くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ:寺・神社 (宮城県) > 寺・神社 (仙台市)

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宮城県仙台市宮城野区榴岡。まずは孝勝寺向かって左側に法輪院と蓮香院、右側に妙音院があるのでそちらを紹介。孝勝寺元塔頭として妙音院・法輪院・蓮香院・華香院(大正元年に廃院。御本尊は法輪院の鬼子母神堂に祀られています。)・経王院(廃院)があったそうです。なお、蓮香院は門が閉まっていたので省略します。こちらは日蓮宗身延山法輪院です。
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由緒によりますと2代藩主伊達忠宗の正室である振姫(慶長12年4月21日-万治2年2月5日・池田輝政の娘、母は徳川家康の次女督姫、徳川家光と徳川光圀は従兄弟)の1周忌に孝勝寺塔頭として建立されたそう。つまり法輪院は万治3年(1660)の建立ということになります。振姫は姫路城で生まれ、元和3年10月に叔父の徳川秀忠の養女となり、夭折した叔母の清雲院の身代わりとして12月13日に伊達忠宗に輿入れしました。光宗ら2男1女をもうけたそうです。53歳で死去し孝勝寺に葬られました。
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本堂向って右側に大正元年に廃院となった華香院から御本尊を移し祀った鬼子母神堂があります。
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三沢初子(墓所は孝勝寺)が信仰したと伝わります。
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鬼子母神堂前の石塔・手水石・地蔵尊。向かって右の地蔵様は慈母地蔵尊(水子子育地蔵)ですね。
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続いて隣りの孝勝寺へ。
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孝勝寺の門。
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「日蓮宗本山孝勝寺」。
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寺号標「奥陽見延本山孝勝寺」。
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題目塔「南無妙法蓮華経」。門の先の駐車場は孝勝寺・法輪院・妙音院参拝者共通のようです。
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門をくぐって右手にある日蓮宗七面山妙音院。由緒は法輪院と同じく振姫の1周忌(万治3年)に孝勝寺塔頭として建立。
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山門が新しく感じました。
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孝勝寺山門。こちらの門は旧仙台城址移築城門で、嘉永年間に青葉城から移築されたもの。
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山門前灯篭一対。
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山門をくぐると五重塔が見えます。実はこの五重塔が離れた場所から見えて、何の下調べもせずに参拝にやってきました。
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六地蔵。
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三界萬霊供養塔・無縁塔。卒塔婆を見るとやはり東日本大震災犠牲者に関するものが多かったです。
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永代供養廟。
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鐘楼。
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クロマツ(保存樹木・樹齢約310年)。
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こちらの石像は綱村公(亀千代丸像)。
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伊達4代綱村公・寛文9年11月元服(1669)。元服後ノ御名前綱基。
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幼名は亀千代丸。元服の際は父と同じく将軍徳川家綱より偏諱を与えられて、初め綱基、後に綱村と名乗りました。
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水屋。
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聖観音像。
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光明山孝勝寺は日蓮宗の最北の本山。開山は中老僧一乗阿闍梨日門上人で大仙寺として開かれました。永仁3年(1295)創建と伝えますが、確実な史料で確認できるのは江戸時代に下ります。柳町に続く柳町通の東の延長、孝勝寺前という通りの突き当たりで、榴ヶ岡の近く、仙台城下町の東縁にあり、寺の場所は変わりませんが寺域は往時より縮小して市街地になっています。
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伊達政宗公、忠宗公、綱宗公、綱村公、吉村公と伊達家庇護のもと、伊達家一門格の寺院となりました。伊達政宗公が出陣する際に当山で戦勝を祈願したところ、沢山の武勲をあげたことから、縁起の良い寺として大仙寺だった寺号を全勝寺と改めます。隆盛のきっかけは伊達忠宗の正室振姫の帰依にあり、慶安2年(1649)春に火災で焼失すると、忠宗の指示で大規模に再建。寺伝によりますと再建は慶安3年(1650)に忠宗夫人によるとも伝えます。なお、享保12年(1727)、明和元年(1764)、嘉永6年(1853)、昭和35年(1960)と度々火災に遭っています。昭和53年には宮城県沖地震で被害を受け、昭和57年に本堂再建。
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万治2年(1659)2月5日、2代忠宗公正室振姫は52歳で他界。法名孝勝院殿秀岸日迅大姉と号し、その法号を以て現在の孝勝寺となりました。3代綱宗公は幕府から突然隠居を命じられ、僅か1才の亀千代丸が、伊達家4代の家督を継ぐことになります。それによりお家の騒動(伊達騒動・寛文事件)が始まりました。この伊達家の一大事を乗り越え、亀千代丸を伊達家4代公として育て上げるために、母君三澤初子(政岡)は、一寸八分の釈迦如来像を造り朝夕お祈りし、その熱烈な法華経信仰により伊達騒動の危機を救いました。こうして命を狙われながらも立派に成長した4代綱村公は、母君の御恩に報いるためにご母堂の大切にしていた釈尊像を安置するための釈迦堂を建立。
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山務所。会館。
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平成15年に五重塔建立。礎石を含めた高さは31.9m。木造(青森ヒバ)。
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塔内には、一層目宗祖日蓮聖人、二層目釈迦如来・多宝如来、三層目大曼荼羅御本尊、四層目仏舎利、五層目法華経八巻を安置。
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三沢初子像。台座「貞享三年左歳丙寅二月上浣四日病歿法名左記 淨眼院殿了嶽日嚴大姉叔霊 俗名通称政岡本姓名三澤初子事享年四十有八歳」。
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伊達家4代藩主綱村公の幼少。御生母三澤初子と亀千代丸。万治元年3月8日生(1659)。
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釈迦堂。
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釈迦堂は元禄8(1695)年3月8日に伊達家4代網村公が、生母三澤初子への報恩感謝のために県立公文書館(宮城野区榴ヶ岡・榴岡公園)の地に造営され後に移転。母君の大切にしていた一寸八分の釈迦如来像を安置。
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釈迦堂(仙台市登録有形文化財・平成7年9月5日指定)…『仙台藩四代藩主伊達綱村が生母三沢初子の冥福を祈るため、母の持仏である釈迦仏を祀って元禄8年(1695)に建てられた持仏堂である。三間四方の正方形で、前面に一間の向拝(正面階段の上に張り出した庇の部分)を付ける。現在、軒、軸部など黒漆を主にした彩色が施されているが、もとは素木造であったといわれる。屋根は、宝形造、瀬戸焼の本瓦葺であったが、現在は本瓦葺形銅板葺に替わった。内部の須弥壇上に厨子を備え、釈迦像を安置している。もと榴ヶ岡にあり、境内には釈迦堂のほか、二天門、鐘楼が置かれ、周囲には枝垂桜が多数植えられていた。公園の桜はその名残である。昭和48年(1973)宮城県図書館(現在の宮城県公文書館)が建設されるにあたり、この地に移転したが、堂建立の趣旨を綴った「釈迦堂碑」は現在も宮城県公文書館前にある。』
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「仙府神社仏閣案内記」(斎藤報恩会蔵より)。
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石灯篭一対。
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橋本店殉職者慰霊碑…『【慰霊碑建設由来書】株式会社橋本店は、明治11(1878)年の創業以来土木・建設を中心に業務を順次拡充させ、国内のみならず海外へ及ぶ役割を担いながら国土開発の発展に寄与してきた。本業のほか関東大震災や東日本大震災の危難の際には、積極果敢な復興支援活動に率先してもいる。奥羽線・網走線・房総線などの鉄道敷設、宮城集治監・岐阜駅などの大規模建設をはじめとする多様で革新的な事業に邁進する状況は、各時代にわたって厳しい課題を突きつけ、その遂行のために関係者は懸命に対処しながら今日を迎えた。安全第一の社是を貫き通す意思は固く守られてきたものの、この間にその決意を超える事態も僅かながら生じ、明治44(1911)年から7年を要した陸羽東線の難工事などで、殉職を余儀なくする例をみるところとなった。創業140年にあたり、ここに供養碑を新に建立して、尊い生命を賭して社歴を支えられたこれらの先駆者に、謹んで感謝と哀悼の誠を捧げる。【陸羽東線殉職者の供養碑建立の経緯】橋本店は陸羽東線(新庄線)敷設にかかわる工事を明治44年(1911)に着手して大正5年(1916)に竣工させた。この間、中山隧道から宮城・山形の県境にかけての作業は困難をきわめ、大谷川橋梁工事では配下(下請け)に属する人員から殉職者を出すという、痛恨な結果を招いている。右の難工事の達成をみた同年12月に建立されたのが、男女あわせて25名を慰霊する供養碑であった。この記念碑は橋本店とその配下の9名が連名で制作して、はじめは同線中山平駅に近接する小山に設置することができた。しかしながらその後、道路拡幅のために移設する必要が生じ、昭和45年7月に橋本店がこれを引き継いでここ孝勝寺境内に運び入れて、慰霊を継続させるという経緯をたどってきた。創業140年を迎える本年、橋本店の社業遂行に寄与しながら逝去された関係各位を慰霊するために、大正5年の碑に託された想いも包含するかたちで、新たな供養碑建立の運びとなった。平成30年4月20日・創業140年記念日・株式会社橋本店代表取締役社長佐々木宏明』※由来書中央にかつての供養碑の写真と陸羽東線の橋本店請負工区(堺田駅→鳴子温泉駅)の地図がありました。
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慰霊碑の横(本堂との間)に鳥居がありました。
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光明稲荷大善神。境内案内図では光明殿とありました。
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『寺には昔から山号があり、孝勝寺は「光明山孝勝寺」と称します。永仁3年(1295)一乗阿闍梨日門上人ご開山に際し、光明山大仙寺と称され、以来700有余年お題目のご法燈絶えることなく連綿として続き、光明稲荷大善神社は山門の守り神様です。』
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社殿。
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狐二対。
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光明稲荷大善神から見た釈迦堂と五重塔。
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榴岡天満宮 ~ 其之弐』からの続き。いきなり石碑スタートです笑
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『「我が耳の日々に新しほととぎす」東橘』
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『「寂しさは生れつきなり松の花」百非「木の葉火ぺらぺら過る月日かな」巣居「ふるるものみな輝きぬけふの月」心阿・嘉永4年(1851)辛亥仲秋・蘭庭夢庵社中建立』
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『「暮るともみちは苦はなし月と花」梅月庵喜鳥「いますこしすこしとぬれつ花の雨」惟草庵■(ケツ)岱・天保14年(1843)癸卯春3月建立』
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『「我こころわれにもとらず花の中」松洞宗古「わかれても心は花にとまりけり」月下庵梅雲』
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『「羨めど崩れて見せる牡丹かな」雲裡翁・宝暦13年(1763)冬至庵止鳥庵連中建立』
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芭蕉50回忌蓮二(支孝)13回忌追善碑…『「あかあかと日はつれなくも秋の風」芭蕉翁「十三夜の月見やそらにかへり花」蓮二翁・寛保3癸亥歳(1743)2月7日建立。雲裡坊門人等詩焉』(仙台市指定有形文化財・昭和52年3月1日)
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『「盃をさして折せぬさくら哉」七十三翁・不毛土庵杉芽』
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『「梅ちりてはてなき水の月夜かな」松洞馬年・嘉永4年(1851)辛亥歳5月25日宗古建 菊庵書』
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『「雲に入る鳥はものかは春こころ」狸々庵月哉・嘉永2巴酉年(1849)4月2日建立』
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『「残しをくも世にはづかしき塵つかのちりのたぐひにつもることのは」金成藤原徳直・御歌所再昌院法印北村季文直弟 嘉永3年(1850)8月13日』
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その隣の「名月や…」から始まる句碑は案内板なし&破損しているためスルー。
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こちらもスルー。
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『「輿のとも明久や行けむほととぎす」東居・天保11年(1840)中夏吉国呉山人芝蘭七十二叟書』
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山神碑(小牛田・嘉永7年3月13日・二日町女講中)。
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おみくじ掛け所と交通安全祈願者専用修祓所。
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その横にも石碑や石灯篭など…
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『「細くとも流れぬはなし春の水」舎用』
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『「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ 」昭和37年3月吉日・太宰府天満宮宮司菅原信貞敬書』
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菅公御遺訓碑。
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字体が達筆過ぎるためスルー。菅丞相御遺訓状っぽい。
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筆塚(宮城県知事山本壮一郎書)。
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更に筆塚2基。1つの神社でこんなに多くの筆塚を見たことないかも。
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手水舎。
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撫で牛。
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天神さまと撫で牛…『御祭神菅原道真公は、承和12年(845年)に誕生されましたが、この年は乙丑(きのとうし)でありました。また、延喜3年にお亡くなりになりましたが、轜車(じしゃ)を「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」との御遺言で、その場所を墓所と定め、その場所が都府楼(太宰府の庁舎)の北東(丑寅)の方であったなど多くの牛との関わりや伝承があり、天神さまには牛がつきものとなり、「神使(神のみつかわしめ)としてのつながりを持つようになり、撫で牛は御祭神とご参拝の方々を繋ぐ大切な役割を果たしています。』
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唐門。
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案内板「政宗が育んだ伊達な文化」より…『【つゝじが岡及び天神の御社】「つゝじが岡」の一画に位置し、「天神の御社」と「おくのほそ道」に記された榴岡天満宮の境内には、寛文7年(1667年)建立の唐門、樹齢が約300年を超えるとされるシダレザクラ・シラカシの老樹など、松尾芭蕉が訪れた頃をしのばせる景物が残るほか、その後に芭蕉を顕彰して建てられた数多の句碑もあります。平成27年3月に国の名勝「おくのほそ道の風景地つゝじが岡及び天神の御社」に指定されました。【平成28年度日本遺産認定政宗が育んだ伊達な文化】仙台藩を築いた伊達政宗については、戦国大名として政治・軍事面での活躍は広く知られているところですが、その一方で時代を代表する文化人でもありました。上方に負けない気概で自らの“都”仙台を創りあげようと、政宗は古代以来東北の地に根づいてきた文化の再興・再生を目指しました。伊達家で育まれた伝統的な文化を土台に、上方の桃山文化の影響を受けた豪華絢爛、政宗の個性ともいうべき意表を突く粋な斬新さ、さらには海外の文化に触発された国際性、といった時代の息吹を汲み取りながら、新しい“伊達”な文化を仙台の地に華開かせていったのです。そして、その文化は政宗だけに留まらず、時代を重ねるにつれ、後の藩主に、さらには仙台から全国へ、武士から庶民にまで、さまざまな方面へ広がり、定着し、熟成されていきました。』
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榴ケ岡花見図屏風(元禄-享保の頃の榴ヶ岡の花見の様子を描いた屏風で、左下に天満宮が見える。仙台市博物館蔵)。
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唐門前狛犬一対。
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嘉永5年2月吉日建立(石工辻本屋七郎兵衛)。
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唐門外から社殿。
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社殿前から唐門。
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あらためまして…榴岡天満宮は寛文7年7月25日建立。御祭神は菅原道真公(天満大自在天神)。御神徳は合格進学・学業成就・文武両道・家内安全・商売繁盛・交通安全・学童通学安全。
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仙台市の観桜地として有名な榴ヶ岡に鎮座する榴岡天満宮は、平安時代の天延2年(974)に山城国(現京都府)に創建。その後、平将春が陸奥国宇多郡(現福島県)に勧請し、その後宮城県柴田郡川内村に御遷座。天文20年(1551)に小俵玉手崎(仙台東照宮の地)に3度目の御遷座。後に伊達政宗公が仙台城を造営する際、当宮の社木を用財として切り取ったため、その報賽に慶長16年(1611)に新たに丹塗りの御社殿を造営。慶安3年(1650)徳川幕府の命により仙台東照宮建立に際し、その境内地東側に御遷座。
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寛文7年(1667)7月25日、3代藩主綱宗公の意思により、丹塗りの社殿・唐門を新たに造営し、菅原道真公の真筆が奉納され、現在地(現榴岡公園西側)に御遷座され、榴岡天満宮とし、杜の都の天神さまとして現在も広く崇敬されています。
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御社殿は総欅造りで照星閣とも呼ばれ、明治9年(1876)の明治天皇御巡幸の際に御参拝された御宮。また、仙台城構築の際に有力な築城の候補地とされ、元禄2年(1689)5月7日には当宮に松尾芭蕉が参拝しており「ここ玉田よこ野つつじが岡はあせび咲くころ也ここに天神の御社など拝て其日はくれぬ」(奥の細道)という句を遺していることからも当時の天神信仰が盛んであったことを示しています。寛政7年(1795)2月25日に落雷による不慮の火災が発生し、本殿・拝殿・楼門・神楽殿・鳥居と多くの歴史的建造物を悉く焼失するも、道真公が高天原より降神なされたのではないかという歴史的ロマンが語られる唯一の天満宮。
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なお、現在の御社殿はその頃の再建。平成23年3月11日に発災した東日本大震災により被災し、御社殿の損傷が激しかったため修復工事を行っています。2年半以上もの歳月をかけて修復工事が完了し、平成25年11月24日に本殿遷座祭を斎行し、仮鎮座されていた御神体を本殿に御遷座。平成27年3月10日、芭蕉が訪れた当時の趣を残していることから「つゝじが岡及び天神の御社」として、境内と榴岡公園の一部31115.76㎡が国の名勝「おくのほそ道の風景地」に指定。平成28年4月25日「政宗が育んだ伊達な文化」の一つとして文化庁が認定する日本遺産に登録。平成29年7月25日に榴ヶ岡の地に御遷座なされて350年を迎えました。
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拝殿前灯篭一対。
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拝殿前「優の丑」。
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優の丑…『この御使者は親子団欒で幸福を授ける撫で丑です。ご自身とご家族の生れた月に触れ優の丑を撫でて、無事合格・英才開花・親子安全・子孫繁栄をご祈念ください。』
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拝殿前「勇の丑」。
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勇の丑…『この御使者は勇猛果敢な邪気を祓う撫で丑です。丑の周りにあるご自身の干支の文字に触れ勇の丑を撫でて、合格必勝・学業上達・連戦連勝・成績向上をご祈念ください。』
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社殿前のしだれざくら(樹齢約310年・仙台市制施行88周年記念名木古木88選・昭和52年指定)。
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社務所。
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境内のシラカシ(樹齢約300年・保存樹木・平成11年指定)。
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神輿庫。
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神輿。
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以上、石碑・記念碑だらけの雨の榴岡天満宮でした。
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榴岡天満宮(仙台市)』からの続き。
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躑躅岡八幡神社。
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神額。
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躑躅岡八幡神社前石灯篭一対(文政10年6月吉日)。
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社殿内。
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隣りは庚申塔なのかな…
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足元に言わざる聞かざる…見ざるは!?
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建物の横に庚申塔2基。
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紀年銘は嘉永3年8月朔日と文化5年5月吉祥日。
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『「世に競べ身にくらべけり竹の露」禾月』
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『「五月雨やある夜ひそかに松の月」雪中庵蓼太嚢菴白麻建之』
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『「道ばかり歩いてもどる枯野かな」日人』
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萬句俳諧奉納記(享保8年(1723))。
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『「木をはなれ草を離れて秋の月」三江会南幽・嘉永4年(1851)辛亥7月3日門人建立』
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摂社妙見宮。
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妙見宮前石灯篭一対(文化4年6月25日)。
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妙見宮狛犬一対。台座は読み取れず。
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妙見宮本殿。
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本殿裏に石碑がありましたが片手に傘状態だったので読んでいません。
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妙見宮横の石碑。こちらは草木が邪魔だったので読んでいません。正直石碑疲れしてきました笑
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それでも続く石碑。こちらは佐藤助右衛門碑…読む?読まない?…適当に頑張ってみる!(※異体字使用も変換できなかった字あり)…『佐藤助右衛門救災碑 正四位伯爵伊達宗基篆額 今茲九月仙臺富豪相議将為故佐藤君助右衛門建一大碑紀其當年有大功徳干民者以使後人有所瞻仰焉乞文於余且謂日我佐藤氏之功徳膾炙人口雖然君子之澤五丗而斬不朽是擧今之時為然此所以煩税筆也余辞以非其人不可案状君諱季明世稱助五郎家■佐助君為其第四代住仙臺大町第二坊業綵緞舖為人豪爽而慈仁及承家蒙道日盛甞納■師中田三平之議旁賣故衣檠布於大甼第一坊支舗大得奇利同業相垢誣君曰故事賣故衣■布者必柞大町第一坊今助五郎肆滕而賣於第二坊此蔑藩制者敢効藩一諸理無幾情白事釋君奮日聞封内頻年不登藩帑告匱我公以為憂吾今速得免母望之禍者我公之恩也不可不報也乃献金二千兩以充救恤之資宮賞之収為卒賜禄十八口糧許妻孥服帛■異數也尋父献金五千六百両宮又賞之陞班大番隊士加禄二百五十石併前食三百三十石於是改今名君素有吏幹擢任勘定奉行有料量均平之稱尋遷郡奉行治績可觀天保丙申大餓茲土特甚道饉相望藩公軫念委以賑濟之事君慨然自任拮据周旋或弧人他封賤糴米粟以資其賑恤或和買手製物貨於城中給以米糧以濟其顛連更發私儲以繼之日吾平日勤儉蓄財者待今日之用耳百方周救資産為空蓄民頼以全活者幾千人感泣相語日願使佐助氏多子孫藩公嘉賞寵以章服一襲不幾商店大行資産復故今也茲土富豪輩出財累巨萬者不為少佐助氏猶厳然為市中之選者蓋君積善之餘慶也君弘化三年四月十一日病歿享年五十有六葬於城南昌傳庵其先塋也嗚呼君之所■設如此平生之■行可紀者不一而足今得於救災一事三致意者富豪諸氏之志也銘曰 積而能散 談何容易 彼頑無識 貪■之事 聞君風者 豈不内塊 信哉積善 天錫餘慶 家門緝揚 孫子蕃昌 欲知厥審 此碑是詳 明治三十三年十月 仙臺 木村敏撰 佐佐木舜永書』
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ってことで石碑解読疲れしたので…
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まずは榴岡公園へ。仙台駅から歩けなくもないのですが、雨だったので仙石線で向かいました。榴ヶ岡駅まで1駅です。駅にあった榴ヶ岡駅の駅名由来…『平安時代初期、坂上田村麻呂の軍勢は、この付近に立てこもっていた蝦夷の首領・悪路王との激戦の末、ようやく勝利して、この岡を占領しました。その時、田村麻呂は持っていた鞭を岡に突き立てて戦勝祝いを行ったといいます。そこで、この岡は「鞭建(むちたて)の塁」と呼ばれました。その後、岡にはツツジの花が咲き乱れ、花を摘み布に模様を付ける「ツツジ染め」の産地となりました。このツツジ染めは全国的に有名になり、特に都人に愛用されました。これが「榴ヶ岡」の名の由来とされています。榴は通常「ざくろ」と読みますが、「山榴」と書いて「ややつつじ」と読むこともあります。「躑躅(つつじ)」の字画が多いため、この字を用いたものと思われます。この地名の由来を受けて、大正14年(1925)6月5日、宮城電気鉄道(現在の仙石線)が当地に開通したとき、榴ヶ岡駅が開業いたしました。◆参考資料仙台鉄道管理局「駅名ものがたり」』
鹿島神社に伝わる藤崎町の町名由来のツツジヴァージョンですね。
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榴岡公園は、仙台藩4代藩主伊達綱村が榴岡天満宮の北東の宮城野撓曲上、現在は宮城県公文書館が建っている場所に躑躅岡釈迦堂を建立し、同堂の南側隣接地の宮城野撓曲上(榴岡天満宮の東側隣接地)に馬場・的場も設置して、京都から取り寄せたシダレザクラ・マツ・カエデなど1000本余を植栽し四民遊覧の地として開放。「桜の馬場」と称されて桜の名所となりました。桜は文化年間の大火により大半を焼失。明治8年に歩兵第4連隊が組織されて、榴岡公園の東側隣接地の宮城野撓曲上、即ち現榴岡公園において旧町名が二十人町通、現住所が五輪1丁目である区域に設置されました。明治35年に桜の馬場を県立公園「榴ヶ岡公園」として開園。大正13年には榴岡公園(榴ヶ岡)が名勝に指定され、記念として昭和3年に桜100本が植えられました。昭和43年「榴ヶ岡(桜)」の名勝指定解除。昭和46年に躑躅岡釈迦堂は孝勝寺に移転。平成元年日本の都市公園100選に選ばれています。なお、元禄年間に伊達綱村により植えられた白色や薄紅の一重咲きのシダレサクラは「仙台枝垂桜」とも呼ばれ、また、八重紅枝垂は仙台市長の遠藤庸治が普及に努めた品種であり、子孫樹が平安神宮などにあります。「伊達家の桜」とも言われており、園内に限らず仙台及びその周辺に多く見られるそうです。
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「少し遅めに花が咲くシダレザクラが多く、ソメイヨシノ、ヤエザクラ、ヒガンザクラ、薄い黄金色の花を咲かせるウコンザクラなど370本近くの桜があることから、長い期間花を楽しむことができます。」とのことで、桜まつり期間でもありましたが、既に桜はこのような状態でした。雨が降っていたので人もいません。
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ってことで、こちらの案内板でお楽しみください。シダレザクラ、ヤエベニシダレ、イチョウ、ギョウイコウ、エドヒガン、カスミザクラ、カンザン、スザク、ジュウガツザクラ、ヤマザクラ、モチズキサクラ、ミクルマガエシ、ソメイヨシノ、オオシマザクラ、エド、キリン、ベニシダレ、フゲンソウ、ショウゲツ。
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榴岡「八重紅枝垂」の碑…『榴岡の一重薄紅枝垂れ桜は伊達家四代綱村公植栽と言われる由緒ある桜で「名勝」ともなっていたが、終戦前後の荒廃で枯死寸前となり、これを憂えた老人クラブ榴岡明寿会は昭和38年3月八重紅枝垂れ桜を4本植えたのが始まりで以降毎年植えつゞけ、現在までに同桜152本、其の他を植栽した。この成長開花に応じて二十人町花見協賛会は昭和50年4月より提灯を取り付け売店を設ける等市民の観桜に協賛し奉仕している。茲に、明寿会創立26周年並びに二十人町花見協賛会創立10周年を記念しこの碑を建てる。昭和59年4月吉日榴岡明寿会会長八島炳三・二十人町花見協賛会』
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榴岡天満宮へ向かいます。榴岡天満宮は宮城県仙台市宮城野区榴ケ岡に鎮座。案内板によりますと「藤原基衡の臣、佐藤小太郎基春が国分荘の領主となったとき、柴田郡川内邑(今の川崎町川内)から小俵邑(今の小田原)玉手崎に遷した神社であったが、慶安3年(1650年)東照宮建立に際してここに遷された。寛文7年(1667年)3代藩主綱宗公が改築したが丹塗りの唐門を残して、寛政7年(1795年)社殿を焼失した。今の社殿はその頃の再建である。仙台市」とあります。創建は平将春が陸奥国宇多郡(福島県)に北野天満宮(京都府京都市上京区)の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。その後、宮城県柴田郡川内村に遷座し、天文20年(1551)に小俵玉手崎(現在の仙台東照宮の境内付近)に遷座。江戸時代に入ると仙台藩主伊達家の崇敬社となり、仙台城築城の際に境内の樹木を伐採して利用したことから神意に感謝し社殿が造営されています。慶安3年(1650)に仙台東照宮が造営されると現在地に遷座し、寛文7年(1667)に3代藩主伊達綱宗より本殿や拝殿だけでなく、山門や神楽殿など多くの建物が造営されて「照星閣」と称されました。現存する榴岡天満宮唐門は向唐門と言われる形式であり、銅板葺、一間一戸の建物で、外壁全体が朱塗り、蟇股や組物が凝った造りになっている貴重な建物として、平成7年に仙台市登録文化財に登録されています。
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榴岡公園から向かったら裏口(社殿横)に到着しました。
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改めて正面に向かいます。
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狛犬一対(平成16年・皇紀2664年建立)。
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大きい狛犬です。
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案内板。この後も由緒について似た内容が続きますが一応掲載しておきます…『仙台市の観桜地として有名な榴ヶ岡に鎮座する榴岡天満宮は、社伝によれば平安時代の天延二年(974)に山城国(現在の京都府)に創建、平将春により陸奥国宇多郡(現在の福島県)に勧請された。その後小田原(現在の仙台市青葉区)への御遷座を経て、寛文7年(1667)7月25日には3代藩主伊達綱宗公の意思により4代藩主綱村公によってこの榴ヶ岡に遷され、丹塗りの社殿・唐門を新たに造営、菅原道真公の真筆(直筆の書)が奉納された。当社の御祭神である菅原道真公(天満大自在天神)は、学門・政治の主祭神であり、また弘法大師、小野道風と共に、書道の三聖として詩歌・書道の神としても尊信されている。境内には市指定文化財の芭蕉句碑があり、唐門は市登録文化財となっている。』
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案内板の写真(榴岡天満宮・榴岡天満宮例大祭)。
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地図。
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社号標「躑躅岡天満宮」。
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鳥居と参道。
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鳥居扁額「躑躅岡天満宮」(奉納者仙台市猪股正武・文部大臣愛知揆一謹書)。
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鳥居前石灯篭一対(東日本大震災御社殿復旧記念)。
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伊藤清次郎翁篤志記…『當社参道石段寶暦十一年在原養元募資修築爾來百七十餘年所々頽破且急峻不便登攀伊藤清次郎翁憂之捐資重脩平其峻擴其階以便參詣矣今茲功竣記其篤志云昭和六年八月二十五日 社司安西茂知 總代冨田寿之進』
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隣りの石碑は読みにくかったです。
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星恂太郎碑(星君恂太郎碑・明治29年12月正二位勲一等子爵榎本武揚題額・仙台大槻文彦撰文)…『仙台藩祀東照公供祠務者六戸曰六供掌点茶事星氏其一也星恂太郎君以天保十一年十月四日生父名道栄母洞口氏君為人短小精悍有胆気好武技不屑茶儀慷慨詭激動輒以気凌人人罵其狂君曰人言当矣因自名曰忠狂時外事日逼攘夷開国分党相鬩藩老但木土佐儒臣大槻磐渓専主開国君怒曰是国之蠧也与同志士金成善左等謀刺之磐渓喩以海外大勢君大悔悟遂脱走江戸時土佐在江戸有藩士富田鉄之助以義侠聞一夕抵土佐索数金土佐問将何用曰恂太来投我彼材可用請資而遣之土佐笑曰吾子亦解人也乃投以十数金於是君去游四方与志士交遂就米国人於横浜講究洋兵学就林祭酒久世侯並聘教練其家兵戊辰変土佐徴君趨急君踊躍曰足以償前罪矣乃馳還献計募藩士少壮千許人請磐渓名額兵隊教練四月而成八月擢大番組士班賜俸百七十石時四境告急藩促出兵君曰我兵屡敗以糧餉弾薬不備也乃百万蒐集発有日矣会土佐見斥奥羽同盟瓦解藩論一変罷兵君憤慨曰一戦而克猶不足挽大勢耶乃檄於市不告而発進到槻木駅時九月十五日也藩主大驚馳止之君不得已還屯宮床村伺動勢時幕府海軍将榎本武揚率艦隊泊松島湾将走箱館使人招君々遂以隊兵投之乃謂部下曰欲去者去奮請従者二百五十人十月従武揚至鷲木尋破川汲嶺陥松前城額兵隊毎戦有功明年四月西軍大挙来討海陸鏖戦両軍死傷無算武揚拠五稜郭戦酣西軍餉以酒衆疑不飲君笑曰我輩命在旦夕彼豈須毒我乃大■数椀曰美酒々々既而西軍諭降武揚会君等諸将議曰孤軍難支不若吾輩就誅免我衆五月十八日終降三年六月君見釈仍留在北海道従拓殖事尋出仕開拓使進大主典四年六月移家於岩内開製塩場六年辞官客遊上国謀興業九年七月二十七日病歿於仙台年三十七葬北郊万日堂配金成氏名鶴善左妹初君将発過善左曰一死報国吾所期也独有老親在請得君妹以托之善左問妹々時年十七曰義師不振妾痛次骨星君幸有是挙使其無後顧之憂妾願也遂帰焉生二女於岩内君歿後帰仙台紡織賃作養姑撫孤先是武揚官于朝善視遺属故旧相謀贅榎本対馬次子孝三郎配長女対馬嘗同走箱館者次適樋口忠一君有義弟半齋別成家仙台士荒井悟亦嘗同従軍今茲与同志謀欲為君建碑著其蹟。徴文于余々亦従事戊辰役者也乃不辞為之銘曰 君嘗遺言 宜死北洋 不幸余生 帰葬故郷 勿封勿碑 任厥廃荒 吁嗟星君 忠烈酬国 死不顧名 人則■惜 掲厥峻節 銘茲貞石』星恂太郎(天保11年10月4日-明治9年7月27日)は幕末の仙台藩士で額兵隊隊長。天保11年に東照宮宮司星道榮の息子として生まれ、台所人小島友治の養子となり孝治と改名するも、料理人になるのを嫌い離縁し、生家に戻って武芸を修めました。激高しやすい性格で、国学を修めたことから元々過激な尊王攘夷派でもあって、仙台藩の開国論を推進していた家老但木土佐などの面々を国賊と見なし、金成善左衛門ら友人と徒党を組んで斬ろうとしましたが、同じく開国派の大槻磐渓の暗殺を図った際、逆に磐渓から世界情勢への無知を諭されて改心。自分の無知さを恥じて脱藩して江戸に出ます。元治元年、江戸で滞在費に困り、友人の江戸勤番藩士富田鐵之助に金を無心したところ富田は家老但木に相談。但木は恂太郎が自分を殺そうとしていたことを知っていましたが、将来有望な士であるとして資金援助を快諾。こうして藩の半公認を得て、恂太郎は幕臣の川勝広道や下曽根信之から洋式の銃隊編成訓練を学び、横浜に赴いては、アメリカ人の貿易商人ヴァンリードの店で使用人として働きながら、夜は西洋軍学(特に砲術)を学びます。戊辰戦争が始まって東北征伐が議論されるようになると但木は恂太郎を招聘。藩兵楽兵隊の訓練を委ねます。これにより藩主伊達慶邦からもその才能を認められて大番士に任命。楽兵隊はその後諸隊に編入されて弱体化したため、恂太郎は新たに藩士の次男、三男らを800人集めて洋式軍隊である額兵隊を組織しました。仙台藩は奥羽越列藩同盟の盟主でしたが同盟の南部諸藩が敗れたのを見て、新政府軍とは戦わずに降伏恭順する道を選びます。しかし星らはこれを潔しとせず独断で出撃を決意し相馬城を占領。慶邦の説得も半ば無視するも結局は新政府軍との交戦を断念。仙台藩の中には邪魔になった星恂太郎を暗殺する計画もありましたが、榎本釜次郎の説得に応じて額兵隊を率いて蝦夷に逃れることになり、衝撃隊の細谷十太夫の協力と後押しもあって旧幕府艦隊と合流を果たしました。箱館戦争では禁酒して別人のようになり、榎本率いる蝦夷島政府陸軍の第三列士満第二大隊長として奮戦。木古内の戦いで官軍の攻勢に抗しきれず撤退することになった際、自決を決めるも隊士に止められました。五稜郭で包囲されて投降を迫られた際、官軍の黒田清隆は酒樽五樽と肴の鮪五尾を送ってきましたが、毒殺を恐れてこれに手を付けるものが誰もいなかったものの、恂太郎は笑って樽の鏡を割って一杯飲みほして見せたので諸将もこれに従ったといいます。戦争後は新政府軍の捕虜として弘前藩に幽閉。明治3年3月に釈放されて開拓使大主典となり北海道に移住。岩内町で製塩業を始めましたが、明治9年7月27日に37歳の若さで死去。墓所は仙台市青葉区宮町の清浄光院。
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『「花になどことなりし実のふるさくら」是非庵亀泉・安政4丁歳(1857)4月同人妻建立』
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二關源治君碑(明治30年4月)…『我仙台藩戊辰之難。自奮提兵。倔強抗西軍者。有三人。曰星恂太郎。曰細谷直英。日二関源治。三子資性雖異。而意気慷概。能樹義聲。則未 不同也。而源治君。独戦死北海。其志亦可悲矣。頃舊友針生惣助。中島高。與直英等謀。建石干仙台城東榴岡。以表其奇節。以余與君親善。来徴碑銘。按状。君姓二関氏。諱昭忠。源治其通称也。考諱駒治。妣大内氏。世為藩大番隊士。君八歳喪父。為母氏所鞠養。奉事甚謹。家貪能甞菽水之歓。及長専学刀槍。甞挙胥吏。非其志也。奥羽之戦。自夏渉秋。藩論一変罷兵。是時榎本釜次郎。大鳥圭介等。以幕府遺臣。来我藩。遂北遁蝦夷。恂太郎等亦同之。君慨然曰。大藩養士三百年。為有今日也。乃糾合同志。得五百余人。號見国隊。衆推君為長。屯桃生郡船越村。適西軍入仙台城。緝捕激徒。将遣兵来攻。君偵知之。遣人横浜。雇英商威氏船雙。満載衣糧器仗等。率部兵航北海。榎本等軍。同大鳥守千代岡。與西軍戦干大川村。連戦数日。後大戦干大森浜。両軍健闘。君叱咤督衆。中弾丸仆。呼日吾事畢矣。部兵舁入五稜郭。創劇。翌日遂逝矣。時明治二年五月一二日也。距生天保七年十月七日。享年三十四。葬干郭中。部下哀慕。莫不揮涙。娶る後藤氏。生二子。長忠之進。襲後。次宏。一女適高橋今朝三。君状猊不揚。一見如婦人女子。諸友 辱之不與校。衆目為怯。雖余心窃疑其柔懦。不料其毅然有所樹。立如此也。顧君長余一歳。比髫齔常相携上藩学。及壮不易交。戊辰之役。余為当事者所忌。禁錮累月。放還田里。途宿松島。逆旅有一人。蓬髪参々然。挙手招余。遽不弁其為誰。諦視則君也。日事既至此。復何言。将北行。事成有会期否。則血膏草野耳。揮袂而去。遂成永訣矣。今接碑之 請。回憶幼時同嬉戯。及臨別激昂憤椀之状。音容彷彿在干目睫。俯仰今昔。不覚老涙沾臆也乃拭涙銘之銘曰 得士五百 誓同死生 絶海埋骨 何以田横 英風凛然 千戴維馨 噫若而人 死有余栄 正三位勲一等大鳥圭介篆額 仙台永沼秀実撰文 湯村行作書』二関源治は見国隊隊長。
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額兵隊・見國隊戦死弔魂碑(紀元2557年8月建立)。
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『「啼うかと山みればやまほととぎす」桃樹庵買月・文政10年5月社中建立』
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篆書体はパス!笑
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道標。
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『一金五百六拾圓也 二十人町區天神講』
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『筆冢銘序』とあります。
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片手に傘状態だったので内容は読んでいません。筆塚に関するものかな。
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ちなみに隣に筆塚あります。
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ってことで他にも石碑がたくさんありますが長くなったので…
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