くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ: 遺構・遺跡・痕跡・城址・廃墟・碑等

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栃木県宇都宮市本丸町。
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宇都宮城址公園…『ここは、近世宇都宮城の本丸があったところです。宇都宮城址公園は、歴史資料や発掘調査結果に基づいた本丸の一部復元、中心市街地の活性化の拠点づくり、防災の拠点づくりを3つの柱として整備したもので、復元した土塁や堀、櫓、土塀は、江戸時代中期の姿を現代によみがえらせたものです。宇都宮城のはじまりは、平安時代の後期に築かれた館だといわれています。中世には宇都宮氏が500年にわたって城主をつとめ、戦乱の世を乗り切っていきます。江戸時代には譜代大名の居城として威容を誇りました。また、釣天井伝説の舞台、関東七名城の一つとしても有名です。この城址公園は、宇都宮の新しいシンボルであり、次代を担う子どもたちに宇都宮の歴史を伝えるとともに、市民や多くの来訪者の憩いの場です。』
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3.5
発掘調査で確認された堀・土塁などの位置。
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宇都宮城址公園お散歩マップ。
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宇都宮城址公園施設の名付け親。
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堀。
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堀と冨士見櫓。
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築城年代は平安時代に遡り、藤原秀郷もしくは藤原宗円(宇都宮氏の祖)が二荒山の南に居館を構えたのが始まりとされます。宇都宮には宇都宮大明神(二荒山神社)が鎮座しており、宗円は前九年の役に際して源頼義・源義家に伴われて奥州遠征に赴き、その功によって当社座主の地位と毛野川(鬼怒川)流域一体の支配権を与えられました。以来、鎌倉時代から室町時代・安土桃山時代まで530年におよび国司・守護・関東八屋形に列せられ、宇都宮城は宇都宮氏の居城(居館)となり、北関東支配の拠点となりました。この頃の宇都宮城は中世城郭だったといわれます。
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戦国時代初期には宇都宮城で17代当主宇都宮成綱が実権を掌握するために、芳賀高勝を謀殺し、宇都宮錯乱とよばれる大きな内紛が起こりその戦場となったといいます。戦国時代後期には後北条氏や家臣である壬生氏や皆川氏の侵攻を受け一時はその一派によって占拠されたこともありましたが、小田原征伐に続く宇都宮仕置ではその舞台となり、豊臣秀吉に謁見するため奥州の大名らが宇都宮城に参城(なお、当時の宇都宮氏は後北条氏の侵攻を防ぐために多気山城に拠点を移していました)。宇都宮氏は秀吉から所領を安堵され居城を元の宇都宮城に戻すように命じられます。その後羽柴姓を授かるなど秀吉との仲は良好でしたが、慶長2年(1597)に突如改易。宇都宮氏改易後の慶長3年(1598)、宇都宮城には蒲生秀行が18万石で入り、日野町や紺屋町を造成して宇都宮城下の商業整備を進めました。
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慶長6年(1601)12月28日には関ヶ原の戦い後の京警備で功を認められた奥平家昌が10万石で入り、かつて宇都宮氏の菩提寺の一つであった田川対岸にある興禅寺を再興するなど城下町の機能を復興。更に元和5年(1619)、徳川家康の懐刀といわれた本多正純が15万5千石で宇都宮に入り、宇都宮城と城下の改修を行いました。縄張りを拡張して新たな郭を設け、本丸など城郭周囲を掘削し湧水を張って幾重の水濠とし、掘削で生じた土を高く盛り上げて土塁とします。こうして正純は宇都宮城を近世城郭とする一方、城下の日光街道と奥州街道を整備して町割を行い、城内の寺社群(延命院、長楽寺など)を街道沿いに再配置するなど城下の防御能を向上させると同時に、城内に将軍宿泊所となる本丸御殿を建設し、また宇都宮宿の宿機能・駅機能を整備するなど日光社参に関する設備向上を促進。この大改修工事の結果、宇都宮城下は城下町、門前町、宿場町の各機能を持つ都市に再編されました。宇都宮城改修に際し、正純は幕府の意向に順じ宇都宮城に天守は設けず2層2階の清明台櫓を天守の代わりとしましたが、正純の意に反して宇都宮城改修にまつわる正純謀反の噂が流布され、元和8年(1622)に正純は改易(宇都宮城釣天井事件)。正純時代の3年間は宇都宮城下に大きな変化をもたらし、正純によって再編された都市基盤は近代都市・宇都宮市の礎となりました。その後、奥平氏、奥平松平氏、本多氏、奥平氏、阿部氏、戸田氏、深溝松平氏と譜代大名が城主としてこまめに入れ替わりました。江戸時代後期には戸田氏が6-7万石で治め幕末を迎えます。
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宇都宮は慶応4年4月(1868年5月)には戊辰戦争の戦地となり、宇都宮城の建造物は藩校修道館などを残して宇都宮の町並み共々焼失(宇都宮戦争)。この時、宇都宮城下戸数約3000戸のうち8割以上の約2000数百戸が焼失し、また寺町群も48寺院が全半焼したと伝えます。宇都宮城には一時大鳥圭介ら旧幕府軍が入りますが、直ぐに河田佐久馬、伊地知正治、大山弥助、野津七次、有馬藤太ら率いる新政府軍(薩摩藩、長州藩、鳥取藩、大垣藩などの藩兵隊)に奪還され、宇都宮藩奉行の戸田三左衛門に引き渡されました。後、大津港に抑留されていた藩主戸田忠友も帰還。これ以降、宇都宮城は東山道軍の対会津戦争の拠点となり、板垣退助をはじめ東山道軍の幹部等が駐屯、宇都宮藩兵は新政府軍の一部隊として下野国内から白河、会津と転戦。前藩主の戸田忠恕は同年5月27日(7月16日)に宇都宮に帰城しますが間もなく他界。旧暦(同年6月)、宇都宮城内には下総野鎮撫府が古河から移転。また、明治4年に真岡天領が廃され真岡県が出来ると、鍋島道太郎が真岡知県事に選任され、陣屋を真岡から宇都宮城内に移しました。同年、城内に東京鎮台第4分営第7番大隊が駐屯。この部隊はその後の明治7年に東京鎮台歩兵第2連隊第2大隊に改称。明治17年にこの部隊が下総国佐倉に移駐となると、宇都宮城内は静かになり、やがて明治23年には城郭一帯が民間に払い下げとなって、城内には御本丸公園が整備され、市民の憩いの場として様々な催しが行われたそうです。一方、城門などの痕跡は払い下げによって失われ、城郭の面影は徐々に消えていきました。また、濠は西館濠、地蔵濠などの内堀が戦後まで残されており、鯉の養殖や蓮の栽培がされていたそうです。戦後、日本政府による戦災復興都市計画の策定に伴い、昭和21年10月9日には宇都宮市も戦災都市に指定され、城跡の遺構は撤去され市街地へと生まれ変わりました。昭和30年代頃までは現在の東武宇都宮百貨店近辺にも大きな水濠が残存していましたが、衛生上の事情を理由に埋め立てられました。
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現在、宇都宮城本丸の一部が外観復元されています。復元されたのは本丸土塁の一部と土塁上に建つ富士見櫓、清明台櫓、および土塀で、土塁内部は宇都宮城に関する資料を展示。復元された櫓と土塀は木造本瓦葺きで白漆喰総塗籠で仕上げられています。復元に使用された木材は、土塀の柱と梁が青森産のヒバ材なのを除けば、栃木県内産の桧・杉・松が用いられています。土塁の構造体に限っては鉄筋コンクリート造。平成19年3月25日に完成。
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近世・江戸時代に改修され、輪郭と梯郭形式を合わせた土塁造りの平城でした。本多正純の頃には天守があったといわれていますが、清明台櫓を事実上の天守としていました。また、徳川将軍の日光東照宮参拝の際に将軍の宿泊施設として利用されました。明治初頭の戊辰戦争の際に焼失し、第2次世界大戦後に都市開発が行われたため、遺構はほとんど残っていませんが、本丸の一部の土塁が現存しており、本丸の土塁、堀が外観復元、建物(清明台、富士見櫓、土塀)が木造で復元され、宇都宮城址公園として一般に公開されています。今後、本丸御成御殿、本丸清水門、本丸伊賀門を復元する計画があるそうです。
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現在確認できる遺構としては、埼玉県川口市本町の錫杖寺に明治41年に宇都宮城の門を解体して移設再建されたと伝わる山門が現存。栃木県宇都宮市瓦谷町萬松寺の山門は明治時代に宇都宮城の門を宇都宮市塙田の成高寺へ移築後に萬松寺の山門として再移築されたと伝わります。現存する門は草屋根を近年瓦葺き屋根の門に改修されたもの。今小路門が明治時代に城郭一帯が民間払い下げになった際に移築されたと伝わる門が宇都宮市北部の民家に現存。
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富士見櫓。
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中に入れます。
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富士見櫓内。
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矢狭間、鉄砲狭間。
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富士見櫓…『宇都宮城本丸の土塁南西部にあった櫓で、江戸時代の絵図には二階建て瓦葺きで描かれており、広さ3間(5.9メートル)×4間(7.9メートル)と記録されています。富士見櫓の名のとおり、まわりに高い建物がなかった江戸時代には、遠く富士山の姿が望めたと考えられます。』
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宇都宮城本丸将軍家御泊城ノ節建物ノ図。
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藤見櫓。
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土塀鬼瓦。本多家「立葵」。
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清明台。
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清明台内。
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清明台…『宇都宮城本丸の土塁北西部にあった櫓で、江戸時代の絵図には二階建て瓦葺きで描かれており、広さ3間(5.9メートル)×3間半(6.9メートル)と記録されています。清明台のあった部分の土塁は、ほかの部分よりも高く、天守閣の役割を果たしていたのではないかといわれています。』
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宇都宮城本丸将軍家御泊城ノ節建物ノ図。
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清明臺。
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南立面図・東立面図。
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天皇観臨賜甫處。明治天皇行幸記念碑。
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贈従三位戸田忠恕之碑(宇都宮市指定有形文化財)。
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標柱より…『戸田忠恕は、安政3年(1856)年に10歳で家督を継ぎ、宇都宮藩主となったが、幕末維新にあたって勤皇の志深く、山陵修復や戊辰戦争に力を尽くし、明治元年(1868)5月、わずか22歳で没した。この碑は、明治30年(1898)に特旨を以て従三位が贈られた後、翌31年に旧藩士や有志が、忠恕の功績を不朽に伝えるため建てたもので、その波乱に富んだ生涯が、漢文体で碑全面に刻まれている。』
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宇都宮城ものしり館内より。
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まちあるき情報館内。
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南新町の桃太郎山車・新石町の火焔太鼓山車。
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南新町の桃太郎山車…『南新町の桃太郎山車は、もともと明治12年(1879)に建造された棟上げに奉納される「上棟柱建て」の山車であったが、明治41年(1908)に桃太郎の人形に載せ替えたものである。大正2年(1913)まで菊水祭で活躍した。大正2年当時と思われる写真には、山車の他に桃太郎の家来である犬・猿・雉の着ぐるみを着た者が行列に加わっている。なお、桃太郎の姿が、日の丸の鉢巻き姿に陣羽織、「日本一」の幟を立てた姿になり、犬や雉、猿が家来になったのは、明治時代からである。こうした桃太郎像は、明治の国家体制に伴い周辺国を従えた勇ましい日本国の象徴にされ、各地で山車の恰好を意匠として取り上げられた。この山車の一部は長い間、南新町下組自治会の倉庫に保管されていた。山車の寄贈を受けた「宮のにぎわい山車復活プロジェクト」により、失われていた桃太郎人形及びお供の犬・猿・雉の着ぐるみの復元、欠損及び劣化した土台・高欄・車輪・車軸などの修復が行われた。復元事業は平成28年3月に完了し、「桃太郎山車」一式は同年4月、「宇都宮まちづくり推進機構」に寄贈された。「南新町下組桃太郎」の銘板には、平成25年の台風の折に倒伏した県指定天然記念物「新町のケヤキ」を材料として使用している。復元にあたっては文化庁の文化芸術振興費補助金(文化遺産を活かした地域活性化事業)、栃木県、宇都宮市の補助金、市民の皆様などからの寄付をいただいた。』
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新石町の火焔太鼓山車…『新石町の火焔太鼓山車は、江戸時代弘化2年(1845)に建造されたものである。菊水祭には弘化4年(1847)、慶応3年(1867)、明治6年(1873)、17年(1884)、23年(1893)、41年(1908)、大正2年(1913)に繰り出された。火焔太鼓山車の一部は、太平洋戦争の際の宇都宮空襲時に焼失を免れ、その後も新石町に保管されたが、昭和55年(1980)宇都宮市に寄贈された。市では、その一部を宇都宮城址公園清明館歴史展示室などで展示してきたが、「宮のにぎわい山車復活プロジェクト」により平成26年に山車全体が復元された。同年10月の菊水祭では、約101年ぶりの復活巡行が行われた。なお、火焔太鼓とは、舞楽に用いる太鼓であり、外側に火焔形の装飾を持つ。この火焔太鼓の意匠を、山車装飾に取り入れたのが火焔太鼓山車である。菊水祭で、長らく火焔太鼓山車を使用したのは新石町であり、新石町の山車といえば火焔太鼓山車と呼ばれたほどである。組み立てた時の高さは約9mに達し、宇都宮城の城門などをくぐるために、山車上部を後方に倒す仕掛けが施されている。復元にあたっては文化庁の文化芸術振興費補助金(文化遺産を活かした地域活性化事業)、栃木県、宇都宮市の補助金、市民の皆様などからの寄付をいただいた。』
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城址公園ができるまで。
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近郊の見所なども紹介されています。
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スタッフも常駐しており色々と説明もしてくれました。宇都宮城址近郊を観光する前に立ち寄ると便利ですね。
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城址公園から出ます。
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道を歩いていると案内板が所々に設置されてます。
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例えばここは百間堀跡。近くを色々と散策してみると楽しいかも知れません。たぬき坂などブラタモリコースを楽しむのもいいですね。
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百間堀跡…『この辺りには、宇都宮城を守る百間堀がありました。幅24間(約43m)、深さ3間2尺(約6m)、北は三の丸の太鼓門から南は宇田門まで、およそ100間(約180m)あったので、この名が付けられました。市指定天然記念物である「大いちょう」は、この堀の内側の土塁上に立っていると考えられます。』
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八橋山不動院。秋田西国観音霊場の30番、31番札所。秋田県秋田市八橋本町。日吉八幡神社のすぐ近くです。八橋地区は江戸時代初期に旧羽州街道が整備され、今の日吉八幡神社が遷座した頃から住人が増えました。やがて、街道沿いに茶店が立ち並び、芝居興行が行われるなど、城下の町人が集う行楽地として賑わいました。地名は八つの橋があったとも、坂上田村麻呂の射った矢が走り落ちたために「矢走」と呼ばれたなどの伝説があり、矢橋・谷橋などとも記されていました。
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パンフレットによりますと、真言宗のお寺で、境内には100基ほどの庚申塔や鶏卵塚などが立ち並び、日本三大庚申の一つと称されているとのこと。入口の比較的新しい寺号標にも「日本三庚申霊場真言宗不動院」とありました。寺号標隣の一際大きな庚申塔には「岩之山 太平山 三庚申」とあります。更に反対側には「七庚申」と彫られた明治33年の庚申塔。
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七庚申(明治)。ってういか111基あるとのことで全部は見ていられませんね。
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狛犬一対(嘉永6歳癸丑4月吉日)。
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お墓です。東京力士…若梅与市?いや、与市は間違いないけど、その上は微妙に字体が違う気も…。大正9年8月21日東京力士會建立。
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「日本三庚申」を刻む五輪塔です。
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紀年銘は明治2年己巳9月。仙北郡九升田村森川治左エ門。
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詳細は見ていませんが、ほぼ全部が庚申塔・二十三夜塔及び青面金剛で、一部猿田彦や墓碑。庚申の御祭神で仏教では青面金剛、神道では猿田彦を掲げて供物を供えます。
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時代も結構古く、歴史を感じます。
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111基以上ありそう。
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太平山・青面金剛。
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狛犬三対。
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百度石。
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手水石。
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新しそうな五輪塔もありますね。
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歴代不生位とあります。
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この付近は歴代僧侶の墓が多いです。
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こちらは立派な造りですね。石灯籠一対に、石碑は亀趺の上に建てられています。
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四十二世善恵(入定仏)の墓です。中央には「當山中興開四十二世權大僧都法印正法不生位」とありました。羽陰温故誌によりますと、明治初年に発願して生のまま土葬されることを希望し、生きている内に石の唐櫃を作り境内に埋めて入定しようとするも政府から許可されなかったとのことで、21日間の断食の後に唐櫃に入れられ埋葬されたと伝わりますが詳細は不明。
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沼田則長之墓。
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いずれも歴史が古い割には碑文の状態もそこそこ良好なので、きちんと読めば色々と歴史を紐解けそうですね。
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狛犬一対。
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この狛犬は柵を向いています。
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本堂へ。石碑は古いのですが本堂は近代的ですね。
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寛文5年(1665)二代藩主佐竹義隆が三間四面の堂宇を建立して開基したと云われている古寺で真言宗智山派。寺号は八橋山金剛寺で後に改称。庚申尊を安置したことから庚申堂とも呼ばれており、境内には県内に例をみない庚申塔の林立、鶏卵塔、四十二世善恵(入定仏)の墓などがあります。
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御本尊は青面金剛童子(日本三庚申の一つ)。天平の頃、天竺婆羅門僧正が日本に渡り奈良の大仏開眼法要後、日本国土の開発を祈り三体の庚申尊像を彫刻。大阪の四天王寺と近江国八坂の堂にそれぞれ安置し、残る一体は行基菩薩が羽後国秋田郡舞鶴に安置したものが、八橋の現在地に納まったと伝えるも、明治19年の秋田の俵屋火事によって焼失したといいます。
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戸村竹窓先生之碑(窓じゃないかも)。明治6年7月8日七周忌、門人中建立。
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俳祖芭蕉翁。10月12日は読み取れますが年号は読み取れませんでした。
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鶏卵塚(産土の神・古四王神社(秋田市寺内児桜)周辺の寺内衆は禁断の習慣があり、四足の肉や鶏肉は食べず、卵も牛乳も一切口にしないという奇習がありました。但し、病気等で止むを得ず食べなければならない時は鶏卵塚を建立して供養・感謝をしたそうです。)。
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紀年銘は嘉永6年癸丑7月23日。
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三十三観音の一部。どちらも「三十番」。
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こちらの石碑は…
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私には判断しかねます。紀年銘は明治34年辛丑4月。
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正一位与次郎(與次郎)稲荷神社は八幡秋田神社の境内社となります。久保田藩初代藩主佐竹義宣に飛脚として仕えた狐の「与次郎」を祀ると伝えられる神社であり、そのため狐が稲荷神の遣いではなく神そのものとして扱われています。久保田城三ノ丸八幡山(現秋田市立明徳小学校所在地)に建立された後、数度の変遷を経て、明治25年以降は千秋公園の本丸跡に鎮座。飛脚を勤める足軽衆の信仰を集めたことから、足軽町であった楢山にも分霊が祀られましたが(寛保3年に久保田城三の丸八幡坂の下り口に足軽番所が設置され、番所内に与次郎稲荷神社が勧進。明治5年に楢山登町へ移転)、楢山の与次郎稲荷神社は老朽化と管理人不在のため、平成25年12月に千秋公園の与次郎稲荷神社へ合祀し廃社。現在では商売繁盛の神、スポーツの神としても信仰されています。
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主祭神は不詳ですが、狐の與次郎そのものを祀っており、同じく「与次郎狐の伝説」を由緒に持つ山形県東根市の與次郎稲荷神社では、御祭神を應神天皇、保食神とし、配祀與次郎大人之霊(よじろううしのみたま)としています。
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狛犬一対(昭和18年9月吉日・石工田口春治)。
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石灯籠一対。
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狐一対(昭和52年5月1日)。
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更に鳥居の両脇に狐三対(昭和5年・昭和16年・万延2年)。その他狐と石祠。
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古秋園金君頌徳碑(明治24年辛卯9月・正五位侯爵佐竹義生篆額)。古秋園の本名は金易右衛門。秋田の蚕業振興に尽くした人物で、武士としては能代奉行、勘定奉行兼銅山奉行のほか、松前出兵の際は陣場奉行を務めました。又、俳人でもありました。最後は大坂奉行として、鴻池や塩屋らの富豪から借財するなど、藩の経済運営に手腕を発揮。
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勤斎渡部先生記念之碑(明治23年建立)。勤斎の本名は渡部広成。湯沢市生まれ。秋田藩最後の儒学者の一人。
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手水舎。
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手水石。
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石灯籠一対。
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12.5
慶長9年8月(1604年9月)、佐竹義宣が久保田城へ移って2、3日後、御座の間の庭に1匹の大狐が現れて義宣へ訴え出ました。狐曰く「自分は神明山に300年余り住まう狐の長であるが、公がこの山へ築城されたことにより棲み家を失った。願わくば代わりの土地を賜わりたい。願い聞き届けられるならば、今後永く城の守りとなり、御用にも役立ちたい」。義宣が狐にどのように役立つつもりかと尋ねると、火急の用あらば飛脚となり、江戸まで6日で往復すると答えました。喜んだ義宣は狐に城北の茶園近くの土地を与え、「茶園守の与次郎」と呼んで歩行並の待遇としました(秋田転封前の水戸時代、茶園守の与次郎という家臣が居たので、その名を付けたもの)。以来6年間、江戸へ急用が生じる度に与次郎が呼び出され、約束通り往復6日で返書を携え戻ってきました。江戸までの道中、六田村(現在の東根市)の飛脚宿に、間右衛門という男が居ました。この男、最近飛脚の宿泊が少ないことを不審に思っていましたが、ある時佐竹の飛脚が飛ぶような速さで通り過ぎているという噂を聞きつけました。猟師の谷蔵にそのことを相談すると、谷蔵は「それは狐に違いない。捕らえれば宿はまた繁盛する」と間右衛門を唆しました。そこで2人は悪党仲間たちと謀って狐の好物である油鼠を仕掛け、飛脚が来るのを待ち構えました。江戸へ上る途中の与次郎は目敏く罠の存在に気付き、御用の飛脚を罠にかけようとは不埒であると、意趣返しに油鼠をすべて奪い取ってやろうとしたものの、運悪く谷蔵の狐網に捕らえられてしまいました。せめて御用だけは果たすべしと御状を網の目から外へ出すと、不思議なことに御状は空へ舞い上がりました。谷蔵が一打ちすると、与次郎は呪いの言葉を吐いて死にました。空へ舞い上がった御状は小狐たちが引き継ぎ、遅滞無く江戸に届いたといいます(与次郎の霊が届けたと語る伝説もあり)。
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間右衛門、谷蔵らは奪った金を分け合い、狐の死体は煮て食うなどしましたが、その夜から六田村の人々に乱心する者が続出しました。近隣の狐たちが集まって祟ったもので、自らの指を食いちぎる者、岩に齧り付いて歯を砕く者など、一月余りの間に300人以上が狂い、17人が死に、正気の者は10人ばかりという有り様でした。騒ぎは幕府の耳にも届き、代官・杉本伊兵衛が派遣されました。伊兵衛も現地の惨状に肝を潰しましたが、正気の者たちから事のあらましを聞くと、与次郎をこの地で八幡に祀ることとし、恨みを収めて立ち退くよう狐たちに向けて呼ばわりました。すると狐は去って村人は回復しましたが、間右衛門と谷蔵は10日も経たないうちに死に、子孫もやがて絶えました。事の次第を伝え聞いた義宣は大いに無念がり、久保田城内に与次郎を祀る神社を建立。また、江戸へ往来する際には、六田で必ず与次郎が祀られた宮に参拝しました。義宣以降の歴代藩主も往来の際、街道から続く参道に化粧砂を敷いて必ず詣で、藩主が参拝できない場合には御刀番が代参する慣わしとなりました。
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以下沿革
・慶長年間、久保田城三ノ丸八幡山の小八幡別当寺・金乗院境内に与次郎稲荷神社建立。金乗院は寛文元年(1661)までに城下手形休下町から八幡山へ移転してきたもので、与次郎稲荷神社はそれ以前から八幡山あるいは北ノ丸に所在していましたが金乗院境内へ移設されたとする説もあり。
・明和4年(1767)、外町大火で焼失した寺町の大八幡と一乗院が八幡山へ移転し、金乗院が別当を解かれ北ノ丸へ移転。この際、与次郎稲荷神社も北ノ丸へ移転したと考えられています。
・天保-弘化年間(1831-1847)、金乗院が三ノ丸東方へ移転。与次郎稲荷神社はそのまま北ノ丸に残ったとみられています。
・嘉永2年(1849)、保戸野金砂町の東清寺境内へ移転。※万延2年(1861)とする説もあり。
・明治25年(1892)6月26日、本丸(現在地)へ移転。※明治29年8月とする史料もあり。
・昭和元年(1926)現在の社殿完成。
・昭和41年(1966)4月1日、住居表示実施に伴う区画変更で所在地が千秋公園になります。
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中土橋前(千秋公園入口)のエリアなかいち・にぎわい広場へ。
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エリアなかいちのマスコットキャラクター与次郎くん。
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17.5
彼には以下のような伝説が残っています。
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秋田~江戸を6日で往復した俊足の飛脚!…『常陸(現在の茨城県)から秋田に国替えになり、現在の千秋公園に久保田城を築いた初代秋田藩主・佐竹義宣公の前に、一匹の白い狐が現れました。「私は、この山に住む狐です。このたびの築城で住む場所がなくなり、みんな困っています。どうか私たちに住む場所を与えてください。そうすれば、必ず殿のお役にたちます」と願い出ました。狐をかわいそうに思った義宣公は、狐に茶園近くの場所を与え、「茶園守の与次郎」と呼びました。与次郎狐は、約束どおり、義宣公のため飛脚に身を変えて秋田-江戸をわずか6日で往復し、重要な手紙を運んで大いに働きました。しかし、与次郎の活躍を妬んだ飛脚たちの恨みをかい、羽州街道の六田村(現在の山形県東根市)で罠にかかり殺されてしまいました。与次郎の無念の死を哀れみ、義宣公がその霊を祭ったのが、今も千秋公園本丸にある「与次郎稲荷神社」です。殿様の寛大な心と与次郎の感謝の心には、ほのぼのとさせられますね。俊足の与次郎にあやかって、かつて城下町であった中心市街地を舞台に「与次郎駅伝」が開催されています。「足が丈夫に速くなりますように…」「感謝の心が育ちますように…」与次郎にお願いしてみましょう。』
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