くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ:寺・神社 (秋田県) > 寺・神社 (大館市)

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秋田県大館市白沢松原。
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山を登るようです。山神社ですからね。
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石段もあって歩きやすかったです。
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途中の風景。松原地区です。
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そこから少しだけ上って…
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到着。
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眺望。先程とほとんど変わりませんが。
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さて、かつての白沢村は羽州街道の秋田藩内最北の宿駅場に指定、津軽・松前藩の本陣も置かれました。藩境の要地として当初は御境口番所も設置されましたが寛文8年に長走村に移転。しかし御境目郷として近隣の橋桁・中羽立・岩本の3ヶ村を差配し、ともに矢立峠から西の又頭までの藩境巡回の役を負っていました。また、元和から寛永年間に寺ノ沢などの広大な山林は藩の御留山に指定。その管理維持のために7人扶持の山守1人、2人扶持の山拠人1人が任命。村鎮守は神明社(白沢神明社)で、他に義経伝説を伴う観音堂(鹿戸野沢神社)、慶長元年花岡村より移し1石8斗の除分を持つ山神社・十王堂などがあります。この時期以来の獅子舞は伝統芸能として伝わり、また賽神信仰も盛んな地域です。
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当山神社の御祭神は大山祇神。
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建立年月日は不明ですが、上記のように慶長元年に花岡村から移転されたようです。明治45年に一時白沢神明社に合祀。
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社殿唐破風懸魚。
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頭貫・蟇股・木鼻等の彫刻。
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向拝神額。
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拝殿内。
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拝殿脇障子。
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幣殿・本殿覆屋。
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社殿前石灯篭一対(大正11年旧7月20日)。
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唐松堂。
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「太平山」碑(昭和14年)。
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「八幡社」碑。
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山を下りまして、こちらは神社入口(一の鳥居脇)にある松原の人形道祖神(仁王様)です。仁王様系。いずれも赤面。結構大きいです。男神と女神が一緒に並んで双体道祖神の形式を取っているとのことですが判別は難しいですね。そもそも以前はそれぞれ集落の入口2ヶ所にバラバラに設置されていたようです。
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頭と目が金色タイプと、頭と目が銀色タイプです。
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いずれも鼻穴から毛が出ています。
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覆堂…『仁王様は集落の入口(福士富夫宅前)に一体と現在地に一体であったが、大正の初期に現在地に二体を祭る様になった。建物は杉丸太の掘建で屋根造作は藁で造った。ノマや杉皮で毎年改修し根本が腐ると建替る、部落作業の大きな行事の一つであった。昭和51年7月覆堂寄贈者。基礎工事共栄土木佐々木栄氏。建築工事山下工務店山下米男氏。平成6年3月』
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覆堂内にはなぜか天狗の面と一本歯下駄もありました。
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秋田県大館市十二所中岱。三哲山の中腹に鎮座。社殿までは車で行けるようです。更に三哲山頂上まで車で行けるようです。
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裏参道の社号標。草で見えませんが。ここから車で登るんでしょうね。
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裏面碑文…「皇紀2431年明和8年創立100年記。皇紀2632年昭和47年に創立300年記に式典挙行。皇紀2652年昭和67年に320周年記に社標寄贈」
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さて、私は正面参道へ。
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三哲の御神水。なかなか凄い勢いで水が出ていました。
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菅江真澄の道(三哲神社)…『享和2年(1802)12月20日義人三哲を語る<雪の秋田根>その文に、蝦夷が森のおちくぼ見えたるところに雪のふりかくしたるほぐらのありけり。』
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三哲神社物語…『当神社の祭神は千葉秀胤(前名は下戸前常政)、いわゆる三哲である。秀胤は南部藩福岡の産で、江戸に出て学問、医術、武芸の三道を学んで帰郷したが、故あって所々を流浪し、のち十二所の宍戸、菊池両氏の食客となった。町民は、彼が三道に優れていたので三哲と呼び、門人となる者も多かった。寛文12年(1672)、十二所の重臣の妻(一説十二所城代)の重病を彼が治したが、約束どおりの治療代を払わなかったので、その禄米を奪って貧民に施した。訴えにより3人の捕手が彼を誘い、大滝温泉で入浴中に太い棒で殴って捕縛、2日後の6月17日に息絶えた。時に享年49歳。三哲は死ぬ前に「死後も十二所を守るから、えぞが森の中腹に葬ってほしい。さもなくば十二所に大火が起るであろう。」と言ったが、罪人のために、町民はそうしなかった。ところが4年後の延宝4年(1676)、十二所に大火があり、全焼した。町民は大いに恐れて、彼を改めてえぞが森の中腹に葬り祭った。この頃から、えぞが森は、三哲山とよばれるようになった。』
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この付近の見どころ。①老犬神社(忠犬シロを祭る神社)。①のみです笑
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三哲神社下宮(遥拝所)。
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下宮内。
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奉納三哲神社下宮鳥居(平成27年11月吉日・三哲神社氏子一同)※協力者名省略。
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案内板より…『【三哲神社登り口】神社まで600m・歩いて15分【三哲の御神水】三哲(千葉秀胤)は蝦夷ヶ森(三哲山)中腹の前森山を好み、自ら水元を探し当て神社まで引水した。この度、三百四十祭に当たりこの場所でも利用出来るよう水のみ場を設置した。平成24年8月吉日・上新町町内会・三哲講氏子一同』
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600mあるそうですが、綺麗に整備された石段です。
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これなら歩きやすいですね。
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参道周囲の巨木。
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途中で石段がなくなりましたが、このように階段があるので迷いません。
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と思ったら…ただの山道になりました。
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ちょっとした登山の予感。
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参道はわかりやすいです。
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鳥居が見えてきました。思っていたよりも楽でした。
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鳥居。
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御祭神は千葉上総介秀胤(ちばかずさのすけひでたね)別名:下戸前常政。例祭日は旧暦6月17日。
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千葉上総介秀胤、またの名を下戸前常政ともいい、南部領下戸前に居住して下戸前を姓としていました。幼少から物事のおぼえが良く、多くを知り、考えの鋭い子でした。若い時に江戸に出て学問に励み、文学並に武芸には特に優れていました。また、医術でも人々を救いました。武芸、医術、文学とも抜群で、医名を三哲、学号を玄秀と唱えていたので当時の人から三哲と称されていました。
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寛文6年十二所に来て武芸を教え、医業を開いて貧民を救い(貧しい者からは治療代を受け取りませんでした)、生神の如く崇敬されていましたが、当時塩谷城代の施政悪しきを心よしとせず、上納米を貧民に施したので、その不法をとがめられ、三哲の棒術の弟子である福助をはじめ3名の手にかかり大滝の温泉場で捕われ、斬に処されましたが、その後町民等が相謀り、生前三哲が好んで登り、また、死する時はこの地に葬れと言っていた中岱(蝦夷ヶ森・現在地)に神として祀り、三哲権現として祭事を執行。三哲の遺骨は現在もここに眠っています。年々その威徳を慕い、県内外から参詣者が増加。
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手水舎。
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拝殿内。
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中央本殿。
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三哲神社と刻まれた石塔などが見えます。
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神社に褌と下駄等を奉納するのは住民の思慕と同情のあらわれといわれています。
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拝殿内にあった三哲神社由来…『三哲は本名を下斗米秀胤といった。父は下斗米弥兵衛將則と云い岩手県二戸市下斗米の人で下斗米氏六代覚左ヱ門將家の三男である。天正19年、九戸乱に加担し敗れて後下斗米に隠れていた時秀胤をもうけた。秀胤は幼名を小太郎と云い、長じて千葉上総介秀胤と改め、武術に秀れ又文学医術は抜群で、学号を玄秀、医名を三哲と称した。大館十二所に住し、義侠心が強く貧者を助け暴悪の者を懲らしめたので一般に深く慕われたが却って一部の人達に妬まれ、遂に入浴中を謀られて殺害された。時に寛文12年旧6月10日(1672)49才。霊体は遺言により、えぞが森に埋葬し戒名は、哲明院大誉了心居士。のち神号に改め、三哲神社として祀られ一般の信仰厚く、えぞが森は霊山とし、三哲山と称された。昭和52年9月吉日。岩手県二戸市福岡史談会』
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三哲尊像(黒沢写)。
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境内、三哲神社標柱…『祭神は千葉上総介秀胤。1666年に十二所で医業を営み、三哲様と呼ばれ尊敬されていました。治療代は貧しい者から受け取りませんでした。十二所城代と町の富豪が助けてもらったのに代金を払わなかったことから、年貢米や運送米を取り押さえて貧民に与えました。そのため、大滝の温泉場で捕らえられ処刑されました。人々は三哲を蝦夷ヶ森に葬り、神社を建てました。それから、ここを三哲山というようになりました。十二所では火事が続き、三哲の怨念とみられました。神社に褌と下駄を奉納するのは住民の思慕と同情の現れといわれています。』
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神社碑…『三哲神社祭神は千葉秀胤通称上総介幼名小太郎といった平常胤の子孫で下戸前上総権守常秀の孫なり寛永元年(1624)に生まれ父は下戸前弥兵衛である寛文6年(1666)鹿角郡大湯から十二所に居を移す医術に優れ号を三哲といい武術文学木工にも長け学号玄秀といった義侠心が強くそれが一部の富裕者に妬まれ遂に入浴中の不意を討たれ之が2日後黄泉と帰する時に寛文12年(1672)6月17日享年49歳であった遺言により郷の東蝦夷山(現在地)に上新町の住民が葬る明和8年(1772)百年忌に祭神が寄寓した宍戸家の曽祖政乙が立石するも慶応4年(1868)3月山火事により烏有にきす子孫又左衛門源政信矢四郎父子により6月に旧文の碑を修復するも昭和16年(1941)2月社殿焼失と共に破損消滅する茲に330年祭斎行に当たり悠久の神徳を祈念し旧文を遵守し和文の碑を父子で建立する。平成14年(2002)7月26日(旧6月17日)黒田美弥 同秀樹』※賛同親族名省略
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神社裏手へ。
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丁字路。未舗装の車道(登山道)です。
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上の写真の左が下り三哲神社登り口(1.2km)、右が三哲山頂上(2.4km)です。
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これだけ綺麗に整備されているなら、むしろ車じゃなくても余裕ですね。と、言いながら山頂には行ってませんが。
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秋田県大館市比内町中野八幡台。
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石段横の石祠。薬師様でしょうか。奉納石が詰まっています。五条神社は言い伝えによりますと貞觀(859-877)以前からあった薬師様とのこと。言い伝えどおりならばかなりの歴史です。
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石段を上った先に横向きに社殿があります。
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社殿(堂宇)。
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社殿内。
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神額紀年銘は昭和31年12月吉日(信者一同)。
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薬師如来。薬師様とのことで穴のあいた石も奉納されています。
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社殿内「当社改築の儀」より…『当五条神社の祭神は薬師如耒にて例祭は毎年旧4月8日に講中にて奉奏し耒たれり。其の創草は明でないが伝説等に依れば今より大凡千数百年以前と推意する。当時は泣面山(薬師森と云ふ)の中復に建立されてあったが、貞觀の昔此の地に移し奉ったと伝ひ聞く。以耒約1千年間は小さい石の堂宇であったが、明治12年に講中及び信者一同にて十尺四面の木造の堂宇に改築し其の後数回屋根替へ及び修理等致して信仰し耒たれり。今回腐朽甚だしき為講中一同協議の上改築成就せり。茲に之れを記念して此の額を奉納する。昭和32年6月8日(以下宮司・大工・世話係名は省略)』
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秋田県大館市花岡町鳥内。
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御祭神は愛宕大神。例祭日は旧5月18日。
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御神体は古来は見入地蔵の木像と石像でしたが現在は石像のみ。
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創建不詳。嘉永元年再建。明治15年修繕。昭和28年に奥殿を成田新三郎が奉納。昭和31年に灯篭・狛犬奉納。昭和56年社殿及び鳥居再建。
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手水石。
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石灯篭一対(昭和31年4月)。
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狛犬一対(昭和31年)。
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秋田県大館市二井田小石台。県道52号線沿い。大館警察署大館南駐在所近く。
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鎮守の杜の割に神社は小さめなので気付きにくいかも知れません。
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一之鳥居跡。
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由緒等はわかりません。
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以下私の憶測になりますが、三浦稲荷神社の三浦とは恐らく三浦八右衛門かと思われます。嘉永6年(1853)頃、山本郡鵜川村(現八竜町)の大地主の家に生まれた三浦八右衞門は二井田村大石台、小石台地区及び下流にある真中村の一部の原野開墾を企てて、従来の二井田堰を拡幅。更にその水を犀川へ合流させると共に、村の西側にあった用水路(後の三浦堰)を拡幅し、開墾地域への灌漑にあてました。当時は反対する村人もいたり、冷害続きにより餓えで亡くなる人があるなどして工事は難航。三浦八右衛門(工事の途中で病死)は佐竹藩に工事の協力を要請し、それを引き受けた藩と八右衛門の意志を受け継いだ息子の三浦富吉により、約6年の歳月を経て安政5年(1858)に三浦堰が完成。三浦八右衛門の住んでいた土地は「三浦」と呼ばれるようになり、これが現在の三浦集落の始まりで、八右衛門が造った用水路を三浦堰、また、開拓された田を三浦水田と呼ぶようになりました。この地域の農業に貢献した三浦八右衛門・三浦富吉、そしてそれによって発展した当地域の農業の五穀豊穣等を願い祀られたのが当稲荷神社ではないかと思われます。
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御神木に注連縄がかけてありました。
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手水舎。
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石灯篭一対。
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石祠。何かはわからず。
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