くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ: 遺構・遺跡・痕跡・城址・廃墟・碑等

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秋田県秋田市千秋公園。千秋公園内久保田城の本丸跡地に鎮座。
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八幡秋田神社標柱。後ろに見えるのは殉職消防組員招魂碑。標柱より…『秋田神社は、明治11年(1878)秋田初代藩主佐竹義宣を祀るため、広小路に創建され、同32年に旧城本丸の現在地に移された。九代義和(よしまさ)・十二代義堯を合祀する。同40年、佐竹氏の氏神八幡神社(明治5年大八幡・正八幡宮を合祀)を合祀して、八幡秋田神社と改称して内町の鎮守となった。社殿は、文政年間(1818-29)に造営された佐竹氏の氏神大八幡宮を移築したものである。』
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八幡秋田神社標柱。
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木内柳陀句碑(昭和28年8月12日)。柳陀は本名隆一。秋田市木内百貨店社長で、句会「北斗会」の七星として活躍。碑、台石とも安山岩。
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「霞はるれば山が常の如くで」
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磯崎夏樹俳句碑(昭和62年9月吉日、新雪俳句会主宰熊谷詩城建立、石川秀吉刻)。「みちのくの明日なき晴れや落葉風」。
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澁江政光君三百年祭記念碑(大正2年11月26日)。渋江内膳政光は、初代藩主佐竹義宣とともに秋田に来た第一家老。農業秋田の基礎を築いた人物であり、作柄の不安定地でも農民が生活に困らないよう面積を配慮した「渋江田法」で知られています。大坂冬の陣「今福の戦い」で藩主をかばい、流れ矢にあたって死んだことから子孫は永代家老となりました。
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殉難警察官之碑(明治43年5月、警察協会秋田支部)。
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手前の殉難警察職員顕彰碑に36人の名(明治12年-平成14年)を刻みます。
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鳥居。
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案内板より…『八幡秋田神社は、初代藩主佐竹義宣公始め、歴代の藩主を祀る、秋田県の有形重要文化財でありましたが、平成17年1月9日の放火により社殿を焼失しました。以来、皆々様のお力を戴きまして、平成20年12月に竣工することができました。これも偏に皆様の御陰様と心より感謝をし、厚く御礼を申し上げます。又、社殿の再建は成りましたが、皆様より尚一層のご理解、力強いご支援、ご協力を賜ります様、切にお願い申し上げます。平成21年10月吉日八幡秋田神社』
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手水舎。
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参道。
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灯篭二対(昭和62年10月吉日山影實、昭和58年6月吉日秋元又五郎)。
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雄柳龍神。
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御祭神は雄柳大龍王尊。
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社殿内。
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かつて広小路の城濠(穴門)の角に蛇柳という柳の名木あり、久保田城築城の際に、築城師が差し込んだ杖が柳になったとか、築城に際して人柱を立て、その供養のために柳を植樹したなど様々な言い伝えを残していました。その蛇柳の根元には濠の主と伝える大蛇を祀る小祠がありました。
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終戦後に濠の端の埋立地に創建された古川堀端町通りの雄柳大龍王尊神社に遷されましたが、雄柳大龍王尊神社が維持困難となり、平成19年に八幡秋田神社に遷されました。
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雄柳大龍王尊(和24年5月3日奉納)の扁額。
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八幡秋田神社の御祭神は、品陀別命、息長帯姫命、比売神。相殿として、倉稲魂命、猿田彦命、大宮売命、武甕槌命、佐竹義宣・義和・義尭朝臣を祀ります。例祭日は6月5日。特殊神事として竿灯祭と養老式があります。社殿内には文政6年の竜の絵馬の他、明治17年から大正3年までの絵馬等があります。
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神社庁より(由緒)…『元の秋田国主中祖佐竹義昌朝臣常陸国に居住中、山城国石清水八幡宮を太田城内に勧請し、同宮社殿下の砂石を以て神実とす。又、同義人朝臣永享3年相模国鶴ヶ岡八幡宮を勧請し「今現存せる尊影は即ち之なりと伝う」又山城国稲荷神社及び常陸国鹿島神社の大神を勧請奉斎したのを慶長7年9月同義宣朝臣秋田遷封の際、当地に移転し、累代秋田城内に三社を建立して奉祀崇敬す。明治5年右各社を合祀して八幡神社と称す。明治11年秋田城跡より秋田市東根小屋町(現中通2丁目)に移転、之より先11月10月23日旧秋田藩内臣民協同醵金して同境内に秋田神社を創建し、佐竹義宣朝臣を祀る。その後、義尭公、義和公を祀る。明治32年5月現在地に移転し、同40年12月前記八幡神社と合併して八幡秋田神社と改称した。平成17年1月、放火に遭い社殿を焼失し、現在、再建をすすめている。』
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社殿裏へ。
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本殿。
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秋田市千秋公園。久保田城跡に鎮座。
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彌高神社東参道。不浄門跡。
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3.5
社号標。「いやたかじんじゃ」と読みます。
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侯爵佐竹義春書。
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案内板「由緒」…下半分が消えています。内容は恐らく以下と同じなので省略。
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御祭神は平田篤胤大人命(諡号神霊眞柱大人命)、佐藤信淵大人命。平田篤胤は、復古神道を創始して古典文化の復興に寄与し、その学問は「草莽の国学」として日本近代化のさきがけとなり、明治維新の原動力の源泉ともなりました。なお、篤胤は没後の弘化2年(1845)3月「神霊真柱大人」の諡名霊神号を白川伯王家より賜っています。佐藤信淵は、幕末期に各藩に招かれて藩政改革のために尽力した農政家でしたが、それ以上に高い理想と広い構想をいだいた経世家でした。彼は久保田藩領の雄勝郡西馬音内村(現雄勝郡羽後町)の出身で、気吹舎の門人。例祭日は5月2日。
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秋田出身の国学者・神道家である平田篤胤を顕彰し崇敬するため、平田門人であった小谷部甚左衛門らの有志が、南秋田郡寺内村(現秋田市)の日吉八幡神社境内に平田篤胤を祀り創建した「平田神社」を母体としています。小矢部は日吉神社の祠官で、明治14年8月13日、針生源太郎・山中新十郎・桜田誠一郎・羽生氏熟とともに日吉神社境内に平田神社を創建することを秋田県令石田英吉に願い出、それに対し石田県令は同年8月26日付けでこれを認めました。平田神社の社殿建設にあっては全国の平田門人が関わり、明治15年2月の県令あて嘆願書に名を連ねたのは、久保悳鄰、師岡正胤、古川豊彭(以上東京府士族)、吉岡徳明、渡辺玄包(山口県士族)、久保季茲(東京府士族)、 井上頼圀(東京府平民)、 丸山作楽(長崎県平民)、 矢野玄道(愛媛県士族)の9人。この嘆願書は平田神社に対して特別の恩典を求めるもので、これに対し石田県令は翌3月に金100円を下賜しています。明治42年に至り秋田県教育会が中心となり久保田城内の正八幡社(旧県社八幡神社)を購入のうえ修繕し、佐藤信淵を合祀、彌高神社と改称。大正5年に現在地へ移築され、大正8年には県社に列せられました。明治時代創建の神社ですが、社殿が江戸時代後期の建築であるため権現造の形式をとっています。
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由緒(彌高神社HPより)…「明治14年小谷部甚左衛門他門人有志にて八橋に平田神社を創建、のち秋田県教育会が崇敬母体となり、明治42年元の秋田図書館跡地にありたる旧県社八幡神社社殿を購入修理し、平田神社を此処に奉遷、同時に佐藤信淵大人命を合祀し、社名を旧藩主佐竹義和公書明徳館題額「仰之彌高」に因んで彌高神社と改称せり。大正5年千秋公園現在地に奉遷。大正8年2月県社に昇格。昭和18年11月2日平田篤胤大人命百年式年祭、昭和25年11月3日佐藤信淵大人命百年式年祭を盛大に執行せり。」
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神社庁より…『明治14年秋田市八橋に平田篤胤大人命を祀る平田神社が創建され、その後秋田県教育会が崇敬母体となり明治42年に秋田市中通4丁目に奉遷し、この時佐藤信淵大人命を合祀、社名を彌高神社と改称する。大正5年現在地に遷座、同8年には県社に列格される。平田篤胤大人は安永5年8月24日佐竹氏の久保田城下(秋田市中通)に生れる。20歳で志を立てて江戸へ出、苦学力行、備中松山藩平田家の養嗣子となる。その後、本居宣長の著書を見て慨然皇道学を講じ、精勤刻苦和漢洋の書籍を読破し、その著述は呵妄書、古史成分、霊能真柱、玉襷、天朝無究暦など百部数千余巻にのぼる。天保12年帰藩、天保14年閏9月11日68歳にて歿す。佐藤信淵大人は明治6年6月15日出羽国雄勝郡に生まれる。家は代々医をもって業とし好学の家柄であった。16歳の時父が客死、遺訓に従い江戸へ出て蘭学、経済学、天文、地理、動植物、暦測量等を学び、父祖4代の学問を継承し家学を大成した。諸国を遊歴、諸侯の求めに応じ世の為人の為にこれを実施し、著書に著す。農政本論、経済要録、鎔造化育論、宇内混同秘策、山相秘録など著述300種8000巻といわれる。嘉永3年正月6日82歳にて江戸に歿す。』
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なお、彌高神社については公式HPがあり、そちらの「平田篤胤・佐藤信淵研究所」のページから彌高神社史などもダウンロードできるので、より詳しい情報はそちらを参照ください。特に彌高神社史には創建までの経緯が非常に詳しく掲載されています。
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手水舎。
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灯籠一対。
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「青海はら潮の八百重の八十國につきて弘めよこの正道を」篤胤。
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「明治維新百年記念歌碑 神社本廳統理 徳川宗敬書 平田篤胤大人歌碑建立會 代表北嶋一」
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彌高神社本殿一棟・拝殿一棟(秋田県指定有形文化財、昭和28年10月5日指定)…『彌高神社は明治42年(1909)に、国学者平田篤胤、経世家佐藤信淵の両大人を祀る神社として創建され、大正5年(1916)現在地に移築したものである。この社殿はもと久保田城内にあった佐竹氏の氏神八幡神社の正八幡社で、文政2年(1819)の建造である。本殿は桁行三間、梁間二間、入母屋造、向拝三間、銅板葺である。向拝は吹放しとなり、虹梁と手鋏を重ねた珍しい手法があり、また縁腰組などの扱いと彫刻類の多用などに、この時代の特徴がよくあらわれている。拝殿は桁行正面五間、背面七間、梁間四間、入母屋造、向拝一間、軒唐破風付、銅板葺で平面計画に独特なものをもっている。本殿、拝殿は現在石の間で結ばれ、権現造の形式をとるが、石の間は後年の建造とみられる。彌高神社社殿は、秋田藩の造営した数少ない神社建築として貴重なものである。秋田県教育委員会・秋田市教育委員会』
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社殿。
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向拝蟇股・木鼻等。
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鬼瓦・唐破風懸魚。
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海老虹梁・手鋏等。
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拝殿向拝神額。
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久保田城御隅櫓は市民が選ぶ都市景観賞受賞(平成2年度)。久保田城内には八つの御隅櫓がありましたが、この御隅櫓は本丸北西隅の高台にあり、見張り場と武器庫の役割を担っていた建物で、市制100周年記念事業として、平成元年に建設したものです。展望台から市街が一望できます。
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久保田城御隅櫓…『この御隅櫓はもと城内に八カ所あった櫓の一つで本丸の北西隅、一番高い台地(標高約45メートル)に位置しており、物見や武器の貯蔵庫などに使われたものです。資料と発掘調査に基づき、当時の二階造りを基本としてその上に市街地が一望できる展望室を加えました。市制施行百周年記念事業として二十一世紀にむけての市政の発展を願い、千秋公園の歴史的シンボルとなるよう復原したものです。構造形式:鉄筋コンクリート造り三層、四階建屋根本瓦葺入母屋造り。間口:19.70メートル。奥行き:7.88メートル。高さ:21.85メートル。総床面積:430.37平方メートル。床面積:1階165.83平方メートル、2階185.28平方メートル、3階59.00平方メートル、4階47.26平方メートル。秋田市制百周年記念日、平成元年(1989)7月12日秋田市』
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御隅櫓内部案内図。当記事では一部しか紹介しません。現地で楽しんでください。
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佐竹義堯公銅像。
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初代藩主佐竹義宣。後ろに豊臣秀吉、上杉景勝、石田三成、徳川家康が描かれています。
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歴代藩主。
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清和源氏の流れをくむ名門…『佐竹氏の家系をさかのぼると、平安時代初期の清和天皇にたどりつきます。応和元年(961)清和天皇の孫・経基は源姓を賜わりました。これが清和源氏の始まりで、佐竹氏もこの流れをくんでいます。武士化して関東各地に住みつくようになった源氏は、やがて東国を支配。義光は、永保3年(1083)現在の横手市金沢を舞台におきた後三年の役に、兄を助けるため参戦。この新羅三郎義光こそ、佐竹家の系図で始祖と位置づけられている人です。この佐竹家の始祖がすでに秋田の地に来ていたことは興味深いものです。この義光の孫・昌義が常陸の国(茨城県)佐竹郷に居住し、佐竹氏を名乗りました。』
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清和源氏略系図。
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常陸の佐竹から秋田の佐竹へ…『転封前の佐竹氏は常陸において54万余石の領土を所有し、全国でも有数な勢力をもっていました。しかし、関ヶ原の戦いにおいて大坂方に参画したことなどにより国替えを命ぜられました。慶長7年(1602)、安東秋田氏の居城であった湊城(土崎)に入り、慶長9年(1604)久保田の地(秋田市)に城を築き以来、この城は佐竹氏代々の居城となりました。』
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佐竹氏略系図。
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藩を支えた体制と経済。
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検地絵巻(秋田県照井静教氏蔵)…『義宣は秋田転封の翌年、藩内の石高を調べて年貢徴収の資料をつくり始めました。土地の広さをはかり、だれが生産しているかを調べ、台帳に記入するこの作業は検地と呼ばれています。2代・義隆の時代まで3回の検地がおこなわれ、これにより藩の税制度が確立しました。』
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秋田街道絵巻(秋田市千秋美術館蔵)…『土崎港は、雄物川の河口に開かれた藩内最大の港でした。米どころ仙北平野の米は雄物川を船で下り一度、港の蔵に納められてから諸国の大商人の手を経て、江戸や大坂方面に船で送られました。御蔵町にはその名の通り、大きな蔵が何十棟も軒を連ね、秋田藩の主要港としての貫禄を示していました。』
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秋田杣子造材之画(井坂記念館蔵)。
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羽陰六郡略図(秋田県立図書館蔵)…『この絵図は「出羽七郡絵図」を原図とし、賀藤景琴が写したもので、景琴が藩内の山林を視察するとき用いたといわれています。景琴の父である賀藤景林(1768-1834)は9代・義和の意を受けて文化・文政(1804-1829)の林政改革で活躍、数々の造林保護政策を実行した人でもありました。』
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美林・秋田杉…『古くは豊臣秀吉の京都伏見城改修用材として使われるなど、材質の良さから全国的にその名も有名な秋田杉。藩では鉱山資源とともにこの秋田杉にも着目し、開発に力を入れました。藩初期の家老・渋江政光は藩内の山林を調査し、保護・管理にあたりましたが次のような指摘をしています。「国の宝は山なり、しかれども、きりつくすときは用に立たず、尽きざる以前に備えを立つべし、山の衰えはすなわち国の衰えなり。」藩では資源を保護するため伐採を制限しながら、正徳・寛政・文化期と3回の林政改革を実施し、秋田杉の美林を守り続けました。』
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新田の開発…『当時から秋田の主な商品作物は米。藩の財政を安定させ、常陸から同行した家臣たちに土地を支給するためにも、新田の開発は藩にとって重要な課題でした。「本田の差し障りにならなければ、鍬先しだいでどこまでも開墾してよい。」これは新田開発の許可状の一例ですが、家臣たちはこの許可状をもらっては積極的に新田の開発に取り組みました。原野を切り開き、水路を通して水田をつくる工事には多くの労働力を必要としました。このようにして藩の新田開発は藩政初期から約100年間の間にほぼ為しとげられ、米の生産量も増大しました。』
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参勤交代・大名行列(大名行列模型)…『当時、行列の所要日数は11日から14日。久保田から羽州街道を通り、福島からは奥州街道へと入って江戸へと向かいました。(義宣の時代は山形から笹谷峠を通り奥州街道へ)一行は食料はもちろん、お膳やお椀、寝具までも持参し、その人数は寛永19年(1642)では1350人にもおよんでいます。宿場に着くと藩主と側近は本陣に宿泊し、その他の随行者は付近の旅籠に泊まりました。この参勤交代の定着にともない各街道では道路や宿場の整備が進み、主要街道筋は大いににぎわうようになりました。』
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鉱山の開発…『藩内には佐竹氏転封以前からいくつかの鉱山が開かれていましたが、それほど盛んではありませんでした。ところが佐竹氏の転封後、秋田の鉱業がたちまち盛んになったのですから"常陸の金銀鉱は地下を通って、すべて秋田へ行ってしまった…"との話が常陸で流されたほどです。初代・義宣の転封直後の慶長11年(1606)に院内銀山が発見され、二代義隆の時代には金山として開かれた阿仁鉱山が有望な銅山として開発されるなど、二大鉱山は藩の財政を支えました。院内銀山、阿仁銅山は藩政末期にはその産出量も衰えましたが、採掘は続けられ、明治政府へと引きつがれました。』
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阿仁鉱山絵図(秋田大学鉱業博物館蔵)…『藩政以前は金山として知られていた阿仁鉱山ですが、寛文10年(1670)、大坂の吹屋(精錬業)兼銅屋である北国屋吉右衛門が銅山として開発、後に藩が経営することになりました。阿仁銅山は、当時、伊予の別子銅山と並ぶ日本屈指の銅山で、18世紀を通じて幕府の御用銅総額の約38パーセントを産出していたといわれています。』
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院内銀山坑内作業図(秋田大学鉱業博物館蔵)…『院内銀山の最盛期は、天保7年(1836)から約10年間で、1ヵ月の産出量は100貫目(375kg)を越える好景気が続きました。当時は戸数4,000戸,人口は15,000人と、城下町久保田をしのぐほどのにぎわいだったといいます。この図は安政3年(1858)のもので、坑内の作業の様子が詳しく描かれています。』
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久保田城模型。
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久保田城のつくりと規模(御城下絵図)…『慶長8年(1603)5月に着工された久保田城は、同9年8月に完成。城のシンボルともいえる天守閣も石垣もないこの城は、ほとんど板塀と土塁で構成されていました。城の規模は、神明山のもっとも高い所を削り凹地とした本丸、東西117m×南北216mのほぼ長方形を呈し、二の丸は本丸の東側の一段低い所で東西70m×南北432mで細長く、本丸・二の丸のまわりに三の丸・北の丸が配されていました。』
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24.5
4F展望室へ。
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25.5
眺望。
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26.4
26.8
平和公園の平和塔が見えました。
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