くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ: 遺構・遺跡・痕跡・城址・廃墟・碑等

1
2
石英安山岩(DACITE・ANDESITE WITH QUARTZ)。
3
石英脈に黄銅鉱と黄鉄鉱含有。
4
鉱石運搬。各切羽(採掘現場)より鉱石を積込んだ鉱車を連結し中央鉱井(貯鉱場)まで搬出する作業。
5
私を搬出してください…。
6
6.5
急にイルミネーション。
7
このように立入禁止となっている岐路もたくさんあります。
8
三ツ留支柱。落石盤圧を防ぐ保安施設。
9
ミネラルルーム。案内マップを見て、何かを食べることができる場所と思っていましたが、尾去沢鉱山の資料室でした。
10
一部だけ紹介します。
11
尾去沢鉱山の沿革…『尾去沢鉱山の歴史は古く、和銅元年(708)に発見されたと伝えられている。このことは、「大森親山獅子大権現御伝記」(天保7年に旧記を伝写したもの)中に伝説として記されている。天平感宝年間(749年)には長坂金山-尾去沢鉱山赤沢地内-が発見され、その産金が朝廷に献上して、奈良東大寺の大仏の造営に使用されたと伝えられている。このことは、南部藩士、伊藤嘉次右衛祐清の手記である。「祐清私記」の中の「鹿角金山はじまり之事」に伝説として記されている。また、平安時代の後期(1100年)における奥羽藤原三代の繁栄には尾去沢の産金が大きな貢献をしたと伝えられている。安土桃山時代(1590年)に南部氏の所領となる。』
12
12.4
12.8
尾去沢鉱山全景。
13
尾去沢鉱山選鉱場全景(昭和16年頃)。全盛時東洋一の処理能力(月10万t)を誇った選鉱場。
14
こちらも選鉱場(昭和16年頃)。
15
坑内休憩所の昼食時の状況。
16
ほぼ全裸に見えます。
17
さて、ミネラルルームの先へ進みます。
18
火薬庫。
19
ある一定量以上の火薬類は火薬庫に貯蔵しなければならないと法律に定められています。火薬による事故の発生を防止するため、貯蔵できる火薬類の、種類・数量・方法及び盗難防止措置、更にはその構造についても厳格な基準が定められており、その基準によって1級-3級、その他の種類に分けられています。この火薬庫は、火薬類の貯蔵量が最大20tまでの、地中式2級火薬庫に属し、厚さ20cmのコンクリートの壁で出来ており、万が一火薬庫内で爆発事故が起きても、外部への影響を極力少なくするような構造となっています。
20
鉱石の破砕には当初ダイナマイトが使われていましたが、1964年頃より、より安全且つ安価なANFO(アンホ爆薬…硝安94%と軽油6%から成る粒状爆薬)が使われるようになりました。
21
銅鉱脈…夘酉𨫤(東西のこと)13割の1鉱脈。脈巾平均約60cm、銅品位14.6%、全長(走行東西)約250m、黄鉄鉱品位31.3%。この鉱脈は下2番坑(60m下部)より上2番坑(60m上部)まで連なっています。
22
22.5
出口まで300m!!
23
南部藩西道金山奉行所。
24
奉行所内。
25
25.5
尾去澤金山御敷内二七ヶ條。
26
まだゴールじゃないのね。
27
石切沢通洞坑・金屏風。ちょんまげ坑道開穿の為、遊歩道掘進中に発見された銅鉱脈の壁面。
28
28.2
28.4
28.6
28.8
深っ!怖っ!
29
慶長年間の金鉱採掘跡。からめ場です。採掘した金鉱石を細かく砕き、篩にかけた粉鉱を水流し、椀かけで鉱泥を流し、沈澱した金を採取する工程。
30
古来より椀かけの金にあやかり、水槽の中に投げ銭をすれば金運が開けるとの言い伝えがあります。
31
からめ節。
32
慶長年間金鉱採掘坑道(1596-1614)その1。これから旧坑の総ては、今から約380年以前に金を採掘した坑道です(江戸時代までの手掘り跡(二尺三尺坑道))。
33
鉱石運搬の場。採掘現場から、鉱石をあてしこ(鉱石運搬・道具入れ・採掘現場での腰布団などに利用された)に入れ、坑外に搬出している場面。
34
慶長年間金鉱採掘坑道その2。金工(金工自身或いは配下の掘大工(先手)を引連れて鉱脈採掘作業にあたります。)・掘大工・女掘子(掘子は大工の掘った鉑や硑を「えぼ」に入れて坑外に背負い出し、鉑は金場に硑は所定の場所に運ぶ作業にあたります)。
35
このままでは凍死するので先を急ぎます!
36.2
36.4
36.6
36.8
慶長年間金鉱採掘坑道その3。俗称「たぬき掘」跡。
37
金掘大工。当時、たがねと鎚で鉱脈を、1日約30cm掘り進むのが精いっぱいでした。
38
38.5
支柱組立。岩盤の弱い所を杉丸太等により枠組保護し、落盤・崩落を防ぐためのもの。
39
段欠場面。上段は金掘大工。がんぎ梯子を登っているのは留大工。下で鉱石を掻き集めているのは掘子(金工手子)。
40
地下水による坑道の水没を防ぐため木製の桶を使い人力によって汲上げ坑外に排水を行っており、昼夜交代の重労働でした(水替人足)。
41
隠れ切支丹。切支丹に対する弾圧は島原の乱(寛永14-15年・1637-1638)の後、しゅん烈の度が加えられ、諸国の切支丹宗徒はへき地の奥羽地方、ことに鉱山に潜伏しました。これは山法の一つとして鉱山に認められていた治外法権的慣習が宗徒の潜状に適していたからです。
42
進行方向左側2番目の旧坑約10m先の側盤に隠れ切支丹宗徒の刻んだ十字架が残っています。
43
十字架。
44
44.5
苔チェック。
45
金塊。
46
この牛を優しく撫でると造財、家内安全に御利益があるそうです。御祭神は大山祇神、金山彦命。両社山神社
47
ってことでようやくゴール。
48
外に出てもしばらくの間は、カメラのレンズがこのような状態になって戻りませんでした。
49
出発前は「こんな猛暑日に外でラーメン食べる人なんているのかよー!」って思っていた私ですが、ゴール後は完全にラーメンを欲していました。最後に尾去沢鉱山の感想を簡単に述べますと「昔の人は凄い!そして私は寒い!」。以上、尾去沢鉱山でした。
50
にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログ 東北情報へ

 

1
尾去沢鉱山(鹿角市)』・『尾去沢鉱山(山神宮)』からの続きです。標準コースと特別コースの分岐地点。標準コースは距離490m(出口まで15分)。特別コースは距離1090m(出口まで30分)。
2
石切沢通洞坑。珪質黒色泥岩(SILICEOUS BLACK MUDSTONE)。
3
3.4
3.8
ダンパー鉱井。採掘された鉱石又は硑(石+并、ズリ)をグランビー鉱車が誘導車輪の自動操作によって傾き、鉱井に落下貯鉱するダンパーと称する装置。
4
坑内事務所前。
5
5.5
石切沢上部坑内事務所。
6
暗さも手伝い、人形は結構リアルに感じます。
7
石切沢上部休憩所。
8
弁当食べたり…
10
お茶を飲んだり…
11
パパ。
12
黄鉄鉱(銅品位26%)。鉄と硫黄からなる硫化鉱物の一種で、六面体や八面体の結晶型を示しています。色は真鍮色で金属光沢を放ち、外見は黄銅鉱と似ていますが、条痕色(傷を付けた時の色)が黒緑色であることからその違いを見分けていますが、明確に区別することはなかなか難しいとのこと。その淡黄色の色調により金と間違えられることが多いことから、「愚者の黄金」とか「金もどき」などとも呼ばれています。また鉄より硬いことでも知られています。
13
第一区火薬取扱所。
14
バッテリー電車による鉱石運搬。各採掘切羽の漏斗から積込まれた鉱石をバッテリー車により鉱車集結場に運びます。
15
ここらで尾去沢鉱山公式HPを参照に尾去沢鉱山を改めて紹介。
16
尾去沢鉱山の発見は奈良時代の和銅元年(708)と伝えます。記録として残されているものは、南部藩士の私記「祐清私記」や「長坂見立始り」、「大森親山獅子大権現御伝記」など主には江戸時代に書き残されたものです。ある伝記では「長坂」や「田郡」(尾去沢鉱山の一部)の金が奈良東大寺の大仏鋳造に使われたと伝えられています。 また、鹿角地域は康平5年(1062)前九年の役の際に、厨川(盛岡市)で滅亡した安倍氏が統治していましたが、その後、尾去沢の金が平安末期、藤原氏によって築かれた平泉の黄金文化に貢献したと伝えられております。尾去沢鉱山は、鹿角地域を支配していた時の権力者の隠し財産であっことも影響し、確かな文献は残されていませんが、当地には大日霊貴神社、錦木塚伝説等、1300年前の伝説が数多く残されております。
17
江戸時代の尾去沢鉱山では、山師や商人が直接鉱山の経営を行い、採掘の量に応じて運上金を取る「請山」と、藩が直接経営する「直山」の方法でその運営が行われていました。しかし「直山」の場合であっても、実際の仕事は山師に行わせることが多かったようです。江戸時代の採掘は、金掘大工と呼ばれる採鉱夫が槌と鏨を使って行っていました。このため採掘には高度な技能が要求され、その技能の伝承は徒 弟制度により引き継がれました。鉱山の作業は危険を伴うことが多かったことから、鉱山で働く人たちはその家族も含め相互扶助の固い絆で結ばれていました。この組織を「友子」と呼び技能の伝承や相互扶助が行われたようです。
18
藩政時代の鉱山には、鉱山ごとに決められた法律(山法)がありました。当時の鉱山は一般の法律に対し治外法権におかれた特殊な社会で、山法は鉱山での生活やそこで働く人たちに適用される処罰規定でした。尾去沢鉱山の場合は「御敷内二七ヶ条」と呼ばれる山法が布かれていたことが古文書によって知られています。その内容には、他の工夫の持場を勝手に掘る、役人がつけた目印や封印を壊す、故意に放棄するなどの行為を重罪とし、それぞれ厳しい処罰方法を定めていました。更に鉱山における生活についても違反に対する罰則が定められ、当時の鉱山における厳しい生活の様子を知ることができます。
19
慶長17年(1612)幕府は、キリスト教を禁じ弾圧に乗り出します。これによって西国より多くの信者が難を逃れ、隠れキリシタンとしてこの地の鉱山での潜伏生活を送りました。最初は山法を守っている限り安全だった鉱山生活も、次第にその取締りは厳しくなり、寛永20年(1643)白根金山では多くの信者が捕らえられ処刑されたと伝えます。
20
トロリー電車による鉱山運搬。鉱車集結場に運ばれた1.7tグランビー鉱車を15-20輛編成してトロリー電車にて選鉱場へ鉱石が運ばれます。
21
夘酉立坑(坑内エレベーター)。上1番坑-下4番坑間運行(上下150m)。
22
「やめなさい 手順無視してまた作業 いつか地獄へ直滑降」
23
材料運搬。坑外の貯木場より坑内各所の坑道支保のため坑木等を各区の必要量に応じて搬入。
24
寒いっ!寒いっ!
25
25.4
25.8
地上に戻りたいです。
26
26.4
26.8
昭和東部方面。
27
たまにコウモリに襲われます!
28
上向穿孔。シュリンケージ法の初期的段階の作業。
29
頑張ってます。
30
水平穿孔。鉱脈を表面に捕らえ高さ2.2m幅2.0mの坑道を掘進する作業。
31
坑内測量。水平坑道並びに上下坑道の連絡のため方向・高低の精密な測量が必要とされます。
32
抜鉱。シュリンケージ法により採掘された鉱石を漏斗から鉱車に積込みする作業。雁木梯子は古い時代より丸太を削って雁木(階段)梯子を作り、主として採掘現場に必要な器材の運搬等人員の昇降に使用されました。
33
ボーリング。鉱脈の探鉱及び地質構造の探査のために行うもの。
34
スラッシング。採掘現場から漏斗まで鉱石を掻き出す作業。
35
ローディング。採掘した鉱石をローダーを利用し鉱車に積込みする作業。
36
36.5
あぁキリタンポ鍋食べたい。逆に冬に来ると暖かく感じるのかな。
37
鉱脈大規模採掘跡。
38
地球の生成時生じた断層に、900万年前の火成活動により鉱液が噴出し、断層を充足して形成された鉱石をシュリンケージ法により採掘した跡。即ち地球の生成時生じた断層の再現。
39
39.5
坑道も長いですけど、記事もかなり長くなってしまいました。
40
ってことで次がラスト。
41
41.5
42
にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログ 東北情報へ
 

1
尾去沢鉱山(鹿角市)』からの続きです。尾去沢鉱山学校1年くま組鉱太。
2
坑道内は年間を通じて気温13度です。夏場でも上着やバスタオル等を持って見学してくださいとのこと。
3
実はこの日は猛暑日。つまり尾去沢鉱山に来た最大の理由は「涼しい所に行きたかった!!」…ってことで余裕をこいて何も持たずに中に入ること数秒…
4
「誰かダッフルコートを貸して下さい!」状態。
5
片留中柱支柱(落石盤圧を防ぐ保安施設)。
6
銅鉱脈。
7
7.5
和銅元年(708)に尾去沢獅子沢にて村民が銅鉱を発見。天平21年(749)には近隣の田郡で金が発見されたと伝えられ、当初は金山としてスタートし、江戸時代前期より銅山となっています。産金が東大寺の大仏や中尊寺で用いられたとの伝説が残っています。慶長3年(1598)に南部藩の北十左衛門が白根金山を発見し、後に民謡「南部牛追唄」で「田舎なれども南部の国は西も東も金の山」と歌われる金山の一つとして開発が行われました。金が枯渇してきた元禄8年(1695)には銅鉱が発見され、別子銅山、阿仁銅山と並び日本の主力銅山の一つとなります。明治22年に岩崎家、明治26年に三菱合資会社が経営することとなり近代化が図られました。明治27年には坑内に電話が敷設され、明治29年には水力発電所の建設により住宅を含む全山に電気が通りました。日本の近代化、戦後復興の礎となった尾去沢鉱山ですが、不採算と銅鉱石の枯渇から、昭和41年に精錬が中止され、昭和53年に閉山。
8
江戸時代から伝わる尾去沢鉱山発見の物語が『大森親山獅子大権現御伝記』の陸中の国鹿角の伝説に残されています。文明13辛丑年(1481)、尾去村の奥の大森山から、翼の差し渡し十余尋(約20m)にもなり、口から金色の炎を吹き、牛のほえるような声を立てる大鳥が現れ民百姓は恐れました。尾去村の人々がこの大鳥を滅ぼしてくれるよう毎夜天に祈ったところ、ある時、大森山の方で鳥の泣き叫び苦しむ声が聞こえ、これ以降はこの怪鳥が飛んでくることはありませんでした。不思議に思った村人が声のした方を訪ねると、赤沢川が朱色に染まっており、その元には大蛇の頭、牛の脚を持ち、赤白金銀の毛を生やしたかの怪鳥が傷つき死んでいました。腹を裂いてみると、金銀銅鉱色の石だけが充満していました。村長が思うところ、夢に白髪の老人が6度も現れ、新山を開けと告げていましたが、この山のことであったに違いないと、辺りを掘ってみたところ鉱石が発見。これが尾去沢鉱山の始まり。人か神か、誰が怪鳥を倒したのかと訪ねまわったところ、大森山の麓に獅子の頭のような大石が地中より出ており血がついていたことから、この神石であったものであろうと考え、大森山は獅子の体、連なる山々は獅子の手足であるとして、社を建立し、怪鳥を埋め奉り、大森山獅子大権現としました。※この伝説の物語についても公式HPにより詳細に掲載されています。
9
明治以前の尾去沢鉱山の歴史…尾去沢地域には、東に西道、五十枚、南に赤沢、長坂、槙山、西に元山、田郡、北に崎山などの金山や銅山がありました。これらの鉱山は、それぞれの開発の年代も異なり、相互の結びつきもなく幕末まで別々の鉱山とされていました。
和銅元年(708)尾去沢銅山発見の伝説が残されている。
天平21年(749)この年尾去沢田郡で産金、朝廷へ献上したと伝えられる。
文明13年(1481)「大森親山獅子大権現御伝記」によれば、この年獅子沢、赤沢で銅発見。
天正18年(1590)豊臣秀吉、東北仕置を行う。尾去沢の諸鉱山は、盛岡南部氏の所領となる。
慶長3年(1598)後に金山奉行となる南部藩士北十左衛門、白根金山(小真木鉱山)を発見し開発に着手。
寛永20年(1643)その後五十枚金山(慶長4年)、西道金山(慶長7年)を開発。
寛文6年(1666)白根金山で多くのキリスト教徒が捕らえられ処刑。
元禄8年(1695)田郡で銅鉱を発見。続いて元山、赤沢でも銅鉱を発見。繁栄を極める。
正徳5年(1715)長坂銅山、崎山金山を発見。
明和2年(1765)幕府より長崎御用銅65万斤の出銅を割当てられる。買い上げ価格が安かったことから著しく藩の財政を圧迫。
寛政元年(1789)南部藩が直接経営に乗り出す。
文久3年(1863)産銅わずかに20万斤となり幕府に減銅を乞う。
慶応元年(1865)アメリカ人の指導により発破(火薬による採掘)試験を行う。産銅100万斤を超える。
10
明治以降の尾去沢鉱山の歴史…尾去沢鉱山は、明治に岩崎家(三菱)に鉱業権がわたり、以降閉山までの約90年の間、三菱の経営により銅山として最大のピークを迎えました。当時の日本は産業とのあらゆる面で近代化が進められたので、銅などの金属は産業近代化のうえできわめて重要な資源であり、その増産は国家的要請でもありました。また、終戦後、我が国の産業復興とともに資源少国における貴重な存在として高度成長をささえました。その後、海外での大規模鉱山開発が進み、世界的な過剰生産と急激な円高により銅価格が低迷したことや尾去沢鉱山の銅鉱石が枯渇したことにより、昭和53年1270年にわたる長い鉱山の歴史に幕を閉じました。
明治元年(1868)南部藩は、鍵屋茂兵衛に採掘権を委任する。
明治5年(1872)大蔵省が没収(尾去沢銅山事件)、その後岡田兵蔵、更に東京府鉱業会社の経営に移る。
明治7年(1874)岡田兵馬が借地稼行する。
明治22年(1889)岩崎家の稼業となる。反射炉を設置。
明治26年(1893)三菱合資会社の経営となる。薪木燃料火力発電所設置、坑内ポンプ、巻揚機に電力使用。
明治27年(1894)田郡大切坑内に電気巻揚機を設置。構所内に電話、電灯を設置。
明治29年(1896)水力発電所の建設に伴い東北地方で最初の全山電化を行う。
大正5年(1916)巻揚機より出火、選鉱場全焼。
大正6年(1917)浮遊選鉱法による最新式選鉱場を新設。
昭和11年(1936)中沢鉱滓ダム決壊、死者374名の大災害発生。
昭和15年(1940)月粗鉱7万トン処理の増産起業を行う。
昭和18年(1943)超非常時増産態勢で月産10万トン、従業員4,486名と最高を記録。
昭和25年(1950)財閥解体に伴い太平鉱業㈱の経営となる。
昭和27年(1952)社名を三菱金属鉱業㈱に改名。
昭和28年(1953)集約排水坑道として太平坑(延長2,725m)完成。
昭和41年(1966)製錬部門廃止。74年の歴史を閉じる。
昭和43年(1968)品位低下と銅価格低迷のため操業規模縮小。
昭和47年(1972)三菱金属鉱業㈱より分離し尾去沢鉱山㈱となる。
昭和53年(1978)銅価格の低迷と鉱石の枯渇により閉山。
11
11.4
11.8
鉱脈採掘跡。地球の生成時生じた断層に、900万年前の火成活動により鉱液が噴出し、断層を充足して形成された鉱石をシュリンケージ法により採掘した跡である。即ち地球の生成時生じた断層の再現である(案内板より)。
12
鉱脈大規模採掘跡。
13
案内板の説明は上に同じ。
14
14.5
寒い…
15
15.5
ゆっくり見たいけど…寒い。
16
たまに上から水滴も落ちてきます。
17
17.5
ブラタモリ気分です。
18
案内板の内容がまったく同じ…。
19
夏休み中の子供たちは元気です。
20
突然現れるヘルメット。ここから先は危険なため…
21
というわけではなく、記念撮影用です。
22
シュリンケージ採掘法。坑道には最初鉱脈に向かって掘る坑道(立入)と鉱脈に逢着した後鉱脈に沿って掘る坑道とがあります。また、坑道は深さ30m間隔で掘られていますが、上の坑道と30m下の坑道で同じ鉱脈を確認しますと、下の坑道より脈に沿って上向きに坑道を掘ります。これで鉱脈の3面(上下横)が確認されますが、確認された坑道で、脈の幅や品位(銅の含有率)を調査した後、その区画の鉱石の量や銅の含有量を推定し採掘に着手。採掘は削岩機により直径2cm、深さ1.0~1.8m程度の孔を数多くを掘り、これに火薬をつめ同時に爆発(発破)させて鉱石を採取。火薬としてはダイナマイトが使われますが、昭和40年代からは安価な硝安爆薬(ANFO)も使われました。火薬への点火は導火線が用いられましたが昭和30年代からは電気発破が主流となります。採掘された鉱石は、坑道の下部より抜き取られ、鉱車に積み込み立坑へ運ばれます。立鉱では鉱車を1台ごとにエレベータ(ケージ)で巻揚げ通洞坑を経由して坑外の選鉱場へ送られました。鉱車の牽引には、主に蓄電池式の機関車が使用されましたが、多くの鉱車を牽引する場合には、電気機関車も使用されています。採掘跡は通常岩盤の崩壊を防止するため坑内で掘られた岩石(ズリ)を充填しますが、尾去沢鉱山の場合岩盤が堅固であったことから、シュリンケージ採掘法と呼ばれる採掘方法が採用され、採掘跡がそのまま残されました。
23
①開坑…レッグドリルと呼ばれる横向きの削岩機を使用して鉱脈に穴を開け、その穴に火薬を詰める。それから爆発(発破)させて鉱石を砕き水平に坑道を掘る。
24
②上向採掘準備段階…ストーパーと呼ばれる上向きの削岩機を使用し、穴を開け発破を行う。次に足場を組み、漏斗(排出口)・人道(人の通路)の取り付けを行い、上に向かって穴を開け発破、上向採掘を開始する。
25
③上向採掘…上向採掘して砕いた鉱石を足場にして更に穴を開け発破を行う。この作業を繰り返し、28m掘り上げる。
26
④採掘終了鉱山搬出…28m掘り上げて、1レベルの上向採掘終了。最後は砕いた鉱石を漏斗から鉱車に積み込み、選鉱場へ搬出する。
27
尾去沢鉱山全体図…『鉱山の中は、坑道が鉱脈に沿って15段になっており、1段(1レベル)の高さが30m(28m空洞+2m床)です。よって、全高450mのビルのように坑道が掘られています。』凄いですね。
28
山神宮。採掘当時は坑道の外に祀られ、鉱員が鉱山繁栄や作業安全を祈願しました。
29
社号標「山神宮」。
30
社殿。
31
31.5
文政9年丙戌5月12日。願主権八、金工長七、同與助、長之丞。
32
酒の貯蔵庫…『坑内の気温は、四季を通じて11-13℃ときわめて変化が少なく、ワインの熟成には最適の条件であり、この環境の中でワインは今静かにいきずいております。』
33
古酒の蔵…『日本酒を3年間以上熟成すると長期熟成酒即ち「古酒」になります。古酒は、色調が濃く、シェリー酒や老酒のような重厚な香りを持ち、重厚でほどよい苦みと後味のよさを有します。利用をご希望の方は、弊社事務所へお申し込み下さい。』利用できるんですね。
34
「奉納伝説の里 鹿角の地酒 鹿角千歳盛 松風 八幡平」とありました。
35
こちらは熟成貯蔵場の「地底の神秘」。
36
先へ進みます。
37
珪質緑色凝灰岩(SILICEOUS GREEN TUFF)。
38
38.5
祈願所。
39
カプセルを投入するシステムです。
40
先に進みます。この先には標準コースと特別コースの分岐があります。体は冷え切っていますが特別コースに行きます。
41
ってことで『尾去沢鉱山(坑道見学)』へ続く。
42
にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログ 東北情報へ
 

1
尾去沢鉱山は、鉱物が溶け込んだ熱水が岩盤の割れ目に染み入り、地表近くで冷え固まった鉱脈型鉱床の典型。新生代新第三紀中新世のグリーンタフ、珪質頁岩に、火山岩である安山岩、流紋岩、デイサイトが貫入。鉱脈は500条あり、平均走行延長300m、傾斜延長300m、脈幅0.7m、銅の品位は2.4%でした。坑道を用いる坑内掘りによって採掘が進められ、南北3km、東西2kmの山中に、明治以降だけで700km、江戸以前を含めれば800kmの坑道が、シュリンケージ採鉱法により鉱脈に沿って縦横に掘られました。銅のほか、金、銀、鉛、亜鉛が産出。
2
明治22年に岩崎家に経営が移り三菱財閥が開発を行うようになってから閉山までの産出量は、銅30万t、金4.4t、銀155tと推定。昭和53年に閉山しましたが、跡地には選鉱場、シックナー、大煙突等が残されています。これらの近代鉱山施設の遺構は土木学会選奨土木遺産や近代化産業遺産に認定。また、一部は、坑内や鉱山施設の見学や砂金取り体験のできるテーマパーク史跡となっています。平成19年には日本の地質百選に選定。
3
鉱山事務所跡。
4
「手に手 輪に輪」
5
選鉱場跡標柱。坑道より運び出された鉱石は選鉱場へ送られます。選鉱場は鉱石の中に1%程度しか含まれていない銅分を25%程度まで濃縮する工場です。コーンクラッシャー送られてきた鉱石は、まずクラッシャーにより砕かれます。砕かれて粒度のそろった鉱石は粉砕の工程に送られます。粉砕は回転するボールミルと呼ばれる機械に入れられ粉砕。このボールミルの中には鋼鉄の玉が入っており、この玉で鉱石を砕きます。粉砕された鉱石は、鉱石のみを浮かせて採る浮選工程に送られます。浮選工程では、泡に鉱石を付着させ硫化鉱物を取り出し、使用する薬品の違いによって黄鉄鉱と銅鉱物とを分離。この工程で濃集された銅鉱石はフィルターを使って脱水され銅精鉱となります。銅精鉱は製錬所へ送られ溶かされ粗銅が作られます。これを電解工程で電気銅にし最終製品になります。
6
最大で月間10万トンの銅鉱石を処理した国内最大級の選鉱場跡。昭和53年(1978)に操業を中止し、現在はその基礎の部分のみが残されています。
7
7.5
製錬場跡。製錬場が稼働していた時期は煙害で周辺がはげ山となっており、遠くからでも望むことができたそうです。
8
遠くに大煙突が見えます。昭和41年に操業を中止した製錬場跡です。煙突の高さは60mで土木遺産に認定されています。製錬場が稼働していた時期は、煙害で周辺がはげ山となり遠くからでも望むことができました。
9
シックナー(沈殿池)上部はここからは角度的に見えませんでした。ちなみに選鉱場跡や製錬場跡などは立入禁止ですが、事前予約をすれば選鉱場跡、製錬場跡などの坑外施設をガイド付きで案内してくれるようです。詳細は公式HPでどうぞ。
10
このような美しいエメラルドグリーンをしています。ちなみに事前予約
11
「史跡尾去沢鉱山」。以前に訪れた時は「マインランド尾去沢」でした。
12
調べてみたら1982年にマインランド尾去沢がオープンし、三菱マテリアルの子会社である株式会社ゴールデン佐渡が2006年にマインランド尾去沢を買収し、2008年より「史跡尾去沢鉱山」と改称してリニューアルオープンしたそうです。ってことは私は生まれていないので記憶違いです。
12.5
尾去沢鉱山開山千三百年記念碑(平成20年10月26日。ベニヤマザクラ4本、ナナカマド5本、ヤマモミジ5本、ツツジ100株、アジサイ210株。記念植樹(平成20粘土森林ボランティア活動支援事業))。
13
昭和52年9月当時の全景写真がありましたが状態が悪くてよく見えません。公式HPに昭和39年当時の全景写真が掲載されています。
14
向って左はレッグドリル(水平穿孔機)。水平坑道で発破孔を穿つための削岩機で圧縮空気を動力としています。(パイプ先端での空気圧約4kgf/c㎡)削岩時にたがね(ロッド)の先端から水を噴射し粉塵の飛散を抑制します。右はローダー(鉱石積込機)。水平坑道掘進時の廃石や鉱石の積込みに使われ、太空機械㈱の太空600Bと呼ばれる型で、圧縮空気を動力としています。昭和の始めから多くの鉱山で使われていました。バケット容量は約0.15立方メートルです。
15
10トンディーゼル機関車(型式DB-3IL)。
16
日本輸送機㈱製。昭和38年9月製造。
17
この機関車は、昭和38年から昭和53年の閉山まで尾去沢鉱山で生産された、粗銅、硫化鉄鉱、亜鉛精鉱等の出荷や石灰石、硝灰石、石炭、重油、木材等の原料、資材物品の他、従業員の生活物資の入荷の際、JR鹿角花輪駅の構内で貨車の入換作業で活躍しました。寄贈・丸佐運送合資会社。
18
5トントロリー式電機機関車。昭和17年三菱電機。
19
第二次世界大戦中の捕虜の使役について…『第二次世界大戦中、労働力不足を補う為、旧日本軍に捕らえれた連合軍捕虜たちが、日本国内の鉱山、炭鉱、工場などに労働者として配置されました。旧日本軍の管理の下、この地にあった「仙台俘虜収容所 尾去沢(花輪)分所」には、終戦時に545人(米494人、英50人、豪1人※GHQ/SCAP資料「Roster of Deceased Allied POWs in Japan Proper」(国会図書館憲政資料室所蔵LS-03399-03404)を基に、POW研究会が調査したもの。)の捕虜が収容されており、収容中に8人が亡くなりました。当時の労働環境は、捕虜たちにとって大変過酷であり生涯癒すことのできない深い傷を残しました。又、当鉱山だけではなく、旧三菱鉱業株式会社の鉱山である細倉(宮城県)・生野(兵庫県)・明延(兵庫県)においても、同じように、捕虜が労働を強いられておりました。当社は、このような不幸な出来事を深く反省し、旧三菱鉱業株式会社の鉱山で労働を強いられた全ての元戦争捕虜に対して心より謝罪すると共に、基本的人権や正義が侵されることのない未来の創造に向けて努力を続ける決意をここに示します。2016年11月三菱マテリアル株式会社。』・In Memory of WWⅡ POWs…『During World WarⅡ,military personnel of the Allied Forces captured by the Japanese military were forced to work in mines and factories throughout Japan.These included the Osarizawa[Hanawa]Branch of the Sendai POW Camp that was under the control of the Japanese military and located at this site.In all,545 POWs[494 American,50 British,and 1 Australian]were held at the camp at the end of the war,8 POWs died in captivity.Working conditions for the POWs were exceedingly harsh and left deep mental and physical wounds that the lapse of time would not heal.POWs were subjected to similar conditions in the mines of Hosokura[Miyagi Prefecture],Ikuno[Hyogo Prefecture]and Akenobe[Hyogo Prefecture],which were also operated by the former Mitsubishi Mining Company.Reflecting on these tragic past events with the deepest sense of remorse,Mitsubishi Materials offers its heartfelt apologies to all former POWs who were forced to work under appalling conditions in the mines of the former Mitsubishi Mining Company,and reaffirms its unswerving resolve to contribute to the creation of a world in which fundamental human rights and justice are fully guaranteed.』
20
パンフレット「1300年前から金、銀、銅などの産出で栄える」より…『1599(慶長4)年に五十枚金山などが近隣で発見され、ゴールドラッシュで栄えたと伝えられますが、1600年代後半には金の産出が減少し南部藩が銅鉱山として稼行しています。明治維新以降も、鉱脈型銅鉱床と呼ばれる脈状の銅鉱脈を鑿と鎚で採掘していたため採鉱効率は低く、1889(明治22)年より三菱社(岩崎弥之助社長)が洋式採掘技術をもって技術支援を行い1893年に三菱合資会社に経営権が移りました。採鉱・選鉱・製錬に最新の洋式技術を導入し、出鉱量・製錬量は年を追って増加していきました。1978年閉山後は、「史跡尾去沢鉱山」として坑道の一部1.7kmを整備した観光坑道で鉱山最盛期の採掘状況を見学することができます。』
21
岩崎弥之助。
22
パンフレット「秋田県の主力産業であった鉱山」より…『秋田県の北部(北鹿地域)は、常に日本国内における各種金属の主要供給源となっておりました。特に銅の生産量は、50%以上を占めていたときもあり、秋田県の面積が全国の3%、そのうち北鹿地域の面積(1600k㎡)が0.4%に過ぎないことを考慮すれば、秋田県(特に北鹿地域)が金属鉱物資源に恵まれ、国内産業に大きく貢献したことがわかります。』
23
パンフレット「尾去沢の鉱脈のできかた」より…『マグマから噴出した水蒸気は有用鉱物を多く含んでおります。水蒸気は地下の岩石の割れ目などを通って移動していきます。水蒸気は周囲の岩石と反応したり、冷却されて液体となり地下の亀裂に沿って固まりました。これらを鉱脈と呼んでいます。この鉱脈を浅熱水鉱床といい日本の主要な金属鉱床がこの型の鉱床です。代表的例として、尾去沢鉱山があります。』
24
観光坑道見学へ。標準コースは1.1km(約30分)、特別コースは1.7km(約45分)です。もちろん特別コースへ行きます。料金は変わりません。
25
ってことで、メインの観光坑道見学に向かうわけですが、長くなりましたので『尾去沢鉱山(山神宮)』へ続く。
26
にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログ 東北情報へ
 

1
秋田県鹿角市尾去沢中沢。尾去沢町立尾去沢小学校跡地。どことなくドラマ『テセウスの船』っぽい。近くには曹洞宗大盛山圓通寺(御本尊薬師如来、秋田三十三観音霊場第三十番札所)があります。こんな時代なので学校跡というと廃校を思い浮かべますが、尾去沢小学校(鹿角市立尾去沢小学校)は移転して現存しております。
2
明治7年に笹小屋に校舎を建て小学校を開設し又新学校と称します。明治17年に尾去沢鉱山小学校を開設し、笹小屋、元山、田郡、赤沢に分教室を置きます。明治22年に尾去沢簡易小学校と改称し、同年5月2日尾去沢部落に分教室を置きます。明治23年に尾去沢尋常小学校と改称。昭和22年に尾去沢小学校と改称。昭和47年6月30日に市町村合併により、鹿角市立尾去沢小学校と改称。同年7月新校舎完成。昭和49年9月に新校舎開校式落成式挙行。
3
尾去沢小学校跡地の石碑(昭和47年9月1日・鹿角市長阿部新)。
4
石碑の移設とレリーフの新設…『奉安殿跡の松林の中に設置されていた旧尾去沢小学校跡地の石碑は、30数年が経過しその周辺が荒廃していたため、卒業生有志の呼びかけによる浄財によって、市道沿いの旧校舎児童昇降口付近に移設した。移設にあわせて、秋田県内有数の大規模校【最大在籍児童数1,990名(昭和34年)】として、この地にあった旧尾去沢小学校校舎の遠景レリーフを新設する。平成20年9月尾去沢小学校跡地石碑移設有志の会。協賛業者名:株式会社米村組、網木石材店、高藤工業株式会社。写真提供者:富樫正一氏』
5
旧尾去沢小学校校舎。
6
標柱より…『昭和47年学校が上山に新築移転したとき建てた記念碑は後ろの小高い丘にあるが現在草木が生い繁り望むこともできなくなった。』
7
『尾去沢小学校創立130周年記念して。百周年記念事業実行委員会』
8
にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログ 東北情報へ
 

↑このページのトップヘ