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青森県八戸市小田1丁目。内舟渡から県道八戸野辺地線を三沢方面に向かうと環状道路との交差点になり、そこの突き当たりに鎮座。高館の地(八戸市河原木高館)は平泉の御所高館の地形によく似ていることから高館御所と呼ばれ、この付近に小田八幡宮もありますが、八戸に上陸した義経は現在の高館に住んだといわれており、その時この宮に義経が持参した毘沙門天の像を八幡の神に合わせ奉ったともいわれ、義経と弁慶が祀られています。「小田仁王門造営之記」によりますと、かつては寺院形態であり、小田山徳城寺と称し、そのもとに小田毘沙門堂と呼ばれていましたが、明治4年の神仏分離によって小田八幡宮と改称しています。新田氏に関するものとして、天文22年の新田六良(郎)と、慶長15年の新田政景の棟札が現存。
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向かいのコンビニ駐車場が共同駐車場になっています。
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ちなみに表門横にも駐車できそうなスペースがありますが、こちらはお車祓所です。
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鳥居。
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石灯籠一対(昭和17年4月、石工犾守喜栄、八戸市合併記念)。
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庚申塔。文政5年建立。高さ78cm、幅50cm、奥行38cm。
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「伝説」源義経北方コース…『源義経は、兄の頼朝に追われ、文治5年(1189年)岩手県平泉の高館において31才の若さで自害したといわれ、悲劇の名将として世に伝えられております。当地方に伝えられている伝説によれば、北へ逃れた義経は、八戸に上陸し近くの高館に住んだといわれています。その時この宮に義経が持参した毘沙門天の像を、八幡の神に合せ奉ったともいわれ、また家来と共に奉納した大般若経の写経と経箱が現在も奉られています。八戸観光協会』
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表門手前の鳥居と狛犬一対(昭和16年旧9月吉日)。
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小田八幡表門(小田八幡宮仁王門)。市有形文化財。
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入母屋造トタン葺で桁行3間(約5.5m)、梁間2間(約3.6m)。市内唯一の八脚門(中央にある4本の親柱の前後にそれぞれ4本ずつの控柱があり、この控柱を脚とみなしてることから八脚門と呼んでいます)。19世紀中頃の建立。
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「小田仁王門造営之記」によりますと、弘化2年(1845)から嘉永7年(1854)まで9年間をかけて造られたと記されています。棟梁の系譜は不明ですが正統派の技術が伺えます。神仏分離以前は小田八幡宮が小田毘沙門堂と呼ばれていたことから、門も小田仁王門と呼ばれていました(「小田仁王門造営之記」には仁王門と記されています)。
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仁王があった場所には現在、左大臣右大臣像が安置されています。
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小田八幡宮表門(八戸市指定文化財:昭和48年1月24日指定)…『小田八幡宮縁起には、遠く平安の天喜年間にお宮が建立されたと記されています。当社には、毘沙門天像も祀られており、小田毘沙門堂・小田仁王門と呼ばれていた時代もあった。一説には、根城の北方鎮護の社であったとも言われています。門中央の四本の親柱の前後に控柱を持つ八脚門の構造は、当市では唯一の建物です。屋根は、入母屋造りで当初は柾葺か杮葺であったと推察されており、軒は二軒繁垂木、組物は和様出三っ斗組、蟇股には源氏を現す笹龍胆が彫刻されています。文献資料(小田仁王門造營之記)によれば、弘化2年(1845)から嘉永7年(1854)までの9年間を費やして造られたことが記されています。平成3年3月八戸市教育委員会』
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参道。
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手水舎。
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橋(平成2年御大典記念)を渡ります。
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橋の上から見た池。
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授与所。
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社殿正面。
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狛犬一対(大正5年9月15日)。
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社殿。木造平屋建て、入母屋、銅板亀甲葺、平入、正面千鳥破風、桁行5間、正面1間軒唐破風向拝付。外壁は真壁造り白漆喰仕上げ。
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青森県神社庁より…『御祭神:応神天皇(誉田別尊)。例祭日:9月15日。境内地:910坪。建物:本殿1坪、幣殿7坪、拝殿26坪。当社由緒書きによれば、創立年久遠にして不詳とあるが、遠く天喜年間、源頼義朝臣鎮守府将軍として、当地方の平定の際、八幡の社を建立して鎮守となし、その後、「義経」伝説に基づく「北方行」の際、当地に仮住いし、当社に毘沙門天像を合祀し、其の背中に八幡尊像(三寸六分木像)を納め、安置祀ると記されている。また、仏教隆盛に伴い、天和年間(1682)以降は、天台宗「福田山徳城寺」と呼ばれ、神仏混淆の霊地として尊崇を集めて来た。現在、その時代の証として、八戸市文化財指定の「毘沙門天像」が別棟に奉安されているが、明治の神仏分離の布告により、毘沙門天像の体中に納め祀られていた、八幡尊像を分離奉安し、旧古に復して八幡宮と改称、現在に至っている。なお、社格としては、明治6年4月15日村社として列格されている。その他特記事項:八戸市文化財指定物件…一、毘沙門天像(脇侍付き)一、八脚門(構造上当地方唯一)一、欄間二間(根城南部城跡内東善寺より拝領)一、俳諧連歌額(八戸地方現存最古)』
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八戸市史より…『県道8号線の高館への上り坂にある。祭神は応神天皇、例祭日は9月の第2土・日曜日である。由緒、沿革については不詳といわれているが、遠く天喜年間(1053-57)に源頼義朝臣が鎮守府将軍として、当地方平定の際、この地に八幡の社を建立して鎮守としたとされる。義経伝説に基づくと、義経主従一行が北方行の際に当地に仮住まいし、ここに毘沙門天像を合祀し、その背中に八幡尊像を納め、安置したとされている。やがて、仏教の隆盛に伴い、天台宗「福田山徳城寺」と呼ばれ、神仏習合の霊地として地域民に崇められてきた。神仏分離令により、毘沙門天像の胎内に納め祀られていた八幡尊を分離奉安し、旧古に復し八幡宮と改称し、現在にいたっている。八幡宮に祀られている毘沙門天像の製作時代は不詳であるが、江戸中期八戸の僧、津要玄梁が享保3年(1718)に補修したという墨書が台板に残されている。毘沙門天は仏教界の守護神である四天王の内、北方守護の多聞天のことで、根城の鬼門鎮護のためにこの毘沙門堂が置かれたのであろうといわれる。毘沙門天像、仁王門はともに八戸市指定文化財である。他に八幡宮には欄間や、「千風庵百々評俳諧献額」がある。欄間は、黒塗りの枠組みの中に立てた縦112本、横5本の細かい桟を組み合わせた格子造りで、二間分が残されている。根城南部氏の祈願所であった東善寺に使用されていたものを、根城南部氏が遠野に移った後、小田毘沙門堂の河村家が一部を譲り受けたものといわれている。「俳諧献額」は、宝暦3年(1753)に八戸、三戸、五戸、花輪、久慈、盛岡、松前、秋田などから寄せられた中から、千風庵百々が選定した72句が収められている。この地方最古の俳諧献額である。また、当社には義経、弁慶に関わる絵馬や義経主従などが毘沙門堂に寄進したといわれる、「大般若経」三百巻ほどが現存しており、本殿に納められている。』
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「青森の伝説(森山泰太郎・北彰介)」には次のようにあります…『(前略)その先、河原木に小田八幡がある。天喜年間(1053-58)源頼義が建立したと伝え、のち義経がここに居住して毘沙門天の像を彫造し、その胎内に八幡神の木像をこめて安置したという。』
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毘沙門天像(市有形文化財、昭和48年)。木彫の毘沙門天像。吉祥天と善日童子の木造が脇侍。作者や製作年代は不明ですが、台座や頭部、首内側の墨書銘から、補修が繰り返されてきたことがわかります。八戸の僧津要玄梁が享保17年に修復したことが記されています。宝棒や火焔光、輪宝光などの付属品の一部が失われていますが、これは廃仏毀釈により紛失したものとみられています。小田八幡宮はかつては毘沙門堂と呼ばれており、根城南部氏の北方守護のために置かれていたと伝えます。
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拝殿唐破風懸魚、蟇股、木鼻等。唐破風懸魚には鳳凰、向拝木鼻には獅子などの精緻な彫刻が施されています。
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拝殿向拝神額。
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社殿前狛犬一対(昭和60年3月吉日、八戸市下長地区、河原木土地区画整理組合)。
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長くなりましたので『小田八幡宮 ~ 其之弐』へ続く。
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