くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ: 建物・歴史的建造物・街ブラ等

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小坂鉄道レールパーク』からの続きです。
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機関車庫へ。現役で稼働する車両や整備風景、鉄道ゆかりの貴重な資料が満載。機関車庫は昭和37年に建築された機関車庫を当初の趣をそのままに修復。中には小坂鉄道で活躍した車輌を収めています。
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車輌の整備や保管を目的とする機関車庫本来の役割のほか、鉄道の歴史や車輌の仕組みなど、町と鉄道の関わりを知ることができる歴史展示室があります。
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写真は歴史展示室内です。
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5.5
エンジンや当時使用していたカバン、ゴム印、切符なども展示。一部紹介。
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6.4
6.8
サボなど。
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ディーゼル機関車プレート。
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DC1、DD11ディーゼル機関車の車号銘板。DC1機関車は昭和31年(1956)に、DD11は昭和58年(1983)に廃車となり、銘板だけが保存されています。
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ディーゼル機関車社名プレート。同和鉱業小坂鉄道時代の銘板で、DD11に着けられていた同和鉱業株式会社の社章。平成元年の小坂製錬鉄道への変更以後は、銘板が外されて「KOSAKA」のロゴが各車両に記されるようになりました。
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カニ24電源車標記サンプル。寝台特急あけぼのに使用された電源車の標記で、塗装修繕の際のサンプル。「形式」カニの「カ」は、車体の重量(47.5トン以上)、「ニ」は荷物車を、「24」は車両の系列を表します。「自重」は車体のそのものの重さを表します。「換算」は、換算両数のことで、鉄道の運転業務で用いられる重量の単位です。各車両の換算両数を加算することで、その列車のおおよその全体重量を算出できるようにしたもの。通常は、重量10tにつき「換算1両」として数えます。「積車」は荷物や乗客を積んでいる場合、「空車」は積んでいない場合です。
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なつかしの車両たち1。
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2号蒸気機関車(六輪連結C型タンク機関車 軌間762mm)。明治40年(1907)1月アメリカ合衆国ボールドウィン社製。同社製造のB型1号機関車、2号と同型の3号・4号とともに小坂鉱山専用鉄道時代から在籍した。2号機関車は、明治41年9月に皇太子殿下行啓のお召し列車を引いたことで知られる。また、ボストンマラソン優勝の山田敬蔵選手をモデルに制作された映画「心臓破りの丘」(昭和29年)では、主人公の父(機関士役)を演じた俳優の宇野重吉を乗せて疾走する姿が話題となった。昭和36年(1961)廃車。
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ハ5客車(ボギー貫通三等客車 軌間762mm)。明治40年(1907)6月東京汽車会社製。二・三等客車2両とともに開業前に導入された3両の三等客車(定員44人)の内の1両。明治42年(1909)の開業後にも同型3両が導入され、当初は機関車4両、客車8両が在籍した。762mm用とは思えない大きさと、両端にオープンデッキ、客室のドアは開き戸というアメリカンスタイルで、まだ珍しかったクライマックス自動連結器を備える自慢の車両だった。昭和37年(1962)の小坂線改軌に伴い、新潟県の越後交通栃尾線に転出した。
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256号蒸気機関車(230形1B1型タンク機関車 軌間1,067mm)。明治41年(1908)汽車会社製。元々、鉄道院で活躍し、昭和24年(1949)に秋田中央交通(現八郎潟駅から五城目町を結んだ鉄道。現在はバス会社)に導入されたが、翌年の電化によって、昭和26年(1951)9月、小坂鉄道に転入した。同年に軌間762mmから1,067mmに改軌となった花岡線で使用され、小坂鉄道で最後まで残った1,067mm用蒸気機関車であったが、昭和37年(1962)9月に廃車となった。
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30形電気機関車(凸型電気機関車 軌間762mm)。昭和2年(1927)11月日立製作所製。小坂線と小坂駅-茂内駅間の電化に合わせて2両発注され31番と32番の番号となった。台車は3両分あって1両分は常に予備とすることが可能で、台車点検の際に両機とも休むことなくフル稼働できた。小坂町民に最も親しまれた機関車だったが、小坂線の改軌に合わせて昭和37年(1962)9月に引退し、昭和39年(1964)に廃車となった。
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キハニ1001ガソリン動車(三等手荷物ガソリン動車 軌間1,067mm)。昭和6年(1931)1月日本車輌製。前後の両端に荷台があるのが特徴で、両運転台、定員46人のガソリンカー。車両記号のキは気動車を、ハは三等客車を(イは一等、ロは二等)、ニは荷物車を表す。昭和30年(1955)4月同じ同和鉱業系列の岡山県の片上鉄道から譲り受けたキハニ101を改番し花岡線で使用した。昭和34年(1964)のキハ1005導入後は休車となり、昭和36年(1961)9月に廃車となった。
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なつかしの車両たち2。
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キハ1005ディーゼル動車(41500形三等ディーゼル動車 軌間1,067mm)。昭和10年(1935)新潟鉄鋼製。一時休車後、昭和26年(1951)い東急横浜製作所で改造され、キハ41545として復活。昭和34年(1959)5月小坂鉄道が国鉄から譲り受けて改番した。前後の両隅に運転台があり、定員は109人。塗色が特徴的で、屋根が黒色、窓周りが暗黄色、窓の上下が橙色であった。キハ2100形が増備されるまで活躍し、昭和42年(1967)5月南部鉄道(現青森県八戸駅と五戸駅を結んだ。後の南部バス)に譲渡されたが、翌年十勝沖地震の被害が大きく同鉄道が休止となったため岩手開発鉄道に転出し、昭和50年(1975)12月に廃車となった。
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DB2ディーゼル機関車(四輪連結小型簡易入換機関車 軌間1,067mm)。昭和41年(1966)10月日本車輌製。小型の簡易入換用ディーゼル機関車で、主に小坂鉄道花岡駅と花岡鉱山とを結ぶ構外側線、小坂駅と小坂鉱山を結ぶ構外側線で貨車の入換作業に従事した。このほか、昭和26年(1951)製造で宮城県の栗原鉄道から転入した軌間762mm用のDB1ディーゼル機関車も在籍し、構外側線開業前に小坂駅・小坂鉱山間を結んでいた軌間762mmの山内専用鉄道で、主に貨車の入れ換えに活躍した。
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DC1形ディーゼル機関車(軌間762mm、軌間1,067mm)。小坂鉄道では、昭和30年代になると蒸気機関車を順次廃止し、内燃化(ディーゼル化)が図られるようになり、新型の小型機関車が導入された。初めに軌間1,067mmのDC1が昭和31年(1956)4月に、次いでDC2が翌年4月に花岡線に配備された。小坂線には、同型で762mm用の台車を備えたDC3が昭和32年(1957)7月に、DC4が昭和34年(1959)7月に導入された。4両とも新三菱重工業三原製作所製造。DC3・4は、当初から小坂線の改軌を想定して製造されており、改軌の際に同工場に送られて台車を1,067mmに改造した。DC3・4は昭和49年(1974)に廃車となり、DC1・2は花岡線で入換作業に従事した後、昭和55年(1980)に廃車となった。
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DD10形ディーゼル機関車(軌間1,067mm)。小坂線の改軌に合わせ昭和37年(1962)9月DD11~13の3両が新三菱重工業三原製作所で製造された。昭和39年(1964)に重連総括制御ができるように改造され、DD130形の登場まで主力機関車として活躍。昭和42年(1977)・43年のDD130形導入の後、DD11が小坂駅と小坂鉱業所を結ぶ構外側線用に、DD12・13は花岡線の貨物牽引用となった。その後、昭和58年(1983)に花岡線貨物と小坂の構外側線が廃止されるとDD11・12は廃車となり、DD13は小坂駅で入換専用として活躍したが、平成7年(1995)に廃車となった。
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小坂鉄道の100年1909~2009~小坂鉱山の発展とともに~
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小坂鉄道の開業。
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黒鉱ブームと小坂線の改軌。
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鉱山の縮小と鉄道事業の廃止。
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小坂鉄道の沿革と保存活用への道のり。
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DD132ディーゼル機関車。
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このディーゼル機関車は、新黒鉱鉱床の発見などによる鉱山鉄道としての輸送力の増強を目的として、同和鉱業株式会社の発注により新造されたものです。主に国鉄で使用されたDD13形式とほぼ同型ですが、一般的なDD13は入換え運転用に運転台が横向き一カ所であるのに対して、小坂鉄道のDD130形式は、本線で運転されるため正面向きの運転台が前後に設けられています。また、硫酸を積んだタンク車など多くの貨車を引き急勾配を駆け上る必要があることから、先頭の機関車の運転士が後ろの機関車を制御することができる重連総括制御の機能を持っています。
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29.5
1両に2基搭載された排気量31,000㏄の大きなエンジン音を響かせながら、長大なタンク車の列を牽引するDD130形機関車三重連の勇姿が人気を集め、多くの鉄道ファンを魅了しました。しかし、平成20年(2008)4月の小坂鉄道営業休止、そして翌平成21年4月の廃止とともに、40年以上にも及ぶ使命を終えました。平成23年(2011)5月、町では旧小坂駅のレールパーク化をめざしてディーゼル機関車の整備を開始し、再びエンジン音を響かせることに成功。ここに動態保存されています。平成26年(2014)6月からは、小坂鉄道レールパークで行われるディーゼル機関車運転体験の主役としても活躍しています。
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30.5
(構造の概要)
1.機関:振興造機製ディーゼルエンジン DMF31SB型 過給器付き 500ps/1,500rpm
2.重量:55t(運転整備時)、53t(空車時)
3.最大寸法:長13,600㎜×幅2,865㎜×高3,850㎜
4.製造所名:汽車製造会社(後に川崎重工と合併)
5.製造月日:DD131・DD132 昭和42年11月、DD133 昭和43年8月
6.形式:DD130形【DDの最初の「D」はディーゼル機関車を、次の「D」は動輪を4つ備えていることを表す記号】
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DD131ディーゼル機関車。
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DD133ディーゼル機関車。
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33.5
トラ4002。昭和15年(1940)に日本車輌で製造されたトラ4000形式(荷重17トン)の無蓋貨車で、トラ4200として国鉄で活躍しました。昭和37年(1962)の小坂線改軌に伴って小坂鉄道に転入し、車号をトラ4002と改めて鉱石輸送等に使用されました。
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DD13-556ディーゼル機関車。
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このディーゼル機関車は、同和鉱業株式会社経営の岡山県柵原鉱山で鉱山鉄道として運営されていた片上鉄道が、昭和43年(1968)に最初に導入したものです。昭和53年(1978)9月に、兄弟鉄道であった小坂鉄道に転入し、予備機関車として使用されました。主に国鉄で使用されたDD13形式とほぼ同型ですが、一般的なDD13は入換え運転用に運転台が横向き一カ所であるのに対して、本線で運転されるため正面向きの運転台が前後に設けられています。小坂鉄道オリジナルのDD130形機関車より全長が800㎜長く、また総括制御機能は持っていないため重連の際には協調運転となります。冬期間にはキ115ラッセル車の運転に使用されることが多く、脇役ながらも多くの鉄道ファンを魅了しました。しかし、平成20年(2008)4月の小坂鉄道営業休止、そして翌平成21年4月の廃止とともに、その使命を終えました。平成23年(2011)5月、町では旧小坂駅のレールパーク化をめざしてディーゼル機関車の整備を開始し、再びエンジン音を響かせることに成功。ここに動態保存されています。平成26年(2014)からは、冬期間に小坂鉄道レールパークで行われるラッセル車運転体験でも活躍しています。
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(構造の概要)
1.機関:新潟鉄工製ディーゼルエンジン DMF31SBI型 過給器 インタークーラー付き 600ps
2.重量:55t(運転整備時)、53.5t(空車時)
3.最大寸法:長14,400㎜×幅2,840㎜×高3,849㎜
4.製造所名:日本車輌製造株式会社
5.製造月日:昭和43年9月
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37.5
キ115ラッセル車。
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キ100形ラッセル車は、昭和初期から30年代初頭にかけて製造された国鉄初の単線用鋼製ラッセル除雪車です。車両本体には動力がなく、機関車に後押しされて走行します。車両の前頭がラッセル部で、車両前側が操縦室、後側が機械室となっています。機械室の左右側面には大型の除雪翼(ウィング)を持ち、これを左右に開くことでラッセル部がかき分けた雪を線路脇に押し退けることができます。この除雪翼やラッセル部下にあるフランジャを動作させるのは空気シリンダとなっており、機械室屋根には機関車から送られてくる圧縮空気を溜めておくエアタンクを6基備えています。小坂鉄道のキ115は、昭和10年(1935)に鉄道省浜松工場で製造されたラッセル車を、昭和44年(1969)に新潟県の国鉄新津工場から譲り受けたもので、オリジナルの黒色から塗り替えられたエメラルドグリーンの塗色を特徴としています。国鉄時代の車号キ134を、越後から来た由来を忘れないよう100番台のイチ・ゴ(エチゴの訛り)としてキ115としたというエピーソードとともに、小坂鉄道レールパークに動態保存されています。冬期間は除雪体験にも使用されます。
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(構造の概要)
1.重量:31.1t
2.最大寸法:長11,390㎜×幅2,621㎜×高4,015㎜
3.製造所名:鉄道省浜松工場
4.製造月日:昭和10年
5.形式:キ100形【ラッセル車の記号「キ」は雪かき車の「き」を表す記号】
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R105形モーターカー。昭和37年(1962)6月に富士重工宇都宮製作所で製造され、小坂鉄道で作業員や資材を運ぶなど保線作業に活躍した小型のモーターカーです。小坂町立総合博物館郷土館に静態展示されていたものを、平成25年(2013)6月に復活運転させました。
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エボルタ電池鉄道。エボルタ電池鉄道は架空の鉄道会社の名称。これはパナソニックによって行われる「エボルタチャレンジ2014」というイベントのために設けられた鉄道会社で、この鉄道会社はアルカリ乾電池を動力源として電車を走らせようというもので、乾電池で走るという専用の車両も製造されました。走る区間は廃線となった小坂製錬小坂線の区間で、2014年11月2日12時45分、定員10人を含む総重量約1tの特殊段ボール製でEVOLTA単1型乾電池99本で動く電車が秋田県大館市にある旧雪沢温泉駅付近を発車。電車はパナソニックと秋田県立大学が共同開発し、電車そのものの重量は約400kg。途中4か所に停車して地元の小学生を乗せ、6km/hというゆっくりとした速度で走行し、約2時間後に約8.5km先の旧御成町踏切に到着し運行を終了。
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※車両の説明は現地案内板を主に引用。
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43.4
43.8
腕木式信号機・出発信号機(小坂鉄道レールパークの車庫横にある)・踏切警報機。※一般的な説明箇所については省略します。
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44.4
44.8
連結器。
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タンク車の標記。
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濃硫酸を運搬したタンク貨車廃車の際に、小坂駅での解体を依頼された車両もあった。この標記類は解体作業時に取り外されたもの。積算重量や車両の所属、検査種別などの表記が読める。
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こう配標。こう配とは1000m進んだ地点の高低差(メートル)。小坂鉄道では25/1000が最大で、1000m先の地点で25mの高低差がある。
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通票授器。茂内駅に現存する。
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車両接触限界標。
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制輪子。
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警笛。小坂鉄道レールパーク(旧小坂駅)に留置されているキハ2100形で使用されていあt。DD130形に比べて野太い音色である。
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エンジンに入ってるピストンの実物(軽自動車660cc・普通自動車2,000cc・キハ2100形17,000cc・DD130形ディーゼル機関車31,000cc)。
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53.5
後部標識灯。
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小坂鉄道レールパーク(旧小坂駅)に留置されているワフ28000形貨車で使用された後部標識灯。列車最後尾に連結され、車掌車を兼ねた同車両の左下の取っ手に取り付けられた。夜間にライトを点灯させる際、元々は標識灯内部のバッテリーから給電していたが、車両本体のバッテリーから配線を引き出すように改良された。
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踏切動作反応灯(向かって左)・入換信号機識別標識(向かって右)。踏切動作反応灯は点滅することで、踏切遮断機が全て降下完了したことを運転士に知らせるために設置される。小坂鉄道レールパークには本線出発信号の下に新町踏切の踏切動作反応灯がある。入換信号機識別標識は大館駅構内の第一種継電連動装置(信号機と転てつ器等の間を電気的につなぎ、構内の列車の進路安全を確保するための装置)を構成し、車両の入換のため、線路の開通方向及び関係転てつ器がロックされていることを示す標識。
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腕木式B形遮断器防雪カバー。腕木式踏切遮断機のウエイトが雪に埋もれて動かなくならないように収納するカバー。明治百年通りの康楽館横にある学校前踏切をはじめ沿線各所に黒塗りされた状態で現存する。
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場内信号機。駅に進入する列車に対して信号を現示するもの。出発信号機と同じ赤の腕木であるが、出発信号機よりも腕木が長く120cmある。明治百年通りの康楽館横にある学校前踏切から小坂鉄道レールパーク(旧小坂駅)に向いて左側にある。
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通過信号機。場内信号機の下に設置され、出発信号機の補助として用いられる。駅に進入する列車に対して出発信号機が現示する信号を、予告する信号を現示して駅を通過できるかどうかを知らせる。腕木の長さは84cm。新沢駅が列車交換可能駅であったときに使用されていたもの。茂内駅に現存する。小坂鉄道は日本の鉄道で最後まで腕木式の通過信号機を使用していた。
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エンジン。
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このエンジンに付けられているプレートとその説明。
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以上、小坂鉄道レールパークでした。
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秋田県鹿角郡小坂町小坂鉱山字古川。
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こちらにもレールバイクがありますが、大館・小坂鉄道レールバイクとは別なので間違わないようにしてください。「小坂鉄道レールバイク」と「小坂鉄道レールパーク」という命名もかなり似ているので注意です。
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康楽館・小坂鉱山事務所・明治百年通りの向かいになります。
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明治百年通り。
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小坂町の所々に設置されてあるこちらの看板が中々見応えあります。ちなみに小坂鉄道レールパーク入口にあったこちらの看板の内容…『おら街!!1897。明治30年秋田初の電気利用開始。山間の近代都市-真昼の輝き「電気まつり」-。臨時列車に人があふれる!8月、小坂恒例の「電気まつり」は県内でも評判の一大イベント。明治36年に国内で初めて使われたというイルミネーションをいち早く取り入れ、町じゅうが夜空に浮かび上がりました。押し寄せる人たち臨時列車も満員です!(※詳しくは「小坂鉱山事務所」「郷土館」でご覧ください。)。小坂鉱山では、明治30年(1897)に秋田県初の電気利用として送電を開始。精錬所の機械を動かし、街に1,000灯もの電灯をともしたといわれています。かつて8月14日・15日・16日の山神社祭典では、歓迎灯、イルミネーション、街灯、露店や見せ物小屋、動物園などの照明が真昼のようにまばゆく輝き、別名「電気まつり」とよばれました。小坂鉄道では臨時列車が運行され、露店や見せ物小屋が立ち並んだ現在の明治百年通りは、あふれんばかりの人出となりました。』
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「電気まつり」の華やぎ、山神祭の歓迎灯、銚子第一発電所。
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線路に沿って小坂鉄道レールパーク内へ。全国でもめずらしいディーゼル機関車の運転体験ができる施設です(要予約・有料)。
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再び、おら街!!看板。今度は1909年(明治42年小坂駅創建)です。『山間の近代都市-東京駅より5年も早い開設!-東北初の私鉄だった小坂鉄道!鉱産額日本一を誇った小坂鉱山!その輸送の基点となったのが小坂駅。開業2年目で10万9千人余、17万8千トン余が行き交い、最盛期には、北海道と連結する青森駅に次ぐ膨大な量の貨物を送り出したといわれます。(※詳しくは「小坂鉱山事務所」「郷土館」でご覧ください。)。日本一の銅山・小坂鉱山の鉱山鉄道として明治42年(1909)に開業した小坂鉄道小坂線。私設鉄道法による東北地方初の私鉄として知られています。昭和2年(1927)からは一部を電化。昭和37年(1962)には線路幅を当時の国鉄と同じ幅に改軌するとともに全線がディーゼル化され、乗客数が年間200万人台となるほどにぎわいます。しかし、平成6年(1994)に旅客が、平成21年(2009)には貨物輸送も廃止となり、開業以来百年に及ぶ歴史に幕を閉じました。』
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大正の小坂駅、大正3年(1914)創建の東京駅本屋全景。
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小坂駅。改修を経て、明治42年建築の駅舎を営業当時に再現。
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駅内へ。入口の引き戸や待合室、柱の紺色の「こさか」のプレートなどは当時のもの。待合室には当時使用されていた黒板や備品類も遺されています。
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連絡旅客運賃表(奥羽線・男鹿線・五能線)。
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列車到着時刻表(昭和57年3月15日改正)。
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列車発車時刻表。
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オルセー美術館・小坂鉄道レールパーク。オルセー美術館の建物は1900年のパリ万国博覧会開催に合わせてオルレアン鉄道によって建設されたオルセー駅の鉄道駅舎兼ホテルでした。駅は1939年に役目を終えて、長らく廃墟のような状態でしたが、約半世紀の時を経て大改築。1986年に印象派美術館として会館し、世界屈指の美術館と称されてパリの観光名所に定着。そのオルセー美術館と比較し、小坂鉄道レールパークは廃墟期間も置かずに、保存と観光活用目的のテーマパーク事業化をしたという中々強気のアピール看板。
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旧小坂鉄道小坂駅本屋及びプラットホーム【明治42年(1909)建築】・旧小坂鉄道小坂駅機関車車庫【昭和37年(1962)建築・小坂製練株式会社寄贈】…『小坂鉄道は、日本有数の鉱山として発展した小坂鉱山の物資と旅客輸送を目的に、明治42年に開業した。イギリス式下見板張の小坂駅本屋は開業に合わせて建築された。機関車庫は、新鉱床発見などを背景に、輸送量増強を目的として新たに導入されたディーゼル機関車を格納するため、大規模な内部空間を持つ工場兼車庫として建築された。どちらも、小坂鉱山の近代化と発展期を支えた建造物として貴重なものである。』
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ホームへ。
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小坂鉄道のあゆみ。
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明治41年-鉱山の発展とともに増大した貨物輸送用として小坂~大館間(22.3km)が開通。皇太子殿下(後の大正天皇)が小坂鉱山を訪問。お召列車が運行。
明治42年-鉄道会社設立、旅客事業が開始。後に東北地方では北海道連絡の青森駅に次ぐ貨物運搬量となった。
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大正10年-隆盛を視察するため、秩父宮・高松宮両殿下が訪問。貴賓客車が用意され、お召列車が運行。昭和3年-一部区間を電化、以降電車とSLが混在して活躍。渓谷を縫っていく姿が「マッチ箱」の愛称で親しまれる。
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昭和37年-軌道拡幅、客車はディーゼルカーに。往時は機関車の4重連や客車の5両編成も見られた。
平成6年-町民の足として活躍するも、旅客営業の歴史を閉じる
平成21年-製錬の貨物運搬が無くなり全線廃止。百年の歴史に幕を閉じる。
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小坂駅舎前ホームを辿って車両展示場方面へ。
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駅構内奥までは約600mの路線が数本あり、ディーゼル機関車や観光トロッコ、レールバイクで普段見られない風景が見られます。他にも腕木式信号機、手動転轍機などの駅構内の設備を見学できます。
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旧小坂鉄道11号蒸気機関車(雨宮製作所製)。
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11号蒸気機関車は、軌間762㎜の狭軌用として大正15年(1926)4月に小坂鉄道に登場しました。以来、昭和37年(1962)の小坂線軌間拡幅(762㎜から1,067㎜に改軌)まで36年間にわたり、花岡・大館間(4.8㎞)、小坂・大館間(22.3㎞)で旅客や貨物の輸送に活躍。「釜汽車」とも呼ばれ、小坂線に最後まで残った蒸気機関車でした。軌間拡幅後、その使命を終え貴賓客車とともに小坂駅前に保存されていましたが、昭和60年(1985)に小坂町に寄贈され、小坂町立総合博物館郷土館で保存展示されました。また、平成11年(1999)3月には、小坂鉱山発展に貢献した小坂鉄道の歴史を伝える極めて貴重な資料として、県有形文化財に指定されました。平成26年(2014)3月、同年6月の小坂鉄道レールパーク・グランドオープンに合わせて再び旧小坂駅に帰り、大正・昭和の鉱山全盛期の証人として、ここに永久保存されています。
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(構造の概要)
1.最高気圧:12.66㎏/cm
2.火床面積:0.78m2
3.重量:20.83t(運転整備時)、16.66t(空車時)
4.水槽容量:2.14m3
5.最大寸法:長7,534㎜×幅2,127㎜×高3,098㎜
6.製造所名:株式会社雨宮製作所
7.製造月日:大正15年3月
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「釜汽車」「豆機関車」とよばれた11号蒸気機関車と機関士。
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11号蒸気機関車の後ろに連結されているのは、旧小坂鉄道貴賓客車(ハ1)(日本車輌製造製)。
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この客車は、大正5年(1916)にニ・三等客車として造られたものを改造し、貴賓客車として使用されたものです。大正10年(1921)8月4日に秩父宮、高松宮両殿下が小坂鉱山をご見学になった際には、この客車が使用されました。オープンデッキの木造客車で、側面には、同和鉱業株式会社の前身である藤田組の鉄道を表す社紋が取り付けられています。その後、歴代社長、来賓等の小坂鉱山視察のたびに使用されましたが、昭和37年(1962)の軌間拡幅とともにその使命を終えました。その後、小坂駅前に保存されていましたが、昭和60年(1985)に小坂町に寄贈されて町立総合博物館郷土館で保存展示され、平成11年(1999)3月には、11号蒸気機関車とともに県有形文化財に指定されました。平成26年(2014)3月、同年6月の小坂鉄道レールパーク・グランドオープンに合わせて再び旧小坂駅に帰り、大正・昭和の鉱山全盛期の証人として、ここに永久保存されています。
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(構造の概要)
1.定員:32人(二等座席12人・三等座席20人)
2.重量:7.62t
3.最大寸法:長9,614㎜×幅2,083㎜×高3,264㎜
4.製造所名:日本車輌製造株式会社
5.製造月日:大正5年2月
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秩父宮、高松宮両殿下をお迎えする人々とお召し列車。左上は貴賓客車の内部(大正10年)、小さな客車は「マッチ箱」ともよばれた。
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ブルートレインあけぼのとTMC200形モーターカー(奥)。
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TMC200形は、国鉄が導入した軌道用モーターカーで、全国の保線区で活躍しました。地域によって様々なバリエーションがありますが、小坂鉄道のものは積雪地帯用に除雪用の排雪板を装備しており、ハイモ(排雪モーターカーの略)とも呼ばれます。このTMC200形モーターカーは、もともと昭和56年(1981)9月に富士重工が製造し当時の国鉄に導入されたもので、平成19年(2007)に小坂鉄道に転入し主に除雪作業に使用されました。現役時代は青とグレーのツートンカラーの塗装でしたが、小坂町による修復とともに黄色に塗り替えられました。現在では、主に車両の入れ替え作業や保線作業のほか、観光トロッコの牽引用や構内の除雪作業にも使用されています。
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観光トロッコ。
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「寝台特急あけぼの」24系客車。手前から電源車(カニ24-511)、A寝台個室(宿泊車輌・スロネ24-551)、B寝台個室(宿泊車輌・オハネ24-555)、B寝台開放(休憩車輌・オハネフ24-12)。実際に宿泊することが可能です。しかも私も大好きな花善鶏めし弁当付きで。
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「寝台特急あけぼの」は、昭和45年(1970)10月1日に東北本線・奥羽本線経由で上野駅-青森駅間の運行を開始した定期寝台特急列車です。最盛期には毎日3往復(上野駅-青森駅間2往復、上野駅-秋田駅間1往復)が運行されていました。その後、昭和63年(1988)3月の青函トンネル開業によるダイヤ改正時に1往復減便され、さらに、平成2年(1990)9月1日の山形新幹線着工により1往復が列車名を「鳥海」に変更のうえ羽越本線経由とされます。また、残る1往復も陸羽東線・奥羽本線経由とされますが、平成9年(1997)3月22日の秋田新幹線開業に伴って廃止となり、羽越本線経由の「鳥海」が「あけぼの」に改称されて、毎日1往復だけの定期運行となりました。しかし、乗客の減少や車両の老朽化を理由に、平成26年(2014)3月15日のダイヤ改正で、「あけぼの」の定期運行が終了。翌年1月4日を最後に臨時運用も終了し、全面廃止となりました。「あけぼの」は、秋田県北と東京とを直結する列車として、最後まで残った特急列車でした。小坂町民にとっても、小坂鉄道大館駅から乗り換え、就職や進学での上京や帰郷、また東京出張などで利用する大切な交通機関でした。小坂町では、定期運行終了後、JR東日本に「あけぼの」に使用された客車の譲渡を申し入れ、平成27年(2015)5月、4両の24系客車が小坂鉄道レールパークに搬入されました。同年10月、動態保存の寝台客車を利用した日本初の宿泊施設として、まずB 寝台個室が開業。平成28年4月にはA寝台個室を加えてグランドオープンし、鉄道ファンのみならず多くの観光客の人気を集めています。
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(24系客車の概要)
1.最大寸法:長21,300㎜×幅2,900㎜×高4,900㎜
2.形式:24系客車
3.来歴:昭和48年(1973)から昭和55年(1980)にかけて、当時の日本国有鉄道(国鉄、現在のJR)が量産した寝台客車。ともに、保存車両をのぞいて廃車となった。21世紀初めまで全国で活躍したが、ブルートレインの廃止とともに、保存車両をのぞいて廃車となった。
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「寝台特急あけぼの」(撮影:小坂鉄道保存会工藤寿)。
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【オハネフ24-12】
1.種類:2段式B寝台車
2.重量:自重33.2t
3.換算両数:積車3.5空車3.0
4.寝台数:30(定員30名)
5.来歴:昭和48年(1973)に、富士重工業株式会社で3段式B寝台緩急車として製造された24系の基本形式といえる車両。新製時の定員は45名。後に2段式に改造され、定員30名となった。※緩急車:車掌室があり、事故や緊急事態など必要なときに列車を止める車掌弁などブレーキ装置を備える車両。主に列車の最後尾に連結される。
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【オハネ24-555】
1.種類:1人用B個室寝台車・ソロ
2.重量:自重35.5t
3.換算両数:積車3.5空車3.5
4.寝台数:28(定員28名)
5.来歴:昭和48年(1973)に、富士重工業株式会社で3段式B寝台車として製造され、後に2段式寝台となったオハネ24 42を原型とする車両。平成3年(1991)、「あけぼの」の個室寝台化に伴い、屋根を切り離し個室ユニットを線路と並行に設置する工法で改造され、定員は30名から28名となった。
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【スロネ24-551】
1.種類:1人用A個室寝台車・シングルDX
2.重量:自重37.3t
3.換算両数:積車4.0空車3.5
4.寝 台 数:11(定員22名)
5.来歴:昭和48年(1973)に、富士重工業株式会社で2段式A寝台車として製造されたオロネ24 1を原型とする車両。「あけぼの」の個室寝台化に伴い改造された。個室は11室だが個室内上部に
もベッドを設けているため、定員は22名となった。また、一室を除いて隣室との仕切りが開閉可能で、4名での利用もできる。
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【カニ24-511】
1.種類:電源車
2.重量:自重48.8t
3.換算両数:積車5.5空車5.0
4.来歴:昭和55年(1980)に、富士重工業株式会社で寝台特急「あさかぜ」、「瀬戸」、「安芸」の24系25形化(24形のマイナーチェンジ)に合わせて製造された車体長19.5mのカニ24 115を原型とする電源車。平成2年(1990)に、上野ー札幌間直通の寝台特急「北斗星」に使用するため耐寒・耐雪改造が行われた。この車両と同様に改造され500番台となった電源車11両は、「北斗星」の他「エルム」、「出雲」、「日本海」、「あけぼの」に使用された。※電源車:冷暖房装置や照明など、客車への電源を供給する車両。ディーゼル発電機を2基搭載し荷物室を備える。
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※車両の説明及び一部写真(小坂鉄道保存会)は現地案内板より引用。
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45.5
オハネフ24(開放B寝台車)の車内を常時一般公開いたしております。
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車内。
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47.1
47.2
47.3
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47.6
懐かしい人には懐かしい。
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48.1
48.2
48.3
48.4
車外(ホーム)へ。
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キハ2101。
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同和鉱業キハ2100形気動車は同和鉱業が同社の小坂鉄道向けに昭和37年から製造した気動車。小坂線・花岡線を運営していた小坂鉄道事業所向けに導入された自社発注の気動車で、日本車輌(日車)東京支店でキハ2101-2107の7両が製造されました。小坂線の改軌を控えた昭和37年4月にキハ2101・2102が、同年8月にキハ2103-2105が、昭和42年にキハ2106・2107が製造されました。平成6年に小坂線の旅客営業が廃止されるまで使用されましたが、旅客営業廃止後にキハ2101・2106は廃車となり、キハ2101は小坂町総合博物館郷土館に保存展示、キハ2106は解体されずに小坂駅構内に放置された後、小坂鉄道レールパークに移されました。
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遠くにあるキハ2106(ホキ909の後方)。レールバイクか観光トロッコに乗れば近くで外観のみを見ることが可能です。
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ホキ909。軌道保守作業時に砕石(バラスト)を散布するホッパ車。ホッパとは粒状のものを下に落とすための漏斗形の装置のことで、形式記号の「ホ」はホッパ車を表します。このホキ909は、昭和36年に国鉄浜松工場で製作されたホキ800形(荷重30トン)で、軌道の内側・外側・遠近の3方向に砕石を散布可能な構造となっています。昭和62年12月に当時の国鉄精算事業団から小坂鉄道に転入し、保線作業で活躍。平成30年1月から3か月にわたって小坂鉄道保存会によって修繕されました。修繕にあたって国鉄静岡鉄道管理局所属、三河槙原駅常備時代の姿を再現。
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長くなりましたので『小坂鉄道レールパーク(小坂駅)~part2』へ続く。
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マンガを活かしたまちづくりを推進している宮城県石巻市。
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ってことで、石巻市立町付近をyuki散歩(※yuki散歩part15になります)。
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既に暗かったので立町大通り付近からほんの一部だけの紹介です。
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たちまち商店街マップ。
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「いしのまきマンガロード」案内板。
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まずは誰もが知っている仮面ライダー!
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仮面ライダーBlackはめちゃBlackだったのでフラッシュ撮影。
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サイボーグ009。島村ジョー。
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サイボーグ004。アルベルト・ハインリヒ。
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サイボーグ006。張々湖(ちゃんちゃんこ)。※隣は「立町」標柱。
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サイボーグ007。グレート・ブリテン。
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モニュメントだけではなく、ベンチやポスト、マンホールの蓋など、至る所に石ノ森キャラが隠れています。※写真はスカルマンポスト。
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佐武と市。
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ってことでホテルへ向かいます。
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石巻グランドホテル(宮城県石巻市千石町)。
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16.4
16.8
石巻鋳銭場作業工程絵図。仙台藩(第5代藩主伊達吉村公)では、北上川河口の石巻に鋳銭場を設置し、享保13年(1728)正月から寛永通宝の鋳造を開始。これが寛永通宝享保仙字銭で、操業の断続もありますが、約140年間にわたり石巻鋳銭場が存続することとなりました。この絵巻は、石巻市毛利コレクションに所蔵されている絵図をもとに陶板に再現したものです。鋳銭場は地名として当ホテル周辺に残されています。
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石巻市地産地消推進店グルメガイドブック。
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うに、ホタテ、金華さば、金華かつお、あなご、ホヤ、牡蠣、クジラなど海産物が多いですね。どれもおいしそう。
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お店もたくさん載っていましたが、今回は下調べをしていなかったのでホテル内の「日本料理石亭」へ。
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魅かれる…
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けど、我慢。
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22.4
22.8
お腹いっぱいで満足です(※食べ物の写真は一部です)。
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23.4
23.8
お酒は墨廼江をチョイス。
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ホテル前にあった「旧町名-新田町」の標柱。碑文『元禄二年五月十日「奥の細道」の旅で石巻を訪れた芭蕉と曾良は、日和山からの眺望を樂しみ、住吉神社に参詣後、新田町の四兵へ宅に一泊した。安永二年三月の「安永風土記書出」には、家数五十二軒と記されている。』※千石町(旧新田町)四兵衛宅=現石巻グランドホテル
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宮城県宮城郡松島町松島町内。
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観瀾亭(松島博物館)。
3
3.5
観瀾亭・松島博物館…『この建物は、文禄年間に豊臣秀吉から伊達政宗が拝領した伏見桃山城の一棟で江戸品川の藩邸に移築したものを二代藩主忠宗がこの地に移築したもので、床の間の張付絵や襖絵は壮麗な極彩色で画かれており建物は東西に向き京間18畳2室からなり四方縁をめぐらした東北唯一の純桃山建造物である。藩主の納涼、観月の亭として「月見御殿」ともよばれ、藩主・姫君・側室等の松島遊覧、幕府巡見使等の諸国巡回の際の宿泊及び接待用の施設となる「御仮屋」として利用されていた。併設の松島博物館には、伊達家の大名道具や生活用品等を陳列しております。文化財指定:観瀾亭(建物)…県重要文化財(昭和28年3月3日)、障壁画…国重要文化財(昭和55年6月6日)、鳳凰図…県有形文化財(平成5年12月24日)。松島町』
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観瀾亭と御仮屋復元図…『この地は月見崎と呼ばれ、仙台藩祖伊達政宗が御仮屋(休憩所)を設けましたが、正保2年(1645)の火事で焼失しました。現存する観瀾亭は、政宗が文禄年間(1592-95)に豊臣秀吉から伏見城内の建物を拝領し、江戸に移築していたものを、二代忠宗が再び松島に移築したものと伝えられています。柱には栂(つが)材を用い、一間六尺五寸の京間・杮葺きの軽快な起(むく)り屋根が特徴で、御座の間の絵画は仙台藩お抱え絵師狩野左京(佐久間修理)の作で、原本は国重要文化財に指定されています。御仮屋は藩主・姫君・側室・幕府巡見使等の宿泊休憩に使用され、その記録も残っています。復元図は御仮屋がもっとも整備された18世紀末の図面をもとに作成したもので、江戸時代末までに数多くの建物が附属している様子を知る事ができます。』
5
5.4
5.8
いくつかの門があり、御座之間棟、広間棟、台所棟、御郡司部屋、御貸長屋、御村賄所、馬屋など11棟あまりの建物が存在し、観瀾亭敷地内に多くの建物が存在していたことがわかります。
6
6.4
6.8
雄島に見られるような岩窟。
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7.4
7.8
観瀾亭敷地内散策しております。
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8.5
松島湾。
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伐採された巨木。
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石原朝陽句碑。
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「詩の友に観せばや雪の千松島」
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御裏御門付近。
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石碑。
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どんぐりころころの碑。青木存義が文部省在職中の大正年間に松島での幼き日を偲び作詞されたもの。作詞者青木存義(1879-1935)の故郷である宮城県松島町では、地元の大地主であった青木家の名は記憶されていたものの、「どんぐりころころ」の作詞者がその血筋であることはほとんど知られていませんでした。彼の故郷での再評価は、没後約50年を経過した昭和58年夏、青木の遺族と松島町の元職員が列車で偶然に隣り合わせたことをきっかけに始まりました。この際の会話を発端にして昭和59年4月に松島町内の観瀾亭前庭に大倉石の歌碑が建立されました。
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どんぐりころころの碑…『松島町出身文学博士青木存義先生(1879-1925)が作詞された「どんぐりころころ」は、現在も広く全国の幼児や児童たちに愛唱されています。作曲者は、東京音楽学校の梁田貞先生です。碑の裏側に、建立事由が記されています。昭和59年4月3日松島町』ちなみに私は2番「どんぐりころころよろこんで しばらくいっしょにあそんだが やっぱりおやまがこいしいと ないてはどじょうをこまらせた」を知りませんでした。※案内板は「1925」となっていますが「1935」が正しいと思われます。
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「松嶋雪月花」碑。
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大欅。
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観瀾亭・大欅(松島町指定天然記念物:指定昭和45年12月1日、解除平成28年7月1日)…『松島湾の最奥に位置するこの高台は「月見崎」と称され、江戸時代には伊達家の御仮屋御殿として「観瀾亭」が建てられました。大欅は樹齢800年(指定時)と推定されており、観瀾亭が建てられる以前からここにあったと考えられます。幹回り約7.8m、樹高約35mの堂々たる大樹でしたが、土壌に乏しい岩盤の上という厳しい環境や腐朽菌への罹患によって樹勢が衰え、平成28年秋に残念ながら倒壊しました。長年にわたって町を見守った大樹を偲び、ここにその記録を残します。』
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福浦橋(出会い橋)。
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観瀾亭は文禄年中に豊臣秀吉から伊達政宗が拝領した伏見桃山城の一棟で、江戸品川の藩邸に移築したものを二代藩主伊達忠宗が一木一石変えずこの地に移したものと伝えられています。現在の観瀾亭では、抹茶等も提供されています。
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建物は東西に向き京間18畳2室からなり四方縁をめぐらした簡素明快な建築。床の間の張付絵や襖絵は壮麗な極彩色で画かれており、柱間1間6尺5寸の京間であること、軽快な起りを持つ屋根からして桃山時代の建築であると考えられています。藩主の納涼、観月の亭として「月見御殿」とも呼ばれましたが、公式な記録によると藩主・姫君・側室等の松島遊覧、幕府巡見使等の諸国巡回の際の宿泊及び接待用の施設となる「御仮屋」として利用されていました。
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御座の間は撮影禁止。藩主等の賓客の間であり床の間、襖、障子腰板に金箔を張り付け、極彩色で画かれた桧と槙・笹竹等を中心に林木花卉と渓流の図は、構図法・彩色方から伊達家お抱の狩野派系統の絵師の遺品と見られています。床の間の「雨奇晴好」の額は5代藩主吉村公の筆で宋の詩人蘇軾の詩から採った句。「観瀾亭」と命じたのは吉村公で、廊下の額は江戸中期の書家佐々木玄龍の筆で、次の間との欄間にかけてある「観瀾」の二文字は7代藩主重村公によるもの。
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23.5
観瀾亭及び障壁画(平成28年度日本遺産認定政宗が育んだ"伊達"な文化)…『歌枕である松島を眺望する他に、藩主が宿泊、休憩する御仮屋の御殿として建てられたものです。襖の濃絵の障壁画は桃山時代の特徴を良く表しています。文禄年間(1593-1596)、伊達政宗が豊臣秀吉より譲り受けた伏見城の一部を江戸の藩邸に移し、さらに2代藩主忠宗がこの地に移したものと伝わります。観瀾亭の名は五代藩主吉村によって命名されました。』
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松島博物館へ。
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「春の夜乃月の光にみわたせば浦の島々波にかげさす」
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『昭和30年4月、天皇皇后両陛下には、植樹行事並びに全国緑化大会にご臨席のため本県下に行幸啓、当地に三泊四日御滞在の折の御製です。』
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セコイアの化石。
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28.5
『三千万年前にさかえたセコイアの化石で、現存のものは明治9年6月、明治天皇東北御巡幸のときご覧いただくため、仙台青葉城より移したものです。セコイアは世界で最も大きく最も長寿のスギ科の植物で、現生樹としては、ただ二種アメリカの西部に自生しているだけです。』
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松島博物館。一部だけの紹介になります。
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伊達家伝来の什宝物や、武具、装身具、化粧道具、書画が陳列され、松島のジオラマもあります。中でも仙台城本丸大広間上段の障壁貼付画てあった「鳳凰図」は初期仙台藩の美術にとっても、また、藩で最初の画員(お抱え絵師)となる作者狩野左京にとっても最盛期の作品であり、宮城県の重要文化財に指定されています。また、寛文元年(1661)の仙台領内絵図は、時代、大きさとも仙台市博物館所蔵の正保年間に次ぐものです。
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※展示替により陳列していない文化財もあります。
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阿吽の龍(寛永14年に瑞鳳殿の降り棟にとりつけられた龍。高田久兵衛作)・手水盤(政宗が没した寛永13年5月24日の翌年に瑞鳳殿が落成し、その30年後に柴田外記朝意は藩の唐銅鋳物師高田六兵衛作の水盤を奉納。)。
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五輪塔。
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五輪塔とは…
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板碑(向かって右=雄勝石、向かって左=稲井石)。
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各説明。
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37.5
中世の信仰遺物板碑。
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板碑の分布と変遷。
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39.5
宮城県の板碑分布。
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頼賢碑と板碑による供養。
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雄島での発掘調査と骨蔵器。
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常滑大甕(瑞巌寺境内遺跡出土)。愛知県常滑半島で焼かれた大型の陶磁器。水甕の他、銭の貯蔵、骨を納める蔵骨器にも用いられた。推定口径36cm。
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1
宮城県宮城郡松島町松島町内。円通院付近。
2
建物は木造平屋建、寄棟、茅葺、平入、外壁は真壁造り土壁鏝押え。
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昭和47年松島町指定文化財。
4
4.5
御水主町の民家(松島町指定文化財)…『御水主町は瑞巌寺の東に隣接した一画で、仙台藩主等が松島遊覧の際の御座船を操った水主衆が集団で住んでいた。水主は瑞巌寺造営当時(1605)、地元や和歌山・静岡・愛媛などから雇用されてここに住み、往時には48軒を数えた。彼らの住居は、藩の定めにより茅葺、寄棟造、表通りに面して出格子と蔀戸を設け、冠木門等を構え天井は上げなかった。昭和51年に最後に残った1棟をここに移築復元した。平成12年3月松島町教育委員会』
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比翼塚へ。
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紅蓮尼和歌二首…『「植え置きし花の主ははかなきに軒端の梅は咲かずともあれ」「咲けかしな今は主とながむべし軒端の梅のあらんかぎりは」。紅蓮尼は約700余年前、秋田県象潟町に生れ本名を谷という。既に他界した小太郎に嫁ぎ、その父母に孝養をつくした。両親亡き後、瑞巌寺の明極禅師の弟子となって尼となり禅師より紅蓮の名を許され一生を小太郎にささげた。「軒端の梅、心月庵紅蓮尼物語」は、日本女性の鑑として語り伝えられている。松島町と秋田県象潟町は小太郎、紅蓮尼の絆が縁で昭和62年8月1日「夫婦町」となった。平成元年10月1日、宮城県松島町・秋田県象潟町(現にかほ市)』
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「芳躅を慕い合歓木を献す」
8
こちらの碑は読み取れず。
9
比翼塚。鎌倉時代、北条時頼が家臣・蜂谷美濃守を松島円福寺(瑞巌寺)守護のために派遣。子孫が松島に土着しました。子孫蜂谷掃部は子宝に恵まれず、観音様に祈願したところ、やがて男の子が誕生し、小太郎と名付けられました。小太郎は観音堂に梅の若木を植えてこよなく愛していました。小太郎が15歳の春、父が伊勢参りで道連れとなった象潟の商人と親しくなり、小太郎と商人の娘との結婚を約束。ところが帰国した父は小太郎が病死したことを知ります。掃部は泣きながら商人の娘に訳を話しましたが、娘は松島の人となり、掃部夫妻に孝養を尽くしました。後に娘は髪をおろして名を紅蓮と改めます。小太郎が愛した梅の木が軒端の梅で、娘のもとには紅蓮尼と小太郎の碑比翼塚が建てられています。蜂谷氏が観音仏を守っていたことから、その後、瑞巌百一鵬雲が観音を御本尊とし、左に達磨、右に菅公を配した三聖堂を建立。
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裏面紅蓮尼石文。※状態は良いのですが雨だったので内容は省略。
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二人のお墓碑は、別々の場所にありましたが、昭和43年6月吉日、生前はおろか640余年を過ぎても一緒になれない二人をせめて墓碑だけでも同じ場所に並べてあげたいと、紅蓮尼に縁深い瑞巌寺境内観音堂水月庵跡に、紅蓮尼と小太郎の比翼塚が建てられました。
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