くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ: 遺構・遺跡・痕跡・城址・廃墟・碑等

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宮城県宮城郡松島町松島町内。
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観瀾亭(松島博物館)。
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観瀾亭・松島博物館…『この建物は、文禄年間に豊臣秀吉から伊達政宗が拝領した伏見桃山城の一棟で江戸品川の藩邸に移築したものを二代藩主忠宗がこの地に移築したもので、床の間の張付絵や襖絵は壮麗な極彩色で画かれており建物は東西に向き京間18畳2室からなり四方縁をめぐらした東北唯一の純桃山建造物である。藩主の納涼、観月の亭として「月見御殿」ともよばれ、藩主・姫君・側室等の松島遊覧、幕府巡見使等の諸国巡回の際の宿泊及び接待用の施設となる「御仮屋」として利用されていた。併設の松島博物館には、伊達家の大名道具や生活用品等を陳列しております。文化財指定:観瀾亭(建物)…県重要文化財(昭和28年3月3日)、障壁画…国重要文化財(昭和55年6月6日)、鳳凰図…県有形文化財(平成5年12月24日)。松島町』
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観瀾亭と御仮屋復元図…『この地は月見崎と呼ばれ、仙台藩祖伊達政宗が御仮屋(休憩所)を設けましたが、正保2年(1645)の火事で焼失しました。現存する観瀾亭は、政宗が文禄年間(1592-95)に豊臣秀吉から伏見城内の建物を拝領し、江戸に移築していたものを、二代忠宗が再び松島に移築したものと伝えられています。柱には栂(つが)材を用い、一間六尺五寸の京間・杮葺きの軽快な起(むく)り屋根が特徴で、御座の間の絵画は仙台藩お抱え絵師狩野左京(佐久間修理)の作で、原本は国重要文化財に指定されています。御仮屋は藩主・姫君・側室・幕府巡見使等の宿泊休憩に使用され、その記録も残っています。復元図は御仮屋がもっとも整備された18世紀末の図面をもとに作成したもので、江戸時代末までに数多くの建物が附属している様子を知る事ができます。』
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いくつかの門があり、御座之間棟、広間棟、台所棟、御郡司部屋、御貸長屋、御村賄所、馬屋など11棟あまりの建物が存在し、観瀾亭敷地内に多くの建物が存在していたことがわかります。
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雄島に見られるような岩窟。
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観瀾亭敷地内散策しております。
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松島湾。
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伐採された巨木。
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石原朝陽句碑。
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「詩の友に観せばや雪の千松島」
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御裏御門付近。
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石碑。
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どんぐりころころの碑。青木存義が文部省在職中の大正年間に松島での幼き日を偲び作詞されたもの。作詞者青木存義(1879-1935)の故郷である宮城県松島町では、地元の大地主であった青木家の名は記憶されていたものの、「どんぐりころころ」の作詞者がその血筋であることはほとんど知られていませんでした。彼の故郷での再評価は、没後約50年を経過した昭和58年夏、青木の遺族と松島町の元職員が列車で偶然に隣り合わせたことをきっかけに始まりました。この際の会話を発端にして昭和59年4月に松島町内の観瀾亭前庭に大倉石の歌碑が建立されました。
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どんぐりころころの碑…『松島町出身文学博士青木存義先生(1879-1925)が作詞された「どんぐりころころ」は、現在も広く全国の幼児や児童たちに愛唱されています。作曲者は、東京音楽学校の梁田貞先生です。碑の裏側に、建立事由が記されています。昭和59年4月3日松島町』ちなみに私は2番「どんぐりころころよろこんで しばらくいっしょにあそんだが やっぱりおやまがこいしいと ないてはどじょうをこまらせた」を知りませんでした。※案内板は「1925」となっていますが「1935」が正しいと思われます。
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「松嶋雪月花」碑。
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大欅。
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観瀾亭・大欅(松島町指定天然記念物:指定昭和45年12月1日、解除平成28年7月1日)…『松島湾の最奥に位置するこの高台は「月見崎」と称され、江戸時代には伊達家の御仮屋御殿として「観瀾亭」が建てられました。大欅は樹齢800年(指定時)と推定されており、観瀾亭が建てられる以前からここにあったと考えられます。幹回り約7.8m、樹高約35mの堂々たる大樹でしたが、土壌に乏しい岩盤の上という厳しい環境や腐朽菌への罹患によって樹勢が衰え、平成28年秋に残念ながら倒壊しました。長年にわたって町を見守った大樹を偲び、ここにその記録を残します。』
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福浦橋(出会い橋)。
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観瀾亭は文禄年中に豊臣秀吉から伊達政宗が拝領した伏見桃山城の一棟で、江戸品川の藩邸に移築したものを二代藩主伊達忠宗が一木一石変えずこの地に移したものと伝えられています。現在の観瀾亭では、抹茶等も提供されています。
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建物は東西に向き京間18畳2室からなり四方縁をめぐらした簡素明快な建築。床の間の張付絵や襖絵は壮麗な極彩色で画かれており、柱間1間6尺5寸の京間であること、軽快な起りを持つ屋根からして桃山時代の建築であると考えられています。藩主の納涼、観月の亭として「月見御殿」とも呼ばれましたが、公式な記録によると藩主・姫君・側室等の松島遊覧、幕府巡見使等の諸国巡回の際の宿泊及び接待用の施設となる「御仮屋」として利用されていました。
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御座の間は撮影禁止。藩主等の賓客の間であり床の間、襖、障子腰板に金箔を張り付け、極彩色で画かれた桧と槙・笹竹等を中心に林木花卉と渓流の図は、構図法・彩色方から伊達家お抱の狩野派系統の絵師の遺品と見られています。床の間の「雨奇晴好」の額は5代藩主吉村公の筆で宋の詩人蘇軾の詩から採った句。「観瀾亭」と命じたのは吉村公で、廊下の額は江戸中期の書家佐々木玄龍の筆で、次の間との欄間にかけてある「観瀾」の二文字は7代藩主重村公によるもの。
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観瀾亭及び障壁画(平成28年度日本遺産認定政宗が育んだ"伊達"な文化)…『歌枕である松島を眺望する他に、藩主が宿泊、休憩する御仮屋の御殿として建てられたものです。襖の濃絵の障壁画は桃山時代の特徴を良く表しています。文禄年間(1593-1596)、伊達政宗が豊臣秀吉より譲り受けた伏見城の一部を江戸の藩邸に移し、さらに2代藩主忠宗がこの地に移したものと伝わります。観瀾亭の名は五代藩主吉村によって命名されました。』
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松島博物館へ。
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「春の夜乃月の光にみわたせば浦の島々波にかげさす」
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『昭和30年4月、天皇皇后両陛下には、植樹行事並びに全国緑化大会にご臨席のため本県下に行幸啓、当地に三泊四日御滞在の折の御製です。』
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セコイアの化石。
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『三千万年前にさかえたセコイアの化石で、現存のものは明治9年6月、明治天皇東北御巡幸のときご覧いただくため、仙台青葉城より移したものです。セコイアは世界で最も大きく最も長寿のスギ科の植物で、現生樹としては、ただ二種アメリカの西部に自生しているだけです。』
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松島博物館。一部だけの紹介になります。
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伊達家伝来の什宝物や、武具、装身具、化粧道具、書画が陳列され、松島のジオラマもあります。中でも仙台城本丸大広間上段の障壁貼付画てあった「鳳凰図」は初期仙台藩の美術にとっても、また、藩で最初の画員(お抱え絵師)となる作者狩野左京にとっても最盛期の作品であり、宮城県の重要文化財に指定されています。また、寛文元年(1661)の仙台領内絵図は、時代、大きさとも仙台市博物館所蔵の正保年間に次ぐものです。
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※展示替により陳列していない文化財もあります。
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阿吽の龍(寛永14年に瑞鳳殿の降り棟にとりつけられた龍。高田久兵衛作)・手水盤(政宗が没した寛永13年5月24日の翌年に瑞鳳殿が落成し、その30年後に柴田外記朝意は藩の唐銅鋳物師高田六兵衛作の水盤を奉納。)。
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五輪塔。
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五輪塔とは…
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板碑(向かって右=雄勝石、向かって左=稲井石)。
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各説明。
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中世の信仰遺物板碑。
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板碑の分布と変遷。
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宮城県の板碑分布。
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頼賢碑と板碑による供養。
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雄島での発掘調査と骨蔵器。
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常滑大甕(瑞巌寺境内遺跡出土)。愛知県常滑半島で焼かれた大型の陶磁器。水甕の他、銭の貯蔵、骨を納める蔵骨器にも用いられた。推定口径36cm。
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宮城県宮城郡松島町松島町内。円通院付近。
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建物は木造平屋建、寄棟、茅葺、平入、外壁は真壁造り土壁鏝押え。
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昭和47年松島町指定文化財。
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御水主町の民家(松島町指定文化財)…『御水主町は瑞巌寺の東に隣接した一画で、仙台藩主等が松島遊覧の際の御座船を操った水主衆が集団で住んでいた。水主は瑞巌寺造営当時(1605)、地元や和歌山・静岡・愛媛などから雇用されてここに住み、往時には48軒を数えた。彼らの住居は、藩の定めにより茅葺、寄棟造、表通りに面して出格子と蔀戸を設け、冠木門等を構え天井は上げなかった。昭和51年に最後に残った1棟をここに移築復元した。平成12年3月松島町教育委員会』
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比翼塚へ。
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紅蓮尼和歌二首…『「植え置きし花の主ははかなきに軒端の梅は咲かずともあれ」「咲けかしな今は主とながむべし軒端の梅のあらんかぎりは」。紅蓮尼は約700余年前、秋田県象潟町に生れ本名を谷という。既に他界した小太郎に嫁ぎ、その父母に孝養をつくした。両親亡き後、瑞巌寺の明極禅師の弟子となって尼となり禅師より紅蓮の名を許され一生を小太郎にささげた。「軒端の梅、心月庵紅蓮尼物語」は、日本女性の鑑として語り伝えられている。松島町と秋田県象潟町は小太郎、紅蓮尼の絆が縁で昭和62年8月1日「夫婦町」となった。平成元年10月1日、宮城県松島町・秋田県象潟町(現にかほ市)』
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「芳躅を慕い合歓木を献す」
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こちらの碑は読み取れず。
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比翼塚。鎌倉時代、北条時頼が家臣・蜂谷美濃守を松島円福寺(瑞巌寺)守護のために派遣。子孫が松島に土着しました。子孫蜂谷掃部は子宝に恵まれず、観音様に祈願したところ、やがて男の子が誕生し、小太郎と名付けられました。小太郎は観音堂に梅の若木を植えてこよなく愛していました。小太郎が15歳の春、父が伊勢参りで道連れとなった象潟の商人と親しくなり、小太郎と商人の娘との結婚を約束。ところが帰国した父は小太郎が病死したことを知ります。掃部は泣きながら商人の娘に訳を話しましたが、娘は松島の人となり、掃部夫妻に孝養を尽くしました。後に娘は髪をおろして名を紅蓮と改めます。小太郎が愛した梅の木が軒端の梅で、娘のもとには紅蓮尼と小太郎の碑比翼塚が建てられています。蜂谷氏が観音仏を守っていたことから、その後、瑞巌百一鵬雲が観音を御本尊とし、左に達磨、右に菅公を配した三聖堂を建立。
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裏面紅蓮尼石文。※状態は良いのですが雨だったので内容は省略。
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二人のお墓碑は、別々の場所にありましたが、昭和43年6月吉日、生前はおろか640余年を過ぎても一緒になれない二人をせめて墓碑だけでも同じ場所に並べてあげたいと、紅蓮尼に縁深い瑞巌寺境内観音堂水月庵跡に、紅蓮尼と小太郎の比翼塚が建てられました。
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「至水戸街道・至柴又・至矢切・至小岩」道標。
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矢切の渡しトイレ。
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『矢切りの渡し』の歌碑。
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矢切の渡し。「房総の魅力500選」「日本の音風景100選」。江戸時代初期に江戸幕府が地元民のために設けた利根川水系河川15ヶ所の渡し場の内の一つ。
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東京都葛飾区柴又から千葉県松戸市下矢切へ渡ります。
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江戸川。
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船頭さんの話を聞きながら手漕ぎ船でゆっくりと進みます。
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歌えないけど「矢切の渡し」が頭に流れます。ちなみに私の頭の中に流れる矢切の渡しは「細川たかしver」です。
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遠くに東京スカイツリー。
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到着。増水したらすぐにでも流されそうな桟橋が逆に趣ありますね。
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こちら側には矢切の渡しが有名になるきっかけとなった伊藤左千夫の小説『野菊の墓』文学碑などがあるらしいです。読んでいないし、特に松戸に用事があるわけではないので、再び矢切の渡しで葛飾区に戻ります。矢切の渡しが最終便じゃなければ寄ったんですけどね。矢切ねぎ食べたいし。さて、帰りもゆっくりと景色を楽しみながら…
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って思ったら、船頭さんが「戻りはモーターを使って色々と案内していきます」と言って上流に勢い良く走り出しました…モーター付いているのに気づかなかったよ(笑)川は穏やかでしたが、乗っている人全員が往復客だったから?まぁ同じ航路を辿るよりは楽しかったし、情緒はないけど快適!
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金町浄水場の「トンガリ帽子の取水塔」&「麦わら帽子の取水塔」付近で折り返しました。
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ちなみに寅さんを見ている人にとって、この取水塔の風景はかなりお馴染みとのこと…私は見ていない。
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到着。
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矢切の渡し…『矢切の渡しは 松戸市下矢切と東京都柴又を往復する渡しでその始まりは380余年前江戸時代初期にさかのぼります。当時、江戸への出入は非常に強い規則のもとにおかれており、関所やぶりは「はりつけ」になろうという世の中でしたが、江戸川の両岸に田畑をもつ農民は、その耕作のため関所の渡しを通らず農民特権として自由に渡船で行きかうことができました。これが矢切の渡しの始まりでいわゆる農民渡船といわれるものです。明治以降は、地元民の足として、また自然を愛する人々の散歩コースとして利用され現在では唯一の渡しとなっています。この矢切の渡しの庶民性と矢切の里の素朴な風景は、千葉県の生んだ歌人でもあり小説家でもある伊藤左千夫の小説“野菊の墓”の淡い恋物語の背景となっておりその小説の中で美しく描かれております。平成10年3月』
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