くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ:寺・神社 (秋田県) > 寺・神社 (大館市)

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秋田県大館市板沢屋布。
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板沢村は天正19年の史料に村名が見え、戦国期には一定の村落が展開されていたものと思われます。正保国絵図では板沢新田村16石、享保3年には板沢村当高148石余。
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御祭神は天照大御神。
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4.5
明治43年6月15日に一時愛宕神社(板沢字別後沢)に合祀。
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社号標(摂政宮殿下御成婚紀念)。
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狛犬一対。
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紀年銘は昭和3年旧3月15日。
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鳥居補修奉納記念碑(皇太子殿下御誕生記念奉納)…『板沢神明社の大鳥居は昭和9年に、今上天皇の御生誕(昭和8年12月23日)を祝し、板沢お伊勢講、奨農会及び年祝会(42・72歳)の有志が記念に建立された鳥居である。以来、70年間、風雪に耐え忍んできたものの、近時になって剥脱現象が見られたことから、篤志家の寄付を受けて板沢部落が平成15年5月に補修工事を施工したものである。平成15年5月吉日 板沢部落。鳥居補修工事寄付者 権四郎十代目富樫毅氏』。
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鳥居奉納者碑。
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鳥居奉納者碑。
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皇太子殿下・雅子妃殿下御成婚記念碑(平成5年6月9日)。
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参道は直角に曲がっています。社殿横の御神木が目立ちますね。
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こちらの建物は馬頭観世音。
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建物内。
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紀年銘はわからず。
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手水石。
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石灯籠一対。
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稲荷社の石祠。
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庚申塔。
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二十三夜塔。
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秋田県大館市東台。長根山運動公園・長根山麓・長根山町内会館近く。
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御祭神は伊弉諾尊、伊弉册尊。由緒並びに創建年は不明。
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埼玉県秩父市三峰にある三峯神社を御存知の方は多いかと思います。秩父の三峯神社では狛犬の代わりに狼が境内を守っております。三峯神社の詳細な由緒は省略致しますが、享保5年に日光法印という僧により今日の繁栄の基礎ができ、その時代に「お犬様」と呼ばれる御眷属信仰が遠い地方まで広まりました。以来隆盛を極め、信者も全国に広まり、三峯講を組織し三峯山の名は全国に知られるようになります。狼を祀っている青森県内の神社を過去に紹介したかと思いますが、東北地方でもまた狼は農作物を荒らす鹿や猪等を退治する神の使いとして「お犬様」と呼び崇められてきました。
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なぜ、秩父の三峯神社に触れたかといいますと、ネット情報ですが、大館の三峯神社の狛犬(狼)は埼玉県より引越して来た方の寄贈らしいのです。また、秩父の三峯の名は神社東方にそびえる雲取山、白岩山、妙法嶽の3つの峰が美しく連なることから呼ばれていますが、大館の三峯神社の東側にも鳳凰山を初めとして山々が聳え立ちます。
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狼を神格化したものは真神(大口真神・御神犬)と呼ばれ、古来より聖獣として崇拝されてきました。大和国(奈良県)にある飛鳥の真神原の老狼は、大勢の人間を食べてきたため、その獰猛さから神格化され、猪や鹿から作物を守護するものとされました。東京都青梅市の武蔵御嶽神社には日本書紀の記述に基づく「おいぬ様」の伝説が残ります。日本武尊の東征の折、深山の邪神が大きな白鹿と化して道を塞ぎ、尊は野蒜で退治しましたが雲霧に巻かれて道に迷います。そこに忽然と白狼が現れて道案内をし無事に日本武尊を導いたので、尊は白狼に対して「大口真神としてこの御岳山に留まりすべての魔物を退治せよ」といったといいます。大口真神は天保の頃より盗難除け・魔除けの神として広く親しまれるようになります。映画「もののけ姫」もまさにこのイメージですね。
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ちなみにこの狼ですが、近くで見ると結構な大きさで迫力があります。
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台座「平成17年12月吉日・大館市柄沢山王台・小島章浩、千鳥建立」。
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社殿内。
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これはまさしく秩父三峯神社の御影掛軸です。
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社殿横のあちらの建物は草木で近寄れず。
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こちらの祠は何かわからず。
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庚申塔(天保3年)と読み取れない石塔。
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神社境内、もしくは境内の隣接地にあった石碑「竹村菊雄氏頌徳碑」。
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裏面碑文…『竹村菊雄氏は明治三十四年九月二十二日大館の素封家竹菊家三代喜蔵氏の長男として生れ大正六年九月父君の病死に遭い若冠十七歳で家督を継いだ県立大館中学校より東都成蹊実業専門学校に学びその間京都一燈園西田天香先生に師事して修養に励み大正十一年春学を卆へて帰郷し尓来只管篤農に志し小作農家の更正向上を念じ自費を投じて小作人基本財産制を創め人づくり村つくりに情熱を傾け傍ら推されて大館町々会議員郡在郷軍人連合会々長秋田銀行取締役を首め幾多公職会社役員の要職を兼ね地方自治と産業開発に貢献し令三十台で既に県下政財界の重鎮として衆望を蒐めるに至った偶々昭和十二年支那事変の勃発するや陸軍中尉として秋田第十七連隊に応召し仝十四年新成舞兵団西田部隊の軍旗親授に際し誘導指揮官として参内重任を果し次いで北支に出征山西各地に転戦し偉功を立て仝十六年三月五日陸軍大尉に進級翌々七日新任髙木部隊長に隨って敵情偵察中不幸敵弾に斃れた享年四十一歳即日陸軍少佐に任じ従六位勲五等功五級に叙し雙光旭日章並に金鵄勲章を賜わった氏は古来長者の風あり聡明闊達加ふるに慈恵の心甚だ深く一族一門はもとより四隣悉く敬仰し氏に望を嘱せざるものがなかったひと度征途に上るや至る所現地人も氏の徳を慕い慈訓に悦服しまた陣中凄壮の間にあって綽然莞爾として將兵を鼓舞し朗らか部隊の異名を博した如き細心にして豪胆な氏の面目躍如たるものがある可惜不世出の英戈を祖国に捧げて氏の本懐とする所ならんも郷党は柱石を喪い挙げて長恨哀惜の情に堪えず年を経へ弥々追慕乃念禁じ難く昭和十年十月十七日秩父宮殿下御仮泊を記念して出入一同の結成した竹菊会を中心に大方有志相謀り氏没し二十三回忌に際し思出の長根山麓の地を卜し茲に碑を建て氏が不朽乃偉功を讃え永く遺徳を偲ばんとする 昭和三十八年三月七日 題字植木九仙 竹村幸雄書 撰文竹村吉右衛門 渡部忠石工』
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頌徳碑移築紀念碑(昭和50念5月・竹菊会)。
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秋田県大館市白沢松原。
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山を登るようです。山神社ですからね。
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石段もあって歩きやすかったです。
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途中の風景。松原地区です。
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そこから少しだけ上って…
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到着。
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眺望。先程とほとんど変わりませんが。
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さて、かつての白沢村は羽州街道の秋田藩内最北の宿駅場に指定、津軽・松前藩の本陣も置かれました。藩境の要地として当初は御境口番所も設置されましたが寛文8年に長走村に移転。しかし御境目郷として近隣の橋桁・中羽立・岩本の3ヶ村を差配し、ともに矢立峠から西の又頭までの藩境巡回の役を負っていました。また、元和から寛永年間に寺ノ沢などの広大な山林は藩の御留山に指定。その管理維持のために7人扶持の山守1人、2人扶持の山拠人1人が任命。村鎮守は神明社(白沢神明社)で、他に義経伝説を伴う観音堂(鹿戸野沢神社)、慶長元年花岡村より移し1石8斗の除分を持つ山神社・十王堂などがあります。この時期以来の獅子舞は伝統芸能として伝わり、また賽神信仰も盛んな地域です。
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当山神社の御祭神は大山祇神。
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建立年月日は不明ですが、上記のように慶長元年に花岡村から移転されたようです。明治45年に一時白沢神明社に合祀。
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社殿唐破風懸魚。
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頭貫・蟇股・木鼻等の彫刻。
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向拝神額。
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拝殿内。
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拝殿脇障子。
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幣殿・本殿覆屋。
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社殿前石灯篭一対(大正11年旧7月20日)。
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唐松堂。
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「太平山」碑(昭和14年)。
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「八幡社」碑。
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山を下りまして、こちらは神社入口(一の鳥居脇)にある松原の人形道祖神(仁王様)です。仁王様系。いずれも赤面。結構大きいです。男神と女神が一緒に並んで双体道祖神の形式を取っているとのことですが判別は難しいですね。そもそも以前はそれぞれ集落の入口2ヶ所にバラバラに設置されていたようです。
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頭と目が金色タイプと、頭と目が銀色タイプです。
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いずれも鼻穴から毛が出ています。
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覆堂…『仁王様は集落の入口(福士富夫宅前)に一体と現在地に一体であったが、大正の初期に現在地に二体を祭る様になった。建物は杉丸太の掘建で屋根造作は藁で造った。ノマや杉皮で毎年改修し根本が腐ると建替る、部落作業の大きな行事の一つであった。昭和51年7月覆堂寄贈者。基礎工事共栄土木佐々木栄氏。建築工事山下工務店山下米男氏。平成6年3月』
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覆堂内にはなぜか天狗の面と一本歯下駄もありました。
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秋田県大館市十二所中岱。三哲山の中腹に鎮座。社殿までは車で行けるようです。更に三哲山頂上まで車で行けるようです。
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裏参道の社号標。草で見えませんが。ここから車で登るんでしょうね。
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裏面碑文…「皇紀2431年明和8年創立100年記。皇紀2632年昭和47年に創立300年記に式典挙行。皇紀2652年昭和67年に320周年記に社標寄贈」
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さて、私は正面参道へ。
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三哲の御神水。なかなか凄い勢いで水が出ていました。
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菅江真澄の道(三哲神社)…『享和2年(1802)12月20日義人三哲を語る<雪の秋田根>その文に、蝦夷が森のおちくぼ見えたるところに雪のふりかくしたるほぐらのありけり。』
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三哲神社物語…『当神社の祭神は千葉秀胤(前名は下戸前常政)、いわゆる三哲である。秀胤は南部藩福岡の産で、江戸に出て学問、医術、武芸の三道を学んで帰郷したが、故あって所々を流浪し、のち十二所の宍戸、菊池両氏の食客となった。町民は、彼が三道に優れていたので三哲と呼び、門人となる者も多かった。寛文12年(1672)、十二所の重臣の妻(一説十二所城代)の重病を彼が治したが、約束どおりの治療代を払わなかったので、その禄米を奪って貧民に施した。訴えにより3人の捕手が彼を誘い、大滝温泉で入浴中に太い棒で殴って捕縛、2日後の6月17日に息絶えた。時に享年49歳。三哲は死ぬ前に「死後も十二所を守るから、えぞが森の中腹に葬ってほしい。さもなくば十二所に大火が起るであろう。」と言ったが、罪人のために、町民はそうしなかった。ところが4年後の延宝4年(1676)、十二所に大火があり、全焼した。町民は大いに恐れて、彼を改めてえぞが森の中腹に葬り祭った。この頃から、えぞが森は、三哲山とよばれるようになった。』
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この付近の見どころ。①老犬神社(忠犬シロを祭る神社)。①のみです笑
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三哲神社下宮(遥拝所)。
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下宮内。
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奉納三哲神社下宮鳥居(平成27年11月吉日・三哲神社氏子一同)※協力者名省略。
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案内板より…『【三哲神社登り口】神社まで600m・歩いて15分【三哲の御神水】三哲(千葉秀胤)は蝦夷ヶ森(三哲山)中腹の前森山を好み、自ら水元を探し当て神社まで引水した。この度、三百四十祭に当たりこの場所でも利用出来るよう水のみ場を設置した。平成24年8月吉日・上新町町内会・三哲講氏子一同』
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600mあるそうですが、綺麗に整備された石段です。
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これなら歩きやすいですね。
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参道周囲の巨木。
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途中で石段がなくなりましたが、このように階段があるので迷いません。
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と思ったら…ただの山道になりました。
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ちょっとした登山の予感。
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参道はわかりやすいです。
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鳥居が見えてきました。思っていたよりも楽でした。
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鳥居。
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御祭神は千葉上総介秀胤(ちばかずさのすけひでたね)別名:下戸前常政。例祭日は旧暦6月17日。
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千葉上総介秀胤、またの名を下戸前常政ともいい、南部領下戸前に居住して下戸前を姓としていました。幼少から物事のおぼえが良く、多くを知り、考えの鋭い子でした。若い時に江戸に出て学問に励み、文学並に武芸には特に優れていました。また、医術でも人々を救いました。武芸、医術、文学とも抜群で、医名を三哲、学号を玄秀と唱えていたので当時の人から三哲と称されていました。
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寛文6年十二所に来て武芸を教え、医業を開いて貧民を救い(貧しい者からは治療代を受け取りませんでした)、生神の如く崇敬されていましたが、当時塩谷城代の施政悪しきを心よしとせず、上納米を貧民に施したので、その不法をとがめられ、三哲の棒術の弟子である福助をはじめ3名の手にかかり大滝の温泉場で捕われ、斬に処されましたが、その後町民等が相謀り、生前三哲が好んで登り、また、死する時はこの地に葬れと言っていた中岱(蝦夷ヶ森・現在地)に神として祀り、三哲権現として祭事を執行。三哲の遺骨は現在もここに眠っています。年々その威徳を慕い、県内外から参詣者が増加。
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手水舎。
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拝殿内。
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中央本殿。
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三哲神社と刻まれた石塔などが見えます。
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神社に褌と下駄等を奉納するのは住民の思慕と同情のあらわれといわれています。
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拝殿内にあった三哲神社由来…『三哲は本名を下斗米秀胤といった。父は下斗米弥兵衛將則と云い岩手県二戸市下斗米の人で下斗米氏六代覚左ヱ門將家の三男である。天正19年、九戸乱に加担し敗れて後下斗米に隠れていた時秀胤をもうけた。秀胤は幼名を小太郎と云い、長じて千葉上総介秀胤と改め、武術に秀れ又文学医術は抜群で、学号を玄秀、医名を三哲と称した。大館十二所に住し、義侠心が強く貧者を助け暴悪の者を懲らしめたので一般に深く慕われたが却って一部の人達に妬まれ、遂に入浴中を謀られて殺害された。時に寛文12年旧6月10日(1672)49才。霊体は遺言により、えぞが森に埋葬し戒名は、哲明院大誉了心居士。のち神号に改め、三哲神社として祀られ一般の信仰厚く、えぞが森は霊山とし、三哲山と称された。昭和52年9月吉日。岩手県二戸市福岡史談会』
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三哲尊像(黒沢写)。
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境内、三哲神社標柱…『祭神は千葉上総介秀胤。1666年に十二所で医業を営み、三哲様と呼ばれ尊敬されていました。治療代は貧しい者から受け取りませんでした。十二所城代と町の富豪が助けてもらったのに代金を払わなかったことから、年貢米や運送米を取り押さえて貧民に与えました。そのため、大滝の温泉場で捕らえられ処刑されました。人々は三哲を蝦夷ヶ森に葬り、神社を建てました。それから、ここを三哲山というようになりました。十二所では火事が続き、三哲の怨念とみられました。神社に褌と下駄を奉納するのは住民の思慕と同情の現れといわれています。』
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神社碑…『三哲神社祭神は千葉秀胤通称上総介幼名小太郎といった平常胤の子孫で下戸前上総権守常秀の孫なり寛永元年(1624)に生まれ父は下戸前弥兵衛である寛文6年(1666)鹿角郡大湯から十二所に居を移す医術に優れ号を三哲といい武術文学木工にも長け学号玄秀といった義侠心が強くそれが一部の富裕者に妬まれ遂に入浴中の不意を討たれ之が2日後黄泉と帰する時に寛文12年(1672)6月17日享年49歳であった遺言により郷の東蝦夷山(現在地)に上新町の住民が葬る明和8年(1772)百年忌に祭神が寄寓した宍戸家の曽祖政乙が立石するも慶応4年(1868)3月山火事により烏有にきす子孫又左衛門源政信矢四郎父子により6月に旧文の碑を修復するも昭和16年(1941)2月社殿焼失と共に破損消滅する茲に330年祭斎行に当たり悠久の神徳を祈念し旧文を遵守し和文の碑を父子で建立する。平成14年(2002)7月26日(旧6月17日)黒田美弥 同秀樹』※賛同親族名省略
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神社裏手へ。
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丁字路。未舗装の車道(登山道)です。
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上の写真の左が下り三哲神社登り口(1.2km)、右が三哲山頂上(2.4km)です。
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これだけ綺麗に整備されているなら、むしろ車じゃなくても余裕ですね。と、言いながら山頂には行ってませんが。
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秋田県大館市比内町中野八幡台。
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石段横の石祠。薬師様でしょうか。奉納石が詰まっています。五条神社は言い伝えによりますと貞觀(859-877)以前からあった薬師様とのこと。言い伝えどおりならばかなりの歴史です。
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石段を上った先に横向きに社殿があります。
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社殿(堂宇)。
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社殿内。
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神額紀年銘は昭和31年12月吉日(信者一同)。
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薬師如来。薬師様とのことで穴のあいた石も奉納されています。
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社殿内「当社改築の儀」より…『当五条神社の祭神は薬師如耒にて例祭は毎年旧4月8日に講中にて奉奏し耒たれり。其の創草は明でないが伝説等に依れば今より大凡千数百年以前と推意する。当時は泣面山(薬師森と云ふ)の中復に建立されてあったが、貞觀の昔此の地に移し奉ったと伝ひ聞く。以耒約1千年間は小さい石の堂宇であったが、明治12年に講中及び信者一同にて十尺四面の木造の堂宇に改築し其の後数回屋根替へ及び修理等致して信仰し耒たれり。今回腐朽甚だしき為講中一同協議の上改築成就せり。茲に之れを記念して此の額を奉納する。昭和32年6月8日(以下宮司・大工・世話係名は省略)』
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