
青森市幸畑谷脇。かつては社殿裏に樹高約25mの大きなケヤキがありましたが、現在は伐採されております。

御祭神は伊弉冉尊、菊理姫命。建立年月日不詳。

かつての幸畑村で、はじめ桑畑村と称しており、貞享4年検地水帳の附箋によりますと、享保11年に幸畑村と改称。なお、享保11年以前に幸畑村と見えることもあり、また、郷帳類では江戸期を通じて桑畑村と書かれることが多いようです。貞享4年の陸奥国津軽郡御検地水帳では桑畑村で、村中抱えの権現堂地4間5間20歩。宝暦9年の神社書上帳には白山権現(幸畑村)。安政2年神社書上帳には白山権現一宇(幸畑村。草創不詳。堂社板葺2尺5寸4面。御棟札文化6年3月。神事4月14日。初代和泉太夫代より社務仕来候)などと見えます。

明治以降は幸畑村と称し、桑畑村と呼ばれることはなくなっています。神社としては、地内谷脇に寛永8年再建という新山宮があります(享和3年寺社領分限帳・安政2年神社書上帳)。同社は「貞享4年検地水帳」では熊野堂と見え、新山宮を熊野宮と改称するのは明治初年の神仏分離時。なお、熊野宮は明治初年の一時期、横内村大星神社に合祀されています。このほか白山権現・稲荷宮がありましたが、神仏混淆神社調帳(八木橋文庫蔵)によりますと、神仏分離の際に熊野宮に合祀され廃堂を命ぜられたといいます。

上記に見える白山権現がいずれも当白山神社ですが、元は深持村の産土神であり、村が廃村になった後無格社になったといいます。深持村は堤川支流駒込川と横内川とに挟まれた丘陵地上に位置しており、東南方に八甲田山がそびえ、北西に大矢沢村、北方に幸畑(桑畑)村があります。宝暦9年改の郷郡中郷村位付帳では村位は下とあり、山間地であるため開発も思うように進まず、農耕地は徐々に荒廃していった思われます。明治初年の国誌によりますと、大矢沢村の記事の中に「旧東南の方七丁に深持と云る村居あり、今廃して家なし、畑のみにして水田なし、深持分と称し今当村の所得となる」と見え、幸畑村の記事の中に「南の方二十五丁に家一軒あり、深持と云ふ」とあり、この頃深持村は実質的に廃村状況にあり、近隣村に吸収されていたものと考えられます。明治7年の県管内村名簿によりますと、第1大区6小区の中に当村が1村として見え、のち第1大区2小区の田茂木野村と合併したとされます。同9年頃に正式に当村は廃村となっており、大矢沢村・田茂木野村・幸畑村などの近隣村に吸収されたものと考えられます。

庚申塔。

久々の青森市なのでお食事して帰ります。



