くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ:寺・神社 (宮城県) > 寺・神社 (仙台市)

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宮城県仙台市宮城野区榴岡。まずは孝勝寺向かって左側に法輪院と蓮香院、右側に妙音院があるのでそちらを紹介。孝勝寺元塔頭として妙音院・法輪院・蓮香院・華香院(大正元年に廃院。御本尊は法輪院の鬼子母神堂に祀られています。)・経王院(廃院)があったそうです。なお、蓮香院は門が閉まっていたので省略します。こちらは日蓮宗身延山法輪院です。
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由緒によりますと2代藩主伊達忠宗の正室である振姫(慶長12年4月21日-万治2年2月5日・池田輝政の娘、母は徳川家康の次女督姫、徳川家光と徳川光圀は従兄弟)の1周忌に孝勝寺塔頭として建立されたそう。つまり法輪院は万治3年(1660)の建立ということになります。振姫は姫路城で生まれ、元和3年10月に叔父の徳川秀忠の養女となり、夭折した叔母の清雲院の身代わりとして12月13日に伊達忠宗に輿入れしました。光宗ら2男1女をもうけたそうです。53歳で死去し孝勝寺に葬られました。
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本堂向って右側に大正元年に廃院となった華香院から御本尊を移し祀った鬼子母神堂があります。
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三沢初子(墓所は孝勝寺)が信仰したと伝わります。
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鬼子母神堂前の石塔・手水石・地蔵尊。向かって右の地蔵様は慈母地蔵尊(水子子育地蔵)ですね。
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続いて隣りの孝勝寺へ。
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孝勝寺の門。
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「日蓮宗本山孝勝寺」。
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寺号標「奥陽見延本山孝勝寺」。
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題目塔「南無妙法蓮華経」。門の先の駐車場は孝勝寺・法輪院・妙音院参拝者共通のようです。
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門をくぐって右手にある日蓮宗七面山妙音院。由緒は法輪院と同じく振姫の1周忌(万治3年)に孝勝寺塔頭として建立。
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山門が新しく感じました。
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孝勝寺山門。こちらの門は旧仙台城址移築城門で、嘉永年間に青葉城から移築されたもの。
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山門前灯篭一対。
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山門をくぐると五重塔が見えます。実はこの五重塔が離れた場所から見えて、何の下調べもせずに参拝にやってきました。
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六地蔵。
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三界萬霊供養塔・無縁塔。卒塔婆を見るとやはり東日本大震災犠牲者に関するものが多かったです。
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永代供養廟。
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鐘楼。
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クロマツ(保存樹木・樹齢約310年)。
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こちらの石像は綱村公(亀千代丸像)。
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伊達4代綱村公・寛文9年11月元服(1669)。元服後ノ御名前綱基。
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幼名は亀千代丸。元服の際は父と同じく将軍徳川家綱より偏諱を与えられて、初め綱基、後に綱村と名乗りました。
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水屋。
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聖観音像。
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光明山孝勝寺は日蓮宗の最北の本山。開山は中老僧一乗阿闍梨日門上人で大仙寺として開かれました。永仁3年(1295)創建と伝えますが、確実な史料で確認できるのは江戸時代に下ります。柳町に続く柳町通の東の延長、孝勝寺前という通りの突き当たりで、榴ヶ岡の近く、仙台城下町の東縁にあり、寺の場所は変わりませんが寺域は往時より縮小して市街地になっています。
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伊達政宗公、忠宗公、綱宗公、綱村公、吉村公と伊達家庇護のもと、伊達家一門格の寺院となりました。伊達政宗公が出陣する際に当山で戦勝を祈願したところ、沢山の武勲をあげたことから、縁起の良い寺として大仙寺だった寺号を全勝寺と改めます。隆盛のきっかけは伊達忠宗の正室振姫の帰依にあり、慶安2年(1649)春に火災で焼失すると、忠宗の指示で大規模に再建。寺伝によりますと再建は慶安3年(1650)に忠宗夫人によるとも伝えます。なお、享保12年(1727)、明和元年(1764)、嘉永6年(1853)、昭和35年(1960)と度々火災に遭っています。昭和53年には宮城県沖地震で被害を受け、昭和57年に本堂再建。
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万治2年(1659)2月5日、2代忠宗公正室振姫は52歳で他界。法名孝勝院殿秀岸日迅大姉と号し、その法号を以て現在の孝勝寺となりました。3代綱宗公は幕府から突然隠居を命じられ、僅か1才の亀千代丸が、伊達家4代の家督を継ぐことになります。それによりお家の騒動(伊達騒動・寛文事件)が始まりました。この伊達家の一大事を乗り越え、亀千代丸を伊達家4代公として育て上げるために、母君三澤初子(政岡)は、一寸八分の釈迦如来像を造り朝夕お祈りし、その熱烈な法華経信仰により伊達騒動の危機を救いました。こうして命を狙われながらも立派に成長した4代綱村公は、母君の御恩に報いるためにご母堂の大切にしていた釈尊像を安置するための釈迦堂を建立。
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山務所。会館。
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平成15年に五重塔建立。礎石を含めた高さは31.9m。木造(青森ヒバ)。
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塔内には、一層目宗祖日蓮聖人、二層目釈迦如来・多宝如来、三層目大曼荼羅御本尊、四層目仏舎利、五層目法華経八巻を安置。
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三沢初子像。台座「貞享三年左歳丙寅二月上浣四日病歿法名左記 淨眼院殿了嶽日嚴大姉叔霊 俗名通称政岡本姓名三澤初子事享年四十有八歳」。
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伊達家4代藩主綱村公の幼少。御生母三澤初子と亀千代丸。万治元年3月8日生(1659)。
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釈迦堂。
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釈迦堂は元禄8(1695)年3月8日に伊達家4代網村公が、生母三澤初子への報恩感謝のために県立公文書館(宮城野区榴ヶ岡・榴岡公園)の地に造営され後に移転。母君の大切にしていた一寸八分の釈迦如来像を安置。
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釈迦堂(仙台市登録有形文化財・平成7年9月5日指定)…『仙台藩四代藩主伊達綱村が生母三沢初子の冥福を祈るため、母の持仏である釈迦仏を祀って元禄8年(1695)に建てられた持仏堂である。三間四方の正方形で、前面に一間の向拝(正面階段の上に張り出した庇の部分)を付ける。現在、軒、軸部など黒漆を主にした彩色が施されているが、もとは素木造であったといわれる。屋根は、宝形造、瀬戸焼の本瓦葺であったが、現在は本瓦葺形銅板葺に替わった。内部の須弥壇上に厨子を備え、釈迦像を安置している。もと榴ヶ岡にあり、境内には釈迦堂のほか、二天門、鐘楼が置かれ、周囲には枝垂桜が多数植えられていた。公園の桜はその名残である。昭和48年(1973)宮城県図書館(現在の宮城県公文書館)が建設されるにあたり、この地に移転したが、堂建立の趣旨を綴った「釈迦堂碑」は現在も宮城県公文書館前にある。』
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「仙府神社仏閣案内記」(斎藤報恩会蔵より)。
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石灯篭一対。
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橋本店殉職者慰霊碑…『【慰霊碑建設由来書】株式会社橋本店は、明治11(1878)年の創業以来土木・建設を中心に業務を順次拡充させ、国内のみならず海外へ及ぶ役割を担いながら国土開発の発展に寄与してきた。本業のほか関東大震災や東日本大震災の危難の際には、積極果敢な復興支援活動に率先してもいる。奥羽線・網走線・房総線などの鉄道敷設、宮城集治監・岐阜駅などの大規模建設をはじめとする多様で革新的な事業に邁進する状況は、各時代にわたって厳しい課題を突きつけ、その遂行のために関係者は懸命に対処しながら今日を迎えた。安全第一の社是を貫き通す意思は固く守られてきたものの、この間にその決意を超える事態も僅かながら生じ、明治44(1911)年から7年を要した陸羽東線の難工事などで、殉職を余儀なくする例をみるところとなった。創業140年にあたり、ここに供養碑を新に建立して、尊い生命を賭して社歴を支えられたこれらの先駆者に、謹んで感謝と哀悼の誠を捧げる。【陸羽東線殉職者の供養碑建立の経緯】橋本店は陸羽東線(新庄線)敷設にかかわる工事を明治44年(1911)に着手して大正5年(1916)に竣工させた。この間、中山隧道から宮城・山形の県境にかけての作業は困難をきわめ、大谷川橋梁工事では配下(下請け)に属する人員から殉職者を出すという、痛恨な結果を招いている。右の難工事の達成をみた同年12月に建立されたのが、男女あわせて25名を慰霊する供養碑であった。この記念碑は橋本店とその配下の9名が連名で制作して、はじめは同線中山平駅に近接する小山に設置することができた。しかしながらその後、道路拡幅のために移設する必要が生じ、昭和45年7月に橋本店がこれを引き継いでここ孝勝寺境内に運び入れて、慰霊を継続させるという経緯をたどってきた。創業140年を迎える本年、橋本店の社業遂行に寄与しながら逝去された関係各位を慰霊するために、大正5年の碑に託された想いも包含するかたちで、新たな供養碑建立の運びとなった。平成30年4月20日・創業140年記念日・株式会社橋本店代表取締役社長佐々木宏明』※由来書中央にかつての供養碑の写真と陸羽東線の橋本店請負工区(堺田駅→鳴子温泉駅)の地図がありました。
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慰霊碑の横(本堂との間)に鳥居がありました。
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光明稲荷大善神。境内案内図では光明殿とありました。
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『寺には昔から山号があり、孝勝寺は「光明山孝勝寺」と称します。永仁3年(1295)一乗阿闍梨日門上人ご開山に際し、光明山大仙寺と称され、以来700有余年お題目のご法燈絶えることなく連綿として続き、光明稲荷大善神社は山門の守り神様です。』
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社殿。
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狐二対。
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光明稲荷大善神から見た釈迦堂と五重塔。
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榴岡天満宮 ~ 其之弐』からの続き。いきなり石碑スタートです笑
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『「我が耳の日々に新しほととぎす」東橘』
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『「寂しさは生れつきなり松の花」百非「木の葉火ぺらぺら過る月日かな」巣居「ふるるものみな輝きぬけふの月」心阿・嘉永4年(1851)辛亥仲秋・蘭庭夢庵社中建立』
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『「暮るともみちは苦はなし月と花」梅月庵喜鳥「いますこしすこしとぬれつ花の雨」惟草庵■(ケツ)岱・天保14年(1843)癸卯春3月建立』
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『「我こころわれにもとらず花の中」松洞宗古「わかれても心は花にとまりけり」月下庵梅雲』
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『「羨めど崩れて見せる牡丹かな」雲裡翁・宝暦13年(1763)冬至庵止鳥庵連中建立』
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芭蕉50回忌蓮二(支孝)13回忌追善碑…『「あかあかと日はつれなくも秋の風」芭蕉翁「十三夜の月見やそらにかへり花」蓮二翁・寛保3癸亥歳(1743)2月7日建立。雲裡坊門人等詩焉』(仙台市指定有形文化財・昭和52年3月1日)
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『「盃をさして折せぬさくら哉」七十三翁・不毛土庵杉芽』
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『「梅ちりてはてなき水の月夜かな」松洞馬年・嘉永4年(1851)辛亥歳5月25日宗古建 菊庵書』
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『「雲に入る鳥はものかは春こころ」狸々庵月哉・嘉永2巴酉年(1849)4月2日建立』
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『「残しをくも世にはづかしき塵つかのちりのたぐひにつもることのは」金成藤原徳直・御歌所再昌院法印北村季文直弟 嘉永3年(1850)8月13日』
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その隣の「名月や…」から始まる句碑は案内板なし&破損しているためスルー。
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こちらもスルー。
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『「輿のとも明久や行けむほととぎす」東居・天保11年(1840)中夏吉国呉山人芝蘭七十二叟書』
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山神碑(小牛田・嘉永7年3月13日・二日町女講中)。
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おみくじ掛け所と交通安全祈願者専用修祓所。
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その横にも石碑や石灯篭など…
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『「細くとも流れぬはなし春の水」舎用』
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『「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ 」昭和37年3月吉日・太宰府天満宮宮司菅原信貞敬書』
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菅公御遺訓碑。
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字体が達筆過ぎるためスルー。菅丞相御遺訓状っぽい。
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筆塚(宮城県知事山本壮一郎書)。
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更に筆塚2基。1つの神社でこんなに多くの筆塚を見たことないかも。
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手水舎。
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撫で牛。
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天神さまと撫で牛…『御祭神菅原道真公は、承和12年(845年)に誕生されましたが、この年は乙丑(きのとうし)でありました。また、延喜3年にお亡くなりになりましたが、轜車(じしゃ)を「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」との御遺言で、その場所を墓所と定め、その場所が都府楼(太宰府の庁舎)の北東(丑寅)の方であったなど多くの牛との関わりや伝承があり、天神さまには牛がつきものとなり、「神使(神のみつかわしめ)としてのつながりを持つようになり、撫で牛は御祭神とご参拝の方々を繋ぐ大切な役割を果たしています。』
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唐門。
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案内板「政宗が育んだ伊達な文化」より…『【つゝじが岡及び天神の御社】「つゝじが岡」の一画に位置し、「天神の御社」と「おくのほそ道」に記された榴岡天満宮の境内には、寛文7年(1667年)建立の唐門、樹齢が約300年を超えるとされるシダレザクラ・シラカシの老樹など、松尾芭蕉が訪れた頃をしのばせる景物が残るほか、その後に芭蕉を顕彰して建てられた数多の句碑もあります。平成27年3月に国の名勝「おくのほそ道の風景地つゝじが岡及び天神の御社」に指定されました。【平成28年度日本遺産認定政宗が育んだ伊達な文化】仙台藩を築いた伊達政宗については、戦国大名として政治・軍事面での活躍は広く知られているところですが、その一方で時代を代表する文化人でもありました。上方に負けない気概で自らの“都”仙台を創りあげようと、政宗は古代以来東北の地に根づいてきた文化の再興・再生を目指しました。伊達家で育まれた伝統的な文化を土台に、上方の桃山文化の影響を受けた豪華絢爛、政宗の個性ともいうべき意表を突く粋な斬新さ、さらには海外の文化に触発された国際性、といった時代の息吹を汲み取りながら、新しい“伊達”な文化を仙台の地に華開かせていったのです。そして、その文化は政宗だけに留まらず、時代を重ねるにつれ、後の藩主に、さらには仙台から全国へ、武士から庶民にまで、さまざまな方面へ広がり、定着し、熟成されていきました。』
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榴ケ岡花見図屏風(元禄-享保の頃の榴ヶ岡の花見の様子を描いた屏風で、左下に天満宮が見える。仙台市博物館蔵)。
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唐門前狛犬一対。
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嘉永5年2月吉日建立(石工辻本屋七郎兵衛)。
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唐門外から社殿。
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社殿前から唐門。
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あらためまして…榴岡天満宮は寛文7年7月25日建立。御祭神は菅原道真公(天満大自在天神)。御神徳は合格進学・学業成就・文武両道・家内安全・商売繁盛・交通安全・学童通学安全。
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仙台市の観桜地として有名な榴ヶ岡に鎮座する榴岡天満宮は、平安時代の天延2年(974)に山城国(現京都府)に創建。その後、平将春が陸奥国宇多郡(現福島県)に勧請し、その後宮城県柴田郡川内村に御遷座。天文20年(1551)に小俵玉手崎(仙台東照宮の地)に3度目の御遷座。後に伊達政宗公が仙台城を造営する際、当宮の社木を用財として切り取ったため、その報賽に慶長16年(1611)に新たに丹塗りの御社殿を造営。慶安3年(1650)徳川幕府の命により仙台東照宮建立に際し、その境内地東側に御遷座。
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寛文7年(1667)7月25日、3代藩主綱宗公の意思により、丹塗りの社殿・唐門を新たに造営し、菅原道真公の真筆が奉納され、現在地(現榴岡公園西側)に御遷座され、榴岡天満宮とし、杜の都の天神さまとして現在も広く崇敬されています。
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御社殿は総欅造りで照星閣とも呼ばれ、明治9年(1876)の明治天皇御巡幸の際に御参拝された御宮。また、仙台城構築の際に有力な築城の候補地とされ、元禄2年(1689)5月7日には当宮に松尾芭蕉が参拝しており「ここ玉田よこ野つつじが岡はあせび咲くころ也ここに天神の御社など拝て其日はくれぬ」(奥の細道)という句を遺していることからも当時の天神信仰が盛んであったことを示しています。寛政7年(1795)2月25日に落雷による不慮の火災が発生し、本殿・拝殿・楼門・神楽殿・鳥居と多くの歴史的建造物を悉く焼失するも、道真公が高天原より降神なされたのではないかという歴史的ロマンが語られる唯一の天満宮。
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なお、現在の御社殿はその頃の再建。平成23年3月11日に発災した東日本大震災により被災し、御社殿の損傷が激しかったため修復工事を行っています。2年半以上もの歳月をかけて修復工事が完了し、平成25年11月24日に本殿遷座祭を斎行し、仮鎮座されていた御神体を本殿に御遷座。平成27年3月10日、芭蕉が訪れた当時の趣を残していることから「つゝじが岡及び天神の御社」として、境内と榴岡公園の一部31115.76㎡が国の名勝「おくのほそ道の風景地」に指定。平成28年4月25日「政宗が育んだ伊達な文化」の一つとして文化庁が認定する日本遺産に登録。平成29年7月25日に榴ヶ岡の地に御遷座なされて350年を迎えました。
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拝殿前灯篭一対。
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拝殿前「優の丑」。
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優の丑…『この御使者は親子団欒で幸福を授ける撫で丑です。ご自身とご家族の生れた月に触れ優の丑を撫でて、無事合格・英才開花・親子安全・子孫繁栄をご祈念ください。』
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拝殿前「勇の丑」。
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勇の丑…『この御使者は勇猛果敢な邪気を祓う撫で丑です。丑の周りにあるご自身の干支の文字に触れ勇の丑を撫でて、合格必勝・学業上達・連戦連勝・成績向上をご祈念ください。』
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社殿前のしだれざくら(樹齢約310年・仙台市制施行88周年記念名木古木88選・昭和52年指定)。
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社務所。
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境内のシラカシ(樹齢約300年・保存樹木・平成11年指定)。
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神輿庫。
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神輿。
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以上、石碑・記念碑だらけの雨の榴岡天満宮でした。
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