコウ、エドヒガン、カスミザクラ、カンザン、スザク、ジュウガツザクラ、ヤマザクラ、モチズキサクラ、ミクルマガエシ、ソメイヨシノ、オオシマザクラ、エド、キリン、ベニシダレ、フゲンソウ、ショウゲツ。
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榴岡「八重紅枝垂」の碑…『榴岡の一重薄紅枝垂れ桜は伊達家四代綱村公植栽と言われる由緒ある桜で「名勝」ともなっていたが、終戦前後の荒廃で枯死寸前となり、これを憂えた老人クラブ榴岡明寿会は昭和38年3月八重紅枝垂れ桜を4本植えたのが始まりで以降毎年植えつゞけ、現在までに同桜152本、其の他を植栽した。この成長開花に応じて二十人町花見協賛会は昭和50年4月より提灯を取り付け売店を設ける等市民の観桜に協賛し奉仕している。茲に、明寿会創立26周年並びに二十人町花見協賛会創立10周年を記念しこの碑を建てる。昭和59年4月吉日榴岡明寿会会長八島炳三・二十人町花見協賛会』
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榴岡天満宮へ向かいます。榴岡天満宮は宮城県仙台市宮城野区榴ケ岡に鎮座。案内板によりますと「藤原基衡の臣、佐藤小太郎基春が国分荘の領主となったとき、柴田郡川内邑(今の川崎町川内)から小俵邑(今の小田原)玉手崎に遷した神社であったが、慶安3年(1650年)東照宮建立に際してここに遷された。寛文7年(1667年)3代藩主綱宗公が改築したが丹塗りの唐門を残して、寛政7年(1795年)社殿を焼失した。今の社殿はその頃の再建である。仙台市」とあります。創建は平将春が陸奥国宇多郡(福島県)に北野天満宮(京都府京都市上京区)の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。その後、宮城県柴田郡川内村に遷座し、天文20年(1551)に小俵玉手崎(現在の仙台東照宮の境内付近)に遷座。江戸時代に入ると仙台藩主伊達家の崇敬社となり、仙台城築城の際に境内の樹木を伐採して利用したことから神意に感謝し社殿が造営されています。慶安3年(1650)に仙台東照宮が造営されると現在地に遷座し、寛文7年(1667)に3代藩主伊達綱宗より本殿や拝殿だけでなく、山門や神楽殿など多くの建物が造営されて「照星閣」と称されました。現存する榴岡天満宮唐門は向唐門と言われる形式であり、銅板葺、一間一戸の建物で、外壁全体が朱塗り、蟇股や組物が凝った造りになっている貴重な建物として、平成7年に仙台市登録文化財に登録されています。
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榴岡公園から向かったら裏口(社殿横)に到着しました。
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改めて正面に向かいます。
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狛犬一対(平成16年・皇紀2664年建立)。
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大きい狛犬です。
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案内板。この後も由緒について似た内容が続きますが一応掲載しておきます…『仙台市の観桜地として有名な榴ヶ岡に鎮座する榴岡天満宮は、社伝によれば平安時代の天延二年(974)に山城国(現在の京都府)に創建、平将春により陸奥国宇多郡(現在の福島県)に勧請された。その後小田原(現在の仙台市青葉区)への御遷座を経て、寛文7年(1667)7月25日には3代藩主伊達綱宗公の意思により4代藩主綱村公によってこの榴ヶ岡に遷され、丹塗りの社殿・唐門を新たに造営、菅原道真公の真筆(直筆の書)が奉納された。当社の御祭神である菅原道真公(天満大自在天神)は、学門・政治の主祭神であり、また弘法大師、小野道風と共に、書道の三聖として詩歌・書道の神としても尊信されている。境内には市指定文化財の芭蕉句碑があり、唐門は市登録文化財となっている。』
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案内板の写真(榴岡天満宮・榴岡天満宮例大祭)。
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地図。
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社号標「躑躅岡天満宮」。
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鳥居と参道。
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鳥居扁額「躑躅岡天満宮」(奉納者仙台市猪股正武・文部大臣愛知揆一謹書)。
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鳥居前石灯篭一対(東日本大震災御社殿復旧記念)。
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伊藤清次郎翁篤志記…『當社参道石段寶暦十一年在原養元募資修築爾來百七十餘年所々頽破且急峻不便登攀伊藤清次郎翁憂之捐資重脩平其峻擴其階以便參詣矣今茲功竣記其篤志云昭和六年八月二十五日 社司安西茂知 總代冨田寿之進』
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隣りの石碑は読みにくかったです。
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星恂太郎碑(星君恂太郎碑・明治29年12月正二位勲一等子爵榎本武揚題額・仙台大槻文彦撰文)…『仙台藩祀東照公供祠務者六戸曰六供掌点茶事星氏其一也星恂太郎君以天保十一年十月四日生父名道栄母洞口氏君為人短小精悍有胆気好武技不屑茶儀慷慨詭激動輒以気凌人人罵其狂君曰人言当矣因自名曰忠狂時外事日逼攘夷開国分党相鬩藩老但木土佐儒臣大槻磐渓専主開国君怒曰是国之蠧也与同志士金成善左等謀刺之磐渓喩以海外大勢君大悔悟遂脱走江戸時土佐在江戸有藩士富田鉄之助以義侠聞一夕抵土佐索数金土佐問将何用曰恂太来投我彼材可用請資而遣之土佐笑曰吾子亦解人也乃投以十数金於是君去游四方与志士交遂就米国人於横浜講究洋兵学就林祭酒久世侯並聘教練其家兵戊辰変土佐徴君趨急君踊躍曰足以償前罪矣乃馳還献計募藩士少壮千許人請磐渓名額兵隊教練四月而成八月擢大番組士班賜俸百七十石時四境告急藩促出兵君曰我兵屡敗以糧餉弾薬不備也乃百万蒐集発有日矣会土佐見斥奥羽同盟瓦解藩論一変罷兵君憤慨曰一戦而克猶不足挽大勢耶乃檄於市不告而発進到槻木駅時九月十五日也藩主大驚馳止之君不得已還屯宮床村伺動勢時幕府海軍将榎本武揚率艦隊泊松島湾将走箱館使人招君々遂以隊兵投之乃謂部下曰欲去者去奮請従者二百五十人十月従武揚至鷲木尋破川汲嶺陥松前城額兵隊毎戦有功明年四月西軍大挙来討海陸鏖戦両軍死傷無算武揚拠五稜郭戦酣西軍餉以酒衆疑不飲君笑曰我輩命在旦夕彼豈須毒我乃大■数椀曰美酒々々既而西軍諭降武揚会君等諸将議曰孤軍難支不若吾輩就誅免我衆五月十八日終降三年六月君見釈仍留在北海道従拓殖事尋出仕開拓使進大主典四年六月移家於岩内開製塩場六年辞官客遊上国謀興業九年七月二十七日病歿於仙台年三十七葬北郊万日堂配金成氏名鶴善左妹初君将発過善左曰一死報国吾所期也独有老親在請得君妹以托之善左問妹々時年十七曰義師不振妾痛次骨星君幸有是挙使其無後顧之憂妾願也遂帰焉生二女於岩内君歿後帰仙台紡織賃作養姑撫孤先是武揚官于朝善視遺属故旧相謀贅榎本対馬次子孝三郎配長女対馬嘗同走箱館者次適樋口忠一君有義弟半齋別成家仙台士荒井悟亦嘗同従軍今茲与同志謀欲為君建碑著其蹟。徴文于余々亦従事戊辰役者也乃不辞為之銘曰 君嘗遺言 宜死北洋 不幸余生 帰葬故郷 勿封勿碑 任厥廃荒 吁嗟星君 忠烈酬国 死不顧名 人則■惜 掲厥峻節 銘茲貞石』星恂太郎(天保11年10月4日-明治9年7月27日)は幕末の仙台藩士で額兵隊隊長。天保11年に東照宮宮司星道榮の息子として生まれ、台所人小島友治の養子となり孝治と改名するも、料理人になるのを嫌い離縁し、生家に戻って武芸を修めました。激高しやすい性格で、国学を修めたことから元々過激な尊王攘夷派でもあって、仙台藩の開国論を推進していた家老但木土佐などの面々を国賊と見なし、金成善左衛門ら友人と徒党を組んで斬ろうとしましたが、同じく開国派の大槻磐渓の暗殺を図った際、逆に磐渓から世界情勢への無知を諭されて改心。自分の無知さを恥じて脱藩して江戸に出ます。元治元年、江戸で滞在費に困り、友人の江戸勤番藩士富田鐵之助に金を無心したところ富田は家老但木に相談。但木は恂太郎が自分を殺そうとしていたことを知っていましたが、将来有望な士であるとして資金援助を快諾。こうして藩の半公認を得て、恂太郎は幕臣の川勝広道や下曽根信之から洋式の銃隊編成訓練を学び、横浜に赴いては、アメリカ人の貿易商人ヴァンリードの店で使用人として働きながら、夜は西洋軍学(特に砲術)を学びます。戊辰戦争が始まって東北征伐が議論されるようになると但木は恂太郎を招聘。藩兵楽兵隊の訓練を委ねます。これにより藩主伊達慶邦からもその才能を認められて大番士に任命。楽兵隊はその後諸隊に編入されて弱体化したため、恂太郎は新たに藩士の次男、三男らを800人集めて洋式軍隊である額兵隊を組織しました。仙台藩は奥羽越列藩同盟の盟主でしたが同盟の南部諸藩が敗れたのを見て、新政府軍とは戦わずに降伏恭順する道を選びます。しかし星らはこれを潔しとせず独断で出撃を決意し相馬城を占領。慶邦の説得も半ば無視するも結局は新政府軍との交戦を断念。仙台藩の中には邪魔になった星恂太郎を暗殺する計画もありましたが、榎本釜次郎の説得に応じて額兵隊を率いて蝦夷に逃れることになり、衝撃隊の細谷十太夫の協力と後押しもあって旧幕府艦隊と合流を果たしました。箱館戦争では禁酒して別人のようになり、榎本率いる蝦夷島政府陸軍の第三列士満第二大隊長として奮戦。木古内の戦いで官軍の攻勢に抗しきれず撤退することになった際、自決を決めるも隊士に止められました。五稜郭で包囲されて投降を迫られた際、官軍の黒田清隆は酒樽五樽と肴の鮪五尾を送ってきましたが、毒殺を恐れてこれに手を付けるものが誰もいなかったものの、恂太郎は笑って樽の鏡を割って一杯飲みほして見せたので諸将もこれに従ったといいます。戦争後は新政府軍の捕虜として弘前藩に幽閉。明治3年3月に釈放されて開拓使大主典となり北海道に移住。岩内町で製塩業を始めましたが、明治9年7月27日に37歳の若さで死去。墓所は仙台市青葉区宮町の清浄光院。
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『「花になどことなりし実のふるさくら」是非庵亀泉・安政4丁歳(1857)4月同人妻建立』
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二關源治君碑(明治30年4月)…『我仙台藩戊辰之難。自奮提兵。倔強抗西軍者。有三人。曰星恂太郎。曰細谷直英。日二関源治。三子資性雖異。而意気慷概。能樹義聲。則未 不同也。而源治君。独戦死北海。其志亦可悲矣。頃舊友針生惣助。中島高。與直英等謀。建石干仙台城東榴岡。以表其奇節。以余與君親善。来徴碑銘。按状。君姓二関氏。諱昭忠。源治其通称也。考諱駒治。妣大内氏。世為藩大番隊士。君八歳喪父。為母氏所鞠養。奉事甚謹。家貪能甞菽水之歓。及長専学刀槍。甞挙胥吏。非其志也。奥羽之戦。自夏渉秋。藩論一変罷兵。是時榎本釜次郎。大鳥圭介等。以幕府遺臣。来我藩。遂北遁蝦夷。恂太郎等亦同之。君慨然曰。大藩養士三百年。為有今日也。乃糾合同志。得五百余人。號見国隊。衆推君為長。屯桃生郡船越村。適西軍入仙台城。緝捕激徒。将遣兵来攻。君偵知之。遣人横浜。雇英商威氏船雙。満載衣糧器仗等。率部兵航北海。榎本等軍。同大鳥守千代岡。與西軍戦干大川村。連戦数日。後大戦干大森浜。両軍健闘。君叱咤督衆。中弾丸仆。呼日吾事畢矣。部兵舁入五稜郭。創劇。翌日遂逝矣。時明治二年五月一二日也。距生天保七年十月七日。享年三十四。葬干郭中。部下哀慕。莫不揮涙。娶る後藤氏。生二子。長忠之進。襲後。次宏。一女適高橋今朝三。君状猊不揚。一見如婦人女子。諸友 辱之不與校。衆目為怯。雖余心窃疑其柔懦。不料其毅然有所樹。立如此也。顧君長余一歳。比髫齔常相携上藩学。及壮不易交。戊辰之役。余為当事者所忌。禁錮累月。放還田里。途宿松島。逆旅有一人。蓬髪参々然。挙手招余。遽不弁其為誰。諦視則君也。日事既至此。復何言。将北行。事成有会期否。則血膏草野耳。揮袂而去。遂成永訣矣。今接碑之 請。回憶幼時同嬉戯。及臨別激昂憤椀之状。音容彷彿在干目睫。俯仰今昔。不覚老涙沾臆也乃拭涙銘之銘曰 得士五百 誓同死生 絶海埋骨 何以田横 英風凛然 千戴維馨 噫若而人 死有余栄 正三位勲一等大鳥圭介篆額 仙台永沼秀実撰文 湯村行作書』二関源治は見国隊隊長。
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額兵隊・見國隊戦死弔魂碑(紀元2557年8月建立)。
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『「啼うかと山みればやまほととぎす」桃樹庵買月・文政10年5月社中建立』
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篆書体はパス!笑
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道標。
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『一金五百六拾圓也 二十人町區天神講』
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『筆冢銘序』とあります。
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片手に傘状態だったので内容は読んでいません。筆塚に関するものかな。
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ちなみに隣に筆塚あります。
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ってことで他にも石碑がたくさんありますが長くなったので…
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宮城県仙台市青葉区宮町5丁目。
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宮町・宝蔵院標柱。
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宮町…『東照宮の門前町で、北六番丁から東六番丁北端までの南北の町。承応3年(1654)玉手崎の天神社跡地に東照宮が造営された際に町割りがなされた。全戸に五百文の田畑が与えられ、年貢や町方諸役が免除されたほか、仙台祭の日には絹布着用の特権が与えられていた。御宮町・権現町ともいわれた。』
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宝蔵院…『宝蔵院は、承応3年(1654)に東照宮の別当寺として建立された仙岳院の塔頭の一つで、明暦元年(1655)の寺領は25石であった。安政の城下絵図では現在の延寿院と梅田川の間に見えるが、その後廃絶した。地名はこの寺に因む。』
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延壽院は梅田川沿いにあります。
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天台宗眺海山延壽院。
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山門。
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山門をくぐると鳥居があり、神仏混淆の名残りを見せています。
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創建は万治3年(1660)に仙台東照宮の別当である仙岳院の傍院として建立され、寺領は35石を領していました。文政元年(1818)5月に火災により焼失し、仙岳院15世により文久元年(1861)に再建され、浄円房大権現を本尊である阿弥陀如来像と共に祀ることになります。浄円房は韋駄天のような足を持ち、師が死の床に付いた時、好物の最上の豆腐を求めると、すぐさま最上までの往復を走り抜き、生涯で羽黒山まで238回往復し78歳で入寂。現在でもその霊験にあやかり、足の病気などを治す力があるとされています。
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延寿院本堂。
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延寿院本堂は江戸時代後期の文久元年(1861)に再建されたもので、木造平屋建、桁行3間、梁行2間、入母屋、棧瓦葺で1間の向拝が付き、内部の天井は格天井で様々な草花が描かれており、平成8年に仙台市登録有形文化財に登録。
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本堂前石灯篭一対(左右の種類は異なります)。
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本堂前石碑…「奉参詣湯殿山二百三十八度・元禄十二己卯年六月吉日・淨圓大徳七十六歳」「南無阿彌陀佛・南無観世音菩薩・南無地藏菩薩・元禄七甲戌年六月四日」。由緒にもある浄円房の湯殿山参詣碑でした。
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延寿院地蔵堂。
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延寿院地蔵堂は、江戸時代末期の慶応2年(1867)に建立されたもので、木造平屋建、間口2間、奥行3間、切妻、桟瓦葺、妻入、内部に延命地蔵菩薩を安置しており、平成8年に仙台市登録有形文化財に登録。
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カワラケを供えて延命地蔵様に願うと、耳がよく聞こえるようになると言い伝えられています。
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こちらは疣神尊。
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浄円房が羽黒山から持ち帰ったという疣神尊が祀られています。
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疣の神様の言い伝え…『「疣神尊」は、浄圓房が羽黒山から背負い来て祀ったもので、水疣などの疣をとる神様として、今日でもお参りする人が多い。お参りの時に、お供えしてある小石をお借りして、持ち帰り、神前か仏前に供え、毎日その小石で疣の出たところを撫でると、不思議なことに疣がとれると言い伝えられている。疣がとれたならば、お借りした小石を倍にしてお返しする。一個借りたなら二個、二個借りたなら四個にして、お供えしてあったところにお返しする。倍にしてお返しする小石は、川原で探して下さい。清浄で滑らかな碁石位の小石が相応しい。』
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馬頭観世音(明治31年7月29日・升澤胞治建立)。
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石仏(享保6年3月15日)。状態がいいですね。
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こちらは面白い形をしていますが状態はあまり良くありません。
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こちらの供養塔は碑文からその内容を伺えます。悲しい内容ですが。『南無阿弥陀佛。日故亦十郎ハ相沢氏ノ四男明治二十九年ヲ以生八歳ノ時小学入ル哉大二学ノ八月七日遊泳中誤テ死ス嗚呼時年九歳。明治三十八年八月七日一回忌ニ建立供養ス。相沢三九郎』…南無阿弥陀佛。
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その他、石仏・墓碑等。
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天台宗眺海山延壽院(淨圓房)…『○〔由緒・由来〕延壽院は、創建当時仙台東照宮の別当寺院仙岳院の傍院として、万治3年(1660)に建立され、寺領35石をふせられていましたが、文政元年(1818)5月に焼失。文久元年(1861)仙岳院15世住職亮湛大和尚が再建。その際に、淨圓坊の木彫像を一体造り「淨圓房大権現」と尊称し、「阿弥陀如来」の石像と共に御本尊として本堂「淨圓堂」に祀り、今日に至っています。(阿弥陀如来縁日・毎月15日)○「淨圓房大権現」淨圓房大権現とは、江戸時代初期に仙岳院で修行して「淨圓坊」と呼ばれた実在の僧侶「淨圓大徳」のこと。韋駄天の様な健脚で、師僧が臨終の時に好物の最上の豆腐を所望したところ、即座に最上まで往復して豆腐を持ち帰り食膳に供して喜ばれた。と伝えられています。一生の間、湯殿山へ往復すること238回におよんだ霊験を讃えて、「淨圓房大権現」と尊称して祀ったのであります。足の病など難病を治す霊験があるとして、今も尚、尊崇を集めています。(命日・元禄11年11月28日)○「延命地蔵堂・延命地蔵菩薩」延命地蔵堂と延命地蔵菩薩像は、慶応3年(1867年)の4月に信徒の喜捨によって建立。お堂は平成18年に修理が施された。延命長壽を祈ることの他に、耳がよく聞こえるようにとカワラケを供えて延命地蔵様に願うと、聞こえるようになると言い伝えられています。(地蔵菩薩縁日・毎月24日)○「疣神尊」淨圓坊が羽黒山から背負い持ち帰り祀ったもので、水疣等の疣をとる尊像として、今もお参りする人が多い。○〔一隅会館〕伝教大師・最澄様の志を受け継いで始められた一隅を照らす運動の一環として、平成6年11月に壇信徒の懇親と地域住民の親睦を図ることを目的に建設されました。』
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さて、牛タン食べて帰ります。
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