くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ:寺・神社 (弘前市) > 禅林街&新寺町寺院街

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青森県弘前市大字新寺町。浄土宗月窓山栄源院貞昌寺。為信が母の菩提寺として大光寺に創建し、後に新寺町に移りました。由緒等については以前の記事を参照下さい。
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以前の記事
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月窓山貞昌寺には三成の三女辰姫(大舘御前)の墓があります。辰姫は北政所の養女で弘前藩主信義の生母。二代藩主信枚の正室となりましたが、後に家康養女の満天姫が正室となったため辰姫は側室に降格。
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辰姫は7歳の時、北政所(秀吉の室)の養女になったとされ、北政所が秀吉を失った慶長3年あたりからのことで、関ヶ原の戦いなどがあった12年間を客人として密かに過ごし、三成と為信の関係と津軽に来ていた兄の源吾の存在もあり、北政所の養女として津軽家へ嫁ぎます。一方満天姫は福島正之がキリシタンの疑いで獄死したため、一子直秀を連れて実家に戻り、その後嫁いだ津軽家では、連れてきた子直秀を信枚の弟として受け入れ、後に家老大道寺の婿養子となります。満天姫にも信義誕生の一年後に信英が生まれますが、信枚は年長を理由に満天姫を説得し信義を三代目にします。信英は近年となって側室の子であると分かりますが、信枚はそのことを知っていた可能性があります。満天姫は、辰姫が亡くなった後、江戸屋敷に移された信義を、嫡子として育て、信枚もこれを幕府に認めさせて津軽家の後継ぎとして届けています。満天姫が連れてきた子、大道寺直秀も31歳となり、自らの出自を知るようになり、改易された福島家の再興を願うようになりますが、満天姫は津軽家を案じて我が子の盃に毒を盛ったことで絶命。杉山家が現在まで生き延びてこれたのは、この辰姫と満天姫が強固な基礎固めをしたからであると考えられるのです。
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津軽家と石田三成は、為信が嫡男平太郎を連れて関白秀吉の小田原陣を訪ねた際に縁ができました。秀吉は為信の参陣を喜び、平太郎の元服について差配するよう三成に命じ、三成は烏帽子親を務めました。平太郎(信建)は後に大坂へ上り、京へ出た弟の信枚と共に上方の政治情勢を実見するようになります。秀吉の死後、津軽家は家康に接近。徳川は、三成の一族には寛大であり、三成の三男三女のうち、二男と三女が津軽家と縁を持つも、特に表立った咎めはありませんでした。三成の本拠佐和山城が落ちた時に重成は大坂におり、そこから深味村に知行所をもらって隠れ住みました。この時重成は12歳くらいで杉山源吾と名を改めました。辰姫は上野国大舘(群馬県太田市)に住んだことから大舘御前と呼ばれました。この地は関ヶ原の戦いの論功行賞として津軽家に与えられたもので、大舘の東楊寺(天台宗)に辰姫の墓所があります。家中対立の危機を乗り越え、正保3年に三代藩主信義が東楊寺から母の遺骨を引き取り、菩提寺であった弘前貞昌寺に葬ったといいます。その時、母の死からは既に23年が経っていました。
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六地蔵。
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南無阿弥陀佛。
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慈母観音・無縁塔。
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山田純三郎先生紀念碑「永懐風義」(蒋中正題)…『山田純三郎先生墓碑 中國國民革命之艱苦奮門中本黨得日友山田良政與其弟山田純三郎之助力甚多當山田良政先生在恵州之役赴義戰死本黨總理孫中山先生兩次撰文並親書墓碑讃其為人道之犠牲亞洲之先覺者其後山田純三郎先生逝世本黨總裁蒋介石先生為其題紀念碑曰永懐風義以紀念其有革命道義而永誌不忘也一門難兄難弟同為忠義模楷猗歟賢哉 中華民國陸軍一級上将何應欽敬撰并書 中華民國六十四年三月二十九日黄花崗起義紀念日』※蒋中正=蒋介石
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山田良政先生之碑(孫文謹撰并書・民國八年九月廿九日)…『山田良政君弘前人也庚子閏八月革命軍起恵州君挺身赴義遂戦死嗚呼其人道之犠牲亞洲之先覺身雖殞滅而其志不朽矣』
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天下上人無極道者宗祖圓光大師。
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平尾魯仙(平尾魯僊)先生之墓。
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「明治十三年二月十二月二十一日歿」
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案内板「平尾魯仙・文化5年-明治13年(1808-1880)幕末から明治初期の頃の画人かつ国学者」より…『弘前城下紺屋町の魚商小浜屋に生まれる。名は亮致(すけむね)、通称初三郎。幼時から俊英で好奇心旺盛。母親に抱かれていた頃には既に百人一首を暗唱。八歳の岩木登山の折、麓から山頂までの全ての地名道順景色を覚え、画に描き周囲を驚かせ奇童画童と評判になった。また学問を好み書道俳諧を学び、画道を深める傍ら読書好古の人として知られた。十八歳の時、江戸遊学のため出郷を企てたが果たせず。天保八年30歳で家業を弟に譲り、画業と文筆に専念す。花鳥風月のみならず広い領域に彩管を揮った。精密な写実の筆で郷土の風物民俗を写した「合浦山水観」「岩木山百景」「暗門竒勝」等多くの画帳を残す。鯵ヶ沢高沢寺の「十王図」の地獄絵図は心血注いだ傑作である。安政二年、松前に渡り異人の風俗に接し、「函舘紀行」「洋夷茗話」として記録。微妙詳細な観察による画は、開港直後の函館を鮮明に伝えている。元治元年、江戸の平田派の国学の門に入る。神秘幽冥の事象を極め、画風全体に高邁気韻漂い余人寄せ付けない独特なものがある。万延元年「谷の響」五巻を著す。津軽領内の異事竒聞に属するもの九十四話を集め、「合浦竒談」(安政二年)と共に津軽の民俗資料を伝える好資料である。また考古を好み、石器や土器、竒物の類にも興味をよせ、記録に留めた。その他紀行、著書が数多く、中でも群書を博覧抄録した「宏斎抄誌」150冊に刻苦勉学のあとがうかがわれる。更に生涯をかけたものに国学の真髄を探求した「幽府新論」八巻があり、前半四巻が江戸に送られ大いに注目された。明治十三年、七十三才の生涯を終えたが、三上仙年、工藤仙乙、佐藤仙之はじめ、山上魯山、山形岳泉ら多くの門人を輩出した。彼らは後の弘前画壇に大きな影響を与えた。』
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魯仙肖像と寄書き。
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暗門瀑布図(文久2年・1862)。
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閑雲下澤保躬墓。
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下沢保躬(1838-1896)は陸奥弘前藩藩士。長利仲聴に歌道、平田銕胤に国学を学びます。維新後、修史局に勤務の後、帰郷して「津軽旧記類纂」などを編修。後に岩木山神社の神職。明治6年新年歌会始に庶民が詠進することを建白し実現。明治29年6月29日歿(59歳)。通称は八三郎。号は閑雲、鏡湖楼、花蔭、玄風。
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裏面はくずし字が多くて字体も独特…私には読みにくかったため省略(※明治38年6月29日銘)。
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津軽家裏方菩提所。
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二代藩主信牧公の生母・榮源院殿月窓妙輪大姉。
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初代藩主為信公の生母・深徳院殿桂屋貞昌大禅定尼。堀越城主武田守信公の内室。
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三代藩主信義公の生母・荘厳院殿果諗崇吟大姉。大館御前、辰姫、石田三成の息女。
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※辰姫(大舘御前)…『文禄元年-元和9年(1592-1623)弘前藩二代藩主津軽信枚の側室。豊臣秀吉の正室北政所の養女として育てられます。弘前藩領上州(群馬県)大舘に住んだため大舘御前とも呼ばれています。徳川家養女満天姫が正室として信枚に輿入れしたため側室となります。三代信義の生母。』
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※津軽信義…『元和5年-明暦元年(1619-1655)弘前藩三代藩主。石田三成の孫。弘前藩領の上州大舘(群馬県)で生まれ、5歳で母辰姫と死別し、江戸の津軽屋敷に移ります。13歳で父信枚の跡を継いで若くして藩主に。百沢の大堂(岩木山神社)の修復、治水工事、津軽新田開発、尾太鉱山開鉱、牧場開設など多くの功績を挙げました。』
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墓石下部には、向って右に戒名の一部「果諗崇吟大姉」、中央に梵字「ア(胎蔵界大日如来)」と「誠以」という文字、左に「正保三年七月十三日」と刻まれています。元和9年ではなく正保3年になっている理由については冒頭で述べた通りです。
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初代藩主為信公の息女・東泉院殿清光恵林大姉。伊喜姫。
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案内板「津軽家裏方菩提所」。
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案内板「貞昌寺」より…『文禄三年(西紀1594)藩祖・津軽為信公が津軽を一統し本城を大浦城から堀越城に移転する最中に御母上様が逝去せられた。為信公は直ちに京都の近衛龍山公にお願いして、引導師として京都京極の浄土西山派総本山誓願寺・第五十八代及山大僧正の弟子・円連社寂誉法庵岌禎上人を召請した。その時の御尊母様の法名が「深徳院殿桂屋貞昌大禅定尼」であったところから、その供養のため現・平川市大光寺に貞昌寺が建立された。また開山を岌禎上人とした。その後、二代藩主・信牧公の御生母「栄源院殿月窓妙輪大姉」(白鳥家出身)、為信公の息女(三女の伊喜姫)「東泉院殿清光恵林大姉」、三代藩主・信義公の御生母(曽野=大館御前・辰姫、石田三成の息女)「荘厳院殿果諗(言+念)崇吟大姉」(杉山家出身)等が貞昌寺に葬られたことにより、津軽家裏方菩提所として元和九年(西紀1624)以来、津軽藩内浄土宗総録所として総本山知恩院より准檀林の寺格昇進の特典を蒙る。また寺禄六十石を賜り約二十数ヶ寺の末寺末庵を有している。』
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禅林街の下寺、耕春院構えの奥に位置する耕春山宗徳寺。曹洞宗。御本尊釈迦如来。江戸時代は耕春院と称しました。津軽為信公が慶長2年に津軽を統一し、高岡(寛永5年に弘前と改称)に町割を実施。二代信枚公が慶長15年に高岡城築城とともに領内神社仏閣の移転を命じて、翌16年から元和元年に高岡に移しました。これにより長勝寺、耕春院等の曹洞宗寺院はまとめて配され、続いて茂森町との間に空濠を掘って土手を築き、入口には枡形を設けて寺院街そのものを要害とする城の外郭としての構えを完成させました(長勝寺構・内12ヶ寺を耕春院構)。津軽為信の二男信堅が亡くなった時の葬儀は耕春院で行われ、また二代目住職連室麟奕が朝廷より僧号を拝領した高僧で信枚の帰依僧であったこともあり、信枚は耕春院に東根、岩木山を中心とする津軽の東側の曹洞宗の統括を命じ、百石の寺禄を与えました。記録では為信の代から百石に近い寺禄があったとされていますが、さらに現在地移転の際は、境内地、墓地の他、山林畑地を含む広大な土地を与えました。元禄13年の大火以前は三仏事、道元忌、十二月七昼夜の坐禅などの諸行事を執り行い大いに栄えました。
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津軽の長福山耕春院は、明治に入って2回の火災に見舞われており、また寺禄の廃止や檀家が士族中心であったことから荒廃が急速に進みました。明治45年に耕春院の本寺である加賀(金沢市)の龍光山宗徳寺が同じく荒廃が進んでいたこと、宗徳寺の末寺十ヵ寺のうち弘前に三ヵ寺、長勝寺・常源寺・耕春院と集中しており、津軽地方のほとんど、また南部地方の半数以上が宗徳寺の流派であることなどの因縁から両寺院の同時再建を図るべく協議を進め、加賀の宗徳寺が津軽に移転し、末寺である耕春院と合併し、耕春山宗徳寺が誕生しました。
※龍光山宗徳寺…『明治37年発行の「金沢明覧」及び棟方住職の「宗徳寺移転日記」』によると、「応永二十一年加賀国能美郡粟津郷若松城主時国信公、粟津郷に創建し、高僧の玉窓良珍を請して開山。天正十年戦火のため諸堂が悉く焼失し、仮本堂に多年住した。文禄三年小幡宮内大夫、父の菩提のため堀川角場町に再建し六月移る。直末十二ヵ寺(合併時十ヵ寺)、孫曾孫を合せれば九百三十二ヵ寺を有す。中林文英現住職たり。」と伝わります。当初龍谷寺(龍国寺とも)として開山、後に宗徳寺と改称。宗徳寺は開山した玉窓良珍とその門下が全国各地に教線を広げ、総持寺輪番地を勤めるなど大いに栄えましたが、その後、寺禄の廃止や士族の没落など時代の趨勢とともに荒廃。」
※長福山安養寺…『長福山耕春院の前身は、田舎館にあった南部方の田舎館城主千徳家の菩提寺の長福山安養寺(天文11年開山)。天正13年に五代城主千徳政武は田舎館城とともに津軽為信に滅ぼされましたが、その時の安養寺住職は宗徳寺玉窓良珍直系八代目の高僧明室禅哲であったとされ、その後為信が堀越に建立した耕春院の初代住職に招くことになります。』
※合併後の本寺、末寺について…耕春山宗徳寺の本寺は福井市禅林寺(玉窓良珍の師、普済善救禅師開山)。禅林寺の本寺は総本山総持寺。直末寺には龍光山宗徳寺から引き継いだ九ヵ寺(香積寺(柏崎)、四天王寺(津)、長勝寺(弘前)、常源寺(弘前)、長年寺(花輪)、長興寺(九戸)、大慈寺(遠野)、素玄寺(岐阜高山)、江西院(佐渡))。更に長福山耕春院末寺(藤先寺(弘前)、安盛寺(弘前)、正伝寺(弘前)、永泉寺(弘前)、川龍院(弘前)、盛雲院(弘前)、万蔵寺(弘前)、照源寺(弘前)、嶺松院(弘前)、鳳松院(弘前)、高沢寺(鯵ヶ沢)、宝沢寺(鯵ヶ沢))。■参考文献:宗徳寺移転合併百年記念「行持のしおり」。
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寺の什宝は度重なる火災にて焼失。元禄13年の火災では蔵経七千余巻、雑書二千余巻を焼失。文政元年の火災では伽藍再建のため富くじ興行をしています。明治5年の火災で全焼。明治44年に本堂及び山門再建。大正元年に加賀の宗徳寺を合併して耕春山宗徳寺と改称。時の住職は棟方唯一。棟方唯一は明治31年の特赦による免囚者を住まわせ、我が国の厚生保護の歴史に名を残します。昭和9年に黒瀧精一に宗徳寺を譲ります。
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珍しく貴重なものとしては、釈宗演筆の達磨図があります。鈴木大拙と共に世界に禅を広めた傑僧釈宗演が描いたもの。弘前出身の佐藤忠三(禅忠)が血書を書いて弟子入りし、禅修行の絵も描き禅を広める助けをしました。禅忠は夏目漱石の参禅の師でもある釈宗演の跡を継ぎ、臨済宗鎌倉東慶寺住職となりました。作品の多くは東慶寺の松ヶ岡宝蔵に多く蔵されています。禅忠の禅画は大変人気が高く、宗徳寺に禅忠の師が描いたこの達磨図を拝見に来る人もいるそうです。
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裏庭には竹が鬱蒼と生い茂り、竹林をのぞむ奥座敷では茶会が催されます。
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宗徳寺には弘前藩の重臣を務めた人々の墓が多数あります。それらのほとんどが立派な兼平石を使用(寛永-寛保期に集中)。梵字は釈迦三尊、釈迦如来、破地獄の印字「鴿(たん)」及び鳥八臼。禅の真髄を指す「祖師西来意」、「即心即仏」、「無位真人現面門」、「円」、「○」、「空・風・火・水・地」などが見られます。以前の記事でも触れましたが、著名な家として津軽家一族、大道寺、一町田、西舘、杉山、毛内、傍島、蒔苗、棟方、笹森家先祖、諸々の重臣たちの墓が立ち並び、
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特に杉山家の二代目から十四代目までの代々の墓石には「豊臣」の姓が見られ、杉山家が豊臣の姓を受けた三成の子孫であることを物語っています。
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「温明院殿宏量之悳居士」。高さ103cm(段含め158)、幅36cm、厚さ35cm。側面「明治二十八年九月二日。裏面「杉山龍江 行年五十五歳」杉山八兵衛成知(天保12-明治28)。石田三成子孫、杉山家12代。
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名は成知、字は初め八兵衛、後に龍江。津軽12代承昭の家老大道寺繁禎とともに弘前藩青年家老として活躍。幕末の戊辰戦争では庄内軍総督。箱館戦争には軍事総督として従軍。明治4年廃藩置県時に青森県權第参事。明治5年「奉請北巡建言」と題した明治天皇の東北御巡幸を請願し実現。今日の「海の日」のもととなっています。その後、中・北・南津軽郡長歴任。詩文にも長じ号は梅春。
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幕末・明治にかけての杉山家当主は成知・龍江で、長男の壽之進は明治30年から東奥義塾長。藩主からの経済的援助を失って廃校せざる得ませんでした。大正末期に再興した東奥義塾初代塾長笹森順造が青山学院長として転任するときに壽之進が贈った漢詩があります。「岩山舞雪富山晴 千里名山相送迎 剣気触山山欲撼 青山輩出幾豪英」。
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「嶺翁院殿梅雲香清居士 寛永二乙酉年二月十一日孝子敬白 藤原朝臣津軽玄蕃政朝」。高さ173.5cm、幅74cm、厚さ60.5cm。津軽玄蕃政朝(慶安元年-宝永2年)。弘前藩城代家老。馴縄流馬術創始者。3代信義の4子。信義の弟津軽百助信隆の養子となり、万治2年家督相続、1600石襲封。延宝3年城代、同8年家老。聡明で、武芸、書、茶の上手でもありました。
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「義忠院殿順正功寛大居士 文久二年壬戌年八月廿二日 寛照院殿象外智玉大姉 明治四辛未年十一月二十二日 大道寺族之助平朝臣順正」。高さ170cm、幅140cm、厚さ71cm。大道寺氏宇左衛門(文化6年-文久2年)。津軽11代順承、12代承昭の家老。大道寺玄蕃が10代藩主信順の意を害し自害、分家である順正がその跡を継ぎました。10代信順隠居の際に順正の計らいにより黒石7代左近将監(順承)が襲封、この時家老となりました。和歌にも長じ号は恒山。
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「(梵字)圓通院殿盛叟英堅巨居士便威正覺 于時延寶二甲寅年二月二十三日 嫡謹孝子敬白 大道寺氏宇左衛門尉平朝臣姓為久」。高さ242cm、幅97.5cm、厚さ48.5cm。大道寺宇左衛門為久(-1674)。津軽2代信牧の7子、3代信義の弟。福島正之の子直秀が満天姫の連れ子として津軽に来て、大道寺家の養子になっていました。その直秀が急死したため、為久は寛永17年に直秀の娘喜久と婚姻、直英の家督1000石を相続。万治3年津軽信政の城番、寛文10年城代となり、3代信義、4代信政の家老を勤めました。延宝2年城中の餐宴で中毒死。
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大道寺先祖代々之墓。昭和59年5月1日大道寺繁行建立。
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「むら雲はふもとに消えて山松のあらしの上に澄める月かな」繁禎。大道寺繁禎は第十二代藩主承昭の家老、版籍返還の後に執政に努力。国会開設請願運動、弘前事件では自由の名の下に間違った方向に導く人々の活動を阻止しようとした保守系人物の中心。
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「忠岳院殿義英久繁大居士 天保二辛卯年六月二十九日 大道寺隼人平朝臣久繁」。
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「陸軍兵科幹部候補生 石黒健之碑 昭和二十年六月八日比島マニラ東方四十五粁の山地にて戰死 三十三回忌の法要建立 尚書」
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「永覺院巨海良忠居士 全孝院徳岩道器居士 觀應院秋顔良正居士」、裏面「永 天保九戊戌年三月二十八日 全 嘉永三庚戌年正月二十五日 觀 弘化元甲辰年八月初八日 安政七庚申年三月二十八日十二代目武田和吉建立」。高さ98.5cm(段含め174.8)、幅34.8cm、厚さ30cm。武田甚左衛門恒広(-天保9年)。
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武田甚左衛門恒広は弘前の豪商。金木屋3代で中興の祖。初め兼次郎また嘉七と称しました。江戸で奉公、重用され、寛政11年弘前に絹布木綿の正札店開業。後に織座を建て、養蚕、桑樹植付も奨励し、その財は津軽一となり、凶荒の時に再々窮民を救済、弘前藩の御用達となりました。
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「嚴裕院殿贒徳正郡居士 明治三十六年第一月三十日 傍嶋正郡墓」。高さ187cm(段含め221.5)、幅139.5cm、厚さ43cm。傍嶋正郡(幕末-明治36年)。
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津軽3代信義の代の家老傍嶋太兵衛正玄の子孫。歌人、名は吉之進、字は正郡、号は松軒。文学を好み、特に詩書に優れていました。稽古館の教授、郡立中学校の執事から県立女子師範学校の教頭になりました。
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「鶓 爲機雄院殿即安全心居士也 萬治二天九月十七日施主 傍嶋太兵衛尉平朝臣正玄敬白」。高さ193.5cm、幅78cm、厚さ55cm。
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傍嶋太兵衛正玄(天正-万治2年)。先祖は池田弾正で伊勢国関の城主。6代のとき傍嶋に改姓。正玄ははじめ福島正則に仕え、関ヶ原合戦で活躍し、後に加藤清正、生駒壱岐守に仕え、禄1000石。主家の没落に伴い浪人。寛永10年に江戸で津軽3代信義に抱えられ、慶安2年信義とともに津軽へ下向し家老となりました。
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「(梵字)光巖院殿將山天良居士正覺(梵字)寔寛文十二壬子年欽孝子敬白 三月晦日 杉山氏八兵衛豊臣姓吉成」。高さ220.5cm、幅69.5cm、厚さ28.5cm。
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杉山八兵衛吉成(慶長15-寛文12年)。石田三成の次男で津軽に逃れた杉山源吾の長男。寛永10年津軽3代信義に召し出され1300石。三成の三女辰姫は、秀吉正室北の政所の養女として津軽2代信牧に正室として嫁ぎますが、約3年後に徳川家康の養女満天姫が降嫁されたため側室となりました。しかし辰姫は津軽3代信義の実母となったため、信義と吉成は従兄弟同士。室は信義の妹子々姫。寛文6年本参侍の組頭。同9年蝦夷反乱の際に幕命で侍大将として700人を率いて松前に渡るも既に反乱は治まり、蝦夷地の情況を視察して帰ります。墓碑銘には「豊臣姓吉成」を刻みます。
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「(卍)(梵字)真性院殿繁庵常昌大居士 覺霛位 延寶四丙辰暦四月二十八日終焉 藤原朝臣津軽平八郎為永」。高さ238cm、幅67cm、厚さ42cm。津軽平八郎為永(承応3年-延宝4年)。通称平八郎。津軽3代信義の子。津軽2代信牧の子津軽為節の養子。室は家老進藤庄兵衛正次の娘。寛文12年、19歳で家督800石を相続。延宝2年書院大番頭。同4年疱瘡にて没。
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津軽信經菩提塔(天和元辛酉年三月二十五日)。
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津輕淸禎之墓(明治23年)。
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津軽平八郎、津軽平八郎妻・・・津軽家を刻む墓は相当な数です。
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その他、一町田家(一町田八郎衛門(了義院殿輝海道光居士之霊)等)などの墓もありますが、拝んでは調べ・・・拝んでは調べ・・・に疲れていまったのでこの辺で。
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31.5
最後に笹森順造之墓。
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墓には「笹森順造 明治十九年五月十八日生 昭和五十一年二月十三日召天 笹森寿 明治三十年五月二十一日生 昭和五十六年六月三十日召天」「昭和五十三年十月二十二日笹森建英教え子他有志建立」とあります。
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八坂神社 (弘前市)』※從七位杉山君碑
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人のいない禅林街を散歩。弘前上空がこんな感じだった日です(写真はイメージ)。見ていましたが写真は撮っていません。
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茂森町から茂森町桝形を通り黒門へ向かいます。茂森町桝形前から長勝寺構史跡指定範囲です。茂森町桝形付近には歩兵第三十一聯隊将校集会所や茂森会館西地区団第一分団消防屯所、土塁があります。
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途中右へ行くと天満宮です。天満宮前常源寺坂の坂上。天満宮及び天満宮参道や常源寺坂も長勝寺構史跡指定範囲。
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黒門が見えてきました。
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黒門手前右手には赤門
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赤門横には子育地蔵尊
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赤門を進むと耕春院構(下寺通り)。
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黒門を進むと西茂森長勝寺構(上寺通り)のスギ並木(保存樹林)。
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あまり知られていませんが、耕春院構(下寺通り)へ抜ける細い道があります。
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これが路地の目印。
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写真はあまり撮っていませんが色々なお寺を巡りながら散策。
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なぜか隣松寺の…
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千躰地蔵尊の写真だけはしっかり撮っていました。
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長勝寺にはさすがに観光客が来ていますね。
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長勝寺前から禅林街。
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長勝寺の隣にある禅林公園の忠霊塔へ。
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忠霊塔前の桜も満開でした。
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弘前城。わかるかな?
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ここです。たぶん現地はとんでもない数の観光客で溢れかえっています。
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長勝寺横の松前藩13代藩主松前徳広墓所跡。発掘中に1度訪れました(発掘時の記事はリンク先からどうぞ)。現在は埋め戻されて、新たに案内板が設置されていますが、案内板が遠くて見えません。
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松前徳広墓所跡(国指定史跡津軽氏城跡弘前城跡長勝寺構・長勝寺境内)…『【発見された墓所跡】松前徳広墓所跡は、長勝寺境内の重要文化財建造物九棟の防災設備設置に伴い、弘前市教育委員会によって実施された発掘調査で確認されました。お墓の掘り込みは上面約4m四方で、約4mの深さがあります。中には二重の木枠(木室・木槨)が残っていました。遺骸を収めた木棺は発見されませんでしたが、ほかの大名墓の類例から、木室・木槨・木棺の三重構造であったと推定されます。木室は最下層に胴木を二段積みとし、その上には約2.1m四方の井桁状に、角材が七段積まれていました。更に、その内部に約1.3m四方の木槨が作られており、木室との間には木炭が敷き詰められていました。また、木槨の板材の継ぎ目には水が浸み込まないように、アスファルトと思われる樹脂が塗布されていたほか、内部には酸化を防止するための石灰が敷き詰められていました。墓所跡の埋土からは改葬時に廃棄されたと思われる、木室の角材の一部や、角塔婆などが出土しています。なお、墓所跡は遺構保護のため、現在は埋め戻されています。【松前徳広と墓所跡】松前徳広は松前藩の第13代藩主です。明治元年(1868)11月の箱館戦争による旧幕府軍の攻撃を受け、居城福山城が陥落、19日に徳広は家族・重臣ともに津軽海峡を渡り、弘前藩の庇護を受けます。しかし、もともと病弱だったこともあり、29日には弘前の薬王院で病死し、長勝寺境内に仮埋葬されました。その後、明治3年(1870)9月に明治政府軍が松前藩領を回復したため、徳広の遺骸は松前町の法幢寺に改葬されました。発見された墓所跡から埋葬者を特定する資料は見つかっていませんが、墓の規模が藩主級で、改葬されていること、また、「明治2年弘前絵図」の本地点に墓所の記載があることなどから、埋葬者は松前徳広と判断されます。【長勝寺構について】長勝寺構は慶長16年(1611)、高岡城(のちの弘前城)築城時に、南西側の守りを固める出城構として、領内33ヵ寺を集めて形作られました。現在も東端の土塁や、寺院街の地割が良好に残っていることから、昭和27年(1952)に弘前城、新寺構とともに国の史跡に指定されました。』
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『木槨の内部には、櫛4本、もとゆい1束、縄2巻、和紙に包まれた剃刀1丁、和鋏1丁、砥石1丁、鉄製箸1膳、竹製箸入れ1本、髪を包んだ和紙、墨書のある和紙各1包が残されていました。これらは埋葬の儀式に使われた道具類と思われます。』
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黒門(長勝寺構え・上寺通り)20ヵ寺(+1ヵ寺※普門院は別の場所に移転。蘭庭院裏墓地後方の丘陵にある通称山観。)の記事。
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赤門(耕春院構え・下寺通り)12ヵ寺の記事。
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