くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ: 寺・神社 (弘前市)

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ここは私が鳥居の鬼コの虜になったきっかけの神社なので、稲垣町の二柱神社(鬼コを救出した神社)と同じくらい思い入れが強いです。一瞬で私を虜にしたほどの個性的な鬼コがいるわけですが、今回は特別なものをお見せいたしますよ!!
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社殿前石灯篭一対(明治16年)。
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社殿前御神馬一対(昭和11年旧6月15日)。
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社殿前狛犬一対(明治34年6月15日)。
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かつての石川村。元和年中御家臣姓名大概の83騎の中に「二百石石川村勘助」と村名が記され、また寛永17年の津軽百助宛3代藩主津軽信義黒印知行宛行状にも当村名が見えます。永禄日記及び平山日記によりますと、慶長15年に始まった弘前城築城の際、関山・蔵館山とともに当村の山辺から普請用の材木を切り出しています。集落は羽州街道沿いに発達。慶安2年道筋帳によりますと、小道として当村の大道(羽州街道)より金ヶ崎村を経て三目内村へ至る道筋と、当村の大道より岩館村を経て東根小道(乳井道)へ至る道筋が記されており、それぞれ「石川大道より金ヶ崎村迄五町十間」「石川村大道より岩館村迄五町」と見えます。貞享2年に弘前城下から堀越村を経て当村へ至る羽州街道の道筋は往来差止めとなり、新たに小栗山村を経て当村へ抜ける道が作られています。寛文11年には村内の桔梗長根において足軽の鉄砲の稽古が行われており、同地は操練場となっていたと思われます。水利は主として平川から取水する十右衛門堰・亦右衛門堰を利用し村内8町1反余が両堰の恩恵を受けました。また平川から取水する法楽堰は当村と堀越村合わせて26町4反余に利用されました。村内の寺社として、貞享4年検地水帳では行人の立海坊がおり、正福院抱えの観音堂と毘沙門堂がありました。また、国誌によりますと、明治初年当時八幡宮と清浄庵(大仏院)があり、このうち八幡宮は字寺山に鎮座する当八幡宮です。御祭神は誉田別神で、相殿として明治6年に村内から遷座した熊野宮(伊弉諾尊・伊弉册尊)を祀っています。創建は天文3年7月1日。当初は十一面観音を祀っており、上石川村の信仰を集めてきましたが、後上石川下石川近郷の農民の安泰のため、熊野大権現を祀り信仰。当時の石川城主南部高信公も深く信仰しており、八幡館に八幡大菩薩宮を建立し、祈願所として年々金品を奉納。その後本社荒廃により文政11年4月8日、時の住職権大僧都法印玄眠熊野宮 (現八幡宮) に奉遷合祀、以来三山熊野宮と称しました。明治5年神佛混淆廃止となり、明治6年7月15日熊野宮と合祀して八幡宮と改称。昭和21年6月19日宗教法人令による八幡宮となり、昭和25年11月9日境内地譲与認可。
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以前の記事も参照ください。
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庚申塔(文化8辛未年6月14日)。
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弘法大師。
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新しい弘法大師像(昭和56年旧5月21日)。
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その隣に古い弘法大師塔。
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裏面に紀年銘(昭和11年旧9月21日)など。
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両脇にはそれぞれ「不動尊」「善光寺」と刻まれています。
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八幡宮碑(明治百年記念)。
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獅子記念碑(昭和35年4月23日)。
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旧額束(石製)。
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神社入口付近にある竜神宮(白竜神)。
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末社粟島様。以前は見えにくかったのですが、名称を記した札が新しくなっていますね。
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浮御不動。
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牛頭天王。
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神明宮。
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熊野宮。
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御不動様。
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薬師如来。
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末社前狛犬一対(昭和15年旧8月28日・日支事変記念)。
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末社前狛犬一対(昭和14年)。
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末社前石灯篭一対(昭和11年8月)。
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さて、お待たせしました。鳥居の鬼コに会いに行きましょう。
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鬼コです。以前に比べて少し色褪せて、顔面右目から下への亀裂が深くなっていますね。
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そして今回紹介する特別なものはこちらです…
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えっ!?笑
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実は現在の鬼コは三代目でして、二代目とのコラボです。なお、初代も現存しているとか。
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せっかくなので二代目鬼コをじっくりと観察してみましょう。
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造りはほぼ同じですね。
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表情もほぼ同じです。
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普段は見上げていますが、上目遣いの角度の方がキュートです。
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この角度で見ると二段腹が凄いです笑
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後ろ姿も同じでお尻がセクシーです。
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鳥居にあるとわかりにくいのですが、真横から見ると上腕二頭筋・三角筋が凄いです。
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更に真横から見ることで受け口としゃくれ具合がよくわかります。
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鬼コの鳥居を設置方法は様々ですが、ここの鬼コは額束そのものになっているのがわかります。
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しかも一木造りです。
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つまり最初に両足裏を貫に差し込んでから、頭部に島木を設置しているのがわかります。
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岩木山(8-9合目)鳥海山』、『岩木山山頂』からの続きです。
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標高1,625m。
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岩木山は津軽国定公園にあり、「津軽富士」と呼ばれ、また青森県で一番高い山として古くから人々に親しまれてきました。
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この日は快晴でしたが眺望はありませんでした。
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雲一つない快晴といえども山頂からの眺望ばかりは何とも言えません。
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時間の経過と共に急に見えてくることもあります。
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岩木山は津軽平野に独立峰としてそびえ、北は遠く北海道の松前崎、津軽半島の権現崎と十三湖、なだらかな弧を描く七里長浜、そして鯵ヶ沢から大戸瀬へとひと目で見渡せます。
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ほら!見えるでしょ?
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9合目リフト降り場(写真右下)。
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数分の内にはっきり見えるようになったり…
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のんびりしていれば見えている景色も変わっていきますね。
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倒れている碑「大正八年八月一日奉納西郡中村大字芦萢青年團」。
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大町桂月歌碑「四方八方の千万の山を見下して心にかかる雲もなき哉」(大正11年10月14日)。
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社号標「岩木山神社奥宮」。
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昭和30年7月8日建立。
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奥宮社務所再建予定地。
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奥宮前の何か彫られている足元の石。ちゃんと見ませんでしたが宮司の名が彫られています。
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岩木山神社奥宮。鳥居紀年銘は平成25年8月31日(中村町内会会長北川康一、中村青年団)。決して古い鳥居ではありませんが、やはり頂上なので傷みますね。
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鳥居を振り返るの図。
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創建については諸説がありますが、最も古い説によりますと宝亀11年(780)、岩木山山頂に社殿を造営したのが起源とされます。
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延暦19年(800)、岩木山大神の加護によって東北平定を為し得たとして、坂上田村麻呂が山頂に社殿を再建。坂上田村麻呂は父の刈田麿も合祀したとされています。その後、十腰内地区に下居宮(おりいのみや=麓宮、現在の厳鬼山神社)が建立されて、山頂の社は奥宮とされました。
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寛治5年(1091)、神宣によって下居宮を十腰内地区から岩木山東南麓の百沢地区に遷座し、百澤寺と称したのが現在の岩木山神社です。岩木山山頂に阿弥陀・薬師・観音の3つの堂があり、真言宗百沢寺岩木山三所大権現と称して、付近の地頭や領主らに広く信仰されました。天正17年(1589)の岩木山噴火によって百澤寺は全焼し、以後、再建が進められることとなります。
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江戸時代には津軽藩の総鎮守とされ、津軽為信・信牧・信義・信政らの寄進により社殿等の造営が進みました。特に、信義、信政の時に現在の拝殿(当時は百澤寺本堂)や本殿(当時は下居宮)が再建されました。明治の神仏分離により寺院を廃止、津軽総鎮守岩木山神社とされ、明治6年(1873)に国幣小社に列格。
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祠には3体の銅像と1体の石像が祀られているといいます。
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狛犬一対。
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磐座。
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その下にある石碑等。大きな標柱には「運転傷害無事故祈願」と見えます。
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石碑には岩木山神社と彫られており、紀年銘は昭和26年8月1日。
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剣(昭和58年9月7日・附田建設㈱附田義美)。
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さてそろそろ降ります。
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周囲の景色を楽しむのもいいけど…
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足元には気を付けましょう。
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岩木山について…『標高1,624.62m。円錐形の成層火山。山頂は3つの峰に分かれ、弘前側から見て右が巌鬼山(岩鬼山)、左が鳥海山とされますが、これらは火山活動により生じた外輪山の一部。三峰の中心にある岩木山は鐘状型の中央火口丘で、山頂に一等三角点が設置されています。元々山頂にあった直径800mの破壊された火口に溶岩ドームが生じて、現在の三峰のもととなり、それらの溶岩ドームは1万年より新しいもの。岩木山の西麓や南麓にも3個の側火山があり、他にも山腹に多数の爆裂火口がみられます。山頂から北東にある赤倉沢の馬蹄形火口は大規模な山体崩壊を示しており、北東山麓の岩屑なだれ堆積物には、かつての崩壊の影響による多数の流れ山地形がみられます。地質は安山岩からなります。津軽富士とも呼ばれている郷土富士で、太宰治はその山容を「十二単を拡げたようで、透き通るくらいに嬋娟たる美女」と喩えています。富士山と同様に古くから山岳信仰の対象とされ、山頂には岩木山神社奥宮が置かれています。江戸時代には弘前藩の鎮守の山とされ、歴代の藩主が岩木山神社に寄進を行ったため、その社殿は荘厳なものとなり「奥の日光」とも呼ばれました。』※山岳信仰やお山参詣についての説明は省略。
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火山活動史。西暦1600年以前の活動は不明点が多いです。気象庁によると山頂の溶岩ドームは1万年より新しいとします。約1万2000年前以降の活動は山頂での噴火が中心。
70万年前-山体崩壊。
30万年前から20万年前-噴火と山体崩壊(岩屑なだれ)を繰り返し山体を形成。
20万年前から1万年前-山麓に側火山を形成。
約5万年前から-西法寺森溶岩ドーム、岩木山頂西と鳥海山ドーム、山頂ドームと中央ドームを形成。
約6000年前-マグマ噴火(岩木山頂西と鳥海山ドーム)。
約3000年前-マグマ噴火。
約2000年前-マグマ噴火。鳥ノ海溶岩ドームを形成。
1600年(慶長5年)2月22日-鳥の海火口で水蒸気噴火。
1618年(元和4年)1月31日-水蒸気噴火。
1782年(天明2年)11月~1783年(天明3年)6月-水蒸気噴火。天明の大飢饉の遠因のひとつ。
1845年(弘化2)4月4日-噴煙、硫黄噴出。
1863年(文久3)3月23日-小規模な水蒸気噴火。
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御倉石。
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対馬正美君殉難の地。
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対馬正美殉難の地…『右奥100米鳥の海火口底。遭難月日昭和35年9月4日。青森県立弘前工業高校機械課程3年。17才。冥福を祈る。対馬信一』
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大館鳳鳴高校山岳部遭難者慰霊碑。
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大館鳳鳴高校山岳部遭難者慰霊碑…『第二学年石田隆司君、乳井孝司君、畠山勉君。第一学年金沢吉郎君。昭和39年1月6日岩木山にて遭難。雪山に逝きし若き御霊を永久に慰めん。平成16年10月8日秋田県立大館鳳鳴高等学校 鳳鳴会』
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鳥ノ海噴火口。
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鳳鳴ヒュッテ。
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眺望。
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以上です。良い年をお迎えください。
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弘前市大字常盤野上黒沢。津軽岩木スカイライン入口付近。
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まず常盤野村についてです。江戸期には津軽郡鼻和庄のうち。弘前藩領。村高は「天保郷帳」では改称前の村名である枯木平村と見え81石余、「旧高旧領」9石余、駒越組に属しました。天保12年-文久2年の間、士族中村茂助が家塾を開いていました。明治初年の「国誌」に当村の支村岳として見える岳温泉は、百沢街道の終着地で、延宝8年に4代藩主信政によって開かれたと伝え、宝暦7年には藩主信寧が湯治に来ています。また、寛政8年には温泉を500間ほど麓へ引き下げ、湯室2か所・湯小屋数10軒を取り立てて時節を構わず湯治を可能としたため、入湯者が多く集まり繁昌したといいます。支村湯汰(ゆたん)として見える湯段温泉は、享保18年に開かれ、元文2年賀田村の長兵衛が湯小屋を経営、以後その子孫が温泉宿を経営して今日に至っています。神社は岳温泉に稲荷社があり、湯段温泉では薬師如来を祀っています。
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明治初年の国誌によりますと戸数28、うち支村の湯汰(湯段)4、本村の村況は「山中の平地に家居すれとも田畑なし、薪炭を以て活計とす」と記しており、支村の湯汰は「田畑なし、秋より春まで山業を専とし、夏は浴客を待て生業の助とす」、同じく支村の岳について「土地高敞にして田畑なし、産業湯汰同」と見えます。同11年に笹森儀助が枯木平に「農牧社」開設の計画を立てて同15年開業。社長には大導寺繁禎、副社長に笹森儀助が就任し、儀助は同17年家族を率いて枯木平に移住して開発に努めました。明治12年の「共武政表」によりますと戸数27・人口173(男90・女83)、馬2、物産は蕨粉・硫黄・薪・炭。同14年常盤野小学が開設されましたが、同20年百沢簡易小学校に併合。同22年岩木村の大字となります。
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明治期以降は、はじめ岩木村、昭和36年からは岩木町の大字。明治24年の戸数30・人口210、厩3。同25年に枯木平農牧社10周年記念式典をあげ、中畑清八郎が社長となっています。同35年に農牧社の土地全部を鳴海勘十ほか19名が買収。大正8年その一切の権利を藤田謙一が譲り受け、巨費を投じて機械開墾を行いましたが容易に成果を挙げ得ず、昭和3年東奥義塾に寄贈されました。昭和6年弘前中学校の4・5年生約300人が学校当局と衝突してストライキを起こし岳温泉に約10日間籠城。明治25年百沢尋常小学校常盤野分校が設置。昭和22年同校に併設して岩木中学校常盤野分校が開校。同27年には小学校・中学校ともに独立して常盤野小学校・常盤野中学校となりました。地内からスタートする県内初の有料道路津軽岩木スカイラインは、昭和28年に計画、着工され、同39年開通。昭和36年に岳簡易郵便局も開かれ、道路も弘前から全部舗装され、岩木山の8合目までバスが通じて便利になりました。
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昭和になってからの東北地方は昭和恐慌や大凶作など相次ぐ災害に襲われ、また、第二次世界大戦後、敗戦により食糧増産が急務となりました。また、東北振興を国策として取り上げて、内閣東北局が東北振興第1期総合計画を立案したのが昭和11年。その中の開拓事業は東北地方の人口増加と耕地面積の不足、農家経済の安定を目的としたもので青森県内では弥生など5地区が指定され、更に戦後となって失業者救済と食糧増産政策のために耕地開拓に取り組み、昭和22年には土地の農業利用増進と人口収容力の安定的増大のための開拓事業に移行。岩木山麓の開拓地は国有林や民有採草地などで形成され、その中には常盤野の瑞穂開拓集落がありました(その他、杉山、上弥生、羽黒、瑞穂、小森山、平和など)。
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岩木山西側津軽羽黒集落西方の標高380-480mに位置する瑞穂地区は、県道に接しているため交通の便が良く、昭和24年に樺太などの引き揚げ者が常盤野に国有林の払い下げを受けて入植。「岩木町誌」によりますと、端穂開拓地には、昭和24年に樺太からの引き揚げ者ら16戸が入植。開拓地に作付けした作物は大豆・なたね・小豆などが中心で、トウモロコシは食用品種のモチキミと飼料用のデントコーンを栽培。昭和30年に常盤野のトウモロコシ栽培は、入植者の鈴木春雄氏(開拓民のリーダー的存在)が弘前の種苗店から紹介されたクロスバンタムというアメリカで栽培されていた新品種を栽培するようになります。この品種は甘みがとても強かったために栽培面積を拡大し、更にとうもろこしが常盤野で栽培できることを確信した春雄さんは開拓集落に奨め、苦労を重ねながら販路の確立を目指しました。これが現在人気の「嶽きみ」のルーツです。
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弥生の保食神社、百沢の杉山神社大山祇神社のように昭和に入って入植者により開拓された地区には産土神としての神社が祀られています。つまり神社の創建時期は入植されて以降と考えられます。案内板がある大山祇神社の由緒からもその背景が伺えるかと思います。
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社殿。
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神額。
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拝殿内。
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御幣前後に神鏡、そして神宮大麻が見えます。
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大黒様と法螺貝。
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太鼓。
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拝殿内には昔の写真がいくつか飾られており、当時の様子を視覚的に知ることができます。
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石碑「拓魂」(岩木町長小寺勇)。
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開拓40周年記念(昭和24年5月9日)碑となっており、建立者には鈴木春雄氏の名が見えます。平成元年7月30日建立。
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さて、温泉入って、嶽きみとはちみつを購入して帰ります。
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